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列伝モード概況 蜀伝

真・三國無双3猛将伝攻略 列伝モード概況 蜀伝を掲載しています。

目次

趙雲伝 長坂単騎戦
【初期】
建安十三年(208)、荊州に身を寄せていた劉備のもとに、北方から曹操が攻め寄せてきたとの報が届いた。
抵抗する力を持たない劉備は、逃走を余儀なくされた。

民を気遣いながら進軍する劉備らの足取りは重く、ついに長坂坡で曹操軍の襲撃を受けてしまう。
そして、劉備の嫡子・阿斗は敵中に取り残されてしまったのだ。

百万を越える曹操軍の中、趙雲はただ阿斗の姿を求め、地を裂く龍のごとく単騎で分け入っていく。
未来の希望たる御子を無事に救い、味方の待つ長坂橋を目指すのだ!
【クリア後/列伝記】
字は子龍。常山郡真定県の人。

はじめ袁紹に仕え、のちに公孫瓚の配下となる。
そこで趙雲は劉備と出会い、生涯の主と仰ぐべき運命を感じるが、まだその時ではないと再会を誓ってひとまず別れた。

その後、公孫瓚が亡くなり、自由の身となった趙雲は、放浪の末に晴れて劉備との再会を果たす。
誓いを守った趙雲の誠意に、劉備は義兄弟と同様の厚遇で応えた。

劉備に従って荊州に赴いたとき、そこで劉備に危機が訪れる。曹操の大軍団が攻め寄せてきたのだ。
建安十三年(208)、南下する劉備軍に長坂で追撃が迫った。

劉備軍は逃げ惑う民らで混乱し、劉備の嫡子・阿斗が敵中に紛れてしまった。
趙雲は単騎で敵中へと突入し、群がる敵兵を蹴散らして見事に阿斗を救い出す。

窮地を脱した劉備は、趙雲の豪胆さを「子龍は一身、これ胆なり」と称えた。
趙雲は、身命を懸けて劉備の恩義に報いようと、改めて心に誓ったのである。

その後も張超は、豪胆かつ冷静な戦いぶりで、蜀の五虎大将に数えられた。
そして、劉備を後継したかつての阿斗・劉禅の代まで仕え、蜀の柱石を担うのであった。
関羽伝 徐州防衛戦
【初期】
曹操の虎口を逃れた劉備は、徐州に腰を落ち着ける。しかし、それは束の間のことでしかなかった。
建安5年(200)、二十万の軍を興した曹操が、徐州へと迫る。

劉備は張飛とともに小沛を守り、関羽には下邳を預け、掎角の陣容をもって曹操軍に備えていた。
だが衆寡敵せず、劉備らは敗走し、離れ離れになってしまう。

下邳城に孤立無援となった関羽。そこには、主君たる劉備の夫人が留まっていた。
いま守るべきは城ではない。迫りくる曹操の手から夫人を守り、信義を果たすのだ!
【クリア後/列伝記】
字は雲長。河東郡解良県の人。

故郷を離れ放浪していた関羽は、酒屋で出会った劉備、張飛と意気投合し、義兄弟の契りを交わす。
三人は生死をともにせんと誓い、黄巾賊討伐のため立ち上がった。

武勇に優れ、信義に厚い関羽は、劉備の片腕としてなくてはならぬ存在となる。
後ろ楯を持たぬため有力者を頼って各地を転々とする劉備を、関羽はよく支えた。

一時は曹操をも頼った劉備だが、両雄並び立たずと、隙を見て徐州で独立する。
これは捨て置けぬと曹操は郡を興した。三兄弟は小沛と下邳とに別れて迎え撃つ。

下邳城にて曹操軍の攻撃を受けた関羽は、孤軍奮闘して夫人の馬車を守った。
その後、夫人の安全のため、一時、曹操のもとに降るが信義を果たし劉備のもとへ戻る。

こののち幾多の試練を経て、劉備は蜀主となる。
そして、最も信頼厚い関は五虎大将の筆頭に任じられ、要所の荊州に駐留し、魏・呉に睨みを利かせることとなる。

叛服常無き乱世にあって、関羽の劉備に対する信義は、終生揺るがなかった。
ゆえに関羽は「義将」と称えられ、後の世でも「関帝」として祭られるのであった。
張飛伝 長坂防衛戦
【初期】
建安十三年(208)、荊州に身を寄せていた劉備のもとに、凶報が届いた。
北から曹操が攻め寄せてきたというのだ。兵力を持たぬ劉備は、逃走を余儀なくされる。

南を目指して進む劉備一行。彼を慕う民も加わるが、かえって歩みは遅くなるばかりだった。
その間に曹操の精鋭軍が急迫し、ついに劉備軍は長坂坡で襲撃を受ける。

兵や民が散り散りに逃げ惑う中、殿軍を申し出たのは張飛だった。
劉備の命運を逞しき双肩に担い、一騎当千の猛者が立ちはだかる。
長坂橋は何人たりとも通さない!
【クリア後/列伝記】
字は翼徳。涿郡涿県の人。

黄巾討伐の募兵の高札を見ていた劉備に声をかけ、酒を飲んでいたところに関羽も加わる。
意気投合した三人は張飛の発案で義兄弟の契りを交わし、争乱の世に出た。

張飛の勇猛ぶりは一万の兵に匹敵すると称されたほとで、その武はたびたび劉備を危地から救った。
流浪の劉備が、荊州の劉表に身を寄せていたときもそうである。

劉備の守る樊城に、北から曹操軍が襲来した。
兵から民まで率いて逃走する劉備軍に、曹操の精鋭軍が迫りくる。
この危機に自ら殿軍を名乗り出たのが張飛であった。

長坂橋に単身立ちはだかった張飛は、曹操の大軍勢を物ともせず、巨雷のごとき大喝でひるませた。
さらに得物の蛇矛を振るい、敵兵を片端から蹴散らしていった。

これには曹操軍の精兵も敵わず、劉備を目前にして黙って見送る。
かくして劉備は虎口を脱し、この活躍をもって張飛は、万夫不当の猛将なりと天下に鳴り響いた。

その後も張飛は武を張って劉備を助け、五虎大将の一人となった。
ときに酒で失敗することもあったが、その一方で計略を用いるなど策士の一面も備えたという。
諸葛亮伝 月英獲得戦
【初期】
まだ、諸葛亮が雌伏していた頃のことである。
隆中に庵をむすび、晴耕雨読の日々を送っていた彼のもとに、ひとりの男が訪ねてきた。
男は自ら黄承彦と名乗った。

土地の名士だった黄承彦は、まだ在野ながらも「伏龍」と呼ばれて高く評価されていた諸葛亮に興味を持ち、
一人娘である月英を彼に引き合わせようしたのである。

かねてより月英の噂を聞いていた諸葛亮は、その目で事実を確かめようと黄家を訪れた。
そこで彼は、月英の才に心を奪われてしまう。
これより諸葛亮の挑戦が始まる!
【クリア後/列伝記】
字は孔明。琅邪郡陽都県の人。

荊州の隆中にて晴耕雨読の生活をしていた。
まだ在野の身であったが、学問を修めた自らを古の名将に例えるなど、自負と大志を心に抱き、飛翔のときに備えていた。

そんな諸葛亮の噂を聞きつけ庵を訪れたのが、土地の名士・黄承彦である。
黄承彦は、諸葛亮が一角の人物であると見て、娘の月英と引き合わせようと試みた。

諸葛亮も、黄承彦の娘についての噂は聞いていた。
それは、不器量であるというものと、才女であるというものだった。
だが、前者は誤りで、後者は噂以上であった。

諸葛亮は月英の才に興味を抱き、より相手を知りたいと思案する。
才女だけに並の男が容易に近づけるほど甘くはない。
諸葛亮も例外なく力を試されることとなった。

諸葛亮は、自らの実力を示すべく月英との勝負に挑んだ。
そして、度重なる勝利で月英を心服させると、妻として月英を迎えることで最大の勝利を収めたのである。

その後、諸葛亮は「三顧の礼」をもって劉備に迎えられる。
軍師として期待を担った諸葛亮は、月英の献身にも支えられ、その神算を楯横無尽に発揮したのだった。
劉備伝 成都前哨戦
【初期】
建安十六年(211)、荊州に足を留めていた劉備は、益州を手にするべく成都への進攻を始める。
それは、益州君主・劉璋の惰弱さを見かねてのことでもあった。

だが、いかに劉備が大義を掲げたところで、益州の民にしてみれば侵略者であることに変わりない。
行く先々でか弱き力の抵抗に遭い、劉備の仁の心にも迷いが生じる。

そして劉備軍は、綿竹の森に差し掛かる。
出没する劉璋軍の中には、義民兵の姿も混ざっている。
この苦しい戦いの中、劉備は仁の戦いを貫き通すことができるのか!
【クリア後/列伝記】
字は玄徳。涿郡涿県の人。

前漢の中山靖王劉勝の末裔と称し大志を抱いて世に出る。
その容姿は大人の風格を備え、好んで豪傑と交わった。
特に関羽・張飛とは義兄弟として苦楽をもとにする。

後ろ楯を持たない劉備は、所在を転々としていた。だが、「伏龍」こと諸葛亮を得て転機を迎える。
呉と連合して曹操を破り、ついに荊州に拠点を得たのである。

さらに「鳳雛」こと龐統を迎え、二人の天才軍師を擁した劉備は、その献策に従い、益州に進攻する。
益州君主・劉璋は惰弱だったが、意外にも将兵や民は抵抗した。

劉備は劉璋軍の遊撃に遭う。出没する敵の中には義民兵も混じり、劉璋は苦難の戦いを強いられた。
だが大義を果たすためにと敵将を撃ち破り、ついに劉璋を降した。

劉備は、善政を布いて益州をよく治めた。これによって人々の心は和らぎ、劉備の人徳を慕うようになる。
劉備は名実ともに蜀の主となり、ここに三国が鼎立した。

蜀は小国ながらも団結し、天府の地と言われる豊かな国力で劉備を支えた。
劉備もまた魏・呉の両国と互角に渡り合い、ついには蜀漢王朝を立てて皇帝の座に即いた。
馬超伝 葭萌関番外戦
【初期】
建安十九年(214)、劉備陣営に新たな将が加わった。その姿の華やかさから錦馬超と称えられた勇将である。
馬超を迎えた劉備は、股肱の将と同じように処遇した。

だが、戦歴輝かしい古参の将らは、どこの馬の骨とも分からぬものと同列に扱われるのが面白くない。
そこで、その実力のほどを確かめたいと、劉備に勝負を願い出た。

腕に覚えの馬超にしてみれば、力勝負は元より臨むところである。
百千の言葉より、槍の一閃が多くを語ってくれるだろう。
誰よりも多く敵を撃破し、力を示すのだ!
【クリア後/列伝記】
字は猛起。扶風郡茂陵県の人。

その勇壮な姿ときらびやかな装いから、「錦馬超」と称えられた。
父・馬騰もまだ武を持って知られていたが、曹操討伐を図った罪を問われ、都で曹操に斬首される。

復讐の鬼と化した馬超は、曹操を激しく攻め立てた。
しかし、あと一歩というところで逃してしまい、逆に「離間の計」を仕掛けられ、仲間割れの末に敗れ去った。

馬超は流浪ののち、劉備に降る。厚遇をもって迎えられたものの、これを不服とした宿将らは馬超の実力を知りたがった。
そこで劉備は戦功勝負の機会を与えた。

勇んで戦場に赴く馬超。各砦には関羽・張飛・趙雲・黄忠といった劉備軍でも屈指の将が配された。
ここでやらねば、居場所はない。まさに馬超は正念場を迎えた。

馬超の槍が唸りを上げて、閃きを放つ。歴戦の諸将を差し置いて、戦功第一の栄誉は馬超に輝いた。
かくして馬超は実力ほ認められ、名実ともに劉備の将となった。


のち益州制圧に貢献した馬超は、関羽ら宿将と並んで蜀の五虎大将に数えられた。
諸葛亮は「文武を兼ね備え、武勇は人並みはずれた一世の傑物」と評したという。
黄忠伝 長沙攻防戦
【初期】
赤壁の大戦後、荊州に拠点を得た劉備は、地盤を固めるべく南方の四郡へと進攻する。
まずは零陵、続いて趙雲が桂陽、張飛が武陵を落とし、残るは長沙のみとなった。

そこで名乗りを挙げたのは関羽である。長沙の太守・韓玄は、戦神と呼ばれる関羽を畏れ城に籠もる。
しかし、短期な韓玄はこの状況に耐え切れず、黄忠の出番となった。

もう六十にもなろうかという黄忠であったが、いまなお武勇を誇り、弓にかけては右に出る者がない。
この熟練の老将が、天下の義将を相手に刃を切り結ばんとする!
【クリア後/列伝記】
字は漢升。南陽郡の人。

もとは劉表の配下だったが、長沙を守備し、のちに韓玄に仕える。
晩年は劉備の配下として活躍し、「老黄忠」といえば、老いてなお盛んな人を指すようになった。

そもそも黄忠が劉備配下となったのは、劉備が荊州南部に進攻したときに遡る。
南方四郡のうち三つまで落とした劉備は、残った長沙を目指して進軍した。

軍を率いるは、勇将として名高い関羽。太守の韓玄は恐れをなして城内に籠もるが、耐えきれず出陣を命じる。
そこで出馬したのが、六十近い老将・黄忠であった。

その武勇は未だ盛んで。弓は百発百中を誇った。黄忠は勇んで先を交わすも、馬が悪く落馬する。
しかし、そこは義将・関羽。馬を換えるよう言い残して去った。

すると今度は黄忠が、関羽を落馬させるに留めて借りを返す。天下の義将と老将の名勝負であった。
収まらぬ韓玄は黄忠を見限るが、逆に魏延に見限られて落命する。

ここに長沙は劉備支配下となる。降伏した黄忠は、劉備直々の来訪を受けて配下となった。
のち黄忠は益州進攻や漢中制圧に活躍し、蜀の五虎大将に数えられる。
姜維伝 剣閣防衛戦
【初期】
蜀では、劉備の嫡子・劉禅が跡を継ぎ、皇帝となっていた。
それを軍事面で補佐したのは、諸葛亮に見出され軍略を授けられた「天水の麒麟児」こと姜維である。

丞相・諸葛亮の志を継いだ姜維は、北伐を繰り返した。だが、戦果の上がらぬまま蜀は疲弊していく。
一方、魏では皇帝の代が替わり、それを機に蜀討伐が本格化する。

姜維は剣閣でひとり奮戦するが、抵抗虚しく魏軍は成都へと迫る。
これに対し、劉禅は投降を望んでいるという。
劉禅を守れ、暗君といえども敵に渡してはならない!
【クリア後/列伝記】
字は伯約。天水郡冀県の人。

魏将として天水を守っていたが、諸葛亮の計略にかかって蜀に帰順する。
諸葛亮は姜維の才能を高く評価して重用し、自らの後継者と目して兵法の極意を伝授した。

諸葛亮亡き後、姜維はその意志を継いで北伐を重ねたが、一進一退を繰り返すうちに蜀は疲弊する。
君主・劉禅は宦官に骨抜きにされ、魏は侵攻の度合いを強めていった。

そして孤軍奮闘する姜維のもとへ劉禅が投降を望んでいるとの報が届く。
姜維は、劉禅を引き留め、かつ君主たるその身柄を守るために首都・成都へと急いだ。

劉禅のもとに駆けつけた姜維は、迫りくる敵兵を退け、
ともすれば降伏しようとする劉禅の行く手を塞ぎ、と東奔西走しながら、自らを最後の砦と化して戦った。

姜維の苦労の甲斐あって、劉禅は留まり成都は守られた。
かくして蜀は滅亡を免れたかに見えたが、それは魏からの大規模な増援軍を招くという皮肉な結果になった。

結局、成都は魏軍の前に落ちる。
姜維は諸葛亮の遺命を貫き、蜀のための戦いにその生涯を捧げた。
姜維が必死に守った劉禅は、魏に降って天寿を全うしたという。
魏延伝 五丈原番外戦
【初期】
建興十二年(234)、蜀の北伐は五丈原で司馬懿率いる魏軍との一大決戦を迎えることとなった。
諸葛亮は慎重策を唱えるが、魏延は敵の殲滅あるのみと突入する。

その気質と風貌が人には理解されがたかったこともあって、魏延はしばしば味方の内で孤立した。
諸葛亮が仮を「反骨の相」であるとしたことも、拍車をかけた。

しかし、劉備は武人としての魏延を認め、重く取り立ててくれた。
だから己のやり方で劉備に報いるのだ。
言葉は必要ない、ただ武で示すのみ。
魏延は戦の鬼と化す!
【クリア後/列伝記】
字は文長。義陽郡の人。

もとは劉表の配下。徳のある劉備を襄陽に迎えようとするが、失敗して長沙の韓玄を頼る。
のち劉備が長沙を攻めると、魏延は狭量な太守・韓玄を斬って降伏した。

晴れて劉備への目通りが叶うが、魏延は「反骨の相」を持つ反逆者として、諸葛亮に処刑されそうになる。
そこは劉備が取りなして、ようやく士官が許された。

益州攻め、漢中攻略、南征と活躍した魏延は、いつしか蜀軍の主力となっていた。
そして討魏の北伐が始まると、魏延はすぐさま長安へ攻め込もうと意気込んだ。

しかし、諸葛亮はあくまで慎重策を唱えた。そして一進一退を続け、ついに五丈原での決戦を迎える。
ここに至り、魏延は諸葛亮の命に背いて闘争本能を解き放った。

魏延は修羅のごとく戦い、魏軍を血祭りに上げていく。
一個の戦鬼と化した魏延は、もはや戦うことを止められず、攻め寄せる将兵を誰彼構わず葬り去っていった。

その後、魏延は戦場から消えた。蜀からすれば、軍令に反した時点で裏切り者である。
魏延の居場所はもうなかった。成都へは、ただ魏延反逆との報告のみが届いた。
龐統伝 龐統夢幻戦
【初期】
「伏龍・鳳雛」と、諸葛亮と並び称される策略家・龐統は、劉備の軍師となって益州入りに貢献する。
だが、その地位はあくまで諸葛亮に次ぐものでしかなかった。

劉備軍において、諸葛亮の発言力は絶大である。
かつて劉備が風采の上がらぬ龐統を重用しなかったときも、諸葛亮が推挙するとすぐら引き立てられたほどであった。

もし、その諸葛亮と自分とで優劣を比べたらどうだろう。軍略では自分が勝るのではないか。
龐統が心の奥底に封印していた疑念は、やがて時機を迎えて発露する!
【クリア後/列伝記】
字は士元。襄陽郡の人。

智謀に優れ、諸葛亮の「伏龍」に対して「鳳雛」と並び称された。
呉の周瑜に協力して、曹操の船団に「連環の計」を仕掛けるなどその才で赤壁の勝利をもたらす。

しかし、風采が上がらぬばかりに孫権に重用されず、見限って劉備のもとに仕えた。
はじめは役不足の待遇に不満を抱くが、諸葛亮の推挙を得て大役が与えられた。

そこで龐統は、劉備陣営における諸葛亮の存在の大きさを見せつけられる。
それは策士の不足とともに、諸葛亮の才知に対する劉備の信頼の厚さを物語っていた。

龐統が才を発揮するには、諸葛亮に勝る評価を得る必要があった。
やがてこの機会は、両者の対決となって実現する。龐統はここぞとばかりに諸葛亮を凌いでみせた。

かくして、劉備陣営における軍師の優劣は定まった。
劉備は、龐統の軍略を第一として、その献策により益州攻略に乗り出す。そして劉備軍は順調に成都へと迫った。

しかし、従軍の名誉が龐統に災いする。
的盧に乗っていたところを劉備と間違えられ、洛鳳坡で矢の雨を浴びたのだ。
龐統の才略は、一瞬の輝きを残して消え去った。
月英伝 虎戦車実証戦
【初期】
黄承彦の娘・月英は、天文を始め地理・兵法と、広く学んだ才女であった。
年頃になると、その才を認めてくれる者のみを求め、自分が不器量であるという噂を流す。

そんな月英の賢明さを見抜き、妻にと求めたのが諸葛亮であった。
二人は夫婦となり、諸葛亮が劉備の軍師として招かれたのちは、蜀のために二人の才を生かした。

こうして月英は、新兵器・虎戦車を生み出す。これが成功すれば戦局を大きく変えられるだろう。
関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五虎将軍を相手に力を示すのだ!
【クリア後/列伝記】
襄陽の名士・黄承彦の娘。

天文をはじめ地理・兵法まで広く通じた才女。
月英は、自らの才を重んじてくれる者を求め、自分が不器量であるとの噂を流した。

隆中に隠棲していた賢士・諸葛亮は、そんな月英の聡明さを見抜き妻に求めた。
こののち、諸葛亮は礼をもって劉備に迎えられ、月英もまた劉備のために力を尽くす。

諸葛亮が木牛・流馬なる輸送道具を発明した陰には、月英の協力があった。
そして月英も、より実戦向きの兵器「虎戦車」を発明し、ついに真価を試すときを迎える。

虎戦車との対戦には、五虎大将が指名された。相手にとって不足はない。
月英は、自らも武器を手に戦いへと臨んだ。それに虎戦車が続き、低く唸りを上げる。

虎戦車の咆哮は、灼熱の炎を巻き上げて大地を焦がした。
さらに、月英の健闘も加わって、さすがの五虎大将も一人、また一人と退却していったのであった。

その後、完成した虎戦車は実戦に投入される。諸戦で目覚しい成果を上げる。
それは、三国の状況を変え、月英の名は諸葛亮とともに「龍の妻」として鳴り響いた。




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