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列伝モード概況 魏伝

真・三國無双3猛将伝攻略 列伝モード概況 魏伝を掲載しています。

目次

夏侯惇伝 下邳前哨戦
【初期】
建安三年(198)、曹操は猛将の誉れ高い呂布と戦端を開こうとしていた。
一時は手を結びもしたが、虎狼のごとき心根を持つ呂布は生かしておくには危険すぎた。

曹操はすぐさま下邳城へと軍勢を送った。先行するは、従兄弟でもあり挙兵以来の股肱として信頼をおく夏侯惇。
これに族弟の夏侯淵が続き、曹操軍の両翼を成す。

一方、呂布の配下武将である高順と曹性は、川の対岸から矢の雨を降らせんと夏侯惇を待ち受ける。
この暗雲を切り裂き、天下へ飛翔する曹操に光明をもたらすのだ!
【クリア後/列伝記】
字は元譲。沛国譙県の人。

曹操の従兄弟にあたる。その挙兵以来、副官として数多くの戦いに付き従った。
族弟の夏侯淵とともに曹操軍の主力を成し、董卓討伐の連合軍として参戦する。

連合軍は洛陽に攻め入り、董卓は長安へと逃げた。
夏侯惇はこれを追撃するが、呂布の妨害にあって逃してしまう。
のち、呂布は董卓を裏切り、世は混迷を深める。

建安三年(198)、争乱の元凶たる呂布を討つべく、曹操は徐州の下邳へ軍を進めた。
先鋒を担うは夏侯惇である。それを呂布配下の武将たちが待ち受けていた。

夏侯惇は、曹性がひそかに放った矢を受けて左目を失ってしまう。
だが、それは逆に夏侯惇の闘志に火をつける結果となった。
夏侯惇は次々と敵武将を切り伏せていく。

この戦いで勢力を削がれた呂布は敢えなく曹操の軍門に降り、武運尽きる。
そして夏侯惇は、盟友・孟徳の天下という新たな光明を、その左目で見出したのである。

その後も夏侯惇は、生涯変わらぬ忠節をもって曹操の覇業を支えた。
これに曹操は、車への同乗や寝室への出入りを許可するなど、厚遇をもって応えたという。
典韋伝 宛城死守戦
【初期】
建安二年(197)、荊州へ攻め入った曹操は、張繍を降して宛城にいた。
袁術や呂布ら梟雄と敵対する中、憂いの種を断って地盤を固めんがための進攻であった。

だが、そこで元の城主だった張済の妻を側妾にしたことで、曹操に災いが訪れる。
張済の甥・張繍が怒り、軍師の賈詡と謀って曹操の本陣に夜襲を仕掛けたのである。

四方から火の手があがり、まさに窮地というこのとき、帳下に壮士ありと謳われた悪来・典韋が敵前に立ちはだかった。
御大将を無事に逃がすため、死力を尽くすのだ!
【クリア後/列伝記】
陳留郡己吾県の人。

その腕力は並はずれており、誰も持ち上げられなかった軍旗を片手で軽々と持ち上げたほどだった。
夏侯惇に引きたてられた典韋は、推挙されて曹操の護衛役となる。

曹操は、忠実に役目を果たす典韋を可愛がり、古の猛将「悪来」の再来であると、その力を称えた。
やがて、その名は典韋のあだ名として軍中に広まっていった。

建安二年(197)、版図拡大のため進攻した曹操は、宛城に張繍を降して駐留していた。
典韋は、いつものように一日中曹操の側に侍して、夜は天幕の側で眠った。

そしてある夜、曹操の本陣を張繍が襲撃する。
異変に気付いた典韋は急いで曹操のもとに駆けつけ、その逃走を手助けするべく、敵前に立ちはだかって奮戦した。

典韋が敵兵を食い止めている隙に曹操は脱出し、命からがら自軍のもとへ逃げ延びた。
九死に一生を得た曹操は、すぐさま宛城へ向けて援軍を送ったのだった。

のちね曹操はこの地にさしかかるたびに典韋の命懸けの働きを思い出し、感慨にふけった。
そして、立ち止まって感謝を捧げることを忘れなかったという。
許褚伝 集落攻防戦
【初期】
興平元年(194)、とある村に都から黄巾族討伐軍が派遣された。
その村では、巨体で怪力だが土を愛する優しい漢・許褚が、黄巾賊残党の襲撃から田畑を守っていた。

村人たちが胸を撫で下ろしたのも束の間、許褚の留守に農作物を軍によって微集されてしまう。
踏み荒らされた田畑を見て、温和な許褚も黙ってはいられなかった。

武器を手に討伐軍へと殴り込んだ許褚。その前に、容貌魁偉な武将が立ちふさがった。
彼こそは曹操の親衛隊長を務める典韋。力と力の壮絶な戦いが、いま始まる!
【クリア後/列伝記】
字は仲康。沛国譙県の人。

盗賊や黄巾賊残党の襲撃から村と田畑を守るために戦っていた。
怪力が自慢で、牛の尾をつかんだまま百歩以上も引きずって歩いたという逸話がある。

曹操の配下となったのち、いざとなると猛虎のような力強さを発揮したが、
日頃はおとなしく茫洋としていたところから、「虎痴」とあだ名されて可愛がられた。

そもそも許褚が曹操配下となったのは、村にいた頃の壮絶な戦いがきっかけだった。
その相手は、都からの黄巾賊討伐戦に属していた曹操の新鋭隊長・典韋である。

討伐軍は村を守るどころか農作物を徴収した。これに怒った許褚は陣営へと殴りこんだ。
そして剛力を誇る典韋と、互角以上の戦いを繰り広げて見せたのである。

才を求める曹操が、許褚を見逃すはずはなかった。
こうして許褚は典韋と同じく曹操の護衛を務めることとなる。
曹操は、許褚の純朴な性格を愛し、常に側に置いた。

許褚もまた、曹操の厚遇に応え、その危機を何度も救った。
許褚の勇猛振りは敵将も一目置いたほどで、かの猛将・馬超も「虎侯」と呼んで敬意を表したという。
曹操伝 赤壁逃亡戦
【初期】
建安十三年(208)、大船団を擁した曹操は、満を持して南征へと赴いた。
対する孫呉は劉備との連合軍を結成し、計略を巡らせた周瑜らが赤壁で待ち受けていた。

曹操軍は、不慣れな気候に苦しめられたうえ連合軍の火計にかかり、不覚にも大敗を喫してしまう。
辛うじて脱出した曹操は、わずかな部下を引き連れて逃走した。

行く手には、連合軍の精鋭たちが立ちふさがる。
乱世の奸雄とまで言われた曹操が、このような所で果ててよいものか。
窮地を脱して、再び覇道へと突き進むのだ!
【クリア後/列伝記】
字は孟徳。沛国譙県の人。

武芸に秀でて、兵法書を好んだ。人物鑑定で知られる許劭を尋ねて「乱世の奸雄」と評される。
その名は違わず、曹操き任官されると見る見る頭角を現していく。

黄巾賊の討伐を皮切りに、反董卓の号令を掛け、呂布を仕留めて、と曹操は威勢を増していった。
そして、官渡の戦いで宿敵・袁紹を破り、華北の覇者となった。

曹操は、さらに江東を手仲にせんと南征した。
大船団を擁して赤壁に赴くが、不慣れな水戦と呉軍の計略の前に大敗を喫し、炎上する船をあとに街道を落ちていく。

逃走する曹操は、次々と襲いくる敵軍の伏兵を必死で打ち破った。
華容道に至って関羽の伏兵に遭うが、かつて幕下にいたとき恩義を施した陽報により、活路を得る。

無事に脱出を遂げた曹操は、これを迎えた曹仁に荊州守備を托し、早々に都へと帰還した。
そして、敗戦の痛手を乗り越え、再び魏を強大な国に育て上げたのである。

こののち曹操は、魏公そして魏王となった。
その死後、跡を継いだ曹丕は献帝から禅譲を受けて皇帝の座に即いた。
文帝となった曹丕は、父・曹丕に武帝と諡した。
夏侯淵伝 定軍山挽回戦
【初期】
建安二十四年(219)、定軍山に蜀軍が攻め寄せてきた。
魏軍にとっては漢中における兵站の要衝である。
このとき、守備を任じていたのは夏侯淵と張郃だった。

まず天蕩山で、張郃が蜀軍を迎え撃つが、守りきれずに落とされてしまう。
逃れた張郃は、定軍山で夏侯淵と合流した。一方、蜀軍はじりじりと定軍山に迫っていた。

蜀軍を率いるのは、老将・黄忠。百戦錬磨の強者で、いままた高所から魏陣営の様子を窺っている。
夏侯淵は、その字のごとく妙才を発揮し、定軍山を死守できるか!
【クリア後/列伝記】
字は妙才。沛国譙県の人。

曹操の従兄弟である。挙兵以来の宿将として、数多くの戦いに付き従った。
夏侯惇の族弟でもあり、ともに曹操軍の両輪となって戦い創業の時代を支えた。

夏侯淵は急襲を得意とし、軍中では「六日で千里」と言われるほどだった。
曹操が潼関で馬超に苦戦していたときも、救援に駆けつけその危機を救っている。

のち漢中の攻略にあたり、制圧後は張郃とともに守備を任された。
建安二十四年(219)、蜀軍が定軍山に攻め寄せて、漢中の要衝を巡る両軍の攻防となった。

天蕩山で張郃が蜀軍を迎え撃ったが、負傷して夏侯淵と合流する。
蜀軍を率いる老将・黄忠は高所に陣取り、定軍山の本陣に向かって逆落としを仕掛けてきた。

本陣を守る張郃は手負いである。夏侯淵は、何としてもここで食い止めねばと奮戦し、最後まで本陣を守り抜いた。
この勇猛果敢こそ、夏侯淵の才だったのである。

援軍に駆けつけた曹操は夏侯淵をねぎらった。
そして「将たる者は勇気ばかりを頼むのでなく、ときには慎重に知略を用いるのだ」とその身を案じて戒めたという。
張遼伝 合肥奇襲戦
【初期】
建安二十年(215)、呉の孫権が大軍を率いて長江を越え、北上しているとの報が合肥城に届く。
そこで南への押さえとして守将に任じられていたのは、張遼だった。

呉軍数万に対し、守る魏軍は数千。それでも張飛は、曹操からの指示に従い、打って出ると主張した。
諸将は反対するが、一人でも戦う覚悟の張遼に、魏軍が結束する。

張遼の策は、呉軍を効果的に攻撃して退却を誘うというものだった。
合肥城は死守する。兵力差を士気の高さで補うのだ。
戦場を颯爽と駆ける張遼が、いま伝説となる!
【クリア後/列伝記】
字は文遠。雁門郡馬邑県の人。

武勇に優れた忠義の士。だが、主に恵まれず、丁原、董卓、呂布と歴任する。
呂布が曹操に敗れるとともに斬首されかけるが、劉備と関羽が引き留めたため救われる。

曹操は改めて張遼を厚く遇した。感じ入った張遼は、ついに仕えるべき君主を得た、と忠誠を誓う。
その後、張遼は北征はじめ諸戦に活躍して曹操の信頼を深めた。

建安二十年(215)、大軍勢を率いた曹操は漢中へと進攻する。
そして、張遼を合肥に任じて呉への備えとした。すると呉は、合肥が手薄と見て大軍で攻め寄せた。

合肥の少兵は怯むが、張遼は曹操の指示に従って出撃を主張する。そして、自ら遊軍となって孫権を脅かした。
この活躍で魏軍の士気は高まり、合肥は守られた。

その後も張遼は、合肥に駐屯して呉に睨みを効かせた。
張遼の勇名は呉で知らぬ者がないほど広まり、夜泣きする子供には「遼来来」と言って泣きやませた。

曹操の跡を継いだ曹丕も、張遼に敬意を表して厚遇し、張遼が病気と聞くと、豪華な食事を届けた。
一方孫権は、病気であれ張遼とは対決しないよう命じたという。
司馬懿伝 山の戦い
【初期】
三国鼎立後、南方を平定した蜀の諸葛亮は、幾度にわって北伐を繰り返していた。
手を焼いた魏軍は、稀代の策略家である司馬懿に指揮権を委ねて送り出した。

知略にかけてはいずれ劣らぬ二人である。互いに譲らず一進一退の攻防が続く。
こうした中、蜀軍が上方谷に兵糧を蓄えているとの報を得た司馬懿は、襲撃を企てる。

今度こそ諸葛亮の裏をかくのだ。出陣した司馬懿は、守将の魏延を撃退して上方谷へと迫っていく。
だが、これこそ諸葛亮の罠だった。生涯最大の危機が司馬懿を襲う!
【クリア後/列伝記】
字は仲達。河内郡温県の人。

司馬家は河内の名門である。八人の兄弟はみな字に「達」を持ち、いずれも秀才で「司馬の八達」と呼ばれた。
中でも飛び抜けて優秀だったのが司馬懿である。

興味をもった曹操は司馬懿に出仕を命じた。
はじめは仮病を使って断るが、要求が強まるに及んで、ついに応じる。
その才能は、曹操も警戒心を抱いたほどだった。

だが、太子の曹丕を補佐したことで厚く信任されるようになった。
そして、蜀の諸葛亮の北伐に対し後任の司令官に抜擢され、互いの知略を戦わせることとなる。

幾度にわたる戦いを経て、好機と見た司馬懿は、敵将を追って谷に入った。だが、それは諸葛亮の罠だった。
司馬懿は、天佑もあって脱出を遂げ、九死に一生を得る。

窮地を脱した司馬懿は、より慎重に諸葛亮に対するようになった。
挑発を受けても乗らず、ひたすら耐えて時を待った。やがてそれは諸葛亮の死という形で決着した。

持久策は、諸葛亮の才能を認めたうえでのことだった。が、それは同時に司馬懿の深謀遠慮を現していた。
やがてそれは、三国の後に至る晋王朝となって結実する。
徐晃伝 樊城防衛戦
【初期】
蜀の漢中制圧、それに呼応して呉が合肥に出陣、と魏の各地で戦火が起こる。
そして、建安二十四年(219)、荊州でも江陵の関羽が樊城へ向けて北上する。

荊州は三国の中央にあって互いの争点となっていた。
曹操はこの地を重視し、守りの要である樊城に族弟の曹仁を派遣していた。
だが、樊城は関羽に包囲されてしまう。

この報を受けて援軍に駆けつけたのが徐晃がある。
曹仁が死守する樊城を救うため、関羽の包囲網を破るのだ。
旧知の仲といえども、国事とあらば武を振るうのみ!
【クリア後/列伝記】
字は公明。河東郡楊県の人。

もとは楊鋒の配下。その武を曹操に認められ、満寵の説得に応じて曹操配下となる。
仕えてのち徐晃は「名君と遭えたからは功を立て力を尽くさなければ」と語った。

その言葉に違わず、徐晃は曹操に従って各地を転戦し、縦横に武を振るう。
慎重かつ冷静な性格で、部下への指導も行き届き、陣営は常に整然としていたという。

建安二十四年(219)、荊州で曹仁の守る樊城に、関羽が攻めてきた。
関羽は樊城を包囲し、曹仁は孤立し窮地に陥る。そこで自ら援軍を申し出たのが徐晃だった。

相手の関羽とは旧知の仲であったが、徐晃は私事よりも国事を優先した。
次々と関羽の包囲網を突破し、ついには関羽を退けて、曹仁はじめ樊城の魏兵らを救った。

かくして魏の荊州における拠点・樊城は守られた。
のち関羽の厳重な包囲陣を目にした曹操は、それを突破した徐晃に驚嘆し、まことに知勇兼備の将であると称える。

その後も徐晃は、魏に貢献した。
備えをもって臨み、勢いに乗じて攻める戦い振りで厚く信頼され、張遼・張郃・于禁・楽進らとともにの五将軍に数えられた。
張郃伝 山追撃戦
【初期】
黄初五年(231)、蜀の諸葛亮は数度目の北伐に及び、山へと軍を進めた。
対する魏は、司馬懿に軍の指揮を委ねる。その魏軍の主力をなすのは張郃であった。

対峙してほどなく、諸葛亮は山から軍を撤退させる。
策略を警戒した司馬懿は慎重な構えを取ろうとするが、張郃はこの機に蜀軍を討つべしと自ら追撃を志願した。

その身命をもなげうつ覚悟の前に、司馬懿も出陣を許した。
意を決して進む張郃を、蜀の大将・魏延が怪しく誘う。
この戦いを、死ではなく勝利で華々しく飾るのだ!
【クリア後/列伝記】
字は儁乂。河間郡鄚県の人。

もとは袁紹配下だが、官渡の戦いで讒言に遭い、危険を感じて曹操に帰順した。
曹操はこれを手厚くもてなし、感激した張郃は出陣を願い出て河北制圧に貢献した。

張郃は、各地を転戦して活躍し、漢中を攻略した後は夏侯淵と守備を担った。
武勇ばかりか知略にも長け、戦況や地勢をよく見極めて見事な陣営をなしたという。

蜀の北伐が始まると、その迎撃にあたった。
黄初五年(231)、諸葛亮が数度目の北伐に及ぶと、魏は司馬懿に指揮を委ね、歴戦の張郃がこれに従って出陣した。

両軍は山で対峙するが、諸葛亮は軍を撤退させる。張郃はこれを追撃し、木門道に至る。
そこには落石や弓部隊の伏兵など、蜀軍の罠が張り巡らされていた。

張郃は、諸葛亮すら恐れたというその才略で窮地を凌ぎきり、蜀軍の撃退を果たした。
その数年後、直々に北伐へと赴いた諸葛亮は、無理がたたって病に倒れる。

かくして蜀の北伐は頓挫し、魏の優位は揺ぎないものとなった。
張郃もまた、木門道を最後に戦場から身を退くが、その功績により魏の五将軍の一人に数えられた。
甄姫伝 冀州番外戦
【初期】
官渡で曹操に敗れた袁紹は、失意の内に病没した。残された三人の息子は、曹操の脅威に晒される。
建安九年(204)、ついに曹操は袁家の拠点・冀州へと迫った。

そこには、袁紹の次男・袁煕の妻である甄姫が、義母の劉氏とともにいた。
一方、曹操の戦陣として乗り込んできたのは、曹家の嫡男である若き太子・曹丕だった。

傾国の美女・甄姫は、その美しさゆえ運命の渦に飲み込まれようとしていた。
しかし、ただ流されるのは甄姫の望むところではない。
自らの手で運命を選び取るのだ!
【クリア後/列伝記】
甄逸の娘。中山郡無極県の人。

たぐいまれな美貌を備え、袁紹の次子・袁煕の妻となる。
その頃、袁紹は河北一帯に威勢を振るっており、袁家といえば誰も知らぬ者がいないほどの名家であった。

甄姫の美貌と気品は、そんな名家にあってより輝きを増していく。だが、袁家にも戦乱の影が差す。
袁紹が、中原の覇権を懸けた曹操との戦いに敗れ、病没したのだ。

あとには三人の息子が残された。一方、官渡の戦いで勝利した曹操は河北の制圧に乗り出し、袁紹の遺子を脅かす。
やがて、その手は袁家の拠点・冀州に及んだ。

それが甄姫の運命の岐路となる。
先陣として乗り込んできた曹操の嫡子・曹丕が、甄姫を見初めて妻にと求めたのだ。
この申し出に、甄姫は自らの手で運命を選んだ。

史実によれば、甄姫は曹操が冀州を攻め落としたのち、曹丕の正妻となっている。
曹操は「この戦いは息子のためにやったようなものだ」と苦笑したという。

その後、甄姫は曹叡の母となる。
曹丕が帝位に即くと、曹叡は太子になって後を継いだ。
曹叡の即位は見届けられなかったが、のちに甄姫は文昭皇后と追尊いされた。
曹仁伝 江陵攻防戦
【初期】
赤壁の戦い後、敗れた曹操は北へと撤退した。
曹仁は江陵に留まり、呉の軍勢による追撃を食い止めるという大役を担う。
味方の犠牲を増やさぬようにとの抜擢であった。

勝ちに乗じた周瑜は、数万の兵を率いて攻め寄せる。
城を包囲する先鋒軍に対し、曹仁は配下の牛金を送り出した。
だが、多勢に無勢、牛金は包囲されて孤立してしまう。

これ以上やらせはしない。
剛毅な曹仁は、制止する声も聞かず鎧兜を身につける。
部下さえ守れぬ者に将を名乗る資格はない。
牛金を救い、無事に城へと帰るのだ!
【クリア後/列伝記】
字は子考。沛国譙県の人。

曹操の従兄弟。若くから弓や馬に優れ、狩猟を好んだ。曹操の挙兵以来従い、転戦して功を重ねた。
曹操は曹仁の武勇を重んじ、手元に置いて騎兵を率いさせた。

赤壁で敗れた曹操が、華容道から逃れてくるのを迎えたのも曹仁である。
曹操は曹仁を江陵に留め、呉の追撃の備えとした。間もなく勝ちに乗じた呉軍が迫りくる。

周瑜は大軍を率い、曹仁の守る城を取り囲んだ。
気負って出陣した牛金は、猛進して敵中に孤立してしまう。
曹仁は、鎧兜を身に固め制止の声も聞かずに飛び出した。

曹仁は剛勇を振るい、敵陣を突破していった。
そして、牛金を救出すると、これを伴って城へと引き返した。
その勢いは、かの周瑜をもってしても止められなかった。

無事に帰還した曹仁を、兵たちは「将軍はまるで天上人のようだ」と賛嘆した。
のち、樊城を守っては関羽の包囲を耐え忍んで破り、荊州における魏の要となった。

その後、曹仁は年とともに重みを増し、法令をよく尊守して正しい決断を下した。
のちに魏の皇帝となった曹丕は「曹仁将軍をも習うべし」とよく人に語ったという。




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