真・三國無双6攻略 三国志辞典 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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三国志辞典

真・三國無双6攻略 三国志辞典を掲載しています。

目次

一.漢室衰退し、群雄割拠す
黄巾の乱
漢王朝の衰退
2世紀末、当時の後漢王朝は、内部の抗争によって腐敗し、その権威は失墜していた。
国土は荒廃し、田畑を失い流浪する民衆は、張角の唱える太平道に救いを求める。


反乱の兆し
太平道の教祖である張角は『蒼天已に死す、黄天当に立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉ならん』という
言葉を広め、民衆の間に反朝廷の気運を高めていった。


大賢良師・張角
そして184年、ついに張角は天下取りへと乗り出す。
自らを「大賢良師」と称し、奇跡を起こして信徒を増やした張角は、その勢力を組織化して蜂起の準備に取りかかった。


張角の挙兵
この動きが密告によって露見してしまうと、張角はすぐに挙兵した。
自らは「天公将軍」弟の張宝張梁は「地公将軍」「人公将軍」を名乗り、何十万人もの民を煽動した。


黄巾の乱
張角に従う兵たちは、目印として頭に黄色い布を巻いた。
そのことから、彼らは黄巾賊と呼ばれ、この乱を「黄巾の乱」と呼ぶようになる。
黄巾賊は各地で朝廷の軍を破った。


朝廷の反撃
勢いに乗る黄巾軍に対して、朝廷は皇甫嵩・盧植・朱儁らを討伐に向かわせる。
黄巾軍はすでに中原の各地に展開していた。幽州太守の劉焉は、義兵募集の高札を揚げさせる。


桃園の誓い
これを見た劉備は、世を憂いて志を立てた。
そして、意気投合した関羽張飛と、桃園で「生まれたときは違えども、死ぬときは同年同月同日に」と義兄弟の誓いを立てる。


群雄の参戦
「乱世の奸雄」と評された曹操は、いち早く張宝張梁を破る活躍を見せた。
遅れて参戦した劉備も、張角軍の包囲を破り窮地の董卓を救う。
情勢は討伐軍へと傾いていった。


黄巾軍の鎮圧
黄巾軍の劣勢は、張角の病死によって決定的となる。弟の張梁張宝も戦場の露と散り、乱は年内に沈静化した。
残党の抵抗も、討伐軍の孫堅らによって鎮圧されていく。


乱平定の後
かくして黄巾の乱は一応の平定を見た。
権勢を得た者、恩賞を受けた者、不遇のまま雄伏する者、と結果は様々だった。
だが、群雄が世に出揃った今、争乱はこれから始まる。
虎牢関の戦い
董卓の台頭
黄巾の乱が平定されたのち、朝廷内では勢力争いが激化していた。
この混乱に乗じて台頭したのが西涼の董卓である。董卓は軍事力を背景に朝廷を牛耳って、専横を振るった。


曹操の檄文
董卓の専横に、群雄たちは反感を募らせた。曹操は単身で董卓殺害を試みるが、失敗して故郷へ逃れる。
そこで曹操は、諸侯に檄文を送り、逆賊・董卓を討つべく挙兵を促した。


同盟の結成
曹操の檄に、袁紹袁術孫堅・馬騰など、各地の群雄が応じた。
劉備もまた義兄弟らを引き連れ、旧知の公孫瓚とともに参加する。
こうして董卓討伐の連合軍が結成された。


群雄、洛陽に迫る
190年・冬、名家出身の袁紹を盟主とした連合軍は、董卓の居座る洛陽を目指して攻め上る。
まず連合軍の先鋒・孫堅が、洛陽の東にある防衛の拠点・水関へと迫った。


水関の戦い
一方の董卓は、水関の守将に華雄を送る。緒戦に勝利したのは、孫堅軍だった。
だが、袁術が兵糧の補給を怠り、混乱が生じたのを見て、華雄孫堅軍を返り討ちにする。


関羽、華雄を斬る
勢いに乗った華雄は、連合軍の本陣に迫る。
連合軍の将が次々と打ち破られる中、劉備の義弟・関羽が名乗りを上げた。
陣幕を出て間もなく、関羽華雄の首をさげて帰還する。


虎牢関の戦い
董卓はこの報を受けて、要害の地・虎牢関に籠もった。関前に陣取るは呂布
その武勇の前に連合軍は歯が立たない。いましも公孫瓚が討たれようというとき、張飛が躍り出た。


人中の呂布
張飛は善戦するも、呂布は怯まない。義兄の関羽も加勢するが、呂布は互角に渡り合う。
ついには劉備が加勢し、さすがの呂布も三人相手では分が悪いと隙を見て逃げ出した。


董卓の逃亡
呂布の敗走に形勢不利と見た董卓は、直ちに軍勢を率いて洛陽に退却する。
そして長安への遷都を強行すると、洛陽の都に火をかけ、帝を擁し、民を引き連れて長安へと去った。


群雄割拠、再び…
かくして連合軍は、董卓撤退という形で勝利を収める。
こののち連合軍は洛陽に入るが、すでに都も敵の姿もなく、各々自国へ戻っ再び群雄割拠の様相を呈するのだった。
下邳の戦い
董卓、呂布に討たれる
董卓は長安に逃れ、帝位に就こうとするが、王允と謀った呂布によって討たれた。
その後董卓の元部下たちが逆襲に転じ、今度は王允が討たれる。呂布はやむなく長安を去った。


流れ者・呂布
行き所なく兗州に入った呂布は、曹操と一進一退の攻防を繰り広げるが、敗北して徐州へと流れていく。
そこには、陶謙に見込まれて徐州を譲られた劉備が滞在していた。


劉備、乗っ取られる
呂布劉備を弟と呼んで居座り、留守の間に下邳城を奪ってしまう。
やむを得ず呂布の下に就いた劉備だが、張飛が原因で呂布と決裂し、困った劉備曹操を頼っていく。


奸雄と英雄
曹操は、英雄用いるべしと劉備を厚遇した。四方に敵がいる曹操にとって、気掛かりなのは呂布である。
そこで、呂布を討とうと劉備に使者を送るが、事は呂布に漏れてしまう。


呂布との対決
怒った呂布は、小沛の劉備を攻めた。
曹操軍からは夏侯惇劉備の援軍に駆けつけるが、左目に矢を食らい退却してしまう。
劉備らも打ち破れ、ついには曹操が乗り出した。


下邳城包囲戦
198年、曹操軍は下邳を包囲した。そして軍師の提案を採用して2つの河を決壊させ、下邳城を水攻めにした。
多量の泥水が下邳城に押し寄せ、呂布軍に動揺が広がった。


呂布、窮地を招く
打つ手のないまま呂布は酒色に溺れていく。
思い直して禁酒令を出すが、折悪しく呂布に酒を献上した者がいた。
怒った呂布はきつく罰し、部下たちの反感を煽ってしまう。


虎狼、捕縛される
呂布に離反した将が、赤兎馬を盗んで曹操に献上し、さらに城内へ曹操軍を手引きした。
呂布は、酒に酔って寝ていたところを厳重に縛り上げられ、曹操に突き出されてしまう。


猛将の最期
曹操と対面した呂布は、ともに天下を取ろうともちかける。顧みる曹操に、劉備董卓らの例を挙げて警告した。
呂布劉備を散々に罵るが、それが最期の悪あがきとなった。


梟雄、去って
かくして一代の梟雄は去った。曹操は、劉備を伴って許都に帰還。
だが、劉備も人の配下に甘んずる器ではなく、袁術討伐を機に曹操の監視下から脱し、徐州で自立を果たした。
二.曹操、中原に覇を唱える
官渡の戦い
黄河の北と南で
公孫瓚を倒して河北を手にした袁紹は、名門の名とともに最大の勢力を誇っていた。
一方曹操は、早くから天子を河南に迎え大義名分を手にし、徐々に地盤を固めつつあった。


義将・関羽を得る
大勢力となった両雄が、いずれ激突することは必至だった。袁紹は、大勢力を頼みに南征を決意する。
しかし曹操は慌てず、まず劉備を討ち、関羽を捕らえて幕下に迎えた。


白馬の戦い
200年、ついに袁紹曹操との間で戦端が開かれた。曹操は敵の大軍を陽動し、白馬の急襲に成功する。
そして単騎突入した関羽が勇将・顔良を斬って曹操に義理を果たす。


延津の戦い
続く延津では、輸送部隊を囮に袁紹軍を誘い出し、物資に群がって隊列の乱れたところを打ち破る。
またしても関羽は、猛将・文醜を討ち取る活躍を見せ、曹操軍は勝利した。


関羽、千里を駆ける
この戦いののち、関羽劉備の消息を知り、曹操の陣営を去る。
5つの関を抜き6人の将を破った関羽に、夏侯惇が迫る。
だが、曹操関羽の義を認め、義兄弟の再会となった。


官渡の戦い
袁紹は二度の敗北にも挫けず、大軍で官渡に攻め寄せた。この威勢に圧され、曹操は官渡城に籠もった。
袁紹軍は、城壁の周りに土山を築き、櫓を建てて城内に矢を射かけた。


投石車の脅威
これに対し曹操は、投石車を造って櫓を破壊させた。
袁紹軍は「霹靂車」と呼んで恐れ、坑道を掘り進む作戦に転じた。
だが、これも急造の塹壕によって阻まれてしまう。


烏巣夜襲
戦いが長期に及ぶと兵糧も乏しくなり、両軍に寝返る者が増えていく。
袁紹軍では内部の不和もあり、幕僚の許攸が陣を去った。その許攸が貴重な情報を携えて曹操を訪れた。


袁紹軍の潰走
袁紹軍の兵糧は烏巣に集結しているという。直ちに曹操は烏巣に夜襲をしかけた。
袁紹軍を装って警戒網を突破すると、手薄な守備隊を打ち破り、烏巣の兵糧を全て焼き払った。


中原の覇者に
思わぬ奇襲に袁紹軍は浮き足だち、総崩れとなって退却した。
敗れた袁紹は、黄河を渡り北へ逃れるが、数年後に病死する。
かくして曹操は、中原の覇者の座を我が物とした。
長坂の戦い
英雄、明と暗
袁紹に勝利した曹操は、袁紹一族を討伐して北方平定を果たそうととしていた。
一方、未だ拠り所のない劉備は、同族の劉表を頼り荊州に身を寄せ、国境の守備を任されていた。


劉備、伏龍を得る
劉表のもとで束の間の平安を得た劉備だが、志を遂げられぬ我が身に涙する。
そんな劉備に転機が訪れた。伏龍と呼ばれる賢者・諸葛亮を「三顧の礼」で軍師に迎えたのだ。


天下三分の計
諸葛亮は、荊州・益州を手に入れて呉と結び曹操の魏に対する、という「天下三分の計」を劉備に説いた。
すでに曹操は、北方を平定し、南征の準備を着々と進めつつあった。


劉備、窮地へ
208年、折悪しく劉表が病没し、相続争いの末に次男の劉jが荊州を継いだ。
しかし、曹操の大勢力の前に劉jはあえなく降伏し、樊城にいた劉備は孤立してしまう。


逃走の劉備
曹操軍の接近を知った劉備は、形勢利あらずと見て南へ逃走した。城を棄て、軍備の豊富な江陵をめざす。
劉備を慕う荊州の兵や民も加わって、それは十万以上の集団となった。


曹操軍の追撃
逃げる劉備軍は、民が混じり足取りが重い。
一方、追う曹操軍は、五千の騎兵を選抜してたちまちのうちに急迫し、当陽の長坂に差し掛かったところで、ついに劉備軍を抑えた。


趙雲、単騎駆け
劉備軍は潰走し、劉備の妻子は置き去られてしまう。このとき単騎で引き返したのが趙雲である。
趙雲劉備の嫡子・阿斗を救い出し敵中を切り抜けて劉備のもとへ帰還した。


長坂橋仁王立ち
さらに、逃れる劉備の殿軍を張飛が務めた。長坂橋まで来た張飛は、仁王立ちするや大喝一声した。
そして恐れを成した曹操軍が退却している隙に、橋を落として引き揚げた。


劉備、虎口を脱す
なおも迫り来る曹操軍の前に立ちふさがったのは、軍勢を率いて駆けつけた関羽だった。
曹操軍は退却し、窮地を逃れた劉備一行は、船団と合流して東の江夏へと向かう。


大戦の予兆
その頃、呉は孫権が治めていた。
父・孫堅の戦死後、江東を制覇し礎を築いた兄・孫策も早世し、大業を受け継いだのである。
劉備はこの孫権に己の命運を賭けることになる。
赤壁の戦い
曹操軍の南征
南征に赴いた曹操は、荊州を手に入れ、劉備らを破った。そして船団で長江を下り江東をめざす。
曹操から逃れた劉備は、江東の孫権と同盟を結ぶべく、諸葛亮を使者に立てた。


降伏か抗戦か
孫権の陣営では、魏に降伏するか抗戦するかで意見が分かれていた。だが、諸葛亮の弁舌が孫権に決断させる。
208年、孫権周瑜を大都督に任じ、出陣の用意にかかった。


同盟軍の秘策
曹操軍は大船団を擁しており、同盟軍に数倍する兵力を備えている。
この戦力を覆すには地の利を生かし、策を用いる事だ。諸葛亮周瑜が互いに示した計は「火」だった。


苦肉の計
まず、呉将・黄蓋が魏に投降する旨の書状を送った。
それを曹操に信じ込ませるため、魏の密使の前で周瑜黄蓋に罰棒をくらわせて見せる、という「苦肉の計」が実行された。


連環の計
さらに龐統が魏陣営に赴き、船に慣れぬ魏兵のため船を繋げて安定させよ、と献策した。
この「連環の計」により、舞台は整ったが、周瑜にはもう一つ心配なことがあった。


周瑜の懸念
季節は冬、風は北西、曹操軍は呉軍の風上である。火計を仕掛けたら味方に燃え移りかねない。
気を揉んだ周瑜は病に伏すが、諸葛亮が訪れて「東南の風」を呼ぶと約束する。


諸葛亮、風を呼ぶ
諸葛亮は、南屏山に七星壇を築かせ、祈祷を行った。そして約束の日、にわかに東南の風が吹き始める。
風は次第に強く吹きつのる。時は至れり、とばかりに呉軍が動き出した。


黄蓋、火計を仕掛ける
まず投降を装った黄蓋が、数十艘の船を引き連れて魏の船団へと近づく。
追い風に乗ってみるみる迫ると、黄蓋の合図で一斉に火の手を挙げた。それを東南の風が煽り立てる。


魏船団、炎上す
曹操の陣営が気付いたときにはすでに遅く、繋がれた船は次々と延焼していった。
火の粉が長江を覆う中、意気上がる呉軍が殺到し、混乱する魏兵を続々と血祭りに上げていく。


そして天下三分へ
曹操は敗れ、北へと退いた。これにより魏の天下統一は遠のいた。
勝利した孫権は、呉の地盤を確かなものとする。そして劉備は荊州を奪い、天下への第一歩を踏み出した。
三.天下三分の計
成都の戦い
西への侵攻
赤壁の敗戦後、曹操は南の孫権の侵攻に備えていた。
その一方で、後顧の憂いを絶とうと西に手を伸ばし、西涼の馬騰を誅殺すると、
さらにその子・馬超を潼関で打ち破った。


益州からの使者
曹操の侵攻を恐れた漢中の張魯は、先んじて益州を取ろうと目論んだ。
これを伝え聞いた益州刺史の劉璋は動揺する。
そこへ、配下の張松が曹操への使者に立つことを申し出た。


張松、奸雄に失望す
許都を訪れた張松に、曹操は見下した態度で臨んだ。
場合によっては益州を曹操に、とも考えていた張松だが思い直し、曹操の機嫌を損ねた末に叩き出されてしまう。


張松、英雄を見込む
その後、張松は劉備のもとを訪れた。
丁重にもてなされた張松は感心し、仁義を重んじる劉備であれば益州を任せるのに申し分ない、と益州を託したい旨を劉備に告げる。


劉備、益州へ
張松は益州へと戻り、劉備に加勢を頼むよう劉璋に進言した。劉璋は、同族でもある劉備ならば、と同意する。
劉璋と面会した劉備張魯討伐を引き受け、葭萌関へと赴いた。


益州の君主
劉璋は惰弱な君主だったため、張松たち家臣の間で名君を迎えようという動きがあった。
劉備陣内でも、天下三分を実現するためには益州を取るべし、との強い意見が挙がる。


劉備の決断
同族である劉璋を討っては義理が立たない、と劉備はこれを拒んでいた。
しかし、劉備の援助要請を劉璋が渋ったことから両者は決裂し、ついに劉備は成都攻めを決意する。


龐統、落鳳坡に散る
成都攻めを指揮するは、軍師の龐統である。
まず、手始めに涪水関を落とし、成都防衛の拠点・雒城に軍を進めるが、馬を替えたため劉備と間違われ、龐統は落命してしまう。


錦馬超を迎え、成都へ
雒城は、荊州から諸葛亮張飛が駆けつけて陥落した。
葭萌関では張魯に身を寄せた馬超の猛攻を受けるが、諸葛亮の策によって逆に馬超を幕下に迎えることに成功する。


天下三分、成る
成都の包囲に馬超も加わり、戦意を喪失した劉璋は降伏した。
214年、蜀の地は劉備の治めるところとなる。劉備龐統を失うも、益州を得て、ここに天下三分は成った。
合肥の戦い
劉備からの使者
曹操は西征して張魯を破り、益州の北に位置する漢中を制して、南征の機を窺っていた。
益州を得たばかりの劉備は、曹操軍の南下を恐れ、諸葛亮とはかって孫権に使者を送る。


孫権、北伐へ
それは、荊州の一部返還を申し出るとともに合肥を攻めるよう持ちかけるものであった。
孫権は、劉備の策と承知の上で、曹操が漢中にいる間なら、と合肥攻めに乗り出す。


呉軍、長江を渡る
215年、孫権は10万の呉軍を率いて長江を渡った。先鋒を呂蒙甘寧に命じて、自らは周泰とともに中軍を務めた。
呉軍は、先鋒の二将が活躍し、手始めに皖城を落とす。


合肥籠城
一方、合肥を守るのは、張遼李典楽進の三将軍。
皖城の救援要請に張遼が駆けつけるが間に合わず、引き返して城に籠もっていた。
そこへ曹操からの手箱が届けられる。


曹操の指令
張遼李典は出て戦い、楽進は城を守れ」 それが手箱の中にあった曹操の指示だった。
合肥の魏軍は総勢7千余。軍議はもめるが、張遼が出陣して方針が決まった。


合肥の攻防
まず楽進が出撃し、呉軍と遭遇するとわざと逃げ出した。
呉軍は勢いづいてこれを追い、中軍の孫権までが馬を進める。
そこへ李典張遼が挟み撃ちにする形で襲い掛かった。


孫権飛騎
たまらず孫権は引き返す。だが、すでに橋が落とされていた。
慌てる孫権に、味方武将が馬を飛ばすように言う。そこでいったん馬を下がらせ、一気に飛んで対岸に着地した。


魏に張遼あり
孫権は難を逃れたが、呉軍は寡勢の魏軍相手に大敗した。
この戦いで、張遼の威名は江東に轟き、幼い子供でさえ恐れたという。
孫権は濡須口まで戻って、軍勢を立て直した。


濡須口の戦い
こののち、張遼から援軍の要請を受けた曹操が漢中より駆けつける。
呉軍は、甘寧の夜襲で一矢報いるが、またも孫権が取り囲まれ、周泰の懸命な働きで辛うじて窮地を脱する。


曹操、魏王に
ついに孫権は北伐を諦め、曹操と和睦した。許都に戻った曹操は魏王の座に就き、さらに威勢を振るう。
一方、曹操の矛先を交わした劉備は、虎視眈々と漢中を窺っていた。
夷陵の戦い
劉備、漢中王に
数度にわたる北伐で漢中を手にした劉備は、219年、漢中王と称した。
そして、荊州を守っていた関羽は、これに呼応するかのように北上し、魏の曹仁が守る樊城を攻めた。


荊州の争い
関羽は水攻めを仕掛けて敵将を討ち、樊城を包囲し苦しめる。
その頃、呉では呂蒙が都督に就き、荊州奪還の機会を窺っていた。
呂蒙は無名ながら俊才の陸遜を後任に抜擢する。


関羽、捕らわれる
呂蒙の狙いどおり関羽は油断し、荊州の守りが薄くなった。
すかさず呂蒙は進攻し、魏と結んで前後から攻め寄せる。
たまらず関羽は麦城に逃れ、ついには捕らえられてしまう。


義将、去って
関羽孫権に降ることを拒み、斬首された。程なく捕らえた側の呂蒙が病没する。
関羽の首は曹操のもとに送られ、手厚く葬られた。その曹操も、病の床に就いて世を去った。


二人の皇帝
220年、曹操の後を継いだ曹丕は、帝位に就いて魏を建国した。
劉備もその翌年、漢朝の正当な後継として蜀漢の皇帝となる。
劉備は、まず関羽の仇を取ろうと東征を命じた。


張飛、寝首をかかれる
劉備の怒りは、趙雲らの諌めも通じないほどだった。思いの強さは、義弟の張飛も同様である。
しかし、それが災いして張飛の部下に恨まれ、出陣を前に寝首をかかれてしまう。


劉備、討呉に起つ
両翼をもがれた劉備だが、決意は変わらず、孫権が和睦を申し出ても応じない。仕方なく孫権は魏に臣従した。
劉備は自ら兵を率いて出陣し、蜀と呉の戦いの幕が開けた。


大都督・陸遜
孫権陸遜を大都督に任じて劉備に備えた。
意気盛んな劉備軍は、長江に沿って呉領内の夷陵へと陣営を延ばしていく。
しかし、陸遜はなかなか打って出ようとしなかった。


夷陵の敗北
遠征の蜀軍は、次第に疲労が増していった。
222年、機が熟したと見た陸遜が火攻めを仕掛け一斉に攻撃する。
士気が低いところに急襲を受け、蜀軍は総崩れとなった。


劉備、白帝城に没す
白帝城に逃げ込んだ劉備は、後事を諸葛亮に託し、223年に没した。
その翌月、嫡子の劉禅が成都で蜀漢を継ぐ。
孫権は、再び魏と対立し、ここに三国は新たな局面を迎える。
南中平定戦
諸葛亮、南征へ
丞相として後主・劉禅を補佐していた諸葛亮は、呉と再び和睦するよう手を打ち、南征を願い出た。
この機に南中一帯の反乱を沈め、後顧の憂いを絶とうとしたのである。


心を攻める
その頃、南方で最も力を振るっていたのが、南蛮王・孟獲であった。
225年、南中へと赴いた諸葛亮は「心を攻めるが上策」の言に従い、南中の民を心服させる方針で臨む。


1度目の対決
諸葛亮と孟獲との初対決。まず趙雲が散々に打ちのめし、逃れたところを待ち伏せていた魏延が手捕りとした。
だが、孟獲は屈服せず諸葛亮は解放して再戦の機会を与える。


2度目の対決
慎重になった孟獲は河岸に土塁を築いて対陣の構えを取る。
蜀軍は、暑さで毒と化した河を筏で渡り、南中の将を降して孟獲を手捕りにさせた。
それでもまだ孟獲は屈しない。


3度目の対決
諸葛亮は、陣営を案内した上で孟獲を放つ。
すると孟獲は、敵陣の様子はわかった、と弟の孟優に偽りの降伏をさせるが、裏をかかれ兄弟ともども捕らえられてしまう。


4度目の対決
怒った孟獲は十万の南中兵を集め、蜀軍の陣に押し寄せた。すると諸葛亮は、陣を捨てて逃げてしまう。
これこそ策略で、取り囲まれ落とし穴にはまった孟獲は、再び虜となる。


5度目の対決
度重なる敗戦で、孟獲は蜀軍を迎え撃つ作戦に切り替えた。4つの毒泉に蜀軍を誘い込むのだ。
だが、諸葛亮孟獲の兄・孟節の助言を得て難を逃れ、またもや孟獲を捕らえる。


6度目の対決
孟獲の妻・祝融までが出陣するが、逆に捕虜となる始末である。
孟獲は、象や虎など猛獣を使う軍勢を呼び寄せるが、これも諸葛亮の作った炎を吹く巨獣に蹴散らされてしまう。


7度目の対決
ついに孟獲は、矢も刀も受け付けない藤の鎧を身にまとった藤甲軍の力を借りる。
だが、藤甲の弱点を見抜いた諸葛亮の火攻によって破られ、孟獲は捕まること七度に及んだ。


南征を終えて
さすがの孟獲もついに折れ、蜀への心からの帰順を誓った。かくして南方の平定は成り、蜀軍は帰国する。
南征を終えた諸葛亮の目には、いよいよ北の大国が捉えられていた。
四.三国時代の終焉
五丈原の戦い
諸葛亮、北伐へ
南方を平定した諸葛亮は「出師の表」を劉禅に上奏し、北伐へ乗り出した。
その頃魏では病没した曹丕に代わり若年の曹叡が即位していた。
これを補佐したのが、司馬懿である。


司馬懿、失脚す
司馬懿の才略は、かつて曹操が警戒したほどであった。
諸葛亮もそれを恐れ、離間の計を仕掛けて司馬懿を失脚させてしまう。
これにより、北伐は多少は容易になるはずだった。


天水に後継者を得る
蜀軍は、趙雲らの活躍により勝ち進む。
だが天水の魏将・姜維は、諸葛亮の策を見破り、趙雲と渡り合った。
これを見込んだ諸葛亮は計略にかけたうえで説得し、蜀に降らせた。


司馬懿、再び立つ
連勝する蜀軍に、曹叡司馬懿を起用した。
その才略ゆえに遠ざけられていた司馬懿だが抜擢されるや迅速に進軍し、蜀に寝返ろうとしていた孟達の首級を挙げる活躍を見せた。


街亭の戦い
さらに司馬懿は、蜀軍の糧道を断つべく先鋒の張郃と街亭攻略に出陣。
諸葛亮は、守備に俊英の馬謖を差し向けたが、才に溺れた馬謖は指示に背いて死地に布陣し街亭を失った。


泣いて馬謖を斬る
空城の計ので用いて窮地を逃れた諸葛亮は、漢中に帰還した。
ここで法をゆるがせにしては軍に示しがつかない。諸葛亮は自らの不明を恥じて泣き、戦犯の馬謖を斬罪に処した。


石亭の謀略
一方の司馬懿は、蜀軍に備えて守りを固めるように進言し、討呉の加勢に向かっていた。
しかし、呉将の計略にかかった曹休が石亭で敗れたため、司馬懿は兵を率いて帰還する。


北伐への執念
数度に及んだ諸葛亮の北伐は、兵糧の不足や本国への召還などで、成果を上げられぬ状態が続いていた。
だが、帰国した諸葛亮は再び軍勢を養い兵糧を蓄え、北伐を願い出る。


再度、北伐へ
234年、再び北罰に赴いた諸葛亮は、秦嶺山脈を抜けて五丈原に布陣した。
そこで屯田させ、自ら開発した木牛・流馬という運搬具を用いて兵糧を確保できるようにした。


孫権への使者
対する魏は司馬懿を送り出し、持久戦の構えを取っていた。
そこで諸葛亮は、呉で帝位に就いた孫権に北伐軍を興すよう要請し、合肥新城を攻撃するという色よい返答を得る。


司馬懿、挑発される
さらに諸葛亮は、司馬懿に婦人の服や装飾品を送って挑発した。
しかし司馬懿は乗らず、勇む諸将を鎮めるために都から堅守を命じる勅使を得て、じっと静観の姿勢を貫いた。


衰えゆく将星
司馬懿は、諸葛亮が軍務を細部まで見ていると聞き、命が長くないと察していた。諸葛亮は焦っていた。
激務に消耗し、天命尽きんとしていることを、彼自身がよく知っていた。


大事、成らず
そこへ、呉が合肥新城から撤退したとの報が届く。友軍の思わぬ脱落に、落胆した諸葛亮は病に倒れた。
そのまま再起かなわず、諸将に後事を託すと、伏龍は天へと帰った。


死せる諸葛、生ける仲達を走らす
蜀軍は諸葛亮の死を伏せ、撤退にかかった。諸葛亮が没したと見た司馬懿は、これを追撃する。
しかし蜀軍がすぐ反撃に転じたため、さては諸葛亮の策略かと慌てて兵を退いた。


奇才、去って
蜀軍は、その間に無事退却を遂げた。
のちに諸葛亮の陣の跡を見た司馬懿は「彼こそ天下の奇才」と感嘆し、魏軍を率いて長安に帰還する。
かくして一つの時代が幕を閉じた。
蜀の滅亡
北伐ののち
蜀の北伐は、諸葛亮の死によって一時止む。
後主・劉禅は、その死を悲しみ、遺言どおり定軍山に手厚く葬った。
蜀は北伐で疲弊した国力を回復するため、内政に専念する。


諸葛亮の後継者
諸葛亮の遺志を継いだ姜維は、機会を窺っていた。
折りしも魏では司馬懿が大権を握り、曹家に連なる夏侯覇が蜀に降る。
姜維はこれを機に、魏の治世危うしと北伐を願い出る。


姜維、北伐へ
尚書令の費禕は、諸葛亮の才に及ばぬ我らには無理と諌めた。
だが、後主・劉禅が認めたため、姜維夏侯覇ともども出陣する。
こののち数年にわたる北伐の始まりであった。


姜維、一進一退
諸葛亮の兵法を会得していた姜維だったが、その前に魏の名将・ケ艾が立ちはだかった。
姜維は勝利と敗北を繰り返し、思わしい戦果を上げられぬまま戦力を消耗していった。


蜀の内憂
そして成都では、劉禅が奸臣・黄皓の甘言に乗り放蕩を重ねていた。対陣中の姜維も度々召還された。
国内からは、北伐が国力を疲弊させる、との批判の声も増えつつあった。


魏軍、蜀討伐へ
一方、劉禅の暗君ぶりを聞きつけた司馬昭は蜀討伐に乗り出した。姜維は挙兵を上奏するが劉禅には届かない。
姜維が苦戦している間に、漢中は鍾会の手に落ちてしまった。


成都の危機
やむなく姜維は要害の剣閣まで軍勢を引き、守りを固めて鍾会の大軍を迎え撃つ。
その隙を突くように、ケ艾は西側の間道から難所を越え、守りの手薄な成都へと迫っていた。


後主、魏に降伏す
窮した蜀は、諸葛亮の子・瞻に軍を預けた。諸葛瞻は長子の尚とともに出陣するが、善戦及ばず果てる。
劉禅は降伏を申し入れ、自らを後ろ手に縛らせて魏の大軍を迎えた


姜維、鍾会に降る
剣閣で劉禅降伏の報を受けた姜維は、鍾会に投降した。そして鍾会と手を結び、蜀で独立するよう働きかけた。
それは、蜀漢の再興にかける姜維の一世一代の計略であった。


蜀の滅亡
しかし、鍾会の企みは早々に露呈し、姜維は魏軍によって鍾会ともども討たれてしまう。
263年、蜀は劉禅の代で潰えた。諸葛亮が五丈原に没してから約30年が経っていた。
魏の滅亡
3代目・曹芳
239年、五丈原の戦いから5年後のこと、魏の2代目皇帝・曹叡は病に倒れ、司馬懿曹爽に後事を託して世を去った。
後を継いだのは曹叡の子で、まだ8歳の曹芳である。


司馬懿、雌伏する
曹爽は、司馬懿を名誉職に追いやって実権を握った。
司馬懿は病と称して引き籠もり、二人の息子も閑居する。
そして、ひと芝居打って衰えた風を装い、曹爽の油断を誘った。


司馬懿、丞相に
曹爽の留守を突いて、司馬懿は息子と部下を率いて宮中へ押し寄せた。
そして皇帝に上奏し、曹爽の権力を剥奪してこれを処分した。
司馬懿は丞相に任ぜられ、魏の実権を得る。


司馬懿から司馬師へ
二年後、司馬懿は世を去ったが、その長子・師は大将軍に、次子・昭は驃騎上将軍に任ぜられ、魏の全権を握る。
やがて皇帝・曹芳は司馬兄弟の専横を恐れて討滅を謀った。


4代目・曹髦
この密謀は露見し、曹芳は廃された。そして曹丕の孫・曹髦が新皇帝に擁立される。
こうした司馬一族の専制に、反乱が相次ぐ。司馬師は鎮圧にあたるも、病で陣没してしまう。


司馬師から司馬昭へ
司馬師の没後は、弟の昭が大将軍を継いだ。
諸葛亮の従兄弟・諸葛誕が反旗を翻したが、司馬昭は大軍で取り囲んでこれを打ち破る。
さらに反乱の火種は、宮中からも生じた。


5代目・曹奐
司馬昭の専横に耐えかね、皇帝・曹髦が挙兵したのだ。しかし、曹髦司馬昭の手の者によって殺害される。
司馬昭は、曹奐を5代目の天子に立て、自らは丞相・晋公となった。


蜀の討伐
政権が落ち着いたのを機に、司馬昭は本格的な蜀討伐へと乗り出した。
まず鍾会が漢中を落とし、さらにケ艾が成都に迫ると、暗君・劉禅は早々に降参し、あえなく蜀は滅びた。


晋王、そして
蜀平定の功により、司馬昭は晋王となった。その翌年、司馬昭は病に倒れ、後継者に長子の炎を指名して没する。
晋王を継いで位人臣を極めた司馬炎は、さらに上を望んだ。


魏から晋へ
司馬炎は、すでに名のみの皇帝だった曹奐に禅譲を迫り、帝位に就く。
265年、ここに魏は、晋に取って代わられる。魏が漢から禅譲を受けてから45年後のことであった。
呉の滅亡
孫権の後継者
三国の中でも最も長く続いた呉だが、孫権の後継者を巡り孫一族の混迷が始まった。
まず長子の孫登が亡くなり、次子の孫和は太子となったのちに廃嫡されてしまったのだ。


2代目・孫亮
252年、孫権の没後に帝位を継いだのは、末子の孫亮だった。
まだ幼い孫亮は、諸葛瑾の子・恪に後見される。諸葛恪は、才気あるが、それ故に父から身を案じられていた。


孫峻の台頭
やがて諸葛恪は、文武にわたり大権を振るうようになる。そして、軍権を争っていた孫峻に上意討ちされてしまう。
孫家に連なる孫峻は、孫亮の補佐役に納まって実権を握った。


3代目・孫休
孫峻が病死すると、同族の孫綝が孫亮を補佐した。
孫亮は、勝手振る舞いをする孫綝を除こうとするが、事前に漏れて廃嫡される。
そして、孫権の六男・孫休が帝位を継いだ。


孫綝、孫休に誅される
孫綝は、孫休を天子に立てたことで、さらに威勢を振るい専横を募らせた。
さすがに孫休も耐えかね、孫綝に反意ありとして、酒宴に招いたところを捕らえ、斬罪に処した。


孫休、病に倒れる
内憂の続く呉に、蜀が魏に滅ぼされるという報せが届き、孫休は魏の脅威に備えた。
さらに、魏を奪った司馬炎が晋を興したとの報せが入る。孫休は憂虜の余り、病に倒れた。


4代目・孫皓
孫休が病没し、代わって天子に立てられたのは、孫権の次子・孫和の子の孫晧であった。
孫晧は、才識明断として推されたはずだったが、帝位に就くと暴君ぶりを発揮していく。


衰退する呉
次第に孫晧に諌言する者はいなくなり、呉の人心も離れていった。
陸遜の子である名将・陸抗が呉軍の防衛戦を支えていたものの、腐敗する朝廷には彼でも抗えなかった。


晋軍、討呉へ
一方の晋では、孫晧の非道を聞き及び、討呉の機会を窺っていた。
ついに司馬炎は、杜預を大都督に任じて南征軍を興す。晋軍は水陸両面から押し寄せ、建業の都へと迫った。


三国時代の終り
その威勢の前に、呉軍は戦わずして降る者が多く、ついに孫晧も劉禅に倣って降伏した。
280年、ここに呉は滅び、天下は晋のもとに統一され、三国の時代は幕を閉じた。




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