真・三國無双6攻略 武将辞典【魏】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将辞典【魏】

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目次

殷署(インショ)
?−?
魏の将。
趙儼とともに、しばしば羌族の反乱鎮圧に当たるが、韓遂馬超らの敗残兵を配下に多く抱えていたため反乱が絶えず、対応に苦慮した。
樊城の戦いで、朱蓋とともに援軍の一隊として遣わされ、徐晃ら他の援軍と合流して蜀軍と戦う。
樊城の包囲を破って曹仁を窮地から救った。
尹大目(インダイモク)
?−?
魏の臣。曹爽に信頼された。正始の変では、司馬懿の命で降伏を促す書状を曹爽に届けたが、司馬懿は約束を違えて曹爽を殺害。
司馬懿を恨むことになる。のちに文欽が反乱すると使者となり、司馬師の死期が近いので攻めよと伝えようとして失敗。
復讐は果たせなかった。正史によると大目は字で、名は不詳。
于禁(ウキン)
?−221
字は文則。
曹操配下の勇将。曹操の旗揚げ当時から付き従い各地を転戦。
曹操が張繍に敗れたとき、略奪を働いた夏侯惇配下の青州兵を鎮圧し、曹操から激賞される。
官渡の戦いでは後詰、赤壁の戦いでは水軍都督となる。
樊城の戦い関羽に敗れて降伏。孫権により魏に送還されたが、汚名を恥じて憤死した。
袁渙(エンカン)
?−?
字は曜卿。
曹操配下の臣。劉備が豫州刺史であった頃、その才を見出される。
その後、袁術呂布曹操と仕える主を変えたが、いずれの者からも敬意を持って扱われた。
特に曹操には内政について多くを助言し、民衆からも愛されたという。
閻柔(エンジュウ)
?−?
魏の将。後漢の上谷太守・閻志の弟。年少の頃、烏丸鮮卑に捕らわれるが逆に信頼を得る。
鮮卑の助力を得て公孫瓚と対抗した。官渡の戦い後は曹操に臣従し、曹操烏丸討伐に貢献。
曹操から実子の曹丕と同様に可愛がられ、曹丕が帝位に就くと度遼将軍になった。
王経(オウケイ)
?−260
字は彦緯。
魏の将。雍州刺史。姜維軍の前に立ちはだかり北進を阻むが敗れ、狄道城に逃れる。
陳泰らの援軍によって救出された。のち曹髦の側近となり、司馬昭誅殺の相談を受けたが、無謀であると制止する。
曹髦が諌めを聞かずに事を起こして殺害されると連座して処断された。
王広(オウコウ)
?−251
字は公淵。
魏の将。王淩の長男。王淩らが曹芳を廃し曹彪を擁立しようとするのを諌めるが、聞き入れられなかった。
王淩の計画は、同志であった令狐愚の部下・楊康の密告によって明らかとなる。
王淩が反乱を起こした際には、洛陽で尚書を務めていたため、司馬懿の依頼を受け、王淩に降伏を促した。
王粲(オウサン)
117−217
字は仲宣。
魏の臣。算術や文学に優れた鬼才で、蔡文姫の父・蔡邕に「自分など及びも付かぬ天才だ」と評された。
劉表の下に身を寄せていたが、劉表が病死すると、曹操に降伏せよと進言する蒯越に賛同。劉表の後継者・劉jを説得した。
王双(オウソウ)
?−228
字は子全。
魏の将。熊のごとき巨漢で、顔は黒く眼は黄色かったという。
万夫不当の猛将で、大きな得物や強弓を軽々と扱った。
曹叡の信任を得て虎威将軍に任ぜられ曹真指揮のもと、山に出兵した蜀軍と戦う。
しかし、諸葛亮の策にはまり、敗北した。
王忠(オウチュウ)
152−201
魏の将。劉岱とともに徐州の劉備を攻めるが、敗れて生け捕られる。
劉備曹操への二心がない旨を伝えることを条件に王忠を解放したが、これを聞いて激怒した曹操によって処刑されそうになる。
しかし、孔融が助命を願い出たため、官位剥奪のみの処罰で済んだ。
王昶(オウチョウ)
?−259
字は文舒。
魏の将。呉征伐を盛んに上奏し自ら何度も軍を率いて戦った。
胡遵毋丘倹と協力して三方から呉を攻め、江陵に迫ったが、胡遵諸葛亮らが東興の戦いで大敗したため撤退した。
正史では、同郷の王淩と親しく、兄と敬ったという。また、『治論』『兵書』『家訓』などの書も遺した。
王朗(オウロウ)
?−228
字は景興。
魏の臣。もと会稽太守。孫策に敗れ、曹操に仕えた。
曹丕の代に御史大夫となり、しぶる献帝を脅して禅譲を迫った。
渭水の戦いで諸葛亮に論戦を挑むが、一蹴されて憤死した。
何晏(カアン)
?−249
字は平叔。
魏の臣。曹爽の腹心として人事の権を濫用し、思うままに魏の政治を操る。
司馬懿を警戒してその兵馬の権を奪うよう曹爽に提案した。魏帝・曹芳の狩りに同行している間に、正始の変が起こる。
司馬懿によって捕えられ、処断された。正史によると、後漢の大将軍・何進の孫。
花永(カエイ)
?−?
魏の将。王経に属して、洮水で姜維の北伐軍と戦った。劉達らと組んで姜維を攻め立てる。
一旦は姜維を後退させたが、背水の陣を敷いて奮い立った蜀軍の勢いには敵わず、敗退した。
賈逵(カキ)
?−?
字は梁道。
魏の臣。曹彰曹丕と後継の座を争おうとするのを諌めた。
対呉戦では曹休の参謀として参陣し、周魴の偽りの投降を見抜き警告。敗走する曹休を助けた。
華歆(カキン)
157−231
字は子魚。
豫章太守だったが、呉の孫策に降る。のちに孫権の使者として魏に赴き、曹操配下となった。
演義では、伏后の髪をつかんで連行したり、献帝に禅譲を迫ったりと
非情に人物に描かれているが正史では清廉な人格者である。
賈詡(カク)
字は文和。
董卓李傕と仕えたのち、張繍の参謀となる。的確な献策により曹操軍を幾度となく破った。
その後、張繍ともども曹操に帰順し、魏軍の策士として重用された。
郭嘉(カクカ)
170−207
字は奉考。
曹操の軍師。際だった知略と判断力をもって厚く信任された。
呂布討伐や袁紹との戦いに貢献するが、北方平定時に病に冒され38歳で没する。
赤壁で敗戦した曹操は「郭嘉がいたなら」と嘆いたという。
郝昭(カクショウ)
?−229
字は伯道。
魏の将。正史では雑号将軍。若年より軍に身を投じ、各地で勲功をあげる。
のち都督・司馬懿の推挙で陳倉の守将に抜擢され蜀軍の北伐に当たった。
諸葛亮魏延の猛攻を巧みにしのぐが病に倒れる。のちに列侯に封ぜられた。
楽進(ガクシン)
?−218
字は文謙。
曹操配下の勇将。曹操の旗揚げ当時から付き従った。
各地を転戦して目覚しい活躍を見せ、張遼于禁徐晃張郃、と並び魏の五将軍として称賛された。
楽綝(ガクチン)
?−257
魏の将。楽進の子。曹真、続けて司馬懿の下で、数多の蜀軍との戦闘に参加。
張遼の子・張虎とともに諸葛亮に何度も敗れ、捕えられ、裸にされて顔に墨を塗られたこともある。
公孫淵の乱毋丘倹・文欽の乱では、味方の勝利に大いに貢献し、揚州刺史の地位を得た。
反乱を起こした諸葛誕に殺害される。
夏侯威(カコウイ)
?−?
字は季権。
魏の将。夏侯淵の次男。
司馬懿の推挙により取り立てられ、兄の夏侯覇とともに魏軍の先鋒を務め、北伐の諸葛亮軍と対峙した。
のち公孫淵討伐に従軍し、これを破るのに貢献する。
夏侯淵(カコウエン)
?−219
字は妙才。
魏の将。夏侯惇の従兄弟。曹操の挙兵から行動をともにし、軍の一翼を担った。
急襲を得意とした名将で、馬超を破るなど活躍する。また、武芸においても弓術に秀でていた。
夏侯恩(カコウオン)
?−208
曹操の側近。曹操が持っていた二本の宝剣「倚天」と「青紅」のうち、「青紅」を預かっていた。
長坂の戦いで略奪を働こうと出陣していたが、阿斗を探していた趙雲に討ち取られ、宝剣も奪われた。
夏侯和(カコウカ)
?−?
字は義権。
魏の将。夏侯淵の四男。弁舌さわやかで兵法にも長けていた。
司馬懿の推挙で対蜀戦に従軍し諸葛亮率いる蜀軍と対峙した。
上方谷では司馬懿に討って出るよう進言し、攻撃を任される。
夏侯恵(カコウケイ)
?−?
魏の将。夏侯淵の三男。幼少より文才に優れていた。
司馬懿の推挙で、弟の夏侯和とともに、行軍司馬として対蜀戦に従軍した。
のち、死んだはずの諸葛亮が現れたことに驚き、逃げ出す司馬懿を冷静に引き留めた。
夏侯献(カコウケン)
?−?
魏の将。公孫淵の叛意を見抜き使者を遣わすなどして釘を刺すべきと魏帝・曹叡に進言。のち領軍将軍に任ぜられる。
曹叡が危篤になった際、燕王・曹宇を後見として泰朗らとともに曹芳を補佐するよう遺命を受けたが曹爽を後見に擁す劉放・孫資らと対立し、更迭された。
夏侯玄(カコウゲン)
?−254
字は太初。
魏の臣。夏侯尚の子で曹爽の従兄弟。
司馬師の専横が激化すると、見かねた曹芳から、李豊張緝らと協力して司馬師を討つよう密勅を受ける。
直後に密書の所持を司馬師に摘発され計画が露見。断罪となった。
夏侯尚(カコウショウ)
?−225
字は伯仁。
魏の将。夏侯惇の甥。定軍山の戦いでは捕虜となり、陳式との人質交換で自国に戻った。
のち呉を三路から攻めた際、曹真とともに南郡を包囲したが、陸遜諸葛瑾の前に敗北した。
夏侯存(カコウソン)
?−219
魏の将。樊城の戦いでは、籠城を進言する満寵に対し、翟元とともに迎撃を主張した。
曹仁は意を決して関羽軍と城外で対峙したが、関羽の計略にはまって混乱、襄陽へ逃走する。
関羽と遭遇した夏侯存は、怒って斬りかかったが、一合で討たれた。
夏侯徳(カコウトク)
?−218
魏の将。夏侯惇の甥で、夏侯尚の兄。
天蕩山を守備したが、蜀将・厳顔に火を放たれて、消火作業に気をとられていたところを厳顔によって斬られた。
正史には登場しない。
夏侯惇(カコウトン)
?−220
字は元譲。
魏の将。曹操とは従兄弟。
呂布との戦いで左目に矢を受けるが父母からもらった物だからと、抜いた矢に刺さった目玉を食らったという。
その後も軍を率いて各地を転戦し、曹操の片腕として活躍した。
夏侯楙(カコウボウ)
?−?
字は子休。正史では子林。
魏の将。夏侯淵の子。夏侯惇の養子。
名将を父に持ち、曹操の娘・清河公主を妻に迎え、高い地位を得る。
諸葛亮率いる蜀軍の討伐に名乗りを上げるが、実力も経験も及ばず敗北。
のち胡へ逃げたまま帰参しなかった。
葛雍(カツヨウ)
?−255
魏の将。毋丘倹に従い、反乱軍に加わる。項城に籠もって司馬師の軍と戦った。
寿春が諸葛誕に落とされ、文欽が呉に亡命すると、項城は魏の大軍に三方から包囲される。
毋丘倹の命を受けてケ艾の軍に挑むが歯が立たず、瞬く間に討ち取られた。
韓瑛(カンエイ)
?−227
魏の将。韓徳の長男。槍の使い手。韓徳に付き従って夏侯楙に加勢した。
鳳鳴山で趙雲軍と対峙し、先頭切って趙雲と一騎討ちしたが、及びもつかず趙雲の槍で討ち取られる。
後を追って父・兄弟全員が命を落とすことになった。
桓嘉(カンカ)
?−252
魏の将。桓楷の子。楽安太守。胡遵諸葛誕らの下で、呉征伐に加わった。
東興の戦いでは、大軍を率いて東西の城を攻めたが、堅固な守りを崩せず一旦退いて陣を構える。
丁奉の軍勢が現れたが、寡兵と侮って備えを怠ったため、急襲されて韓綜とともに討ち取られた。
桓楷(カンカイ)
?−?
字は伯緒。
魏の臣。元は孫堅の配下。
孫堅劉表に敗れて戦死すると、遺体を劉表配下の黄祖の身柄と交換する使者の役目を務める。
その後、隠遁生活などを経て曹操に仕え、趙郡太守となる。後漢の献帝から魏の曹丕への禅譲に際しても活躍があった。
韓h(カンキ)
?−227
魏の将。韓徳の四男。日月刀という双刀の使い手。蜀の北伐に際して迎撃する夏侯楙の軍に加わる。
一騎討ちで長兄・韓瑛趙雲に討たれると、韓瑤韓瓊に助太刀して三対一で趙雲に挑んだが、真っ先に趙雲の槍を受け、落馬した。
毋丘倹(カンキュウケン)
?−255
字は仲恭。
魏の将。幽州刺史であった時、公孫淵が遼東で反乱を起こし、これを魏帝・曹叡に上奏した。曹叡の送った司馬懿の下で反乱鎮圧に活躍する。
のちに司馬師が魏帝・曹芳を廃すると、その専横に怒って文欽らとともに反乱を起こすも、司馬師率いる大軍に敗れる。
逃亡中、酒に酔ったところを殺害された。
毋丘秀(カンキュウシュウ)
?−?
魏の将。毋丘倹の弟。毋丘倹司馬師に対して反乱の兵を挙げたため、それに従って魏軍と戦う。
拠点の寿春を諸葛誕に落とされ、毋丘倹とともに項城に籠もった。盟友の文欽司馬師に敗れると、毋丘倹らと逃亡し、ケ艾の追撃を振り切る。
毋丘倹が殺害された後、毋丘倹の孫・毋丘重とともに呉に亡命した。
毋丘重(カンキュウチョウ)
?−?
魏の将。毋丘倹の孫。毋丘倹と行動をともにし、魏に対し反乱を起こした。
毋丘倹文欽の軍が司馬師に相次いで敗れると、毋丘倹の弟・毋丘秀とともに項城から脱出。
毋丘倹が殺害された後、魏軍の追手から逃れ、呉に亡命した。
毋丘甸(カンキュウデン)
?−255
字は子邦。
魏の将。毋丘倹の子。帝位簒奪にも等しい司馬師の専横を見逃してよいのかと父を説き、毋丘倹に反乱を決意させた。
正史では、毋丘倹文欽の反乱が起こると、家族とともに洛陽から脱出したが、追手を差し向けられ討たれたという。
韓瓊(カンケイ)
?−227
魏の将。韓徳の三男。方天戟の使い手。韓徳の下で兄弟とともに夏侯楙の軍に加わる。
鳳鳴山にて長兄・韓瑛趙雲に討ち取られ、続けて次兄・韓瑤が苦境に陥ると、韓hとともに趙雲に打ちかかった。
韓hが討たれると敵わぬと見て一旦離れ、矢で射掛けたがかわされ、逆に趙雲の放った矢に倒れる。
韓浩(カンコウ)
?−?
字は元嗣。魏の将。
河内太守に従って董卓と戦い、袁術に取り立てられて騎都尉となった。
評判を聞いた夏侯惇に請われて副将となる。
曹操屯田制の必要を進言して認められ、大いに信任された。
演義では長沙太守・韓玄の弟とされている。
韓綜(カンソウ)
?−252
魏の将。東興の戦いに参加し、奇襲を受けて惨敗。丁奉に討ち取られた。
正史によると、呉の将・韓当の子。元孫権の配下。韓当の死後、軍規を乱すなどの不行跡があった。
孫権は父の功績に免じて許そうとしたが、罰を恐れて魏に亡命する。以降、呉との戦線で活躍したという。
韓猛(カントク)
?−227
魏の将。西涼の大将。開山大斧という斧を得物とする。
武芸に秀でた四人の息子を引き連れ、夏侯楙への援軍となり、蜀の北伐を迎え撃った。
趙雲に四人の息子を倒され、激怒して趙雲に打ちかかるが、趙雲に槍で馬上から突き落とされた。
桓範(カンハン)
?−249
字は元則。
魏の臣。曹操の代から仕えた。曹芳の代に大司農となる。正始の変の際、洛陽を脱出し曹爽の元へと向かう。
司馬懿は「知恵袋を逃がした」と恐れたが、蒋済は「曹爽は桓範を使いこなせないから問題ない」と断じた。
曹爽一族が処刑されると、桓範も同調者として誅殺された。
韓瑤(カンヨウ)
?−227
魏の将。韓徳の次男。長刀の使い手。北伐を行う蜀軍を迎え撃つため、韓徳の下、夏侯楙らの軍と合流した。
兄・韓瑛が討ち取られると、激昂して趙雲に斬りかかるが歯が立たない。
弟・韓瓊らと三人がかりで趙雲を襲っても勝てなかった。弟たちが討たれた後、生け捕りになる。
牛金(ギュウキン)
?−?
曹仁配下の将。
南郡を守り周瑜率いる呉軍と戦う。
籠城を決める曹仁に「城を出て戦わないのは臆病だ」と言って出陣するが包囲されてしまう。
曹仁に救出されると反撃に転じて呉軍を退けるが、その後の戦いで周瑜の策にはまり敗退。
南郡は趙雲に奪われた。
許儀(キョギ)
?−263
魏の将。許褚の子。牙門将軍。
鍾会ケ艾が蜀討伐戦を起こした際、鍾会の先鋒となり進軍路を切り開く任務に就く。
南郡で交戦中、悪路に鍾会の乗馬が足を取られ、蜀の盧遜に殺されそうになる事件が起こる。
辛くも生還した鍾会によって、職務怠慢として殺された。
許褚(キョチョ)
?−?
字は仲康。魏の将。
身の丈八尺以上の大男で、典韋と互角に戦った実力を認められ、護衛役として曹操に付き従う。
普段は無口でぼんやりしているが戦場では虎のように勇猛に戦うことから「虎痴」の異名をとった。
句安(コウアン)
?−?
魏の将。元は蜀の将で、姜維の北伐に従軍した。李歆とともに麹山を守って魏軍と戦うも、包囲され水攻めに遭う。
援軍を求めたが、姜維郭淮の計略にかかって大敗し、万策尽きて魏に降った。
魏では鍾会の配下となって蜀攻略の軍に加わり、蜀軍を追撃した。
浩周(コウシュウ)
?−?
字は孔異。
魏の臣。徐州刺史。于禁の下で樊城を攻める蜀軍と戦う。漢水を使った関羽の水攻めにより、于禁ら魏軍の陣は壊滅。
于禁東里袞らとともに蜀軍の捕虜となった。関羽が呉軍に討たれた後、呉に身柄を移される。
曹丕が魏帝となると、和睦の使者として呉から魏に戻った。以降、曹丕に仕える。
高祚(コウソ)
?−?
魏の将。曹操に従って、漢中の張魯を攻略する。張衛楊任楊昴ら陽平関を守る張魯軍との戦いで活躍。
楊昴楊任を打ち破り、陽平関を陥落させた。敗走後も張衛は抵抗を続けたが、やがて張魯が降伏。漢中は曹操のものとなった。
呉綱(ゴコウ)
?−?
魏の臣。諸葛誕が魏に反旗を翻す際、呉に援軍を求める使者となる。同時に諸葛誕の子を人質として呉に送り届ける役目も担う。
呉の孫綝に援軍を約束させ諸葛誕の元へと報告に戻った。呉の援軍は約束どおり寿春に派遣されたが、投降する者が続出し、魏軍に大敗する。
胡質(コシツ)
?−?
魏の将。徐州刺史。諸葛誕の乱に際して石苞の推挙を受け、軍に加わる。石苞の指揮の下、遊軍として活躍した。
鍾会が、大量の牛馬や兵糧を放置して餌とし、餌に飛びついた呉軍を急襲すべしと策を立てると、それに協力し、成功に導いた。
胡脩(コシュウ)
?−219
魏の将。曹操から荊州刺史に任命される。司馬懿には、南郷太守・傅方と併せて「二人は性格に問題があり、役目を務められないだろう」と評されていた。
樊城の戦いで魏軍が不利になると、司馬懿り予測どおり蜀に寝返る。樊城へと救出に駆けつけた徐晃らと戦い、戦死した。
胡遵(コジュン)
?−256
魏の将。司馬懿の指揮の下、遼東の公孫淵の乱の鎮圧に活躍する。魏軍の先鋒として、公孫淵配下の卑衍楊祚を破ると、先頭を切って襄平に入った。
のち孫権の訃報を聞いて、毋丘倹王昶とともに呉征伐の兵を起こすが、東興の戦いで呉軍を寡兵と侮り、丁奉に奇襲されて惨敗した。
崔琰(サイエン)
?−216
字は李珪。
魏の臣。もとは袁紹に仕えたが、曹操が鄴を制圧すると臣下に加わる。
その際、戸籍を得て冀州の豊かさを喜ぶ曹操に民衆の苦労を説き、たしなめた。
曹操が魏公になると、尚書に任ぜられる。
しかし、曹操を魏王に立てる計画が持ち上がるとただ一人反対し、曹操を奸賊と罵りながら撲殺された。
蔡文姫(サイブンキ)
?−?
文姫は字で、名は琰。蔡邕の娘。博学な才女として知られ、音楽や詩歌にも造詣が深かった。
動乱の折、匈奴に連れ去られ、南匈奴の左賢王・劉豹の妻となる。
後に、その才を惜しんだ曹操が、財宝を対価として払って身柄を取り戻した。
蔡陽(サイヨウ)
?−201
魏の将。関羽曹操の下にいたころから関羽に疑念を抱き、再三曹操関羽討伐を進言するもすべて却下された。
のちに黄巾軍の残党を討伐中に、関羽に遭遇。強襲するも返り討ちに遭った。
正史では、袁紹に協力する劉備の軍勢と戦い、討ち取られたという。
崔諒(サイリョウ)
?−227
字は士文。
魏の将。安定太守。蜀の北伐の際、諸葛亮の策にかかり夏侯楙の救援に向かうが、待ち伏せていた蜀軍に包囲され降伏する。
のち楊陵の説得に命じられて南安に向かうが、楊陵と示し合わせ、諸葛亮を城内に誘い込んで殺害しようと画策。
諸葛亮に見抜かれ、張苞の手で討たれた。
史渙(シカン)
?−202
字は公劉。
曹操配下の将。袁紹軍との戦いに活躍する。官渡の戦いでは、徐晃に従って、兵糧を輸送する韓猛の軍を襲撃。多くの兵糧を焼失させた。
倉亭の戦いにて、袁尚と一騎討ちし、騙し討ちに遭って射殺される。
師纂(シサン)
?−264
魏の将。司馬昭の主簿からケ艾の司馬となり、蜀攻略に従事。綿竹の戦いでは、諸葛瞻張遵の首級を挙げる。
蜀の降伏後、ケ艾に益州刺史に任ぜられた。
正史によると、鍾会胡烈らと組んでケ艾に謀反の罪を着せたが、ケ艾田続に斬られたとき同時に殺害されたという。
史招(シショウ)
?−?
魏の将。毋丘倹の配下。毋丘倹に従って反乱に及ぶが、集まる将兵の少なさや、離れていく民心を見て不安を抱き、李続とともに司馬師の軍に降った。
これを見た司馬師は「もともと大半の将兵には叛意などない。文欽毋丘倹に仕方なく従っているだけだ。我らは戦わずして勝てるだろう」と語ったという。
司馬朗(シバロウ)
171−217
字は伯達。
曹操配下の将。司馬懿の兄。七人の弟がおり、「司馬八達」の一人。
魏の臣・崔琰には司馬懿に劣ると評されたものの、人格者として有名であった。
疫病が蔓延した際、薬をすべて配下に分け与え自分の分を残さなかったため、病に罹って死んだとされる。
朱蓋(シュガイ)
?−?
魏の将。袁術配下の将であった陳蘭らが反乱を起こした際に、張郃張遼楽進らとともにこれを鎮圧した。
樊城の戦いでは殷署とともに曹仁の救援に赴いて、徐晃らと協力して関羽率いる蜀軍と戦った。
呉からも援軍を得てついに関羽は撤退。樊城を守りきった。
朱光(シュコウ)
?−215
曹操配下の将。曹操が濡須から撤退するとき、皖城の守備を命じら盧江太守となる。
翌年、孫権に皖城を攻められると、城を堅守するが、寄せ手の甘寧に打ち倒され、呉の兵士に殺された。
正史では、殺されずに捕らえられ、のち送還されている。
朱讃(シュサン)
?−228
魏の将。曹真の下で、曹遵とともに先鋒を任され、蜀軍の北伐を迎撃。蜀軍の夜襲に備え、陣の裏の山間で伏兵となった。
闇の中を進む軍勢を発見し、味方の曹遵の軍勢と気付かずに攻撃を加え、同士討ちとなる。
その後、曹遵とともに蜀軍を追撃したが、趙雲に討ち取られた。
朱芳(シュホウ)
?−?
魏の将。雍州刺史の王経に従って、洮水で蜀軍と戦う。張明花永劉達とともに一斉に姜維に挑みかかり、逃げ出した姜維を追撃した。
しかし背水の陣で窮鼠となった蜀軍の将兵は反撃に転じて凄まじい戦力を発揮。
必死の防戦を試みるが、洮水に追い落とされる者が続出し、大敗を喫した。
朱霊(シュレイ)
?−?
字は文博。
魏の将。袁術討伐に向かう劉備に監軍として従うが、監視役を果たせずに帰陣した。
正史によると、もと袁紹の武将で、曹操に嫌われていたという。
荀ケ(ジュンイク)
163−212
字は文若。
魏の臣。「王佐の才」があると称された賢士。参謀として曹操の覇業を支えた。
曹操の魏公即位に反対し、憂悶の末に病死した。自殺したとの説もある。
荀攸(ジュンユウ)
157−214
字は公達。
曹操配下の臣。荀ケの甥。軍事面に長じ、戦場では多くの助言を行った。
赤壁の戦いには程cとともに参謀として従軍した。
焦彝(ショウイ)
?−?
魏の臣。諸葛誕の反乱に幕僚として加わった。魏軍に城を包囲されると、全軍での短気決戦を進言。
籠城策を採る諸葛誕の逆鱗に触れ、処断されかかる。直後に諸葛誕を見捨て、蒋班とともに魏軍へ投降した。
司馬昭はあえて二人を重用し、喧伝することで投降を呼び掛け、諸葛誕の軍勢を崩壊させた。
蒋幹(ショウカン)
?−?
字は子翼。
曹操配下の謀臣。周瑜の同窓で赤壁の戦いでは周瑜に降伏を勧めるため孫権の陣営を訪れる。
しかし、周瑜が偽造した蔡瑁と張允の裏切りの書状を曹操に渡して、曹操蔡瑁と張允を殺させてしまう。
再度周瑜を訪れた際も、周瑜の思惑通りに龐統曹操軍に誘い、連環の計を成功させる手助けをしてしまった。
上官子脩(ジョウカンシシュウ)
?−?
子脩は字か。
魏の臣。馬遵の配下。北伐で天水を攻める蜀軍と戦う。
馬遵諸葛亮の計略にかかって、部下の諌めも聞かず姜維を蜀に降らせてしまい、配下の尹賞梁緒らは裏切って天水に蜀軍を引き入れる。
馬遵夏侯楙とともに逃亡すると、行き場を失って蜀に投降した。
蒋済(ショウセイ)
?−249
字は子通。
魏の将。関羽が荊州で優位に立つと、曹操は許都への侵攻を恐れ遷都を考えるが、司馬懿とともにこれを説得して留めた。
曹操の死後は曹丕を補佐。のちに司馬懿の政変に加担した。
才人で、「瞳を見れば人がわかる」との論文を記したという。
焦触(ショウショク)
?−208
曹操配下の将。元は袁紹配下でその次男・袁煕に仕える。
袁紹の死後、曹操が攻め寄せると、勝ち目がないと見て張南とともに曹操に降り、袁尚袁煕の軍勢を攻撃した。
のち赤壁の戦いでは、張南とともに水上戦の経験があると申し出、曹操に兵を与えられて出撃。迎え撃った呉の将・韓当に討ち取られた。
焦伯(ショウハク)
?−?
魏の将。曹髦の護衛を務める。曹髦司馬昭の誅殺を決意すると、曹髦の命で三百の兵を集めた。
賈充に先手を打たれ、数千の兵が禁裏に迫ったため、防戦を試みるが敗北。曹髦とともに成済に斬られた。
蒋班(ショウハン)
?−?
魏の臣。諸葛誕の参謀。毋丘倹らが乱を起こすと、呉の孫峻が乱に乗じて攻め入ったため、呉軍と戦う。
敵将・留賛を追撃し討ち取った。のち乱を起こした諸葛誕に従って寿春の守備につく。
形勢逆転のため城外での決戦を主張したが採用されず、敗戦を悟って焦彝とともに魏に投降した。
徐晃(ジョコウ)
?−227
字は公明。
魏の将。楊奉配下だったが満寵に説得され曹操に帰順する。軍の主軸として各地を転戦した。
智勇に優れた将で、樊城で関羽軍に勝利した際、「孫武に匹敵する」と曹操から称えられた。魏の五将軍に数えられる。
徐庶(ジョショ)
?−?
字は元直。
司馬徽の門下。単福の名で劉備の軍師となり、曹仁の陣を破るなど才を見せる。
その才を欲した曹操は、徐庶の母の偽手紙で呼び出し、徐庶は劉備諸葛亮を推挙して許昌に赴く。
しかし、劉備に義理立てし、曹操に献策することはなかった。
徐商(ジョショウ)
?−?
曹操配下の将。徐晃の副将として関羽討伐に従軍する。
呂蒙が荊州を奪ったのち、呂建とともに関羽軍を攻撃し、樊城の包囲を解いた。
徐宣(ジョセン)
?−236
字は宝堅。
魏の臣。賊討伐に協力し、曹操に取り立てられる。曹操死後、曹丕とともに広陵に向かう際、曹丕の船が横倒しになった。
船団の最後尾から真っ先に駆けつけて曹丕を救い、賞賛された。曹叡にも重臣として仕え、曹叡が留守の際には洛陽の政務を代行した。
甄姫(シンキ)
182−221
傾国の美女。肌は玉のごとく、美貌は花のごとし、と讃えられる。
袁紹の次男・袁煕の妻だったが、曹操が冀州を攻め落とした際に、真っ先に乗り込んだ息子の曹丕が見初めて妻にした。
申儀(シンギ)
?−?
魏の将。申耽の弟。一時は兄とともに蜀に降っていたが、
孟達関羽敗死の責任を問われたため、孟達と共謀して魏に投降する。
のち、孟達が再び蜀に内通すると、司馬懿に急報し、孟達に討たせた。
任峻(ジンシュン)
?−204
字は伯達。
魏の将。曹操が献帝を許昌に迎え、朝廷の後ろ楯を得ると、典農中郎将に任ぜられた。
官渡の戦いでは、補給部隊を統率し、袁紹からの猛攻を防いだ。正史では、屯田の実施に際して功を上げたという。
辛敞(シンショウ)
?−?
字は泰雍。
魏の将。辛眦の長男。正始の変の際、司馬懿の挙兵を聞いて去就に迷うが、姉・辛憲英の助言を得て、魯芝とともに曹爽を助けることに決める。
司馬懿による洛陽の包囲を寡兵で突破し、魏帝・曹芳の元へと逃走した。曹爽が誅された後、忠義者として赦免され、復職する。
申耽(シンタン)
?−?
字は義挙。
漢中攻防戦で曹操が敗れたため蜀に降った。孟達関羽敗死の責任を問われると、孟達と共謀し、義に投降する。
のち、孟達が蜀に内通したのを司馬懿に急報し、孟達を討った。
辛眦(シンピ)
?−?
字は佐治。
魏の臣。辛評の弟。袁氏に仕えて袁譚を補佐し、袁氏滅亡後は曹操配下となる。
五丈原で諸葛亮と対峙中の魏軍に勅詔を届け出撃にはやる将兵を抑えた。
泰朗(シンロウ)
?−?
字は元明。
魏の将。司馬懿配下の前将軍。鄭文の偽投降を成功させるため弟・泰明を犠牲にしてその首を諸葛亮の元に持参させ、泰明の首だと偽らせた。
諸葛亮に見破られて、鄭文は偽の書状を書かされる。偽書に誘い出されて夜襲をかけたが、蜀軍の待ち伏せに遭い、敗死した。
成何(セイカ)
?−219
魏の将。樊城の戦いの際、龐徳の下で蜀軍と戦う。長雨で漢水が増水するのを心配し、陣の位置を変えるよう進言するが時遅く、その晩に関羽の計略で魏軍の陣は水没。蜀軍の夜襲に遭った。
于禁ら味方が次々と降伏する中、龐徳に従って最後まで奮闘し、関羽の放った矢を受けて水中に没した。
薛喬(セツキョウ)
?−?
魏の将。228年、周魴の謀略により曹休が呉を攻めたとき、曹休の指示で石亭の北に伏兵する。
しかし、陸遜に裏をかかれ呉軍の攻撃にあって敗れ、全jに斬られた。
正史では越騎校尉として喪中の曹休に、曹丕の勅詔を届けている。
薛則(セツソク)
?−227
魏の将。蜀の北伐に際し夏侯楙の配下として迎撃する。趙雲を生け捕るという程武の策に従って、董禧とともに鳳鳴山に潜んだ。
三万騎を率いて趙雲を包囲し追い詰めたが、あと一歩というところで現れた蜀の援軍に敗れ、張苞に討ち取られた。
薛悌(セツテイ)
?−?
字は考威。
魏の臣。曹操は冀州を平定すると、薛悌を東平の王国とともに左右の長史に任じた。
のち曹操の使者として、合肥を守る張遼孫権への対応策の入った手箱を届けた。
正史によると、兗州従事。泰山太守、護軍などを歴任している。
曹安民(ソウアンミン)
?−197
魏の将。曹操の甥。宛の張繍曹操軍を迎え入れて降伏すると張済の妻であった鄒氏に目を付け、曹操の閨房に入れようと画策する。
張繍曹操の油断を見て取り、賈詡の策を入れて曹操軍を深夜に急襲、甚大な被害を与えた。脱出を図るが、追撃を受け戦死する。
曹宇(ソウウ)
?−?
字は彭祖。
曹丕の子で、燕王。病床の曹叡から、大将軍となり、帝位を受け継ぐ曹芳の補佐に当たるよう頼まれるが、固辞した。
正史によると曹宇は、曹操の子で曹丕の異母兄弟にあたる。
妻は張魯の娘で、子の曹奐は魏最後の皇帝となった。
曹叡(ソウエイ)
205−239
字は元仲。
曹丕甄姫の子。魏の二代皇帝。曹真司馬懿らを派遣して蜀の北伐軍に対抗させた。
蜀と呉が共同で魏に攻め込むと、自らも出陣して孫権を破った。
蜀の諸葛亮が死亡すると変心し、宮殿増築など国力を浪費した末に病で夭折した。
曹義(ソウギ)
?−249
魏の臣。曹真の次男。兄・曹爽司馬懿を名誉職に追いやり、一族や側近で要職を独占した。
それら横暴な振る舞いを何度も諌めるが、曹爽は聞く耳を持たなかった。正始の変で、降伏した曹爽に連座して処断される。
正史では、司馬懿との徹底抗戦を主張したが、受け入れられなかったという。
曹休(ソウキュウ)
?−228
字は文烈。
魏の将。曹操の甥。弓の名手で、曹操の没後も曹丕曹叡と歴任した。
対呉戦で周魴の計略にかかり、大敗を喫する。その心痛から病にかかって死亡した。
曹訓(ソウクン)
?−249
魏の臣。曹真の三男。曹真の死後、長兄・曹爽らとともに魏の宮中において実権を握り、近衛軍を預かる。
魏帝・曹芳の狩りに兄弟揃って同行中、司馬懿に蜂起された。洛陽を占拠されて配下の近衛兵の指揮権も奪われ曹爽らともに降伏。
為す術もなく処断された。
曹洪(ソウコウ)
?−232
魏の将。曹操の従兄弟。曹仁とともに、曹操の挙兵に参じた。
魏軍の中核として各地を転戦し、活躍する。
曹丕の即位後は、衛将軍、驃騎将軍を歴任した。
曹昴(ソウコウ)
?−197
字は子脩。
曹操の長男。宛の張繍曹操と対立後、一旦は降伏して曹操を宛に招き入れておき、突如牙を剥いて曹操に夜襲を仕掛けた。
曹操は手痛い損害を被って、執拗な追撃を受け、窮地に陥る。曹操が乗馬を失ったため、自らの馬を差し出して脱出させ、殿を務めて壮絶な戦死を遂げた。
曹純(ソウジュン)
?−210
字は子和。
曹仁の弟。曹操軍の精鋭騎兵部隊「虎豹騎」を率いる。
赤壁の戦い後、曹仁とともに南郡を守り周瑜の攻勢を幾度か退ける。
しかし、周瑜の偽葬儀にだまされ、誘き出されて撃破された。
その間に南郡は劉備軍の趙雲に奪われた。
正史によると学問好きで学者を敬愛したという。
曹遵(ソウジュン)
?−228
魏の将。曹真の従兄弟。蜀軍が天水を落として勢いに乗ると、これを迎撃するため曹真の指揮下に加わる。
蜀軍の夜襲に備えて朱讃とともに陣の裏側に潜むが、諸葛亮に裏をかかれ、同士討ちして大敗した。
蜀軍が羌族との戦闘後に後退し始めると、敗走していると思い込んで追撃し、魏延に斬られた。
曹彰(ソウショウ)
?−223
字は子文。
曹操の三男(母は卞氏)。武勇に優れ、素手で猛獣を倒したというほどの猛将。
「黄鬚児」の異名を持つ。漢中争奪戦で、敵軍に追われる父・曹操を救った。
曹植(ソウショク)
192−232
字は子健。
曹操の四男。曹丕と後継者の座を争った。
曹操が好むように振る舞うが、楊脩の入れ知恵だと発覚すると疎まれ、後継の座を逸した。
曹操死後、曹丕に殺されそうになるが、「七歩の詩」を詠み、死を免れる。
詩文に才能があり、「没神の賊」など多くの作品を世に残した。
曹真(ソウシン)
?−231
字は子丹。
魏の将。曹操の甥。曹丕に後事を託される。
大都督として蜀の北伐軍相手に戦うが、諸葛亮の策の前に連敗した。
さらに挑発の手紙を受け取り、憤死する。
曹仁(ソウジン)
168−223
字は子孝。
魏の将。曹操の従兄弟。豪胆にして武芸百般に通じ弓術、馬術を得意とした。
赤壁の戦いののちは荊州を守備する。
樊城で関羽軍に包囲されて窮地に陥るが、堅く守ってこれを凌いだ。
信任厚く、曹丕の代には魏の大司馬まで務めた。
曹操(ソウソウ)
155−220
字は孟徳。
魏の王。「乱世の奸雄」と評される。兵法書を著するなど、文武に通じていた。
黄巾の乱に際し、討伐軍に参加して頭角を現す。
董卓の滅亡後、混乱する中原に着々と地盤を固め、大国・魏の礎を築き上げた。
曹爽(ソウソウ)
?−249
字は昭伯。
魏の将。曹真の長男。曹叡に重用され、大将軍となる。側近の讒言を受けて司馬懿を妬み、わざと名誉職に就けて兵馬の権を奪った。
司馬懿が病気と偽って一線を退いたため、専横政治を行い、断行した蜀征伐に大敗するなど急激に人心を失う。
正始の変で、司馬懿に捕らえられ、死罪となった。
曹泰(ソウタイ)
?−?
魏の将。曹仁の子。濡須口の戦いに参加する。曹仁の策で、三手に分かれた一軍を任される。
呉の将・朱桓の計略にかかり、濡須城の攻略に失敗して大敗。常雕を討たれ、王双を生け捕られて魏軍は敗走した。
曹仁の死後はその後を継ぎ、鎮東将軍にまで上りつめた。
曹珍(ソウチン)
?−?
魏の将。毋丘倹文欽が反乱を起こすと、司馬師の下で鎮圧に活躍した。文欽文鴦が形勢不利を悟って敗走し始めると、文欽を追撃する。
呉の孫峻文欽を迎え入れようと丁奉呂拠の軍を差し向けたため戦闘となり文欽らを取り逃がした。
曹丕(ソウヒ)
187−226
字は子桓。曹操の次男。魏の初代皇帝。文武に優れ、若年より曹操に従って戦う。
袁紹討伐戦では傾国の美女と称えられた甄姫を保護し妻とした。
曹操の死後、魏の王位を引き継ぐと、献帝から禅譲を受け、帝位を得る。
曹髦(ソウボウ)
241−260
字は彦士。
曹霖の子で、曹丕の孫。魏の四代皇帝。若くして才覚に優れ、よく家臣と議論し、論破したという。諸葛誕の乱の際には親征を行った。
司馬昭の専横に怒って少数で挙兵したが、側近の密告に遭って失敗する。賈充の命を受けた成済に斬られた。
孫謙(ソンケン)
?−?
魏の将。曹爽配下。潘拳の副将として曹爽の屋敷を警護する。
正始の変の際、武器庫に向かう司馬懿軍を潘拳が攻撃しようとしたため、
司馬懿が兵を挙げるのだから、国家の大事であるはず。みだりに攻撃してはどうなるかわからない」と論し、攻撃をやめさせた。
孫礼(ソンレイ)
?−?
字は徳達。
魏の将。大石山の巻狩りの際に、曹叡の前に踊り出た虎を斬り殺した功がある。
曹真司馬懿の配下として対蜀戦で活躍した。
戴陵(タイリョウ)
?−?
魏の将。張郃の副将。北伐に出た諸葛亮の軍と戦った。蜀軍に包囲されて張郃に救われ、追撃にも失敗する。
のち、諸葛亮の計略にかかって捕虜となり、顔に墨を塗られて送り返された。
張允(チョウイン)
?−208
曹操配下の将。元は劉表配下。
劉表の死後、蔡瑁とともに劉jを後継ぎに据え、南下してきた曹操に降伏する。
その際、曹操軍に追われた劉備軍と民衆に矢を射かけ、襄陽から追い払っている。
のち曹操の命で水軍の鍛錬・指揮を行うが、周瑜の策によって曹操に内通を疑われ、殺害される。
張球(チョウキュウ)
?−?
魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応して呉の陸遜が合肥に来襲した際、曹叡の指揮下で迎撃に当たる。
巣湖口にある呉の水塞に満寵とともに夜襲を仕掛け、諸葛瑾の水軍を大破。
これにより陸遜は撤退を余儀なくされ、魏は諸葛亮の北伐軍との戦いに専念できた。
趙儼(チョウゲン)
170−245
字は伯然。
魏の将。樊城の戦いでは徐晃の参謀として関羽の軍を破るも、「関羽を殺しては蜀との間に禍根が残る」と追撃を止めた。
正史では、名参謀として魏軍を支える。于禁楽進張遼張郃ら猛将をまとめ、軍の規律を保ったという。
要職を歴任、司空の地位にまで上りつめた。
張虎(チョウコ)
?−?
魏の将。張遼の子。諸葛亮が第二次北伐を起こした際、曹真の先鋒となり、副先鋒の楽綝とともに前線を守った。
その後も相次ぐ北伐に対し、曹真司馬懿の指揮下で、しばしば楽綝と協力して迎撃に当たる。
特に第五次北伐では呉班を射殺する戦果を上げた。
諸葛亮死後、遼東で公孫淵が反乱を起こすと司馬懿に従い鎮圧に当たった。
張郃(チョウコウ)
?−231
字は儁乂。
魏の将。袁紹配下であったが、郭図の讒言により窮地に陥り、曹操に帰順した。
主に蜀との戦いで活躍し、諸葛亮にも一目置かれる。街亭の戦いでは馬謖を包囲して撃破した。
魏の五将軍に数えられる。
張緝(チョウシュウ)
?−254
字は敬仲。
魏の臣。呉で権勢を誇っていた諸葛恪が近く滅びると司馬師に予言し、その通りとなった。
のち夏侯玄らとともに、曹芳から司馬師誅殺の命を受ける。しかし事が露見して捕らえられ処断された。
のち司馬師の枕頭に現れ、司馬師を悩ませたという。
張南(チョウナン)
?−208
曹操配下の将。元は袁紹配下でその次男・袁煕に仕えたが、見限って曹操に降る。
長坂の戦いでは、劉備の嫡子・阿斗を抱いて逃げる趙雲を、諸将らと包囲するが、突破された。
のち赤壁の戦いで、曹操に水軍で出撃を志願。焦触とともに呉軍を攻撃するが、周泰に討たれる。
張普(チョウフ)
?−228
魏の将。曹休配下として石亭に出陣。
先鋒を命じられ数千の兵を率いて、呉の徐盛と対峙するがかなわず引き下がる。
のち石亭の南に二万の軍で伏兵したところ、呉の朱桓の夜襲に遭い、一刀のもとに斬り落とされた。
張明(チョウメイ)
?−?
魏の将。王経の指揮下。姜維の第三次北伐の際、花永朱芳らとともに蜀軍を迎撃した。
姜維が逃走する構えを見せたため追撃したが、蜀軍は機を見て反撃に転じる。蜀軍の勢いを支えきれずに味方は総崩れとなり、壊走した。
張遼(チョウリョウ)
169−224
字は文遠。
魏の将。はじめ呂布配下の将として各地を転戦した。呂布の敗死後、曹操配下となる。
合肥を守備した際、わずか八百の兵で十万の呉軍を撃退し、泣く子も黙ると恐れられた。
魏の五将軍の筆頭に挙げられる。
陳矯(チンキョウ)
?−237
字は李弼。魏の臣。赤壁の戦いの後、曹仁とともに江陵を守る。
攻め寄せた周瑜を迎撃し、周瑜戦死の偽報に乗せられて曹仁が出陣している間、城の守りを任されたが
諸葛亮の命を受けた趙雲に城を奪われ、敗走した。
曹操の死後勅詔を待たずに魏王に即位するよう曹丕に勧め、華歆王朗らとともに献帝に禅譲を迫った。
陳羣(チングン)
?−236
字は長文。
魏の臣。陳泰の父。曹操臨終の際、曹洪賈詡司馬懿らとともに後事を託される。
曹操が死ぬと献帝に譲位を迫った。
曹丕の死後は司空となって、曹真司馬懿とともに曹叡を補佐。
正史によると、祖父の陳寔、父の陳紀、叔父の陳ェは皆後漢の名臣で、陳羣も「九品中正法」を制定し魏の任官制度を整えた。
陳造(チンゾウ)
?−228
魏の将。街亭の戦いに敗れた蜀軍が撤退を始めると、曹真に追撃の先鋒を命じられる。
追撃は、諸葛亮に読まれており、姜維馬岱らの伏兵に遭って、一瞬で蜀軍に包囲された。
曹真は慌てて撤退を命じたが、間に合わず馬岱に討ち取られた。
陳泰(チンタイ)
210−259
字は玄伯。
魏の将。陳羣の子。蜀に寝返った夏侯覇を攻めて勝利。その後も郭淮とともに蜀の姜維の北伐を巧みに防いだ。
また、狄道の防戦でケ艾の才能を高く評価し「忘年の交わり」を結ぶ。
司馬昭らの陰謀で曹髦が殺害されると、賈充を処罰するよう進言したが却下された。
程c(テイイク)
141−220
字は仲徳。
曹操配下の謀臣。もとの名は「立」であったが、日輪を捧げ持つ夢を見たことから名を改めた。
身の丈八尺三寸の偉丈夫。苟ケの推挙で曹操に仕え、軍師として活躍する。
丁謐(テイヒツ)
?−249
字は彦靖。
魏の臣。曹爽に取り立てられて側近となり、何晏らとともに専横の限りを尽くすが、人事を巡っては何度も何晏と対立した。
司馬懿を名誉職に就け中枢から遠ざけるよう曹爽に進言する。
魏帝・曹芳に従って狩りに赴いていた際、司馬懿らが蜂起して洛陽を占拠。
曹爽らとともに処断された。
程武(テイブ)
?−?
魏の将。程cの子。夏侯楙の下で、北伐を行う蜀軍を迎え撃った。
緒戦で蜀の先鋒・趙雲に苦戦させられたため、伏兵で趙雲を生け捕る策を進言する。
趙雲をあと一歩まで追い詰めたが、蜀の援軍に敗れた。曹操の名参謀であった程cや兄・程暁に才覚では及ばなかったという。
鄭文(テイブン)
?−234
魏の将。司馬懿に従って諸葛亮の北伐を迎え撃った。蜀軍に偽りの投降をし、偽者を使って魏の将・秦朗を討ち取ったように装ったが見抜かれる。
魏軍あての偽の書状を書かされ、魏軍が撤退したのち処断された。
翟元(テキゲン)
?−219
魏の将。曹仁の副将として樊城を守る。関羽率いる蜀軍が樊城に攻め寄せると、城外での野戦を主張する。
参謀の満寵は籠城を進言したが、曹仁は出撃策を採った。蜀軍の廖化を深追いして伏兵に包囲され混乱。
夏侯存関羽に討ち取られたのを見て逃走するが、関平に一撃で斬られた。
典韋(テンイ)
?−197
魏の将。いにしえの豪傑、「悪来」の異名を持つ怪力の巨漢。
曹操の護衛としてつねにその傍らにあった。
宛城で張繍の夜襲を受けた際、押し寄せる敵兵の前に立ちはだかり、命を懸けて曹操を逃がした。
典満(テンマン)
?−?
曹操配下の将。典韋の子。
張繍の襲撃を受けて父・典韋曹操を守って戦死すると、側近として曹操の館に引き取られた。
正史によると、父の戦死後、郎中に任ぜられ、曹丕が王位に就くと都尉に任ぜられている。
田豫(デンヨ)
?−?
字は国譲。
魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応し呉が魏に攻め寄せた際、襄陽の守りに加勢した。
正史によると、劉備公孫瓚と仕え、公孫瓚滅亡後には曹操に仕官。
曹彰烏丸討伐に参加し、曹丕即位後も北方異民族の防衛に当たり、骨進を斬って威名を轟かせた。
曹芳の代には并州刺史、衛尉を歴任した。
董禧(トウキ)
?−227
魏の将。蜀軍の北伐を迎え撃つ夏侯楙の配下となる。趙雲を生け捕るという計略に薛則とともに従い、伏兵となって趙雲に襲い掛かった。
山上の夏侯楙の指揮の下、趙雲を三万騎の兵で包囲したが、突如現れた蜀の援軍に敗れ、関興に斬られた。
董衝(トウコウ)
?−219
魏の将。樊城の曹仁を救出するため、龐徳らとともに出陣し、関羽と戦う。
龐徳の旧主・馬超が蜀軍にいるため、龐徳を先鋒にするのは危険ではと進言するが、曹操に退けられた。
関羽の水攻めで追いつめられ、董超とともに龐徳に降伏を勧めたが、龐徳に討たれる。
董昭(トウショウ)
156−236
字は公仁。
魏の臣。袁紹、張楊に仕えた後献帝に議郎として仕えた。
曹操が献帝を擁すると許への遷都を進言。のち曹操に魏公の位を賜るよう上奏した。
曹仁関羽に包囲されると、孫権の荊州侵攻を関羽に知らせ、後退する関羽を背後から討つ策を提案する。
曹丕の代に大鴻臚となり、曹叡の代には司徒に就任した。
ケ忠(トウチュウ)
?−264
魏の将。ケ艾の子。父に従って蜀軍と戦う。鍾会と父の対立が激化すると、私怨を捨てるように父を論している。
蜀が滅亡すると、鍾会らの讒言により謀反の嫌疑をかけられ監軍の衛瓘に捕らえられる。
鍾会らが反乱に失敗して殺害されると、衛瓘の命を受けた田続によって洛陽への移送中、殺害された。
董超(トウチョウ)
?−219
魏の将。樊城の曹仁を救出するため、龐徳・董衝于禁らとともに出陣し、関羽と戦う。
一時は龐徳の奮戦で関羽を窮地に立たせたが、関羽の水攻めで追いつめられた。
董衝とともに龐徳に降伏を勧めるが、怒った龐徳に、董衝ともとも討たれた。
ケ颺(トウヨウ)
?−249
字は玄茂。
魏の臣。曹爽の腹心。曹爽が実権を握ると尚書となる。管輅を呼んで未来を占わせると、近々命を失うと告げられた。
予言は的中し、司馬懿が政変を起こして兵権を取り戻すと、捕らえられ、斬られる。
東里袞(トウリコン)
?−?
魏の将。南陽太守。樊城の戦い関羽に敗れ、于禁浩周とともに蜀軍の捕虜になる。
関羽が呉軍に討たれると、身柄を呉に移された。
のち浩周とともに魏に戻るが、呉は魏に臣従するかと曹丕に問われ、決して屈しないだろうと答えた。
杜襲(トシュウ)
?−?
字は子緒。
魏の将。夏侯淵の副将として定軍山の戦いに赴くが、黄忠に攻められ、陣を捨て逃亡。夏侯淵は討ち取られた。
正史においては、曹操が漢中の張魯を討伐するのに同行し、以降漢中の軍を監督。
夏侯淵が討ち取られた際には独断で張郃を後任に当て、軍が混乱するのを防いだ。
馬遵(バジュン)
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魏の将。天水太守。蜀軍と戦う夏侯楙から救援要請が来た際、敵の策だと見抜いた姜維を信用し、出陣させた。
しかし諸葛亮が流した偽情報に乗り、姜維に疑いを抱いたため、姜維を本当に蜀に降らせてしまう結果となる。
城中の他の配下にも内応され、なすすべ無く夏侯楙とともに逃亡した。
潘拳(ハンキョ)
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魏の将。曹爽の配下。正始の変の際、副将の孫謙とともに曹爽の屋敷を警護していた。
蜂起した司馬懿軍の動きを察知し、武器庫に向かわせまいとして矢を射かける。
孫謙に制止されて攻撃をやめたため、司馬懿は武器の確保に成功し、洛陽を占拠できた。
藩遂(ハンスイ)
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魏の将。蜀の北伐を迎え撃った夏侯楙の配下。程武の計略を成功させるため、趙雲と一騎討ちを行い、負けたふりをして逃走する。
追いすがる趙雲を味方の将八人で足止めし、伏兵に合図して趙雲を包囲した。蜀の援軍により包囲は打ち破られ、計略は失敗に終わった。
馮楷(フウカイ)
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曹操の配下。曹操劉表の治める荊州を攻略した際、趙儼の配下として張遼朱霊于禁らとともに戦い勝利に貢献。
その後も馬騰の仇討ちに燃える馬超との戦いや、漢中侵攻戦などに従軍し活躍した。
傅方(フホウ)
?−219
魏の将。南郷太守の地位を得るが、司馬懿には「傲慢で辺境の守備は務まらない」と評されている。
樊城が関羽率いる蜀軍に包囲されると、司馬懿の言葉どおり蜀へ寝返った。
同じく蜀に降った胡脩とともに樊城の包囲に加わるが、魏の援軍の徐晃らに敗れ、戦死した。
文鴦(ブンオウ)
238−291
魏の将。文欽の長男。身の丈八尺の大男。槍と鉄鞭を使い、武勇の誉れが高かった。
毋丘倹とともに文欽が反乱すると、寡兵で魏軍を散々に撃破し、長坂での趙雲の活躍と並び称された。
のちに呉に亡命し、諸葛誕の反乱には文欽とともに呉軍として協力。文欽が戦略を巡り諸葛誕に殺されると魏に降った。
鴦は幼名で、本名は文淑。
文欽(ブンキン)
?−257
字は仲若。魏の将。楊州刺史。司馬師による曹芳廃立に怒り、反乱を起こす。
司馬師の陣を急襲しようとしたが道に迷い、敗れて呉の孫峻を頼る。
のちに諸葛誕が魏に反乱すると呉将として救援するが、籠城策を巡り諸葛誕と対立し斬られた。
文虎(ブンコ)
?−291
文欽の次男。諸葛誕の乱が起こると、父兄とともに呉軍に加勢し、魏軍と戦う。
味方であるはずの諸葛誕文欽が戦術を巡って激しく対立し、ついに文欽が殺害されるに至ると、兄・文鴦とともに魏に降伏した。
司馬昭から爵位を授かり、晋の代まで生き延びた。正史では、政変に巻き込まれ、兄と一緒に謀殺されたという。
文聘(ブンペイ)
?−?
字は仲業。
魏の将。もと劉表配下。長坂橋の戦い赤壁の戦いなどに参加し、曹操死後も曹丕に仕えた。
曹真張遼らとともに呉討伐に向かうが、呉の徐盛の奇策にかかって大敗する。
正史では、のちに後将軍となり、新野候に封ぜられたとある。
卞喜(ベンキ)
?−200
黄巾賊。流星鎚の使い手。のち曹操に仕えて、沂水関を守る。
劉備のもとへ赴く関羽を謀殺しようと鎮国寺に兵を伏せて待ち構えた。
しかし、寺の僧侶である普浄が合図したため、見破られて逆に関羽に斬られる。
満寵(マンチョウ)
?−242
字は伯寧。
魏の臣。楊奉の配下だった徐晃を説得し、曹操の配下に加えた。
樊城が関羽の軍に囲まれた際は、城を死守するよう曹仁に進言。関羽軍の撃退に成功する。
楊偉(ヨウイ)
?−?
字は世英。
魏の臣。曹爽の配下。蜀軍との戦闘に参軍として従う。費禕王平に攻められて苦戦すると、撤退を進言した。
天文に明るく太陰太陽暦である「景初暦」を定めた。
楊脩(ヨウシュウ)
186−219
字は徳祖。
魏の臣。後漢の大尉・楊彪の子で、袁術の甥にあたる。
漢中攻防戦曹操が発した「鶏肋」という言葉を撤退命令と解釈し、勝手に撤退準備を始めたため、処刑された。
曹操が楊脩の才を警戒したためともいう。
楊綜(ヨウソウ)
?−?
字は初伯。
魏の臣。曹爽の主簿を務める。魏帝・曹芳と曹爽が狩りに出かけ、留守中に司馬懿が洛陽を包囲し占拠。正始の変が起こる。
曹爽司馬懿からの書状を信じ兵権の証である印綬を返そうとしたので、「兵権を返せば必ず殺される」と諌めたが聞き入れられなかった。
楊阜(ヨウフ)
?−?
字は義山。
魏の将。韋康を涼州の刺史に推挙し、その配下となる。馬超の猛攻を受け一時的に軍門に降るが、韋康は処断された。
機を見て、趙昴らとともに馬超に反旗を翻し、夏侯淵らの来援を得て勝利する。曹操より関内候に封じられた。
楊陵(ヨウリョウ)
?−227
魏の将。南安太守。北伐を敢行する蜀軍と対峙した。蜀軍に降伏した崔諒が、帰順を勧めるとの名目で城に来ると、諸葛亮を殺害しようと二人で計画する。
偽りの降伏をして城内に蜀軍を引き入れたが、計画は見抜かれており、関興に斬られた。
李乾(リケン)
?−?
魏の将。李典の叔父。数千の食客を引き連れて曹操軍に加わり武勲を立てた。
呂布との戦いの際、呂布配下の薛蘭、李封から降伏勧告を受けたが、断固として拒否し、殺害された。
李勝(リショウ)
?−249
字は公昭。
魏の臣。曹爽の側近。政敵である司馬懿が病を理由に職を辞すと、曹爽の意向を受けて容態を探りに赴くが、司馬懿の演技を見抜けず先は短いと錯誤。
油断した曹爽が巻狩りに出た隙に、司馬懿は兵権奪取に成功する。のちに捕らえられ、斬られた。
李続(リショク)
?−?
魏の将。毋丘倹の配下。史招とともに淮北を治める。反乱した毋丘倹らにはじめは従ったが、司馬師率いる魏の大軍が押し寄せると早々に降伏し、淮北の地を明け渡した。
これにならって投降する将兵が相次ぎ、文欽毋丘倹の陣営は著しく戦力を失うことになった。
李典(リテン)
174−209
字は曼成。
曹操配下の武将。旗揚げの頃から曹操に従った歴戦の勇士。
学問好きで、性格は慎重かつ冷静、同僚の暴走を度々抑えた。張遼楽進とともに合肥を守備する。
李通(リトウ)
168−211
字は文達。
魏の将。曹操に仕えて汝南を守っていた。曹操張繍に敗れたとき応援に駆けつけ、その功績により健功候に封じられる。
のちに馬超が攻めてきた際、これに立ち向かうが、数合で討ち取られた。
李豊(リホウ)
?−254
字は安国。
魏の臣。魏帝・曹芳から召集を受け、夏侯玄張緝らとともに司馬師の殺害を企てる。
しかしその帰途、血の密詔を司馬師に発見され三族皆殺しにされた。李豊は死ぬまで司馬師を罵倒し続けたという。
劉延(リュウエン)
?−?
東郡の太守。官渡の戦いでは、袁紹配下の顔良が白馬に向かっていることを曹操に知らせ、
当時曹操に降っていた関羽顔良を討たせる。
その後、劉備の消息が知れ、劉備のもとへ戻ろうとする関羽に、黄河の渡し場は夏侯惇配下の将が守っていることを伝えた。
劉劭(リュウショウ)
?−?
字は孔才。
魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応して、孫権が魏に侵攻すると江夏の防衛に向かう。
曹叡に命じられて陸遜の計の裏をかき、挟撃作戦を阻止。呉軍の機先を制して孫権を撤退させた。
正史によると、魏の法令制定に着手し、詩文や音楽にも通じるなど多才な人物だった。
劉岱(リュウタイ)
147−202
字は公山。
後漢の兗州刺史。反董卓連合軍に参加した諸侯の一人。兵糧の貸し出しを断った橋蔡を殺害、その軍勢を奪った。
のち曹操の配下となり、王忠とともに徐州の劉備を攻めるが、敗れて捕虜となる。
解放後、曹操に処刑されそうになったところを、孔融のとりなしで許された。
劉達(リュウタツ)
?−?
魏の将。雍州刺史の王経とともに、洮水で姜維の北伐軍を迎撃した。
朱芳ら僚将とともに進軍して姜維を劣勢に追い込んだが姜維の掛け声とともに蜀軍は一気に攻勢に転じる。
機を同じくして張翼夏侯覇の軍勢も新手に加わり、包囲されて為す術無く壊滅した。
劉曄(リュウヨウ)
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字は子陽。正史では子楊。
魏の臣。後漢の皇族。郭嘉の推挙で曹操配下となる。対袁紹戦では投石車を発案して敵の櫓を撃退。
さらに坑道を掘り進む敵を堀割で防がせるなど、官渡の勝利に貢献した。
その後も多くの献策や進言を行い、曹氏三代に渡って信任される。
梁虔(リョウケン)
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魏の将。梁緒の弟。夏侯楙が援軍を求めた時、諸葛亮の策と気付かず、軍を出すことを主張する。
また諸葛亮の用意した偽の姜維に騙され、姜維が蜀に降ったと考え、本物の姜維に矢を射かけた。
梁緒尹賞に説得されてともに蜀に寝返り、城門を開いて蜀軍を迎え入れる。
梁緒(リョウショ)
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魏の臣。馬遵の配下。蜀の北伐の際に、諸葛亮の策にかかった馬遵を諌めて姜維への疑いを晴らそうとしたがかなわず、姜維は蜀に降ることになった。
姜維と親交の深かった尹賞らとともに馬遵を見限って城門を開け、蜀軍を城中に引き入れる。のち天水太守の地位を授けられた。
呂建(リョケン)
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曹操配下の将。徐晃の副将として関羽討伐に従軍する。
呂蒙が荊州を奪ったのち、徐商とともに関羽軍を攻撃し、樊城の包囲を解いた。
呂虔(リョケン)
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字は子恪。曹操配下の将。劉曄に推挙されて、満寵とともに校尉に任ぜられた。
呂布との戦いでは薛蘭を射殺し、曹操の兗州奪還に貢献した。
その後、官渡の戦い赤壁の戦いなどに参加。
224年の曹丕の呉討伐戦で、許褚とともに中護軍として参加するが、大敗を喫した。
呂常(リョジョウ)
?−?
魏の将。曹仁の下で夏侯存らとともに樊城を守る。
曹仁関羽の軍に大敗し、配下の夏侯存翟元を討ち取られて樊城に籠もったので、これに従った。
再び関羽が攻め寄せると城外に出て攻撃したいと志願し、満寵の諌めも聞かず出撃。大敗して城内に逃げ込んだ。
魯芝(ロシ)
190−273
字は世英。
魏の将。郭淮曹真らの下で功を重ね、曹爽に重用され司馬の位に就く。
司馬懿が蜂起して洛陽を占拠すると、辛敞とともに包囲を突破し、魏帝・曹芳のもとへ駆けつけた。
曹爽の降伏後は一時投獄されるが、忠臣であるとして許され復職した。
路昭(ロショウ)
?−?
魏の将。曹操の下にいた劉備袁術討伐を申し出ると、朱霊とともに劉備の配下に入り、督戦役を曹操から命じられた。
袁術に勝利はしたが、兵馬を劉備に預けたまま曹操の元に送り返されたため、曹操の怒りを買う。荀ケの取り成しによって死罪は免れた。




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