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武将列伝 一般武将【ま〜】

戦国無双4攻略 武将列伝 一般武将【ま〜】を掲載しています。
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目次


前田玄以
まえだ げんい
1539-1602
豊臣家臣。延暦寺の僧であったが、還俗し、織田信長の嫡子・信忠に仕える。
本能寺の変の際に、信忠の嫡子・三法師を守って二条城から脱出した。
のち豊臣家五奉行の1人となり、京都所司代を務めた。関ヶ原では中立。家を保った。
前田利常
まえだ としつね
1594-1658
利家の四男。兄・ 利長の養子となり、わずか13歳で加賀百万石の第3代藩主となる。
大坂の陣では外様大名最大の兵力を率いて出陣するも真田幸村の砦・真田丸に苦しめられる。
夏の陣では天王寺の戦いで活躍した。内政に手腕を発揮。また幕府から警戒されないよう、鼻毛をわざと伸ばしていたという。
前田利長
まえだ としなが
15662-1614
利家の嫡男。父の没後、後を継いで豊臣五大老に列せられる。
その直後、徳川家康から謀反の疑いをかけられ、豊臣家と共に打倒家康を図るが、豊臣家が同調せず、断念。
実母のまつを人質に差し出し恭順した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し西軍側の丹羽長重と浅井畷で戦った。
前野忠康
まえの ただやす
1560-1600
豊臣家臣。長康の娘婿。舞兵庫の名前で有名。はじめ、豊臣秀次に仕え、若江八人衆に数えられ活躍。
秀次事件で主君と義父が切腹させられると、牢人。のち石田三成に仕え、関ヶ原の戦いで奮戦。
黒田長政隊や田中吉政隊に対して善戦したが、討死した。
前波新八郎
まえば しんぱちろう
不明-1570
朝倉家臣。姉川の戦いで朝倉軍の第二陣を務める。数時間に及ぶ激闘の末、徳川軍に討ち取られた。
真柄直澄
まがら なおすみ
不明-1570
朝倉家臣。直隆の弟。生来の力持ちで、直澄が用いたという五尺三寸(約175cm)の大刀が現存している。
姉川の戦いでは兄と共に奮闘するが、徳川軍の将、勾坂式部に討ち取られた。
真柄直隆
まがら なおたか
1536-1570
朝倉家臣。弟・直隆と共に剛勇をもって知られる。
浅井・朝倉連合軍と、織田・徳川の連合軍が激突した姉川の戦いに、弟と子・隆基を従え参戦した。
「姉川合戦図屏風」には巨大な刀を振りかざす人並み外れた大男として描かれている。一家で力戦するが、全員、討ち果てた。
牧野忠成
まきの ただなり
1581-1655
徳川家臣。康成の長男。第二次上田合戦で部下が真田昌幸の挑発に乗り、突出。徳川方は大敗した。
この時、大久保忠隣は部下に責任を押しつけ、切腹させたが忠成は部下を逃がし、自分の出奔してしまった。
これが徳川秀忠の怒りを買い、父・康成も蟄居させられたが、徳川家康に許され復帰。大坂の陣にも参戦した。
牧野康成
まきの やすなり
1555-1609
徳川家臣。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属す。上田城攻めで奮戦するが敗北。
その責は、康成の家臣の軍令違反にあるとされ、家臣の切腹を求められたが、拒絶して蟄居する。のちに許された。
増田長盛
ました ながもり
1545-1615
豊臣家臣。五奉行の一人。秀吉に近侍して石田三成らと共に検地などの政務に従事。
豊臣秀次の死後、大和郡山を引き継いだ。関ヶ原の戦いの際は、大坂城で豊臣秀頼を守り、戦後所領を没収された。
大坂の陣後、切腹させられた。
松井忠次
まつい ただつぐ
1521-1583
徳川家臣。はじめ今川家に属すが、家康に従い、松平姓を与えられる。三河一揆鎮圧、姉川の戦い、対北条戦で活躍。
三方ヶ原で、味方が総崩れとなると、家康の朱色の鎧が目立つといって自分の鎧と着せかえ逃がし、自らは囮となって敵を引きつけた。
のち家康より一字拝領し、康親と改名した。
松井宗信
まつい むねのぶ
1515-1560
今川家臣。1529年、兄・信薫の病死により、家督を継いで遠江二俣城の城主となる。
桶狭間の戦いでは馬廻衆として本陣を守備。織田軍の奇襲に際して、主君・今川義元を守るため奮戦し、討死。
松浦鎮信
まつら しげのぶ
1549-1614
肥前の豪族。平戸城主。豊臣秀吉の九州征伐軍に従う。海外通商を行い、唐船・南蛮船の寄港に尽力。
関ヶ原の戦いでは長子が西軍に、自身が東軍に属することで、所領を保った。
西欧諸国との交易で栄えたが、幕府の命令により交易が禁じられると、逼迫した財政の再建に尽力した。茶道にも造詣が深かった。
松倉重信
まつくら しげのぶ
1538-1593
筒井家臣。右近大夫。島左近、森好之と共に、筒井家三老臣に数えられる。島左近とは「右近左近」と並び称された。
本能寺の変では主君・筒井順慶に中立を献言。順慶の後を継いだ定次が伊賀上野に転封となると伊賀名張城を築き、8千3百石を領した。
のち定次の元を去り、豊臣秀吉に仕えている。
松下之綱
まつした ゆきつな
1537-1598
飯尾家臣。遠江頭陀寺城主。若き日の豊臣秀吉が仕えたことで有名。飯尾連龍が今川家に背くと、今川家に城を焼かれ落城。
その後、徳川家に仕えるが、高天神城で武田軍に敗れて降伏した。その後、秀吉に召し出されて、その下で長篠の戦いなどに活躍。
最終的に遠江久野城主となった。娘は柳生宗矩に嫁いだ。
松平家忠
まつだいら いえただ
1555-1600
徳川家臣。伊忠の長男。徳川十六神将の一人。長篠の戦いでは父と共に、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山砦攻略別動隊に属す。
父が長篠の戦いで討死すると家督を継ぎ城郭建築などに活躍。1600年、家康の命で鳥居元忠らと伏見城を守備する。
石田三成らが挙兵すると数万の西軍が襲来。死力を尽くし戦ったが落城、自刃した。
彼の日記『家忠日記』は当時の武将の生活を知る貴重な資料となっている。
松平景忠
まつだいら かげただ
1541-1593
徳川家臣。五位松平家の出。桶狭間の戦いより家康に仕えた。
三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いに参戦。長篠の戦いでは奥平貞昌と共に長篠城を守りきった。
松平定勝
まつだいら さだかつ
1560-1624
徳川家臣。徳川家康の異父弟。長篠の戦い、天目山の戦いに参陣。
家康が死ぬとき、家康の子・江戸幕府二代将軍秀忠の相談役になってくれるように頼まれた。徳川二十将に数えられる。
松平忠直
まつだいら ただなお
1595-1650
徳川家康の次男。結城秀康の子。大坂の陣、若江八尾の戦いの際、酒を飲んで寝過ごし、家康に激怒される。
汚名を返上しようと翌日の天王寺決戦では、真田幸村隊と戦う。一時は苦境に立つが持ちこたえ、大戦果をあげた。
のち二代将軍・秀忠と対立。乱行をとがめられ配流。
松平忠吉
まつだいら ただよし
1580-1607
徳川家康の四男。江戸幕府二代将軍・秀忠の実弟にあたる。武勇に秀で、関ヶ原の戦いでは、西軍・島津豊久を討った。
その功で尾張清州藩主となるが、関ヶ原で負った傷が悪化し、若くして死去。
松平信康
まつだいら のぶやす
1559-1579
徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、英邁なる祖父・松平清康の別名、岡崎三郎を名乗る。
長篠の戦いで初陣。将来を嘱望されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父の命により自害した。
弟・忠輝は信康に似ているがゆえ、家康に憎まれたという。
松平康忠
まつだいら やすただ
1546-1618
徳川家臣。妻は家康の妹・矢田姫。酒井忠次の部隊に属して、姉川、長篠などを転戦。
本能寺の変の際の、家康生涯最大の危機「伊賀越え」にも付き従った。のち、徳川十六神将の一人に数えられた。
松田憲秀
まつだ のりひで
不明-1590
北条家臣筆頭頭・三家老の一人。房総諸家との外交、武田信玄の駿河侵攻や神流川の戦いなどの戦闘に活躍した。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、籠城策を主張したが、秀吉配下の堀秀政から好条件で誘われ、北条家を裏切ろうとする。
それが露見し、北条氏直に監禁された。結局、裏切りが仇となり、敗戦後、秀吉に自害させられた。
内応しようとはしておらず、和平交渉をしていただけとも伝わる。
松田政近
まつだ まさちか
不明-1582
明智家臣。山城の豪族。信長に丹羽攻略を命じられた明智光秀に仕える。
山崎の戦いで、地元出身の政近は右翼先陣を務め、羽柴秀吉配下の将・中川清秀、黒田官兵衛と激戦の末、戦死した。
松永久通
まつなが ひさみち
1543-1577
三好家臣。久秀の子。父から家督を譲られ、多聞山城を預かる。父に従って、将軍・足利義輝の謀殺にも加担した。
のちに織田信長に属すが、父と共に信長に背いて敗れ、信貴山城にて自害した。
松野重元
まつの しげもと
不明-1655
豊臣家臣。通称主馬。鉄砲頭を務めた。小早川秀秋が養子入りする際、つけられて小早川家に属す。
関ヶ原の戦いでは主君・秀秋の東軍寝返りをよしとせず、ひとり戦場を離脱した。
その忠義を認められ田中吉政に仕え、治水に活躍。田中家改易後は徳川忠長に仕えたが忠長も改易
自害に追い込まれ、流浪のうちに死去。
真野頼包
まの よりかね
不明-不明
豊臣家臣。秀頼の親衛隊「七手組」の一人。大坂の陣では、毛利勝永、大野治房を救護。
敗北後、伊木遠雄と刺し違えて死んだ。木村重成にほれこみ、娘をめあわせた。

三浦正俊
みうら まさとし
不明-1565
今川家臣。今川氏真の傅役。氏真が当主となると側近として政治を専断した。
桶狭間の戦いの後、今川家の求心力が低下し、遠江で乱が頻発すると、謀反した飯尾連龍の曳馬城討伐に出たが、討死。
三浦義就
みうら よしなり
不明-1560
今川家臣。尾張笠寺砦の守将を務めた。
今川義元の上洛軍に旗頭として加わり、緒戦で活躍するが、桶狭間にて、織田信長軍に奇襲され、混乱。
劣勢を覆そうと奮戦したがかなわず、討死する。
御宿政友
みしゅく まさとも
不明-1615
勘兵衛の名で有名。今川家、武田家、北条家、福島家を経て、結城秀康に仕えたが秀康の後を継いだ忠直に反発して、牢人。
大坂の陣で豊臣方に味方する。徳川家康をして、豊臣方で人物と言えるのは後藤又兵衛と政友だけだと言わしめた。
大坂夏の陣で討死。
水野勝成
みずの かつなり
1564-1651
「剛勇無双の鬼日向」と評された猛将。徳川家康の従兄弟で、初陣より最前線で活躍するが、父・忠重と不仲になり、出奔。
豊臣、佐々、黒田家などに仕え、また諸国を流浪した。武芸に通じ、俳諧、書画、能など多芸でもあった。
水野忠光
みずの ただあきら
不明-不明
織田家臣。通称帯刀。黒母衣衆。桶狭間の戦いでは丹下砦を守備した。美濃攻めにも参陣した。
水野忠重
みずの ただしげ
1541-1600
徳川家臣。徳川二十将の一人。三河刈谷城主・信元の弟。徳川家康の叔父。信元と不和になり家康に仕える。
三方ヶ原の戦いでは家康の影武者を務めた。
兄が佐久間信盛の讒言で処断され、その信盛も追放されると谷城を与えられ、織田家に属す。
本能寺の変では二条城で戦うが脱出。以後、織田信雄に仕える。
関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、開戦前夜加賀井重望に暗殺された。その理由は不明。
水野信元
みずの のぶもと
不明-1576
織田家臣。徳川家康の母の兄。元は今川家に属していたが、織田家に寝返り、その関係で家康の母は離縁された。
桶狭間の戦い後、織田信長と徳川家康の清州同盟の仲立ちをする。
独立的な存在で、上洛時には信長とは別に朝廷へ献金し、姉川、長篠でも、別働隊を率いた。三方ヶ原でも活躍。
佐久間信盛の讒言で武田家への内通を疑われ、家康を頼るが、家康は信長の命に従い、信元を自害させた。
溝江長逸
みぞえ ながやす
不明-1574
朝倉家臣。景逸の子。朝倉庶流。近隣の堀江氏が謀反を起こすと堀江氏を攻め、加賀に追放した。
織田信長とよしみを通じ、1573年、朝倉義景が織田軍を討つため出陣した際も兵を出さなかった。
朝倉家滅亡後、信長によって本領安堵された上に加増されたが、その後まもなく越前一向一揆に襲われ自害した。
三田村国定
みたむら くにさだ
不明-1573
浅井家臣。近江三田村城主。姉川の戦いでは、浅井家の本拠・小谷城防衛の要・横山城を守り、織田信長に包囲されるが死守した。
戦後開城して小谷城を退く。小谷城落城時、羽柴秀吉に内通して小谷城落城のきっかけを作ったが、戦後、織田信長に殺された。
三木自綱
みつき よりつな
1540-1587
飛騨の大名。姉小路頼綱とも。妻は濃姫の姉妹。武田信玄の侵攻に苦しむが、織田信長の力を背景に対抗し、飛騨を統一した。
手段は選ばぬ奸雄で、その過程で弟や子を殺している。本能寺の変後は、佐々成政と結び豊臣秀吉に対抗したが敗れ、幽閉された。
皆川広照
みながわ ひろてる
1548-1628
下野の豪族。はじめ宇都宮氏に仕えた。織田家、徳川家によしみを通じる。
北条氏政に敗れ、傘下に降り、秀吉の小田原征伐では小田原城竹ノ口を守る。
戦後、徳川家康に降り、家康の六男・松平忠輝の家老となる。
忠輝の不行状を幕府に訴え、改易となるが、のち許された。
箕浦大内蔵
みのうら おおくら
不明-不明
明智家臣。藤堂高虎の従兄弟。名は忠重という。本能寺の変で、安田国継、古川九兵衛と先陣を切った「明智三羽鳥」の一人。
光秀敗死後は、羽柴秀長、のちに浅野幸長に仕えた。
後年、三羽鳥が再開し本能寺で誰が一番活躍したかの話になった。そこに捕り物が発生。
安田、古川が下手人を追ったが、捕まえたのは、待ち構えていた箕浦で、本能寺の一番手柄も箕浦ということなった。
壬生義雄
みぶ よしたけ
1552-1590
下野の豪族。父・綱雄と共に主家・宇都宮からの独立を志向するが、父は宇都宮属派の叔父に殺害される。
その後、叔父を討ち、北条家を頼って独立。豊臣秀吉の小田原討伐の際には、手勢に加えて日光山の僧兵を従え、入城した。
小田原開城直後に病没。壬生家は滅亡した。宇都宮家重臣だった皆川広照に暗殺されたともいう。
御牧兼顕
みまきかねあき
不明-1582
明智家臣。室町幕府奉公衆。本能寺の変後、勝竜寺城を守備。山崎の戦いにも参陣。
明智勢の敗色濃厚となると光秀に退却を具申。自らは光秀退却の時間を稼ぐため一歩も退かず壮烈な討死を遂げた。
宮部継潤
みやべ けいじゅん
1528-1599
豊臣家臣。もと比叡山の僧。はじめ浅井長政に仕えて織田軍と戦うが、秀吉の調略により降る。
以後秀吉に属し、中国攻めの先鋒となり、鳥取城を拝領。信長没後は秀吉の天下統一に貢献。
晩年は御伽衆として秀吉の相談役を務めた。
三好長逸
みよし ながやす
不明-1573
三好家臣。三好三人衆筆頭。三好長慶に従い畿内を転戦。長慶没後は義継に仕える。松永久秀と対立。
織田信長の上洛軍に義継、久秀は従ったが、長逸は抵抗し敗れて四国へ逃亡した。
荒木村重が信長派の池田勝正を追放して決起すると捲土重来。野田福島の戦いで織田軍と戦う。
これが石山合戦の始まりとなる。のち足利義昭の反信長決起に同調。敗れて戦死したとも、落ち延びたとも伝わる。
三好政勝
みよし まさかつ
1536-1632
三好家一門。政康の弟。父・政長を殺した三好長慶と争うが、長慶の死後、三好三人衆と和解する。
織田信長の畿内平定軍に降り、摂津豊島郡に所領を与えられた。のち豊臣秀吉、さらに徳川家康に仕え、96歳で没した。
真田十勇士の一人である三好伊三入道のモデルとされる。
三好政康
みよし まさやす
1528-1615
三好三人衆の一人。松永久秀らと共に将軍・足利義輝を暗殺。のち久秀と対立、覇権を争ったが、織田信長の上洛を受けて逃亡した。
真田幸村に仕え、大坂夏の陣に豊臣方として奮戦した真田十勇士・三好青海入道のモデルとされる。
武藤助十郎
むさし すけじゅうろう
不明-不明
織田家臣。名は康秀。軍略に優れた織田信長の参謀・舜秀の子。有岡城の戦いに参陣。
信長死後、小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉に味方した前田利長に従い、徳川家康についた佐々成政と戦った。
関ヶ原の戦いでは西軍についた織田秀信に属し、岐阜城に籠城している。
村井貞勝
むらい さだかつ
不明-1582
織田家臣。行政手腕を買われ京都所司代を務めた。
織田信長が将軍・足利義昭と対立した時には義昭の説得にあたっている。
近江・安土城の築城、京都・南蛮寺の建立に尽力。
本能寺の変の際、二条御所で討死した。
村井長頼
むらい ながより
1543-1605
前田家臣。主君・利家の主要な合戦に従軍して功を立てた。
利家から彼の通称である「槍の又左」の「又」の字を与えられ「又兵衛」と名乗った。立派な髭をしていたため「髭殿」とも呼ばれた。
村上武吉
むらかみ たけよし
1533-1604
村上水軍の武将。能島村上氏に属す。
大名と主従関係を結ばずにいたが、毛利氏と陶晴賢が厳島で戦った時、毛利軍に味方し、
その配下となり、因島、来島の両村上氏と共に毛利水軍の中核を担った。
村上吉充
むらかみ よしみつ
不明-不明
村上水軍の将。因島村上氏第6代当主。
因島村上氏は、能島村上氏とは対照的に大名と関係を結んできたため、早くから毛利氏に仕えた。厳島の戦いに活躍。
その後、小早川隆景に属し、防長経略、九州大友家との戦い、織田信長との第一次木津川口の戦いに参戦している。
村田吉次
むらた よしつぐ
1565-1621
黒田家臣。黒田二十四騎の一人。没落している実家を復興させようと、敵の武具や刀、槍、馬まで奪って初陣に臨んだ。
1日に7つの首を上げるなど手柄を立てることにいそしみ、朱柄の槍と、黒田家では二人しか許されていない朱色の具足を許された。
毛受勝照
めんじゅう かつてる
不明-1583
柴田家臣。柴田勝家に近侍する。
伊勢長嶋一揆との戦いで敵中に単身飛び込んで勝家の馬印を取り戻し、勝家から「勝」の字を与えられた。
賤ヶ岳の戦いにも参戦。自軍の敗戦が決定的になると勝家を退却させるべく、勝家に扮し、奮戦。兄と共に壮絶な戦死を遂げた。
毛利勝永
もうり かつなが
1577-1615
豊臣家臣。勝信の子。関ヶ原の戦いで西軍に属し、没落。大坂の陣では徳川方の監視をだまして大坂城に入った。
徳川家康は勝永の志を殊勝とし、人質として残された妻子を殺すなど厳命した。
真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親と並び大坂城五人衆と呼ばれる。
夏の陣で徳川の将・本多忠朝を討ち取った。
毛利隆元
もうり たかもと
1523-1563
元就の嫡子。考行息子で家中の信望も厚かった。幼少時に大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。
出雲遠征の途中に急死。目立った活躍こそないが、隆元死後しばらく毛利家は内政に支障をきたしたほどの家の支柱だった。
吉川元春、小早川隆景ら弟が頭越しに父に決裁を求めるのに苦悩しており、
元就から元春はつきあい悪い性格だから諦めろという慰めの手紙をもらっている。
毛利輝元
もうり てるもと
1553-1625
中国地方の大名。元就の孫。隆元の子。吉川元春、小早川隆景に補佐され勢力を拡大。豊臣政権下では五大老の一人となる。
石田三成らに推され、西軍総大将として関ヶ原の戦いに臨んだが、大坂城にあって戦うことなく終戦を迎えた。
毛利秀元
もうり ひでもと
1579-1650
毛利家臣。穂井田元清の子。毛利輝元の養子。
関ヶ原の戦いでは、西軍総大将として大坂城を守る輝元に代わり陣代として出陣。
しかし吉川広家に動きを封じられ、戦うことはできなかった。
その時、兵に弁当を食べさせていると西軍の使者に言い訳したので、秀元の官位から「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
戦後、立花宗茂と共に大坂城で抗戦すべしと主張したが、輝元は動かなかった。
毛利秀頼
もうり ひでより
不明-1593
織田家臣。父は管領傾家当主・斯波義統。
義統が織田信友に暗殺されたとき、織田信長家臣・毛利十郎に救い出され、その養子となる。
桶狭間の戦いに活躍、赤母衣衆に抜擢される。伊勢大河内城攻め、石山合戦に参陣。
織田信忠に従って武田討伐にも功があり、信濃高遠城主となるが、本能寺の変後、反乱を恐れて放棄。
その後豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐に参陣した。
毛利元康
もうり もとやす
1560-1601
元就の八男。出雲末次城を居城として末次姓を名乗る。のちに備後神辺1万5千石を領した。
関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、近江大津城への攻撃を指揮した。
毛利良勝
もうり よしかつ
不明-1582
織田家臣。通称新助。桶狭間の戦いで、今川義元に一番槍をつけた服部小平太に続き、
格闘の末、義元の首を取り、信長の側近である黒母衣衆に抜擢された。
のち信忠に属し、甲斐平定に活躍。本能寺の変で二条城に籠もり、討死。
最上義光
もがみ よしあき
1546-1614
出羽の大名。領内統一を志すも、これに反発した天童頼定ら「最上八楯」が父・義守と義弟・伊達輝宗を後ろ盾に抵抗。
これらに調略で打ち勝った。計算高い謀将の一面を見せる一方で、
大刀で鉄の指揮棒を持って最前線で戦う猛将の一面や善政を敷き「役をばかけぬ」と山形の民に慕われる民政家の一面も持っていた。
望月信永
もちづき のぶなが
1551-1575
武田家臣。武田信繁の次男。信豊の弟。
信濃望月家当主である望月千代女の夫・盛時の子・信雅の養子に入る。長篠の戦いで討死。
桃井義考
もものい よしたか
不明-1578
上杉家臣。上杉謙信に従い、関東出兵、小田原攻囲に参戦。御館の乱では上杉景虎に味方して御館に入り、討死した。
永禄年間の「諸国衆御太刀之次第写」には家格が高く
上杉一門しか許されない「直太刀」の中に「桃井殿」として上杉景信に次ぐ家中第2位にその名が見える。
森忠政
もり ただまさ
1570-1634
可成の子。長可、蘭丸の弟。信長に小姓として仕えたが首になり、本能寺の変に巻き込まれなかった。
兄・長可の遺書には忠政の相続は「いや」とあったが、長可が小牧長久手の戦いで討死後、家督を継ぐ。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属して上田城攻めに従軍した。苛政を敷き、一揆が起きると参加者全員を磔にした。
母里太兵衛
もり たへえ
1556-1615
黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の一人。武勇の士であり、酒豪でもあった。
使者として大名・福島正則を訪れた時、特別大きな杯で酒を強いられたが、見事に飲み干し、名槍「日本号」を与えられた。
これが「黒田節」のもとになった逸話である。
森長可
もり ながよし
1558-1584
織田家臣。森可成の次男。蘭丸の兄。名馬・百段を駆り、人の骨などないに等しいという切れ味を誇る名槍・人間無骨を操る。
激しい気性と苛烈な戦いぶりから鬼武蔵の異名を取る。信忠に属し、甲斐侵攻に活躍。
高遠城攻めでは城の屋根上から天守内に一斉射撃を加え、城中の老若男女を虐殺、陥落させた。
小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に味方し、中入り作戦で奮戦したが、戦死した。
森坊丸
もり ぼうまる
1566-1582
織田家臣。名は長隆。可成の四男。長可と蘭丸の弟。力丸、忠政の兄。
織田信長に小姓として仕え、本能寺の変で討死。
森本一久
もりもと かずひさ
1560-1612
加藤家臣。儀太夫の名で有名。若い頃から加藤清正に仕えて、飯田直景、庄林一心と並んで加藤家三傑と呼ばれる。
戦場での働きから豊臣秀吉から名前に「義」の字を与えられた。建築術にも才能を発揮。熊本城、江戸城の築城に携わった。
森可成
もり よしなり
1523-1570
織田家臣。猛将・長可や蘭丸の父。尾張統一戦、桶狭間の戦いなどで活躍。
信長上洛後は近江宇佐山を守備した。志賀の陣では、主力部隊の出陣中、来襲した浅井朝倉連合軍を防ぐため出撃。
猛攻を受け、討死した。
森好久
もり よしひさ
1538-1582
筒井家臣。筒井三家老・好之の甥。筒井順慶が松永久秀に大和を追われると久秀に仕えるが、それは策。
久秀が織田信長に謀反し、信貴山城に立て籠もると、援軍要請に行くと言って筒井家臣を城に連れ込み、城内から放火。
信貴山城落城のきっかけを作った。
森力丸
もり りきまる
1567-1582
織田家臣。名は長氏。可成の四男。長可や蘭丸、坊丸の弟。忠政の兄。
織田信長に小姓として仕え、本能寺の変で討死。




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