戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【ら〜】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

HOME戦国無双4-II攻略TOP > 武将列伝 一般武将【ら〜】

武将列伝 一般武将【ら〜】

戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【ら〜】を掲載しています。
武将列伝は流浪演舞に出現する一般武将・無双武将と出会うことで追加されて閲覧可能になる
無双武将は友好度を最大にすることで閲覧可能になる

目次


来福寺左京
らいふくじ さきょう
不明-不明
真田家臣。原仁右衛門という軍配者で、出家して来福寺左京と名乗り、修験者の元締めとなり、忍者を育成した。
第一次上田城の戦いでは、真田昌幸の下、活躍したという。

龍造寺隆信
りゅうぞうじ たかのぶ
1529-1584
肥前の大名。「肥前の熊」の異名を取った。龍造寺家19代当主。庶流であったが、宗家の養子に入り家督を継承した。
鍋島直茂の補佐を受け、瞬く間に勢力を拡大。その後、沖田畷の戦いで島津家久の策にかかって大敗を喫し、討ち取られた。
龍造寺政家
りゅうぞうじ まさいえ
1556-1607
龍造寺家20代当主。隆信の嫡子。父が沖田畷の戦いで戦死すると島津家に屈する。
豊臣秀吉の九州征伐後、旧領肥前を回復するが、病身のため秀吉に隠居を命じられ、国政は重臣・鍋島直茂に委ねられた。
のち息子が憤死すると後を追うように病死。国は鍋島家が継いだ。
龍造寺康房
りゅうぞうじ やすふさ
不明-1584
龍造寺家臣。鍋島直茂の弟。龍造寺隆信の叔父の養子となり、龍造寺姓を名乗る。
隆信の末弟に仕えた。沖田畷の戦いで討死した。

留守政景
るす まさかげ
1549-1607
伊達政宗の叔父。陸奥の名族・留守氏の養子に入り、反対派を追放。跡継ぎ問題で揺らぐ留守氏をまとめあげた。
政宗の信頼も厚く、軍勢を率いて活躍、奥州制覇に貢献した。

冷泉元満
れいぜい もとみつ
不明-1598
毛利家臣。父は大内家に仕えた水軍の将である冷泉隆豊で、
主君・大内義隆が重臣・陶晴賢の謀反に倒れると、主君を守るべく壮絶な討死を遂げた。
父が死んだとき幼かったため、平賀元相の祖父・弘保の保護を受け、防長経略の際、毛利元就に仕えた。
父同様に水軍を率い、大友家や織田家と戦った。毛利家が豊臣家に属すとその戦いにも参陣。遠征先で討死した。

六角義賢
ろっかく よしかた
1521-1598
南近江の大名。剃髪して承禎と名乗る。
足利義晴、義輝を庇護し、幕府を牛耳る三好長慶と戦い、義輝を将軍位につけることに成功する。
のちに足利義昭を奉じて上洛する織田信長に敗れて、居城・観音寺城を追われた。
旧敵・浅井長政や三好三人衆と結び、甲賀で野田福島の戦いに出陣中の信長の後背を突いた。
弓の名手であり、信長死後、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。
六角義定
ろっかく よしさだ
1547-1620
南近江の大名・六角義賢の次男。別名高盛、佐々木次郎。兄・義治が重臣を殺害し観音寺騒動を招くと父の命で家督を継ぐ。
観音寺城の戦いに敗れると父や兄と共に甲賀に逃亡し、信長包囲網の一角をなして抵抗を続けた。その後、敗れて逃亡。
武田家滅亡時に、彼と兄をかくまった罪で恵林寺は焼き討ちされた。
恵林寺の快川紹喜のこの時の言葉が「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」である。
六角義治
ろっかく よしはる
1545-1612
南近江の大名。義賢の嫡男。別名義弼。
野良田の戦いで浅井家に敗れ、父が隠居し家督を継ぐが、重臣を殺害して、観音寺騒動となり、追放。
蒲生定秀らの尽力で復帰するも、主君の権限を制限する分国法・六角氏式目を認めさせられる。
織田信長の上洛軍に抵抗するが、観音寺城の戦いで敗北。その後も信長包囲網の一角を成した。
父同様、弓の名人で、信長死後、豊臣家に弓術指南として仕えた。




トップページ | サイトについて/お問い合わせはこちら
当サイトは個人で運営されています。
各企業様、メーカー様とは一切関係がございません。
Copyright 2013-2023 kanzengenkai.com All Rights Reserved