戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【あ〜】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将列伝 一般武将【あ〜】

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目次

相木昌朝
あいき まさとも
1516-1567
武田家臣。はじめ信濃の豪族・大井家の家老だったが、武田信玄の信濃進攻を受け、主家を裏切って滅ぼし、武田家に仕えた。
川中島の戦いでは妻女山攻撃別働隊に属し、参戦した。一節に山中鹿介の親戚だという。
青木一重
あおき かずしげ
1551-1628
豊臣家臣。はじめ徳川家康に仕え、姉川の戦いで朝倉家の勇将・真柄直隆を討ち取った。
小牧長久手の戦いののち、秀吉が請うて貰い受け、秀頼の親衛隊「七手組」の一人となる。
大坂冬の陣ののち、和議の使者として徳川方を訪れたところを捕らえられ家康に仕える。
一説にずっと徳川方に通じていたとも言われる。
青木貞治
あおき さだはる
不明-1573
徳川家臣。中根正照、松平康安と共に遠江二俣城を守るも、武田信玄の上洛軍の攻撃を受け、あえなく落城。
その恥を雪がんと発憤。三方ヶ原の戦いで主君・家康を逃がすべく奮戦し、討死した。
青山忠成
あおやま ただなり
1551-1613
徳川家臣。徳川秀忠の傅役。関ヶ原の戦いののち、本多正信、内藤清成と共に、江戸奉行・関東総奉行を務めた。
のちに、主君・家康の勘気を受け、蟄居した。
赤尾清綱
あかお きよつな
1514-1573
浅井家臣。重臣「浅井三将」の一人。浅井家三代に仕えた老臣。浅井本拠の小谷城城内に赤尾曲輪という出城を築いた。
小谷落城時、長政を赤尾曲輪に迎え、主君の自刃を邪魔させまいと防戦。浅井家滅亡と共に果てた。
赤座直則
あかざ なおのり
不明-1582
朝倉家臣。直保の父。主家滅亡後は織田家に仕えたという。
赤座直保
あかざ なおやす
不明-1606
豊臣家臣。吉家とも。はじめ朝倉家に仕え、のち織田家に降り、前田利家ら府中三人衆の下に属す。
信長死後は羽柴秀吉に仕え、小田原討伐に従軍して戦功を立てる。
関ヶ原では当初、西軍の大谷吉継に属すが、小早川秀秋の寝返りに応じ、大谷軍を壊滅させた。
だが、この働きは徳川家康に認められず、戦後改易。前田家に仕えた。河川氾濫を視察中、溺死。
赤座永兼
あかざ ながかね
不明-1582
織田家臣。はじめ斎藤道三に仕え、道三が息子・義龍に殺されると、織田信長に属した。
三好三人衆との京・六条合戦で戦功を上げ、越前に所領を与えられる。織田信忠の家督相続に従い信忠に属す。
武田征伐では六角家を匿った恵林寺を焼き討ちし、老若男女を虐殺している。
本能寺の変で、明智軍の山崎長徳と戦い討死。武勇で知られた永兼を討ち取ったことを明智光秀は大いに喜んだという。
赤沢宗伝
あかさわ そうでん
不明-1582
三好家臣。三好義賢の姪婿。阿波板西城主。赤沢家十二人衆を率いた。通称信濃守。名は致見。
久米田の戦いで敗れ、義賢が討死すると出家して宗伝と号す。
中富川の戦いでは、十河存保に属し長宗我部元親軍と戦い先陣を務める。
一騎打ちで敵を組み伏せたがわらじが切れ、その隙を突かれて討死した。
そのため死後、足の病を治す神として祭られた。その祠には願掛けのわらじが今も収められる。
明石全登
あかし たけのり
不明-不明
宇喜多家臣。熱心なキリスト教徒。執政として宇喜多秀家に仕え、関ヶ原で先鋒を務めるも敗れる。
その後、没落した主家再興と信仰の自由のため、大坂の陣に豊臣方として参戦。
大いに活躍し、真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永と並び、大坂城五人衆と呼ばれた。
戦後、行方不明となる。彼を恐れた徳川家康は「明石狩り」を命じた。
阿賀野弥平治
あがのや へいじ
不明-不明
大友家臣。大友義統の下、九州の関ヶ原である石垣原の戦いに参陣。
大友旧臣たちは改易後、無為に朽ち果てるよりは戦場で果てて
せめて名を残したいと悲壮な覚悟でこの勝ち目のない戦に臨んだという。
赤星統家
あかほし むねいえ
1530-1619
肥後の名族・菊池氏の一族で菊池三家老の一人。同じく三家老の隅部氏と対立していた。
龍造寺隆信が肥後に進出すると傘下に入る。後に隅部氏も龍造寺傘下に入り隆信の優遇を受けたため、反発。
それを隅部氏に讒言され、人質の幼い息子と娘を磔にされる。
怒った統家は島津家につき、沖田畷の戦いに赤装束縄だすきで出陣。
勝利後、子を殺された彼の妻は隆信の首を何度も蹴りつけたという。
秋月種実
あきづき たねざね
1548-1596
筑前の大名。古処山城主。文種の次男。
大友家に攻められた父が自害、城を追われたが、毛利家の援助で居城を奪回した。
その後大友家に敗れて一時その傘下に入るも耳川の戦い後、再び反抗。立花道雪と戦う。
島津家が台頭するとこれに従い岩屋城の戦いに参戦。のち豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ
「楢柴茶入」を献上して改易を免れた。
秋山信友
あきやま のぶとも
1527-1575
武田家臣。「武田の猛牛」と恐れられる猛将。知略に優れ、美濃岩村城を無血開城させ、
城主未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方を妻とし、城代となる。
長篠敗戦後、岩村城は孤立するが、半年もの間、織田家の猛攻を防いだ。
だが、偽りの和議に応じ、城を出たところを捕らえられ、おつやの方共々処刑された。
芥川兵庫介
あくたがわ ひょうごのすけ
不明-1582
三好家臣。阿波福井城主。名は宗長。中富川の戦いで、十河存保の下、長宗我部軍と戦い、討死。
明智茂朝
あけち しげとも
1538-1582
明智家臣。明智五宿老の一人。光秀が信長に仕える前から仕えていた。
元は溝尾庄兵衛と言ったが、功により明智姓を賜る。本能寺の変、山崎の戦いで活躍。
戦後、光秀の介錯を務め、主君に殉じて自害した。
明智秀満
あけち ひでみつ
1536-1582
明智家臣。通称、左馬助。明智五宿老の一人。明智光秀の娘婿で配下きっての俊英。
本能寺攻撃の先鋒となる。光秀の敗死後、退却時に大津から坂本まで馬で琵琶湖水上を渡ったという。
坂本城に火をつけ、一族とともに自害。その際、家宝を引き渡し、焼失から守った。
明智光忠
あけち みつただ
1540-1582
明智家臣。光秀の叔父・光久の子。本能寺の変では織田信忠の籠もる二条御所を襲撃時に負傷。
京の知恩院で療養する。その後、山崎の戦いで光秀が敗死したとの報を聞き、自刃した。
明智光近
あけち みつちか
不明-1582
明智家臣。光秀の一族。一説に従兄弟。山崎の戦いで片桐且元に討ち取られた。
浅井久政
あざい ひさまさ
1526-1573
北近江の大名。長政の父。南近江の六角家の圧力に屈して傘下に入る。
これを不服とした家臣団の圧力で長政に家督を譲るが隠居後も小谷城内にあって政治に関与した。
のち織田信長が約定を破って朝倉家に攻めると、信長打倒を主張。小谷城の落城時に、自刃した。
浅井政澄
あざい まさずみ
不明-不明
浅井家臣。浅井長政の一族。姉川の戦いでは磯野員昌に続いて第二陣を受け持った。
浅井軍は破竹の勢いで攻めこみ、信長本陣まで迫ると思われたが、側面をつかれて総崩れとなった。
この戦で討死したとも、織田軍に降ったといわれる。
浅井政敏
あざい まさとし
不明-不明
今川家臣。近江浅井家の出という。通称小四郎。
今川義元の妹婿。赤塚の戦いでは岡部元信、三浦義就、飯尾乗連らと共に織田信長と戦っている。
桶狭間の戦いでは尾張沓掛城に入るが、義元が戦死すると城を捨てて退却した。
朝倉在重
あさくら ありしげ
1545-1615
今川家臣。駿河の豪族。一説に朝倉家の朝倉景鏡の弟。
父が政争に敗れ追放された際に流浪し、今川家に仕えたという。安部七騎筆頭。
今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、武田信玄の駿河侵攻軍に降り、その後、徳川家康に仕えた。
その過程で従わない七騎の一人を暗器で暗殺している。
徳川家が関東入りすると、駿河を支配していた中村家に仕えた。徳川家の世になると茶壺の管理をした。
朝倉景鏡
あさくら かげあきら
不明-1574
朝倉義景の従兄弟で一門衆筆頭格。金ヶ崎の戦いでは織田信長追撃軍の総大将を務めた。
義景が刀根坂の戦いに敗北すると、逃れたところを襲って義景を自害させ、信長に降った。
のち、一揆勢の大軍に囲まれ、3騎で突撃、戦死。
朝倉景健
あさくら かげたけ
1536-1575
朝倉家臣。義景の一族。戦場に出ることの少ない義景のかわり戦の指揮を執る。
姉川の戦いの総大将を務め、志賀の陣では織田信長の弟・信治や森可成らを討ち取っている。
刀根坂の戦いでは奮戦し、義景の撤退を助けたが、朝倉家は滅亡。信長の傘下に降る。
越前で一揆が起こると抗し切れず降伏。信長の怒りを買い、織田軍の越前再侵攻時に殺された。
朝倉景恒
あさくら かげつね
不明-1570
朝倉家臣。朝倉家一門。景紀の子。金ヶ崎城主。
朝倉攻めに押し寄せた織田信長軍に囲まれ、城に籠もって奮戦したが、
対立していた朝倉景鏡の反対により一乗谷からの援軍が来ず、孤立し、開城。
永平寺に入って遁世。まもなく死去した。
朝倉景紀
あさくら かげとし
1505-1572
朝倉家臣。朝倉随一の名将・朝倉宗滴の養子。父と共に湊川の一向一揆を討伐。
1527年、三好氏の四国勢を討ち破った。
朝倉景鏡と一門衆筆頭の座を争い、それが原因で織田信長の越前侵攻時、
息子・景恒の守る金ヶ崎城に一乗谷から援軍を出してもらえなかった。
朝倉義景
あさくら よしかげ
1533-1573
越前の戦国大名。決断力に乏しかった。金ヶ崎の戦いで浅井長政と共に信長を挟撃するが追撃に失敗。
姉川の戦いでは自ら参戦せずに敗戦。志賀の陣では信長を追いつめながらも講和。
刀根坂の戦いで信長の急襲を受け、総崩れとなり、自らの居城・一乗谷へと敗走。
最後は一門の朝倉景鏡に裏切られ自害した。
浅野長晟
あさの ながあきら
1586-1632
豊臣家臣。長政の次男。兄・幸長が嫡子のないまま早世すると、紀伊和歌山37万石を継ぐ。
大坂夏の陣では、徳川幕府の命を受け出陣、壇団右衛門を討ち取るなど活躍した。
のち、安芸広島に転封され42万石を領した。
浅野長重
あさの ながしげ
1588-1632
浅野長政の三男。徳川秀忠に小姓として仕える。大坂の陣に従軍、奮戦した。
徳川家康、秀忠父子の信任が厚く、加増の話が出たとき、
父の菩提寺のある現在の領地を離れたくないと願って聞き届けられた。
ひ孫が『忠臣蔵』で有名な浅野内匠頭長矩である。
浅野長政
あさの ながまさ
1547-1611
豊臣家臣。秀吉の妻・ねねの親戚で、秀吉に重用された。浅井長政との戦いで初陣を飾り、のち賤ヶ岳の戦いにも参加した。
秀吉が天下を掌握すると、五奉行の筆頭に任じられる。長吉と名乗っていたが豊臣秀吉没後、長政と改名する。
石田三成と対立し、関ヶ原の戦いで、浅野家は東軍に属した。
関ヶ原後、城内の風紀が緩んでいるのを見て「三成のいたころはこんなことはなかった」と嘆いた。
浅野幸長
あさの よしなが
1576-1613
豊臣家臣。長政の長男。小田原討伐で初陣。父に従い武蔵岩槻城を攻めた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、紀伊和歌山を得る。大坂の陣直前に死去。
親豊臣派であったため毒殺されたとの説もある。
朝比奈信置
あさひな のぶおき
1528-1582
今川家臣。名は元長、政貞とも。小豆坂の戦いなどで戦功を立てる。
桶狭間の戦いで主家没落した後は武田家に仕え、駿河先方衆となった。
信玄より「信」字を一字拝領して信置と名乗る。長篠の戦いに参陣。
武田勝頼が徳川家から駿河持船城を奪還するとその城代に任じられた。
のち織田家の武田討伐軍に持船城を落とされ、自害。
朝比奈泰朝
あさひな やすとも
1538-不明
今川家臣。泰能の子。遠江掛川城主。桶狭間の戦い以後、今川から離反する家臣が相次いだが、泰朝は忠義を貫いた。
主君・氏真が武田信玄により城を失うと、まず自城に迎え、徳川家康が攻め来ると、まず氏真の命の安全を約させて開城した。
浅見道西
あさみ どうせい
不明-不明
浅井家臣。通称対馬守。浅井長政に属し小谷城に籠城するが、1537年に織田信長に通じ、浅井家敗北を決定づけた。
所領を没収された。のちに柴田勝家の家臣となり、賤ヶ岳の戦いにも参加した。
浅利信種
あさり のぶたね
不明-1569
武田家臣。信玄の信濃侵攻で活躍。信玄嫡子・義信切腹時には家臣統制に当たった。
のち箕輪城代となり、上野方面、対北条戦線を担当。三増峠の戦いで戦死した。
足利義昭
あしかが よしあき
1537-1597
室町幕府15代将軍。兄・義輝が暗殺されると織田信長の助力を得て将軍職に就く。
幕府権威回復を図り、信長と対立。諸大名に信長討伐を呼びかけて包囲綱を形成し、信長を苦しめた。
武田信玄の上洛が決定的になると自らも挙兵したが敗れて追放された。
その後も毛利家のもとで将軍復権の策動を続けたが、豊臣秀吉の九州征伐後、将軍職を辞した。
足利義氏
あしかが よしうじ
1541-1583
第5代古河公方。晴氏の次男。北条氏康の甥。河越の戦いで晴氏に幽閉されると、古河公方となる。
以後、北条家の傀儡として、北条家の関東支配の権威づけに利用された。
関東管領・上杉謙信は義氏を関東公方として認めず、義氏の兄・藤氏を擁立して争った。
上杉家と北条家が同盟すると、謙信も義氏を承認した。
芦田信守
あしだ のぶもり
不明-1575
武田家臣。信濃の豪族。はじめ大井家に仕え、後、諏訪家に仕える。
諏訪家が滅ぶと大井家に帰参・大井家が武田家に攻められると、相木昌朝と共に武田家に内応し武田家に仕えた。
武田信玄が上洛を開始し、遠江二俣城を落とすとその守りにつく。
長篠の戦いで敗戦すると、徳川家康に攻められ、二俣城内で死亡した。
蘆名義広
あしな よしひろ
1575-1631
奥州の大名。蘆名家第二十代当主。佐竹義重の次男。
当主が次々に若死にしていた蘆名家に養子に入るが、幼少ゆえに家中をまとめきれず、摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、逃亡。
蘆名家は滅亡した。その後は佐竹家に戻った。
佐竹家が関ヶ原の戦いの後、秋田へ移封されると角館を領し、その城下町の整備を行った。
阿曽沼広秀
あそぬま ひろひで
不明-1597
大内家臣。安芸の豪族。鳥籠山城主。尼子家にたびたび寝返るが、陶軍、毛利軍の攻撃を受けて、帰参している。
厳島の戦いで毛利家に属す。その後の防長経略に活躍。
出雲出兵時などで毛利元就に不満を表明するなど独立した国人の気骨を示す。
毛利家が豊臣家に属すと、その下で九州征伐などに出陣した。
安宅信康
あたぎ のぶやす
1549-1578
三好家臣。父は三好長慶の弟・安宅冬康である。冬康が讒言で長慶に殺されると後を継ぎ、淡路水軍を率いる。
1572年、織田信長に降伏。木津川の戦いでは織田側に属し、毛利水軍と戦っている。
阿閉貞大
あつじ さだひろ
不明-1582
近江の豪族。貞征の子。力持ちで有名で織田信長に相撲を所望されたほど。
はじめ浅井長政に仕え、のち父と共に織田家に寝返る。
羽柴秀吉の与力となるが、領地を巡って対立、信長直属に配属換えとなる。
本能寺の変では明智光秀に味方し山崎の戦いに参加。敗戦後、捕らえられ秀吉により一族はりつけにされた。
阿閉貞征
あつじ さだゆき
1528-1582
近江の豪族。貞大の父。浅井長政に仕えたが羽柴秀吉の調略で織田信長に内応。
結果、長政は孤立し、やがて浅井氏は滅亡した。以後、秀吉に属すが対立。
山崎の戦いでは明智光秀に味方して戦い、敗北。秀吉に一族皆処刑された。
跡部勝資
あとべ かつすけ
不明-1582
武田家臣。原昌胤と共に主君・信玄、勝頼の側近を務め、政治の実権を握っていた。武田滅亡時に勝頼と共に戦死した。
『甲陽軍艦』では長坂光堅と並び、佞臣と評されており、長篠の戦いでは主戦論を展開して大敗に導き、
御館の乱では黄金を受け取って勝頼を上杉景勝方に寝返らせ、武田家滅亡の原因を作った上、
武田滅亡時には主君を捨てて逃亡したとされている。
穴山小助
あなやまこすけ
1568-1615
真田家臣。真田十勇士の一人。真田幸村と同い年で容貌も大変似ていたという。
名を安治といい、穴山信君の甥だとも孫だともいう説がある。大坂の陣で幸村の影武者を務め、討死。
穴山信君
あなやま のぶただ
1541-1582
武田家臣。入道して梅雪と号す。信玄の甥で、一門衆の筆頭格。合戦では主に本陣を守備した。
信玄没後、徳川家康の降伏勧告に応じ、勝頼を見限った。のち安土城に赴いて信長に謁見。
本能寺の変の際は、家康と共に堺にあり、帰国の途中に一揆に襲われて落命した。
阿波賀三郎
あばが さぶろう
不明-1575
朝倉家臣。朝倉家一族である同名衆。名は景賢。通称小三郎。
志賀の陣では、宇佐山城の戦いで織田軍の森可成を攻め、討死させている。
朝倉家滅亡後、越前は織田家に属した前波吉継と富田長繁の対立で混乱し、結果、一揆が発生。
三郎も弟・与三と共に一揆に参加。鉢伏城に籠もった。
織田信長の討伐軍が来ると降伏して許しを請うたが、処刑された。
甘粕景継
あまかす かげつぐ
1550-1611
上杉家臣。謙信の命により、甘粕家を継ぐ。槍と長刀の名手。出羽庄内の攻略に活躍。
1598年、景勝が会津に入ると直江兼続の指揮下、神指城普請の小奉行を務めた。
のち景勝、兼続に疎まれる。自害したとも伝わる。
甘粕景持
あまかす かげもち
不明-1604
上杉家臣。柿崎景家と並ぶ猛勇の士。
第四次川中島の戦いでは殿軍を務め、その見事な戦いぶりに、武田信玄は「謙信自身が殿軍にいるのか」と言ったという。
のち御館の乱では上杉景勝に属し、その後も景勝を支え続けた。
尼子氏久
あまご うじひさ
不明-1578
尼子家一門。新宮党の国久の嫡孫。勝久の兄。
祖父が叔父に新宮党を譲ろうとしたため、これを尼子当主・晴久に訴え、それが原因で新宮党の粛清が起きた。
尼子勝久
あまご かつひさ
1553-1578
尼子家一門。新宮党の国久の孫。幼少時に新宮党の粛清に遭遇し、寺に預けられて僧になっていた。
尼子家が滅亡したのち、遺臣の山中鹿介らの説得で還俗。尼子家再興を目指して織田信長を頼る。
羽柴秀吉に属して播磨上月城に入城したが毛利軍に包囲されて自害した。
尼子通久
あまご みちひさ
1554-1578
尼子家一門。新宮党の国久の孫。勝久の弟、あるいは従兄弟と言われる。
鉄砲の名人で、新宮党粛清時、尼子家を逃れ、蜂須賀家に仕えて鉄砲頭となる。
勝久が尼子再興の軍を興すと合流。上月城に共に籠城するが、毛利軍に敗れ、自刃。
天野景貫
あまの かげつら
不明-不明
今川家臣。犬居城主。田原本宿の合戦で功を立てた。主家滅亡後は武田家に仕え徳川家と戦う。
武田家滅亡後は北条家に属し、佐竹家との戦いで功を立てた。
甘利信忠
あまり のぶただ
不明-不明
武田家臣。虎泰の子。昌忠とも。村上義清との戦いで父が死ぬと後を継ぎ、
同じく筆頭宿老である父・板垣信方を失った板垣信憲と共に家臣団の最高位「両職」となった。
武蔵松山城攻めの際、ケガをした家臣のために馬糞汁を飲んだ逸話で有名。
甘利信康
あまり のぶやす
不明-1575
武田家臣。虎泰の子。信忠の弟。兄の死後、家督を継ぐ。武田信玄の下で鉄砲大将となる。
長篠の戦いでは、山県昌景を支援するが敗れ、討死した。
雨森清貞
あめのもり きよさだ
不明-不明
浅井家臣。弥兵衛の名で知られる。
海北綱親・赤尾清綱と共に「浅井三将」と称される重臣であり、浅井家の旗頭であったという。
浅井久政に重用されていたらしく、奏者として名が残っている。
鮎川盛長
あゆかわ もりなが
不明-不明
上杉家臣。北越後の豪族「揚北衆」。
鮎川家は同族である本庄家と争っており、本庄繁長が上杉謙信に背くと、常にこれと戦っている。
御館の乱では、繁長が上杉景勝側についたため、上杉景虎側に属すが、敗北後、許されて帰参した。
かつて、盛長の父が繁長の命を助けていたため、繁長が、盛長の助命を願い出たためである。
荒川長実
あらかわ ながざね
不明-1561
上杉家臣。越後十七将の一人に数えられる猛将。
第四次川中島の戦いで、上杉謙信が武田信玄に斬りかかった、という逸話があるが、
『上杉家御年譜』によればそれは謙信ではなく長実だったという。戦後行方不明となる。
荒木村重
あらき むらしげ
1535-1586
摂津の武将。毛利七哲の一人。織田信長に従う主君・池田勝正を追放して知性を立て、三好家に寝返り、池田家を掌握。
1573年には信長に属し、翌年、有岡城主となり摂津一国を任せられた。
1578年、信長に背き有岡城に籠城。落城時、自身はひとり城を脱出。家臣家族は皆、信長により残酷に処刑された。
本能寺の変後は堺に居を構えて、茶人として復活した。
有馬伊賀
ありま いが
不明-不明
高橋紹運の家臣。剛力で知られる。立花宗茂の初陣の後見を務めた。
その折、単独行動を取ろうとする宗茂を諌めたが、
宗茂は「父・紹運と一緒にいたら、自分の手の者まで父の命にしか従わないではないか」と笑ったという。
岩屋城の戦いでは、立花直次の宝満山城内で島津の大軍に城兵が動揺。
反乱が起きそうになっていたが、伊東源右衛門の下、宝満山城に突入。反乱発生を未然に抑えた。
有馬豊氏
ありま とようじ
1569-1642
豊臣家臣。のち父・則頼と共に徳川家康に属す。
関ヶ原の戦いでは、東軍の美濃岐阜城攻めに加わる。
大坂の陣、島原の乱にも参陣し、戦功をあげた。
茶人としても有名で利毛七哲に数えられることもある。
有馬則頼
ありま のりより
1533-1602
豊臣家臣。播磨の出で、秀吉が織田信長の命で中国地方攻略を開始した時に仕える。
信長死後の清州会議では、秀吉暗殺を企む柴田勝家の陰謀を防いだという。
秀吉死後は徳川家康に接近。関ヶ原の戦いで子・豊氏と共に東軍に属して奮戦。
所領を安堵された。茶人としても有名。
有馬晴信
ありま はるのぶ
1537-1612
越前の大名。龍造寺隆信からの圧迫を受けていたが、島津家と結んで対抗。沖田畷の戦いで隆信を破る。
のち九州征伐に来た豊臣秀吉に臣従する。
キリシタン大名として知られ、大村純忠、大友宗麟らと共に、ローマ法王の元へと少年使節団を派遣した。
関ヶ原の戦いでは西軍につくが、東軍勝利を聞くと寝返り、小西行長領を攻め、家名を保った。
しかし岡本大八事件で改易、自身は死罪となった。
有吉立行
ありよし たつゆき
1558-1607
細川家臣。藤考、忠興の二代に仕える。関ヶ原の戦いの際には、松井康之と共に豊後杵築城を守る。
石垣原の戦いでは、黒田官兵衛と共に、西軍に与した大友義統を破った。
やや鈍な性質で、若い頃、幼少の忠興を肩車したまま川を渡り、
顔が水面下になっても渡り続け、対岸で倒れたという逸話が残っている。
栗村三郎大夫
くりむら さぶろうだゆう
不明-不明
雑賀衆の有力者。1577年、織田信長の紀州征伐に抵抗。
戦況は膠着、後背に毛利家などの敵を抱える信長は、雑賀孫市、土橋守重、三郎大夫らに、
形だけの降伏を許す朱印状を出して撤退した
三郎大夫らは織田軍撤退後、半年たらずで再び反乱を起こした。
安国寺恵瓊
あんこくじ えけい
1539-1600
毛利家臣。外交僧として活躍。戦略眼に優れ、早くから織田信長失脚と羽柴秀吉台頭を予言。
本能寺の変の際、秀吉と毛利家の講和を素早くまとめ、秀吉の天下取りを助けた。
豊臣政権下で重用されたが、関ヶ原の戦いで西軍について刑死。
安東家忠
あんどう いえただ
1515-1599
立花家臣。立花四天王の一人に数えられる。立花道雪が立花姓を継いだ宴にいた七家老の一人。
耳川の戦いで大友家が敗れると筑前で大友家に対する反乱が相次いだが、
その鎮圧戦に功があり、武勇絶倫の名将と讃えられた。
道雪死後隠居。息子・連実は岩屋城の戦いの際、宝満山城で戦死している。彼の引退後、四天王には小野鎮幸が入った。
安藤直次
あんどう なおつぐ
1555-1635
徳川家臣。硬骨漢。小牧長久手の戦いで池田恒興を討ち取ったが、近くにいた若武者に手側を与え、自らは知らぬふりをした。
大坂の陣で息子が突出して戦死しても「犬にでも食わせろ」と一顧だにせず戦い、戦後大泣きに泣いた。
力不足を理由に大役を辞ず同僚に
「他にやれる奴がおらずお前を見込んでのことなのに断るとは臆病者だ。
やってダメなら切腹すればいいだけだろう」と言ってのけた。
安東久照
あんとう ひさてる
不明-1600
立花家臣。肥後国人一揆、関ヶ原の戦いでは大津城の戦いに活躍。
その後の柳川城攻防戦・八院の戦いでは、石松政之と共に先鋒を務めた。松隅小源に煽られて突撃。
敵先鋒・鍋島茂忠を追い崩すも、十倍する加藤清正、鍋島直茂ら東軍の大軍には敵せず、乱戦の中、討死した。
安藤守就
あんどう もりなり
1503-1582
織田家臣。はじめ斎藤家に仕える。
稲葉一鉄、氏家ト全と並び美濃三人衆と呼ばれた重臣だったが、婿である竹中半兵衛と主家の稲葉山城を乗っ取り、
斎藤家の滅亡直前に信長に寝返ったりしている。姉川の戦いでは、勢いに乗る浅井軍を側面から攻め、織田軍を勝利に導く。
のちに武田家に通じたとして追放されたが、本能寺の変に乗じ挙兵。旧領回復を図るも、稲葉一鉄に討たれた。
安部元真
あんべ もとざね
1513-1587
今川家臣。義元死後、岡部正綱と共に駿府城を守ったが、武田信玄の侵攻を受けて自領に撤退。
今川滅亡後は徳川家康に仕え、遠江伯耆国塚城を任された。
のち武田軍が駿河に侵攻してくると武田の三浦右馬助を破るなど戦功を立てた。
安養寺氏種
あんようじ うじたね
不明-1606
浅井家臣。近江の豪族。三郎左衛門。お市の方と浅井長政の婚儀の仲介役を務めた安養寺経世と同一人物とも言われる。
姉川の戦いで織田軍の捕虜となり、織田信長にこのまま小谷城を落とせるかを聞かれたとき、無理だと答え、
信長は浅井長政の追撃を思いとどまったという。浅井家滅亡後は京極高次に仕えた。
飯尾乗連
いのお のりつら
不明-不明
今川家臣。遠江曳馬城主。譜代の重臣。今川義元の上洛に従うが、桶狭間で織田信長の急襲を受ける。
総大将の義元が討ち取られると、退却。義元死後は、義元の子・氏真に仕えた。
飯田直景
いいだ なおかげ
1562-1632
加藤清正の家臣。覚兵衛の名で有名。清正とは幼い頃からの親友。
豪傑として知られ、特に槍術に優れ、日本七槍の一人に数えられる。
その活躍は豊臣秀吉にも認められ「覚」の字を与えられたが使っていない。
築城術にも優れ、清正の城・熊本城には「飯田丸」という曲輪が今も残る。
清正死後、清正が褒めるから侍をしていたのだ、と侍をやめてしまった。
飯田義武
いいだ よしたけ
不明-1592
毛利家臣。川内警固衆に任じられ、毛利水軍の成立に携わった。厳島の戦いに活躍。
防長経略、九州大友氏との戦いに転戦した。第一次木津川口の戦いにも参戦し、兵糧入れを行った。
井伊直考
いい なおたか
1590-1659
徳川家臣。井伊直政の次男。大坂の陣では長宗我部盛親、木村重成の軍を撃破。
父ゆずりの「赤備え」を率いる勇猛な直考は「夜叉掃部(やしゃかもん)」と恐れられた。
病弱な兄にかわり家を継ぐ。徳川秀忠の死に際して、その子家光の後見を託され、大老となる。
以後、元老として幕府に重きをなした。猫の手招きにより雷を免れたという逸話で有名。
井伊直平
いい なおひら
1488-1563
今川家臣。遠江の豪族。直虎の曾祖父。井伊家はもともと南北朝の争いで南朝に味方し、北朝の今川家と対立していた。
直平は、井伊本家が今川家に反乱し追放された後、
当主となり、その後も一門に今川家への反逆者を出しながら、今川家支持の姿勢を貫いた。
今川義元の死後、反乱した天野家攻めに高齢を押して出陣したが、急死。
一説に天野家に味方した飯尾田鶴に毒殺されたともいう。
井伊直盛
いい なおもり
1506-1560
遠江井伊谷城主。直虎の父。はじめ今川家と敵対するが、敗れて今川義元に仕える。
桶狭間の戦いでは先鋒を務め、鷲津砦の攻撃などで活躍したが、義元と共に桶狭間で織田軍の奇襲を受け、討死。
伊香賀隆正
いかが たかまさ
不明-1555
陶家臣。陶晴賢の側近。厳島の戦いでは最後まで主君・晴賢に従い、その介錯を務めた。
池内真武
いけうち まさたけ
不明-不明
香宗我部家臣。隣国の安芸氏や長宗我部氏に圧迫されていた香宗我氏を存続させるため、
長宗我部元親の弟・親奏を養子に入れる計画が持ち上がったが、真武はこれに反対した。
のちに親奏が養子に入ると、親奏を養子に推した重臣を讒言して切腹させ、自分が重臣に収まった。
その後よく親奏を補佐し、香宗我氏存続に意を砕いた。
池田勝正
いけだ かつまさ
1539-1578
摂津の豪族。池田城主。織田信長の上洛軍に抵抗するも、降伏。
伊丹家、和田家と共に「摂津三守護」と称された。金ヶ崎の戦いで殿軍として活躍。
のち三好家に通じた荒木村重により追放された。
池田重安
いけだ しげやす
不明-不明
真田家臣。はじめ上杉憲政家臣、上野岩櫃城主・斎藤憲広に仕えていた。
真田幸隆の侵攻に際し寝返り、上州斎藤家は滅亡。真田家に仕える。関ヶ原の戦いでは真田信之に従い東軍に属した。
池田恒興
いけだ つねおき
1536-1584
織田家臣。織田信長の乳兄弟。信長に従い、各地を転戦した。信長死後、羽柴秀吉と共に明智光秀を討つ。
その後は秀吉に協力。小牧長久手の戦いの際、中入り作戦を提案、三河を強襲しようとして失敗。徳川軍に敗れて戦死した。
池田輝政
いけだ てるまさ
1565-1613
池田恒興の次男。関ヶ原緒戦で岐阜城攻略に参加。本戦では東軍先鋒として大奮戦。
その功績に加え、妻が家康の娘だった事から播磨姫路52万石の大領を得、「姫路宰相」「西国将軍」と称された。
池田長門
いけだ ながとの
不明-不明
真田家臣。昌幸、幸村に仕える。名は定信。関ヶ原の戦いでは西軍についた昌幸に従い、第二次上田城の戦いで活躍。
この戦いで、敵を釣り出して城に帰還した真田親子が城門前でどちらが先に入るかもめているのを見て、
両者をたしなめ、昌幸の馬の口を取って引き入れたという逸話が残る。
池田盛周
いけだ もりちか
不明-不明
最上家臣。はじめ大宝寺氏に仕え、上杉氏や本庄氏と戦った。
正義漢で領民に情け深く、豊臣秀吉の太閣検知に反対する一気に味方。上杉景勝と戦う。
天下への反逆者であるとの意を込め、自ら「悪次郎」と名をつけたという。
長谷堂の戦いでは上杉軍の志駄義時と戦い、敗れている。
生駒一正
いこま かずまさ
1555-1610
豊臣家臣。親正の子。はじめ織田信長に仕え、のちに秀吉に属す。紀州征伐に参加。
関ヶ原の戦いでは家名存続のため、父に西軍に自分は東軍に別れて戦った。戦後、父を助命し、家督を継いだ。
生駒親正
いこま ちかまさ
1526-1603
豊臣家臣。三中老の一人。美濃攻めから織田信長に仕えて、長篠の戦いなどに参戦。
本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原攻めに参陣した。
讃岐一国を与えれ、戸次川の戦いで戦死した前国主・十河存保の子を毒殺するなど、土着勢力を徹底的に粛清した。
関ヶ原の戦いでは自身は西軍に息子を東軍につけ、生駒家の存続を図った。
石井茂清
いしい しげきよ
不明-1622
鍋島家臣。龍造寺鍋島重臣・肥前石井家の出。直茂の下、国政を預かる。
主君・鍋島勝茂の命で上意討ちを行う最中に乱戦となり、事故で味方に斬られ、死去した。
石井茂成
いしい しげなり
不明-1634
鍋島家臣。龍造寺鍋島重臣・肥前石井家の出。鍋島直茂の甥。国政に当たり、財政再建に当たったが、失敗した。
石井生札
いしい よしもと
不明-1602
鍋島家臣。「鍋島三生」と称された三人の名臣の一人。
鍋島直茂の妻とははとこの関係で、直茂の子・勝茂は生札の屋敷で生まれた。
直茂の信頼厚く、外戚として、側近として鍋島家で重きをなした。
関ヶ原の戦い後の柳川城攻防戦では、鍋島水軍を率いて参戦している。
石井舎人
いしい しゃじん
不明-不明
真田家臣。関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子が九度山へ流されるときに従った16人の家臣の一人。
昌幸没後、一周忌の法要を済ませると、上田に戻り真田信之に仕えた。
石井信易
いしい のぶやす
不明-1584
龍造寺家臣。鍋島直茂の甥。沖田畷の戦いに旗本として出陣。
主君・龍造寺隆信と共に討死した。
石川昭光
いしかわ あきみつ
1550-1622
陸奥石川氏26代当主。伊達政宗の父・輝宗の弟。
石川家に佐竹家から入った養女をめとり、養子となり後を継いだ。
政宗の妻の実家・田村家との関係から、伊達家と対立。
人取橋、摺上原の戦いでは義兄・佐竹義重に従って戦った。
戦後、伊達家に従属。一門衆筆頭として重きをなし、大坂冬の陣まで参陣した。
石川家成
いしかわ いえなり
1534-1609
徳川家臣。数正の叔父。徳川家康無二の忠臣。
西三河の旗頭として、桶狭間の戦い、三河一向一揆、姉川の戦いなど初期の家康の戦いを支えた。
掛川城の戦いで今川氏真と追放すると、遠江掛川城主となり、旗頭の座は数正に譲る。
本来無視断絶となるはずの石川家は養子を迎えて存続を許された。
石川数正
いしかわ かずまさ
1533-1593
徳川家臣。幼少時から家康に仕え、政戦両方で活躍した。しかし、小牧長久手の戦いののち、突如謎の出奔。
豊臣秀吉に仕える。このため徳川軍は、三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
石川光昌
いしかわ みつまさ
1564-1605
伊達家臣。陸奥安達郡の豪族。伊達家に背いた大内定綱を攻め、その功で小出森城を与えられた。
しかし白石宗実の配下にされたのに不満を持ち、政宗に背き相馬家に属す。
そのため「小出森城の撫で斬り」があったばかりの小出森城は再び政宗に攻められ、またも大虐殺が行われた。
光昌は相馬家を頼って落ち延び、後に関ヶ原の戦いでは上杉家に属し、長谷堂の戦いに参戦した。戦後、牢人した。
石川康勝
いしかわ やすかつ
不明-1615
豊臣家臣。数正の次男。関ヶ原の戦いでは東軍に属す。のちに本多正信と大久保忠隣の権力争いに巻き込まれ、改易。
その翌年に大坂城に入る。冬の陣では火薬を誤爆させ、これを内応の合図と勘違いして攻め寄せた徳川軍を討ち破った。
夏の陣で真田幸村と共に突撃、討死した。
石巻康敬
いしまき やすまさ
1534-1613
北条家臣。評定衆として内政外交に活躍した。
名胡桃城事件の弁明のために豊臣秀吉のもとに赴いたが聞き入れられず、その帰路、徳川家康に捕らえられる。
主家滅亡後は徳川家康に仕えた。
石松政之
いしまつ まさゆき
1561-1600
立花家臣。父が岩屋城で討死した功で取り立てられる、関ヶ原の戦いでは、大津城の戦いに参陣。
そのあとの柳川城攻防戦・八院の戦いでは、安東久照と共に先鋒を務めた。松隅小源に煽られて突撃。
敵先鋒・鍋島茂忠を追い崩すも、十倍する加藤清正、鍋島直茂ら東軍の大軍にはかなわず、乱戦の中、討死。
伊集院忠棟
いじゅういん ただむね
不明-1599
島津家臣。義久の筆頭家老。文武両道に通じ、歌道の縁で細川藤考と知り合い、彼を通じて豊臣秀吉と親交を結んだ。
そのため豊臣軍の九州征伐に敗れた後も島津家が存続できたといわれる。九州征伐の敗戦の際、義久に従い出家した。
のち主・忠恒と対立。奸臣として暗殺され、庄内の乱で一族も静粛された。
泉田重光
いずみだ しげみつ
1529-1596
伊達家臣。大崎合戦では、留守政景と共に中井田城を攻めるが、政景と口論になり、軍の統制が取れず、大敗。
長江勝景と共に敵捕虜となる。勝景はまもなく解放されたが、重光は最上領の山形まで連行された。
葛西大崎一揆では、屋代景頼と共に伊達家が関わった証拠を消すため一揆の主立った者たちを抹殺している。
泉田胤清
いずみだ たねきよ
不明-1602
有馬家臣。胤雪の子。
伊達政宗の妻・愛姫の実家である田村家で家督争いが起こり、伊達派と有馬派が争うと、父と共に有馬家派の大越城に入り、政宗の攻撃を防ぎきった。
その後も主君・義胤に従い転戦、伊達家と戦う。
死後、継嗣なく、娘婿の泉胤政が居城・泉田城を継いだ。
泉田胤雪
いずみだ たねゆき
不明-不明
有馬家臣。雪斎を号す。
知将として知られ、伊達政宗の妻・愛姫の実家である田村家で家督争いが起こり、
伊達家派と有馬家派が争ったとき、有馬家派の大越城に入り、政宗の攻撃を防ぎきった。
泉胤秋
いずみ たねあき
不明-1587
有馬家臣。通称は大膳。
元は伊達政宗の妻・愛姫の実家である田村家の出で中津川姓を名乗っていた。
有馬家「御一家」堀内氏の先代当主が妻と不和となり出奔したため、妻をめとって堀内家を継いだが、やはり不和となり、堀内家を出る。
息子・胤政が、やはり有馬家「家一家」である泉家に養子に入ったため、その後見として泉家に入り、泉姓を名乗った。
泉胤政
いずみ たねまさ
不明-1633
有馬家臣。胤秋の子。泉田胤清の娘婿。
元は伊達政宗の妻・愛姫の実家である田村家の出だったが、有馬一族「御一家」である泉家に養子に入った。
1597年、主君・義胤と城普請を巡って対立し、出奔。上杉景勝に仕える。
関ヶ原の戦いの旧主・有馬家が中立を保ち、改易の危機に瀕すると景勝に願い出て、有馬家に帰参。
義胤より一時拝領して義胤と名乗り、有馬家の藩執権職を務めた。
伊勢貞興
いせ さだおき
1562-1582
明智家臣。光秀の娘婿。伊勢家は幕府の政所執事を務める名門だった。
最後の将軍・足利義昭追放後は、光秀に従い織田信長に仕えた。山崎の戦いでは、明智方として戦い、散った。
武家故実に詳しく「伊勢貞興返答書」を記す。
伊勢貞運
いせ さだかず
不明-1590
北条家臣。北条早雲が出、有職故実に通じた伊勢家の一族。
貞運も年中行事や有職故実を専門としており、
北条幻庵の著した『幻庵おほへ書』には貞運が教える武士のしきたりについての記述がある。
豊臣秀吉の小田原攻めで討死。
磯兼景道
いそかね かげみち
不明-不明
瀬戸内海の水軍・因島村上氏の将。
厳島の戦いでは、小早川隆景の要請に応じ、主君・村上吉充を説得して毛利の味方にした。
その後、隆景に仕え、隆景死後は毛利家に仕えた。
磯野員昌
いその かずまさ
不明-不明
浅井家臣。佐和山城主。姉川の戦いで先鋒を務める。織田陣深く攻め込み、13段の陣のうち11を破り、織田信長に肉迫する。
戦後、彼を警戒した信長は、員昌内通の噂を流し、これを信じた浅井長政が員昌への補給をすべて打ち切ったため孤立。
信長に降伏した。1578年、信長の怒りを買い、高野山で出家した。
板倉勝重
いたくら かつしげ
1545-1624
徳川家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の死により還俗、家督を継ぐ。
駿府や江戸の町奉行を務めると、京都所司代となり、西国諸大名の監視を行った。
伊丹親興
いたみ ちかおき
不明-1574
摂津の豪族。摂津伊丹城主。織田信長が奉じた将軍・足利義昭を支持し、和田惟政、池田勝正と共に摂津三守護に数えられた。
六条合戦に参戦。負傷しつつも、三好勢を撃退した。義昭と信長が対立すると義昭側につき、信長と対立。
信長家臣・荒木村重に居城を落とされ、自害した。伊丹城は有岡城と名を変え、村重の居城となる。
伊丹康直
いたみ やすなお
1523-1596
今川家臣。駿河を放浪中、今川義元に取り立てられる。水軍の将の才があり、氏真の代に海賊奉行となった。
主家滅亡後は、船大将として武田家に従う。のち徳川家に仕えて駿河の船奉行となった。
一条兼定
いちじょう かねさだ
1543-1585
土佐一条家4代当主。房基の子。土佐国司。
家督を継いだ当初は外交や合戦に励んだが、のちに政治に飽き酒色にふけり、家臣団に追放された。
旧領が長宗我部家の支配下に入ると、大友宗麟の助力を仰いで旧領回復を企てるが、長宗我部元親に敗れて実現しなかった。
一条信龍
いちじょう のぶたつ
1539-1582
武田家臣。武田信玄の末弟。武田家の一族・一条家を継ぐ。華美を好み、風流人として知られた。
軍装も豪華で、強兵をそろえていることを山県昌景に感心されている。
長篠の戦いでは織田軍の二重柵を破る活躍を見せ、馬場信房と共に、甥・勝頼の撤退を守るため、殿軍を務めている。
武田家滅亡時に徳川軍と戦い、戦死。
一宮宗是
いちのみや むねこれ
不明-1560
今川家臣。武田信玄の信濃出兵に際し、甲相駿三国同盟に従って、授兵として派遣された。桶狭間の戦いで討死。
一萬田鑑実
いちまた あきざね
不明-1588
大友家臣。豊後小牟礼城主。生涯のほとんどを軍略で過ごした一方で「黒染めの桜」を館に植え、花を愛した風流人。
主君・宗麟を招いて観桜会を開いた。耳川の戦い後、島津家の侵攻に一族が続々と島津に降る中、
大友家への忠義を貫くも一族離反の罪を主・義統に問われ自害。
一萬田鎮実
いちまた しげざね
不明-1587
大友家臣。鑑実の子。筑前を中心に転戦し、大叔父・高橋鑑種が謀反するとその討伐軍に加わり、
多々良浜の戦いにも参陣し、以後、毛利家と戦いを繰り広げている。
島津軍の侵攻が始まると、一族から島津家に寝返る者が相次ぎ、自身も内応したとも伝わる。
このためか主君・大友義統とにより父と共に自害させられた。
出浦盛清
いでうら もりきよ
1546-1623
真田家臣。はじめ武田家に仕えて忍者を統率した。
一時、森長可に属したが、本能寺の変後、長可が信濃より退くと、真田昌幸に従う。
のち信之に属し、横谷幸重と松代藩において忍者を統率した。
伊藤貞次
いとう さだつぐ
不明-不明
徳川家臣。奥三河の豪族・長篠菅沼家の家老。
主君・菅沼貞景は今川家に属していたが、桶狭間の戦い後、徳川家に仕え貞次も掛川城の戦いなど徳川家の戦いに転戦した。
武田軍の侵攻を受けると、貞景の後を継いだ正貞は降伏する。
武田信玄死後、徳川の攻囲を受け、正貞は居城長篠城を開城するが、これを武田信豊に内通と疑われ、捕らわれて獄死。
貞次は以後武田家に仕えた。
伊藤惣右衛門
いとう そうえもん
不明-1586
高橋紹運の家臣。岩屋城の戦いでは南大手門を守り、討死。
伊東長実
いとう ながざね
1560-1629
豊臣家臣。長久の子。秀頼の親衛隊「七手組」の1人。
関ヶ原の戦いでは大坂城にあって、石田三成の挙兵を徳川家康に伝える功を上げる。大坂の陣では豊臣側につき、敗北。
落城する大坂城から脱出後、秀頼の死を知り自害しようとしたが説得され、
同じく七手組の青木一重と共に大名として存続することを許された。
伊東長久
いとう ながひさ
不明-1585
織田家臣。祐元の子。尾張三本木村の戦いで、編笠をかぶって戦い抜いたため、信長から「編笠清蔵」の異名を賜る。
浅井家の小谷城攻撃に素手で参戦。その後秀吉の与力となり、腰母衣衆、旗奉行を歴任した。
越中の佐々政攻撃の際に、加賀で病死。
伊藤八郎
いとう はちろう
不明-1586
高橋紹運の家臣。岩屋城の戦いでは東松本砦を守り、討死。
伊東政世
いとう まさよ
1557-1628
北条家臣。氏政から「政」の字を与えられ「政世」と名乗る。御馬廻衆の一人。
豊臣秀吉の小田原攻めの際は小田原城に籠城していた。
主家滅亡後徳川家康の配下となり、槍奉行として関ヶ原の戦い、大坂の陣にも従軍した。
伊藤盛正
いとう もりまさ
豊臣家臣。美濃大垣城主。
関ヶ原の戦いでは、西軍に味方したが、大垣城を本陣にしようとした石田三成によって居城を追い出された。
関ヶ原本戦では松尾山に陣取るが、小早川秀秋に追い出された。敗戦後、改易。領地を追い出され、前田家に仕えた。
伊奈忠次
いな ただつぐ
1550-1610
徳川家臣。通称備前守。主君・家康の近習として民政に参画。
関東全土で検地や治水を行い、江戸幕府の経済基盤確率に貢献した。その施設は「伊奈流」、「備前検地」と呼ばれた。
稲次右近
いなつぎ うこん
1574-1638
有馬家臣。関ヶ原の戦いに、主・有馬則頼に従って東軍として出陣。
杭瀬川の戦いで蒲生頼郷の弟を討ち取っている。島原の乱で討死。
稲富祐直
いなとみ すけなお
1552-1611
細川家臣。稲富流砲術の開祖。
鉄砲の名人で、虎を的に素人と鉄砲の腕を競い、近距離から撃って外し、負けた。
関ヶ原前夜、ガラシャの警護を命じられるが、ガラシャを人質に取ろうとする西軍に囲まれると逃亡。
その後、ガラシャは自害した。のち、鉄砲の腕を買われ、徳川家に仕えた。
戦場では常に鎧を二重に着ていたため「二両具足」の異名を取る。
稲葉一鉄
いなば いってつ
1515-1589
織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、安藤守就、氏家ト全と並び美濃三人衆と呼ばれる重臣だった。
斎藤滅亡直前に織田軍に内通。その後、姉川、朝倉攻め、長島、長篠など主要な合戦で功を上げた。
頑固な性格でのちに「一徹者」の語源となった。本能寺の変後、秀吉に仕えた。
稲葉貞通
いなば さだみち
1546-1603
織田家臣。一鉄の嫡子。父と共に織田信長に仕えた。
のち父より譲り受けて美濃曽根城主となる。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、伊勢および九州に出陣。
美濃郡上八幡に城を築き、羽柴郡上侍従と呼ばれた。
関ヶ原では初め西軍に属すが、後に東軍に降り、本戦で活躍した。
稲吉新蔵人
いなよし しんくろうど
不明-不明
長宗我部家臣。引田の戦いで羽柴軍の仙石秀久を破り、その殿軍を務めた森権平を討ち取った。
井上春忠
いのうえ はるただ
不明-不明
毛利家臣。井上家は安芸の豪族で、毛利元就の家督継承を家を挙げて
支持したがそのため発言力が大きかったのを憎んだ元就により粛清された。
春忠はその粛清を免れ、元就の子・小早川隆景に仕え、側近として行動を共にした。
隆景の死後は毛利家に戻ったが、冷遇されて出奔した。
井上道勝
いのうえ みちかつ
不明-不明
斎藤家臣。長井道利の子。斎藤道三の甥にあたる。
斎藤氏滅亡後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の親衛隊・黄母衣衆に加わったとされる。
井上之房
いのうえ ゆきふさ
1554-1634
黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の一人に数えられる。黒田識隆、官兵衛、長政、忠之の4代に仕えた猛将。
長政が筑前に移封されると、黒崎城1万6千石を与えられた。
黒田騒動(忠之の代に起きたお家騒動)の際は栗山利章と結び、寵臣・倉八正俊を排斥した。
飯尾定宗
いいのお さだむね
織田家臣。織田信秀の従兄弟。尾張統一戦の守山城の戦いに参陣。
桶狭間の戦いでは鷲津砦を守るが、今川軍の朝比奈泰朝の攻撃を受け、討死。砦は陥落した。
飯尾常重
いいのお つねしげ
不明-1582
三好家臣。通称善之丞。阿波飯尾城主。1579年、長宗我部元親の侵攻軍と戦い、息子が討死している。
1582年、中富川の戦いで、十河存保に属し、長宗我部軍を迎え撃つが、討死。
飯尾尚清
いいのお ひさきよ
1528-1591
織田家臣。定宗の子。桶狭間の戦いでは鷲津砦を守るが、今川軍の朝比奈泰朝の攻撃を受け、敗走。
砦は陥落した。その後、織田信長の側近として、三木城の戦いなどの検視役を務めている。
本能寺の変後は織田信雄に仕え、その後羽柴秀吉に仕えた。
猪子兵助
いのこ ひょうすけ
不明-1582
織田家臣。一時の弟。はじめ美濃の斎藤道三に属し、織田信長と道三が、正徳寺で会見したとき、その側に仕えていたという。
のち信長の側近となる。本能寺の変では織田信忠に従い、二条城に籠もり明智軍と戦い、討死した。
猪俣邦憲
いのまた くにのり
不明-1590
北条家臣。北条譜代家臣・富永家の出で猪俣家に養子に入る。北条氏邦に属し、のち沼田城代となる。
折から北条家は豊臣家に臣従するか否かで紛糾していたが
このとき真田・北条間で係争中だった名胡桃城を真田昌幸家臣・鈴木重則を策にはめて接収してしまう。
これが豊臣秀吉に小田原討伐の口実を与えてしまった。
主家滅亡後、捕らえられて磔にされたとも、前田利家に仕えたともいう。
庵原忠春
いはら ただはる
不明-1560
今川家臣。太原雪斎の甥。忠緑の弟。元政の義理の叔父。桶狭間の戦いで討死。
庵原忠縁
いはら ただより
不明-不明
今川家臣。通称将監。駿河の豪族。太原雪斎の甥。忠春の兄。元政の義理の叔父にあたる。
桶狭間の戦いに参加。その後今川氏真に仕え、武田信玄の駿河侵攻に抗戦。最後まで今川家に忠を尽くした。
庵原元政
いはら もとまさ
不明-不明
今川家臣。父・忠胤は由比家の出で、太原雪斎の兄の養子となった。由比正信の従兄弟。之政とも。
桶狭間の戦いでは旗奉行を務めた。その後、武田信玄の駿河侵攻軍を迎え撃ったが敗れた。
かつて山本勘助は父・忠胤に9年仕えたが、今川家に仕官できないことを嘆き、武田家に行ったという。
今川氏真
いまがわ うじざね
1538-1615
今川家10代当主。義元の嫡子。
家督継承時は駿河遠江三河3カ国の太守であったが、
徳川家の独立や武田家の侵入を受けて居城を追われ、戦国大名としての今川家は滅亡する。
その後、北条家や徳川家の庇護を受けつつ流浪した。芸能に造詣が深く、蹴鞠や和歌を披露して過ごしたという。
今村氏直
いまむら うじなお
不明-1570
浅井家臣。通称掃部助。1560年、野良田の戦いで後陣に名を連ねる。
姉川の戦いにて、遠藤直経らと共に討死した。
色部勝長
いろべ かつなが
1493-1568
上杉家臣。越後平林城主。謙信の父・長尾為景からの家臣。
川中島の戦いでは柿崎晴家隊の危機を救い、謙信から「血染めの感状」をもらう。
1568年、謀反した本庄繁長討伐の際、討死した。
色部長実
いろべ ながざね
1553-1592
上杉家臣。長真とも書く。勝長の子。越後揚北衆で平林城主。兄・顕長から譲られて家督を継ぐ。
御館の乱では景勝方に属す。豊臣秀吉に出羽仙北の一揆平定を命じられ、大谷吉継に従って戦った。
色部光長
いろべ みつなが
1587-1640
上杉家臣。父・長実の没後、家督を相続する。
妻は直江兼続の妹。越後平林城主となったのち、主君・景勝の転封にともない出羽金山城の城代となる。
長谷堂の戦いでは、畑谷城を攻略した。
岩井信能
いわい のぶよし
1553-1620
上杉家臣。御館の乱では上杉景勝に属し飯山城主となる。城下町を整備して近世飯山町の基礎を築いた。
主家の会津転封後は、安田能元、大石綱元と共に会津三奉行の一人に数えられた。
岩城常隆
いわき つねたか
1567-1590
陸奥浜通り南部の小大名。父は伊達輝宗の兄で、伊達家から岩城家に養子に入った。
父が病で倒れると、母の実家・佐竹家の勢力下に入る。人取橋、摺上原の戦いに佐竹側で参陣。
のち、伊達家と和睦した。
岩成友通
いわなり ともみち
不明-1573
三好家臣。三好三人衆の一人。三好康慶と義継の二代に仕え、三好一族と同等に遇された。
義継に従って足利義輝暗殺などに加わるが、義継が織田信長の上洛軍に降ると背き、他の三人衆と共に信長と戦う。
のち信長に降伏したが、将軍・足利義昭の挙兵に応じて背き、細川藤考に攻められて敗死した。
岩室重休
いわむろ しげやす
不明-1561
織田家臣。桶狭間の戦いで、突如奇襲を始めた織田信長に真っ先に従った5人のうちの一人。
のち尾張統一戦の小口城攻めでこめかみを突かれ、戦死。「隠れなき器用の仁」だったと記され、その死を信長も悼んだという。
上杉景虎
うえすぎ かげとら
1554-1579
北条氏康の七男。はじめは北条三郎と名乗ったとされる。越相同盟成立の際に越後に赴き、のちに上杉謙信の養子となった。
謙信の死後、御館の乱において義弟の上杉景勝と家督を争うが、敗死した。
上杉景信
うえすぎ かげのぶ
不明-1578
上杉家臣。古志長尾家の出身で、上杉謙信の親族に当たる。謙信が関東管領に就任した際、共に上杉姓へと改めた。
一門衆の筆頭格として各地を転戦する。謙信没後、御館の乱で上杉景虎方に属し、景勝勢と戦って敗死した。
上杉憲政
うえすぎ のりまさ
1523-1579
山内上杉家20代当主。関東管領。河越夜戦に敗れて勢力を失い、北条軍に追われ越後に逃走。
長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉姓と関東管領職を譲った。
御館の乱では和睦交渉のため、上杉景虎の子・道満丸を伴って上杉景勝の陣に赴くが、道満丸と共に斬られた。
上田朝直
うえだ ともなお
1494-1582
扇谷上杉家臣。北条家の武蔵侵攻軍に降り、以後は北条家に仕える。
他国衆として松山城主となり、独自の朱印状を使用して北条家から独立した支配を行った。
上田憲定
うえだ のりさだ
1546-1597
北条家臣。朝直の子。武蔵松山城主。城下町の経営、市場の創設など、主に行政面で手腕を発揮した。
豊臣秀吉の小田原討伐時には小田原城に籠城。その後の消息は不明。
魚住景固
うおずみ かげかた
1528-1574
朝倉家臣。一乗谷四奉行の一人。織田軍が強勢となると、出陣を拒んで信長に降伏した。
朝倉滅亡後、同じく朝倉氏から降っていた富田長繁と対立。毒殺されて、魚住氏は滅亡した。
宇賀島忠重
うかしま ただしげ
不明-1555
陶家臣。備後尾張水道を根拠とする宇賀島水軍を率いる。厳島の戦いで陶晴賢につき、敗北。
その後、毛利元就と村上水軍によって徹底的に滅ぼされ、根拠地であった浮島は無人島になってしまった。
宇喜多忠家
うきた ただいえ
1533-1609
宇喜多直家の異母弟。直家没後は幼少の秀家を後見した。時に陣代として各地を転戦。
兄や甥の創業に大いに貢献した。
稀代の謀略家である兄を恐れており、兄の前に出るときには密かに鎖帷子を身につけていたという。
宇喜多直家
うきた なおいえ
1529-1582
備前、美作の大名。希代の謀略家。
祖父を主君・浦上宗景に誅殺され、没落していたが、
毒殺、暗殺、権謀術数の限りを尽くして、数々の敵を葬ってのし上がっていった。
ついには祖父の仇を討ち、主君・宗景を追放、大名となった。
宇喜多秀家
うきた ひでいえ
1572-1655
備前の大名。直家の子。羽柴秀吉の備中高松城攻めに協力。寵愛され五大老に列せられる。
関ヶ原の戦いで、西軍の副大将として檄文を発し、自らも福島正則軍と戦った。戦後、死罪はまぬがれたが、八丈島へ配流された。
宇佐美勝行
うさみ かつゆき
不明-不明
上杉家臣。宇佐美定満の子。定満の死後上杉家を離れ、佐々成政、小西行長に仕える。
関ヶ原の戦いでは上杉家に従い、上杉家の旧領・越後で一揆を起こしたとも、
長谷堂の戦いで前田慶次と共に殿軍を務めたとも言われる。
宇佐美定満
うさみ さだみつ
1489-1564
上杉謙信の軍師。敵対していた謙信の従兄弟・長尾政景との和議を成立させるなど、数多くの功をあげる。
1564年、その政景と野尻池で舟遊びしている最中に溺死した。自らの命と引き換えに危険人物を葬ったとの説もある。
宇佐美実定
うさみ さねさだ
不明-不明
上杉家臣。第四次川中島の戦いに参戦。『上杉年譜』にその名が見える。
定満の子・勝行と同一人物とも言われる。
氏家光氏
うじいえ あきうじ
不明-不明
最上家臣。成沢道忠の子。氏家守棟の養子となる。出羽成沢城主。義光の三女・竹姫を妻とした。
1600年、長谷堂城を守り、上杉軍・直江兼続の軍勢を撃退した。最上家改易後は毛利家に仕えた。
氏家直昌
うじいえ なおまさ
不明-1583
織田家臣。ト全の長男。父の後を継ぎ、美濃大垣城主となる。1573年、刀根坂の戦いで、旧主・斎藤義龍を討ち取った。
その後、荒木村重が信長に背き、稲葉貞道の塁を襲ったときもこれを撃退した。
氏家ト全
うじいえ とぜん
1512-1571
織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、安藤守就、稲葉一鉄と並び、美濃三人衆と呼ばれる重臣だった。
斎藤家滅亡直前に織田軍に内通した。1571年、柴田勝家に従って、伊勢長島一揆平定に出陣するも敗退。
殿軍を務めて討死した。
氏家行広
うじいえ ゆきひろ
1546-1615
豊臣家臣。ト全の次男。豊臣家に尽くした忠義の士。
関ヶ原の戦いでは幼い豊臣秀頼を思い、中立を宣言するが、攻められて西軍に属し、伊勢桑名城を守る。戦後改易。
その後、大坂の陣では豊臣方として参戦。徳川家康に招かれたが応じなかった。落城時に自刃。
氏家吉継
うじいえ よしつぐ
不明-1591
大崎家臣。岩出山城主。大崎合戦の際には伊場野惣八郎と結び、反主流派の中心人物として活動。
伊達政宗に援軍の要請し、伊達家の介入を招いた。
主家の没落後は伊達政宗に仕えたが、間もなく病没した。
臼杵鑑速
うすき あきすみ
1520-1575
大友家臣。豊後三老の一人。外交事務を担当し、肥前方分を務め、さらに筑前平定軍の総大将を務めるなど、
主君・大友宗麟を支え、主家の内政、軍事、外交全般に関与した。
臼杵鎮続
うすき しげつぐ
不明-1578
大友家臣。鑑続、鑑速の弟。兄・鑑続の死後、その後を継ぎ、筑前を統括した。
博多の治水を行い、その発展に大きく寄与した。
敵を深追いして敗北し、主君・大友宗麟より「短慮」であるとして、一時期、豊後に召還されたこともある。
耳川の戦いでは、甥・統景の後見として出陣し、共に討死した。
臼杵統景
うすき むねかげ
1560-1578
大友家臣。鑑速の子。能に優れ、鼓をよくした。叔父・鎮続の後見を受け、耳川の戦いに出陣。討死した。
その際立って美しい若武者の死に、敵将・島津家久は涙したと伝えられる。
内田鎮家
うちだ しげいえ
不明-1619
立花家臣。道雪、宗茂の2代に仕えた。
北上した島津軍に立花城が包囲されたときは、偽りの使者として島津の陣に乗り込み、時を稼ぐ。
豊臣の援軍が到着すると、堂々と策であったことを明かすが、島津忠長は鎮家を家臣と称え、立花城に送り返した。
関ヶ原の戦いでは柳川城の留守を守る。宗茂改易後、牢人。宗茂の旧領復帰前に死去。
宇都宮広綱
うつのみや ひろつな
1545-1576
下野の大名。宇都宮家21代当主。父・尚綱の戦死後、家臣・壬生綱房に居城を奪われる。
宿老・芳賀高定らの協力を得て、北条家と結んだ綱房ら領内の反宇都宮勢力と戦い、居城を奪還した。
病弱の身ながら、佐竹家、結城家などと反北条包囲綱「東方之衆」の連携を保った。
鵜殿氏長
うどの うじなが
1549-1624
今川家臣。長照の子。父が戦死した際に徳川家康に捕らえられ、家康の妻子と人質交換で今川館に赴く。
主家滅亡後は徳川家に属し、姉川、長篠の戦いなどに従軍した。家康が関東に移封されると、1千7百石を領した。
鵜殿長照
うどの ながてる
今川家臣。三河上ノ郷城主。父・長持の代から今川家に仕える。母は今川義元の妹。桶狭間の戦いでは大高城を守る。
義元敗死後、三河の諸将が徳川家康に属する中、今川にとどまる。その後家康の猛攻を受け、洛城。討死。
宇奈瀬兼久
うなせ かねひさ
不明-1582
三好家臣。清原氏に属する阿波の豪族。通称亀之進。
長宗我部元親の阿波侵攻には、三好家と長宗我部家の間で中立を保つが、1582年、長宗我部軍に攻められて清原氏は降伏。
兼久の居城・今市城も蹂躙され、兼久は城は脱出。
その後の中富川の戦いで十河存保率いる三好軍について長宗我部と戦い、討死した。
宇野弥七
うの やしち
不明-1569
若狭の豪族。武勇で知られていた。
若狭武田家一門・山県盛信と共に織田信長訪問中、三好勢の急襲を受け、六条合戦に巻き込まれ、参戦。
敵中に突撃し、討死した。
当時の若狭は、内乱に隣国越前の大名・朝倉義景が介入し、国主・武田元明を連れ去られてしまっており、
弥七ら若狭国人は、将軍家を奉じる信長に庇護を求めて上京していた。
馬詰三四郎
まづめ さんしろう
不明-1582
三好家臣。阿波保崎城主。外城として、主君の居城・勝瑞城を守った。
中富川の戦いでは、勝瑞城主・十河存保に従い中富川の戦いに出陣。
長宗我部元親軍と戦い、討死した。
浦上宗景
うらがみ むねかげ
不明-不明
備前の大名。浦上氏は元々赤松氏の家臣で、父・村宗が主君・赤松義村を討って下克上した。
村宗の死後、家督を兄の政宗と争って独立。
備前、美作に支配を広げるが、家臣の宇喜多直家の勢力に、次第に圧迫され、ついには居城・天神山城を追放された。
上井覚兼
うわい さとかね
1545-1589
島津家臣。日向攻めに功があり、肥後、肥前にも転戦。豊臣秀吉の九州征伐の際豊臣秀長に降ったのち隠棲した。
優れた教養を持ち、『上井覚兼日記』「伊勢守心得書」などの著書を残している。
頴娃久虎
えい ひさとら
1558-1587
島津家臣。大友軍との耳川での戦い、龍造寺軍との沖田畷での戦いなどで数々の戦功をあげる。
その働きは「豊肥戦(の勝利)は、すべて久虎によるもの」と島津義弘に賞賛された。
江上家種
えがみ いえたね
不明-1593
龍造寺家臣。龍造寺隆信の次男。堂々とした体格で、武勇に優れ、兄弟の中でも最も父の気風を受け継いでいた。
龍造寺家と対立していた江上家の養子に入り、傘下に収める。
沖田畷の戦いを生きのびるも、そのその後の重臣・鍋島直茂の台頭を押さえられぬまま、遠征先で討死した。
江口光清
えぐち あききよ
不明-1600
最上家臣。長谷堂の戦いで畑谷城を守る。
主君・最上義光は光清に撤退命令を出すが、「敵を前に城を捨てては武士の名折れ」と上杉軍相手に徹底抗戦。
対して直江兼続は付近の住民もろとも撫で斬りにした。連歌に通じ、主君・義光ともよくやりとりをしていた。
江口玄蕃
えぐち げんば
不明-不明
土佐一条家臣。主君・一条兼定を重臣らが追放するとこれに怒り、依岡左京、加久見左衛門らと共に挙兵。
重臣らを討つが、これが隣国・長宗我部元親の介入を招き、一条家の滅亡を早めた。
江藤又右衛門
えとう またえもん
不明-不明
大友家臣。大友義統の下、石垣原の戦いに参陣し、惨敗。
田原親賢、清田八左衛門、春日善八郎と共に、義統に従って戦場を落ちのびた。
江井胤治
しらい たねはる
1504-1589
有馬家臣。江井家は有馬家の一族。有馬家三代の当主に仕えた。
伊達政宗の妻・愛姫の実家である田村家で家督争いが起こり、田村家中が伊達家派と有馬家派に分かれて争ったとき、
主君・有馬義胤に従い、田村家居城・三春城に入ろうとしたが、伊達家派に狙撃され死亡した。
海老名友清
えびな ともきよ
不明-1577
松永家臣。松永久秀の娘婿。槍の名手だったという。
久秀が織田信長に反旗を翻し、新貴山城に籠もると、
千の兵で大和片岡城を守り明智光秀、細川忠興ら五千の兵を相手に奮戦したが、衆寡敵せず討死した。
江村親俊
えむら ちかとし
不明-不明
長宗我部家臣。親家の子。元親の下、使臣として活躍した。豊臣秀吉の四国征伐の際には、阿波一宮城で谷忠澄とともに抵抗。
戦後、元親が三男・津野親忠を秀吉の人質に送った際には、親忠に従って伏見へ赴いた。
江里口信常
えりぐち のぶつね
不明-不明
龍造寺家臣。龍造寺四天王の一人。
沖田畷の戦いで、主君・隆信討死の報を聞くや、仇を討とうと単身で敵総大将・島津家久本陣に突入。
壮絶な最期を遂げる。戦後、家久から「無双の剛の者」と称賛された。
円城寺信胤
えんじょうじ のぶたね
1548-1584
龍造寺家臣。龍造寺四天王の一人。隆信に仕えて、諸戦で功を立てた。
沖田畷の戦いでは主君・隆信と同じ「熊の毛皮を使った鎧」という出立ちで影武者を務め島津家の軍勢に斬り込んで戦死した。
遠藤直経
えんどう なおつね
1531-1570
浅井家臣。豪勇で知られる。織田信長を警戒し、長政と信長の妹・お市との婚姻時には信長暗殺を献言。
逆に金ヶ崎の戦いの際には、織田軍につくことを主張した。姉川の激戦の最中、直経は織田の武将を装い、織田陣に潜入。
信長に接近して討ち果たそうとはかるが、竹中重矩に正体を見破られ討死する。
遠藤宗信
えんどう むねのぶ
1572-1593
伊達家臣。基信の子。
父が主君・伊達輝宗に殉死したため、若くして家を継ぐ。
佐竹軍との戦いで活躍し、田村城を守った。一時伊達家を出奔するが後に帰参。
まもなく若くして病死した。
遠藤基信
えんどう もとのぶ
1532-1585
伊達家臣。伊達家筆頭家老・中野宗時の家来だったが、宗時謀反の企みを輝宗に訴え、宿老に取り立てられた。
外交で活躍し、織田信長とよしみを通じるよう提案した。輝宗の死後、墓前で殉死した。
遠藤慶隆
えんどう よしたか
1550-1632
織田家臣。美濃の豪族。郡上八幡城主。信長死後、織田信考に属していたが、その死後、豊臣秀吉に降る。
小牧長久手の戦いの際、織田信雄ほの内通疑惑により郡上八幡を追われた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の稲葉貞通が治めていた郡上八幡城を攻めた。
戦後、その功が家康に認められ、旧領に復帰した。
大内定綱
おおうち さだつな
1545-1610
奥州の豪族。塩松城主。情勢に応じて諸家と結び、乱世を渡りきる。
伊達政宗が伊達家当主となると背き、小出森城の戦い、輝宗の死、人取橋の戦いを招くが、のちに米沢城に参じて政宗に帰属する。
以後、政治にも戦闘にも活躍した。十文字槍の達人でもあった。
大久保忠佐
おおくぼ ただすけ
1537-1613
徳川家臣。忠世の弟。徳川十六神将の一人。武芸に優れ、長篠の戦いで兄とともに「膏薬侍」と織田信長に賞賛される。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属し真田昌幸、幸村親子に足止めされた。戦後、駿河沼津2万石を領した。
大久保忠隣
おおくぼ ただちか
1553-1628
徳川家臣。忠世の三男。三河一揆鎮圧の頃から家康に従い、各地を転戦。
家康の三男・秀忠の家老となり、秀忠の将軍就任に尽力した。
大坂の陣直前、豊臣家に融和的であった忠隣は本多正信らとの権力闘争に敗れて失脚。出家した。
大久保忠世
おおくぼ ただよ
1532-1594
徳川家臣。徳川十六神将の一人。
猛将として知られ、三方ヶ原の戦いで大敗した時、迫り来る武田軍に猛反撃を加え、家康を無事帰還させた。
長篠の戦いでも、鉄砲隊を率いて大奮戦。織田信長から、その働きを絶賛された。
大崎泰継
おおざき やすつぐ
不明−不明
上杉家臣。永禄年間の「諸国衆御太刀之次第写」に「侍衆」の「披露太刀」の中に「大崎殿」としてその名が見える。
大崎義隆
おおさき よしたか
1548-1603
大崎家13代当主。奥州探題。伊達政宗と争った。
大崎合戦で一度は政宗の軍を退けるが、摺上原の戦いで奥州の覇者となった政宗に抗しきれず、ついにはその傘下に入った。
豊臣秀吉の小田原討伐に参陣しなかったため改易。
その後お家再興の約定を取り付けたが、葛西大崎一揆が起き、お家再興も流れた。上杉景勝を頼り、家臣となる。
大代内匠
おおしろ たくみ
不明-1582
三好家臣。阿波大代城主。父は篠原実長の娘を妻とし、実長と共に十河存保と対立したが、存保に攻められ、その軍門に降る。
中富川の戦いで、長宗我部元親と戦い、討死した。
大須賀康高
おおすが やすたか
1527-1589
徳川家臣。猛勇な将で、合戦では先鋒や殿軍を多く務めた。小牧長久手の戦いの際には先鋒となり、豊臣秀次軍を撃破している。
軍事だけでなく政治の面でも、三河奉行を務めるなど家康を助けた。
太田一成
おおた かずしげ
不明-不明
豊臣家臣。一吉の子。関ヶ原の戦いで、一成は西軍に、一成の従兄弟の政成が東軍につき、太田家の存続を図った。
太田成方
おおた なりたか
1541-1598
立花家臣。通称久作。元は高橋紹運に仕えていたが、紹運の子・立花宗茂が
立花家に養子に入るときに世戸口十兵衛と共に後見として宗茂に従い、立花家臣となる。
立花家が豊臣家に属した後、遠征先で戦死。
太田資正
おおた すけまさ
1522-1591
扇谷上杉家臣。名将・太田道灌の子孫。三楽斎と号す。卓越した軍略家。
普段、犬と遊んでばかりいたがそれは犬の訓練で、後にその犬を伝令犬として活用し、戦を勝利に導いた。
北条家に徹底して対抗したが、親北条派の息子に追放され、その息子の死後、北条氏房が養子に入り北条家に家を乗っ取られてしまう。
その後も佐竹義重と共に北条に対抗し続け、北条家滅亡の翌年、息を引き取った。
大谷帯刀
おおたに たいとう
不明-1590
北条家臣。名は嘉信。三家老、五色備えの下に位置する北条二十将衆の一人。相模御幣山砦主。
1569年、武田信玄の小田原城攻め(三増峠の戦い)では御幣山砦は落とされたが、小田原城に籠もり抗戦した。
豊臣秀吉の小田原攻めでは上野西牧城に籠もり、討死した。
大谷吉治
おおたに よしはる
1581-1615
豊臣家臣。吉継の長男。父と共に関ヶ原の戦いで奮戦。小早川秀秋の寝返りにより父が自害後、戦場を離脱。
大坂の陣では、豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城に入る。夏の陣・天王寺口の戦いで討死。
大寺松太輔
おおてらまつ たいすけ
不明-1582
三好家臣・赤沢宗伝配下。赤沢家十二人衆の一人。阿波大寺城主。
中富川の戦いでは、宗伝に従い、長宗我部元親と戦い、討死した。
大友義統
おおとも よしむね
1558-1610
豊後の大名。宗麟の長男。島津軍の侵攻を受けるが、豊臣秀吉の庇護を受け、滅亡をまぬがれる。
だが、のちに秀吉の勘気を受け、改易。関ヶ原の戦いでは毛利輝元に煽動され、
西軍に属して、旧領奪回を狙うが、黒田官兵衛に石垣原の戦いで敗れた。
大西頼包
おおにし よりかね
不明-不明
三好家臣。阿波白地城主。覚養の弟。白地城は四国の交通の中心地にあり、
長宗我部元親はここを四国統一の足がかりにすべく攻め込んできた。
覚養は頼包を人質に和睦するが、すぐに三好軍に寝返る。しかし元親は頼包を厚遇。
この心意気に感じ入った頼包は長宗我部家臣となり、兄を説得して、降伏させた。
引田の戦いでは香川之景と共に仙石秀久を破った。
大野直昌
おおの なおしげ
不明-不明
河野家臣。伊予大除城主。家老衆筆頭。武勇父祖を超え、無双の誉は抜きん出ていたと伝わる。
毛利家など近隣大名の侵攻を撃退。主君・通直が豊臣秀吉の四国征伐軍に降り、改易されると、主君に従い安芸に移住した。
大野直之
おおの なおゆき
不明-1585
伊予河野家臣。直昌の弟。宇都宮豊綱に寝返り、信頼を得て権力を握り、ついには長宗我部元親と結んで、豊綱を追放。
その居城・大洲城を手に入れる。しかし小早川隆景の支援を得た河野家に敗北。
兄・直昌の助命嘆願で命は助けられたがまたも背き直昌暗殺を企み失敗する。
元親の力で大洲城に復帰。しかし豊臣秀吉の四国征伐軍に敗れ、せめて3才の娘の命だけはと請うたが、共に殺された。
大野治胤
おおの はるたね
不明-1615
豊臣家臣。治長の弟。道犬斎と称した。大坂冬の陣では、「橙武者」と罵られた。
大坂夏の陣の際は堺を焼き討ちした。大坂城が落城すると、逃走するが捕らえられ、堺で逆に火あぶりにされた。
大野治長
おおの はるなが
1569-1615
豊臣家臣。忠誠残るところなしと徳川家康に称賛された。
母は茶々の乳母で縁が深かったことから、豊臣秀頼は茶々との密通の子との噂が立った。
関ヶ原の戦いの直前、家康暗殺を企んだとして流罪となる。関ヶ原の戦いで福島正則の陣に加わり戦功を立て復帰。
大坂城の実権を握る。冬の陣では諸将の反対を押し切って徳川家と和議を結び、堀を埋められた。
翌年夏の陣で大坂城は落城。自害する。
大野治房
おおの はるふさ
不明-1615
豊臣家臣。治長の弟。大坂冬の陣では、船場の砦を堅く守り、撤退命令にも応じなかった。
夏の陣では大和郡山城を攻めて、筒井定慶を敗走させた。
大坂城落城の際、秀頼の子・国松丸を連れて逃亡するが捕らえられ、斬首される。
大村純忠
おおむら すみただ
1533-1587
肥前の大名。有馬晴信の次男。キリスト教に傾倒。長崎などの港を開き、南蛮貿易で栄えた。
甥・千々石ミゲルらを天正遣欧少年使節としてローマへ派遣した。
のち龍造寺家の圧迫を受け、その従属下に入るが、沖田畷の戦いでは、同族の有馬家との戦いを避け、空砲で戦った。
そのため敗戦時に敵・島津軍の追撃を受けなかったという。豊臣秀吉の九州征伐に従い、領地を安堵された。
大村喜前
おおむら よしあき
1569-1616
肥前の大名。純忠の嫡男。関ヶ原の戦いでは東軍に属して、所領を安堵された。
キリスト教から日蓮宗に転じ、キリシタンを迫害したため、のちに毒殺された。
岡国高
おか くにたか
不明-1577
松永家臣。大和の豪族で元来興福寺に属する一族だが、興福寺と対立した松永久秀と行動を共にする。
織田信長上洛時に久秀と共に信長に属す。武田信玄の西上作戦時には、久秀が武田家に内通する使いを務める。
信玄死後は久秀より早く信長に降伏。だが、居城・岡城を信長に焼き討ちされた。
1577年、久秀が再び信長に背くとこれに同調し、命運を共にしたといわれるが、その後も生き残っていたらしい記録も残っている。
小笠原長忠
おがさわら ながただ
不明-不明
徳川家臣。信興とも。遠江高天神城主。
はじめ今川家に仕えたが、今川家が衰退すると僚将・小原鎮実の首を土産に徳川家に仕える。
武田信玄の大軍勢を寡兵で撃退し、名を馳せた。
しかし数年後、武田勝頼に城を包囲された際、徳川家康が援軍を出さず、武田方に降伏した。
ほどなく病死したとも、武田滅亡後、家康に降伏の罪を問われ、処刑されたとも、北条三滅亡後、処刑されたとも伝わる。
小笠原信之
おがさわら のぶゆき
1570-1614
徳川家臣。酒井忠次の三男。小笠原信嶺の娘をめとり、小笠原家を継ぐ。
小田原討伐に従軍。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従って、第二次上田城の戦いに参戦した。
小笠原秀清
おがさわら ひできよ
不明-1600
細川家臣。少斎の名で有名。
幕府奉公衆の家柄で将軍・足利義輝が暗殺された後細川藤孝に仕える。
関ヶ原前夜、細側忠興夫人・ガラシャを人質に取ろうとする西軍の要求を拒絶。
ガラシャを刺し殺したのち、自らも自害した。
小笠原秀政
おがさわら ひでまさ
1569-1615
徳川家臣。貞慶の子。父が石川数正の配下だったので、共に一時、豊臣家に仕えた。
のちに徳川家に復帰し、関ヶ原の戦いの後、加増される。
大坂の陣では、徳川軍先鋒の本多忠朝を救援。豊臣方の毛利勝永隊と交戦して天王山口て討死。
小笠原康広
おがさわら やすひろ
1531-1598
北条家臣。氏康、氏政に仕え、武者奉行を務めた。
秀吉の小田原討伐で主家が滅亡すると、氏政の長男・氏直に従って高野山に入る。氏直没後、徳川家康に仕えた。
岡田直胤
おかだ なおたね
1560-1591
相馬家臣。岡田家は相馬家の一族「御一家」であり家臣筆頭格だった。
同じく「御一家」である泉家は岡田家の同族である。若くして病死した。娘は泉胤政に嫁いだ。
岡部長盛
おかべ ながもり
1568-1632
徳川家臣。正綱の子。勇猛果敢で「岡部の黒鬼」の異名を取る。小牧長久手の戦い、信濃上田城攻めなどに参陣。
下総に1万2千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは下総黒羽城で上杉家に備える。大坂夏の陣のあと、美濃大垣城主となる。
岡部正綱
おかべ まさつな
1542-1584
今川家臣。元信の兄。今川滅亡後、信玄に「一将は得難い」と請われて武田家に仕え、
駿河先方衆として三方ヶ原の戦いなどに従軍した。
武田家滅亡後、徳川家康に仕え、本能寺の変後、武田旧臣を取りまとめて甲斐平定に貢献した。
その武田旧臣接待のために飲み過ぎて体を壊し、死んだ。
岡部元信
おかべ もとのぶ
不明-1581
今川家の勇将。正綱の弟。桶狭間の戦いで、主君・今川義元が討たれた後も抗戦し、義元の首を奪回してから帰国した。
今川家滅亡後は武田家に仕え、高天神城を守備。
本多忠勝らの猛攻に3年の間耐えるも、武田勝頼からの援軍はなく、飢餓状態に。落城時に敵に突撃し、討死。
岡吉正
おか よしまさ
不明-不明
紀伊の豪族。雑賀衆の一員。雑賀孫市と共に、石山本願寺に籠城し、織田信長に抵抗した。
射撃の腕に優れ、本願寺攻めの陣頭に立った信長を狙撃して、大腿部に重傷を負わせたという。
のち信長に降り、信長没後、羽柴秀吉が紀州征伐に動くと、これに従った。
小川祐忠
おがわ すけただ
不明-1601
近江の豪族。はじめ浅井長政に仕えるが、敗れて織田信長に降伏。本能寺の変では明智光秀に属し、羽柴秀吉に降伏。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に属すが、柴田勝豊と共に秀吉に寝返り。
関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、小早川秀秋と同時に東軍に寝返った。戦後改易。程なく死去。
小河信俊
おがわ のぶとし
不明-1584
龍造寺家臣。鍋島直茂の弟。信友とも。
龍造寺重臣・小河信安が、龍造寺家の好敵手・神代勝利と一騎打ちで敗れ討死すると、その後を継いだ。
河上の戦いで神代勝利に勝利。その後も大村家との戦いなどで軍功を上げる。
沖田畷の戦いでは主君・龍造寺隆信の旗本として出陣。主君と共に討死した。
萩田長繁
おぎた ながしげ
1562-1641
上杉家臣。御館の乱で上杉景勝につき、上杉景虎側の猛将・北条景広を暗殺。名を揚げる。
豊臣秀吉の前で息子がどじを踏んだため、景勝の怒りを買い、追放。豊臣秀次、ついで結城秀康に仕えた。
秀康死後も越前松平家にとどまり、大坂の陣で活躍した。
『萩田主馬亮覚書』に結城秀康が石田三成から名刀・石田正宗をもらうに至った石田三成襲撃事件について書き記している。
奥平貞治
おくだいら さだはる
不明-1600
徳川家臣。貞能の弟。三方ヶ原の戦いでは武田軍として戦い、長篠の戦いでは徳川軍に属して長篠城に籠城した。
関ヶ原の戦いでは内通していた小早川秀秋の陣に軍艦として派遣され、寝返りを督促。
秀秋寝返り後は、戦線離脱した松野重元隊わ率い、大谷吉継と交戦。死兵となった大谷軍に押し返され、戦死。
奥平貞能
おくだいら さだよし
1537-1599
奥三河の豪族。はじめ今川家臣。桶狭間合戦後に離反し徳川家に仕える。
掛川城攻めや姉川の戦いに従軍。一時武田信玄に属すが、信玄の死後は徳川家に再属。
長篠の戦いで活躍した。
奥平信昌
おくだいら のぶまさ
1555-1615
奥三河の豪族。貞能の子。はじめ貞昌と名乗る。信玄没後、徳川家康の娘・亀姫をめとり、武田から徳川に寝返る。
これが武田勝頼の怒りを買い、長篠城を囲まれるがその猛攻に屈せず、城を守り抜いた。
この粘りが長篠での織田徳川軍勝利の原因となる。この功により、織田信長から「信」の字を与えられ信昌と名乗った。
小国大膳
おぐに だいぜん
不明-1624
最上家臣。父は最上義光の妹を妻としている。
関ヶ原の戦いに際して、長谷堂城に籠城し、西軍・上杉家の攻撃を撃退した。
のち、最上騒動が起こり最上家が改易されると父ともども鍋島家預けの身となった。
小倉実房
おぐら さねふさ
不明-1570
六角家臣。小倉家庶流小倉東家の当主。
織田家との関係が深く、織田信長が京を訪問したときには帰路の水先案内と務めた。
金ヶ崎の戦いでは織田信長の逃亡を助けたが、これが主君・六角義賢の怒りを買い、攻め滅ぼされた。
妻・お鍋の方は後に信長の側室となり、子・松寿は信長に仕え、本能寺の変で討死している。
小倉松寿
おぐら まつじゅ
1567-1582
織田家臣。馬廻衆。実房の子。母は織田信長の側室となるお鍋の方。織田信吉の異父兄。
父は金ヶ崎の戦いで信長の逃亡を助け、六角家に滅ぼされている。
1582年、宿泊先の宿で本能寺の変を知り湯浅甚介と共に明智光秀の軍勢を突破。本能寺に駆け込んだ。
他の小姓らと共に明智軍に抗戦。16歳で討死した。
小田氏治
おだ うじはる
1534-1602
常陸守護を務めた名族・小田家の15代当主。
北条家と結ぶなどして、近隣の大名家・佐竹家の南進阻止を試みるが、連戦連敗して、居城を奪われ、降伏した。
以後もひそかに北条家に通じ、失地回復を狙うが、かなわず、小田原討伐後、豊臣秀吉により、所領を没収され、結城秀康に従った。
織田勝長
おだ かつなが
不明-1582
織田家臣。信長の叔母で美濃岩村城主・おつやの方の願いで、岩村城に養子に入るが、
武田軍・秋山信友の攻撃を受け、岩村城は降伏、武田軍に人質として連行されてしまう。武田勝頼の下で元服し、勝長を名乗る。
劣勢になり和議を模索する武田家から織田家に送還されたが、信長の武田討伐の手は緩むことがなかった。
後、信房と改名。本能寺の変で、兄・信忠と共に討死。
織田長考
おだ ちょうこう
不明-1606
織田家臣。長益の長男。父に従って関ヶ原の戦いに東軍に属して参戦。戸田勝成とその嫡男・内記を討ち取った。
戦後、美濃大野郡に一万石の大名に取り立てられたが、まもなく死去した。
織田長利
おだ ながとし
不明-1582
織田家臣。織田信長の末弟。伊勢長島の戦いに参陣。本能寺の変では、織田信忠と共に二条城で明智軍と戦い、討死。
織田長益
おだ ながます
1547-1622
織田家一門。信長の弟。有楽斎と号す。茶の湯に傾倒し、茶人として知られる。
千利休と交流があり、利休十哲の一人。本能寺の変の際はひとり京を脱出した。
後に豊臣家に仕え、利休亡き後の秀吉の茶の湯を司った。関ヶ原の戦いは東軍に属し活躍。
大坂の陣では、豊臣方に属すが、強硬派と対立。夏の陣を前に大坂城を離れた。
織田信雄
おだ のぶかつ
1558-1630
織田信長の次男。北畠具房の養子となって伊勢を乗っ取り、北畠一門を抹殺。独断で伊賀に侵攻し、天正伊賀の乱を起こす。
本能寺の変後、小牧長久手の戦いで徳川家康と結び、羽柴秀吉と戦うが、対陣中に秀吉と単独講和してしまう。
のち秀吉の国替えに逆らい、改易。
大坂の陣では総大将格で大坂城に入るが、冬の陣直前に徳川方に寝返って大名となり、暗愚と言われながらも家名を保った。
織田信包
おだ のぶかね
1543-1614
信長の弟。伊勢攻略時に伊勢上野城主となり、北伊勢を治めた。越前平定や石山合戦などに参戦。
一門衆として重きをなす。浅井滅亡後はお市と三人の娘を引き取った。本能寺の変後は、秀吉に仕える。
北条滅亡時に、北条氏政の助命を嘆願して秀吉の怒りを買い、改易。老犬斎と号し隠棲する。
関ヶ原の戦いの後には豊臣秀頼に近侍したが、大坂の陣直前に急死した。
織田信貞
おだ のぶさだ
1574-1624
織田信長の九男。幼名は「人」。兄・信雄、その後豊臣秀吉に仕えた。
関ヶ原の戦いでは、西軍に味方して伏見城の戦いに参戦。
戦後、改易された。大坂の陣では徳川方に味方して従軍した。
織田信考
おだ のぶたか
1558-1583
織田信長の三男。一門衆として活躍。本能寺の変後、柴田勝家と結んで家督相続を狙うも、
羽柴秀吉に敗れ、その命により自刃させられた。思慮の人で誰に対しても礼儀正しかったと評されている。
織田信高
おだ のぶたか
1576-1603
織田信長の七男。幼名は「小洞」。本能寺の変の後は、氏家行広に養育され、豊臣秀吉に仕える。
関ヶ原の戦いでは東軍に属したという説と西軍に属したという説があり、はっきりしない。
死後、嫡男が徳川家に仕え、高家旗本となった。
織田信忠
おだ のぶただ
1557-1582
織田信長の長男。信長が安土城に移ると織田家後継者として岐阜城に入る。松永久秀討伐、武田討伐戦で総大将となる。
本能寺の変の時、二条御所に籠もり、明智光秀軍と果敢に戦うが、兵力差はいかんともしがたく、自刃した。
織田信秀
おだ のぶひで
1510-1551
尾張の大名。信長の父。「尾張の父」と呼ばれた猛将。
もとは尾張守護家の陪臣の家柄だったが、守護家をも凌ぐ勢力を築いて戦国大名となった。
尾張統一を目指して国内の諸豪族や今川家、斎藤家ら近隣大名との戦いに明け暮れたが、志半ばにして急死した。
織田秀敏
おだ ひでとし
不明-1560
織田家臣。信長の祖父・信定の弟。今川義元の上洛軍が桶狭間に向けて進軍を開始すると、鷲津砦に籠城して敵を食い止める。
今川軍に敗れて砦は陥落し、その際に討死した。
小田孫兵衛
おだ まごべえ
不明-不明
毛利家臣。備中の豪族・小田家第7代当主。名は元家。備中馬鞍山城主。備中高松城の戦いでは毛利軍援軍として参戦。
1595年、毛利輝元の命により備中を離れる。老境、牢人していたが、福島正則に仕官する。
みすぼらしい姿をしていたが、正則は城主の器の男だからと千石を扶持した。
鬼小島弥太郎
こじま やたろう
上杉家臣。謙信の少年期よりの近臣。
怪力は並ぶ者なしと言われ、川中島の戦いで武田の猛将・山県昌景に「花も実もある勇士」とその勇猛ぶりを賞賛された。
武田信玄がけしかけた猛犬を一撃で倒したり、将軍・足利義輝がけしかけた
獰猛な猿を懲らしめたりするなど、豪快な武勇談を数多く残す。
鬼庭左月
おににわ さつき
1513-1586
伊達家臣。名は良直。左月斎と号す。稙宗の代に仕えて以来、伊達家4代に仕えた譜代の重臣。
政宗の代には一門衆に列せられた。人取橋合戦では、老齢ながら撤退する伊達軍の殿軍を務める。
甲冑を脱ぎ捨て追撃軍と死闘を展開し、政宗を無事に逃したのち壮絶な討死を遂げた。
鬼庭綱元
おににわ つなもと
伊達家臣。左月の子。片倉小十郎、伊達成実と並び伊達の三傑と称される。
葛西大崎一揆を伊達政宗が煽動したと告発されたとき、時の天下人、豊臣秀吉に政宗の潔白を弁明した。
補給にも優れ、遠征時に伊達家の兵から餓死者を出さなかったという。
小貫瀬久
おぬき たかひさ
1544-1603
佐竹家臣。外交では上杉謙信、武田信玄との交渉に活躍、北条家対策に功があった。
常陸国内では、堀之内大台城代として常陸南部の反佐竹諸豪族への押さえを務めた。
佐竹義宣の代、和田昭為、人見藤道と共に三奉行となり、引き続き外交を中心に活躍した。
小野崎義昌
おのざき よしまさ
不明-1585
佐竹家臣。佐竹義重の叔父。佐竹義政とも。人取橋の戦いに大将として出陣。
しかしその陣中で馬の世話のことで下人を叱りつけ、逆に刺殺されてしまう。
これが佐竹家撤退の原因になったという。
小野鎮幸
おの しげゆき
1546-1609
立花家臣。立花四天王の一人。豊臣秀吉が日本七槍に本多忠勝と並んで数え、加藤清正が豪勇無敵の士と絶賛した猛将。
一方で吝薔で、賄賂を貯め、非難を浴びたが、立花家の財政が逼迫したとき、これを差し出した。
備えを怠らぬ知の人でもあった。立花家柳川復帰を見ず死去。
小野寺義道
おのでら よしみち
1566-1646
出羽の大名・小野寺家の14代目当主。近隣の大名・最上義光らと争い、所領を失っていく。
豊臣秀吉の小田原討伐に参陣し、所領の一部を安堵されたが、のちに検知の際に一揆が起こり、またも所領を失う。
関ヶ原の戦いでははじめ東軍につくが、寝返って上杉景勝に味方した。
東軍の義光の攻撃を受けて敗北。所領を没収され、小野寺家は滅亡した。
小幡信貞
おばた のぶさだ
1540-1592
武田家臣。上野の豪族。憲重の子。西上野先方衆の主力として活躍した。
武田家滅亡後は上野を制した北条家に仕え、北条家滅亡後は真田昌幸を頼った。
小幡憲重
おばた のりしげ
1517-不明
山内上杉家臣。妻は長野業正の妹。業正との対立や一族の謀反により流浪、武田信玄に属す。
信玄の上野攻略に貢献、西上野先方集筆頭となった。長篠の戦いで戦死したとされる。
小原鎮実
おはら しずざね
不明-1568
今川家臣。大原資良とも。義元、氏真2代に仕える。
三河吉田城の城代となり、城下町の整備に努めた。1565年、徳川家康の攻撃を受け吉田城を追われる。
その後、遠江宇津山城、駿河花沢城の城代となるが、家康や武田信玄の侵攻を受け、除々に追い詰められる。
最後は逃れた先の高天神城で小笠原長忠に裏切られ妻子ともども殺され家康に届けられた。
飯富虎昌
おぶ とらまさ
1504-1565
武田家臣。武田二十四将の一人に数えられる。信虎、信玄の2代に仕え、軍装を赤で統一した部隊を率いて活躍。
「甲山の猛虎」の異名をとった。信玄の長男・義信の傅役を務める。義信の謀反未遂事件の責任をとり自害した。
小山田虎満
おやまだ とらみつ
不明-1579
武田家臣。昌辰とも。通称備中守で子の昌行も備中守を称している。
小山田信茂とは別系統の小山田氏で、甲斐石田に領地があったことがら石田小山田氏と呼ばれた。
信濃攻略戦に活躍。築城の名手で『甲州軍艦』によれば、虎満が築城した城は落ちることがないといい、
信玄は新築の城には虎満を入城させることを恒例としていた。
小山田信茂
おやまだ のぶしげ
甲斐郡内の領主。武田家の宿老。武田軍主力として数々の戦功をあげた。
1582年3月、織田・徳川軍の甲斐侵攻が始まると、武田勝頼を見限り、織田家に寝返った。
しかし、その行為が逆に織田信長の怒りを買い、処刑された。
小山田昌行
おやまだ まさゆき
不明-1582
武田家臣。二代目備中守。初代備中守・虎満の子。名は昌成とも。武田信玄の旗本の先鋒を務め、父に劣らぬ武功を立てる。
長篠の戦いで、松平伊忠を討ち取った後、隠居するが、織田軍が武田討伐に動いたのを知って復帰。
高遠城の戦いで、仁科盛信の副将として織田信忠軍と戦い討死した。
小山田頼定
おやまだ よりさだ
不明-1588
伊達家臣。通称筑前守。剛勇の士で知られる。大崎合戦では軍奉行を務めた。
中井田城攻めでは勇戦するも、おりからの吹雪と、味方の留守政景と泉田重光の不和により大敗。
撤退を余儀なくされる。頼定は殿軍を務め、討死した。
小山秀綱
おやま ひでつな
1529-1603
下野の豪族。高明の嫡男。弟・結城晴朝と協力し、上杉家や北条家と結んで小山家の命脈を保つが、
豊臣秀吉の小田原討伐に際し北条家に属して所領を失った。




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