戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【は〜】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将列伝 一般武将【は〜】

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目次


拝郷家嘉
はいごう いえよし
1549-1583
柴田家臣。勝家に従って北陸征伐で戦功をあげた。1580年、加賀大聖寺城主となった。
勝家と羽柴秀吉の衝突が間近に迫ると、勝家の下で転戦。賤ヶ岳の戦いで奮戦するが、福島正則に討たれた。
垪和氏続
はが うじつぐ
不明-不明
北条家臣。松山衆の一人。家臣団の中で重要な位置を占めた。
今川家が衰退して甲斐武田家が駿河に進出する気配を見せると、駿河東部の要害・興国寺城の守備を命じられる。
のち、武田家の侵攻を受けたが城を死守し、主君・氏政より感状を得た。神流川の戦いにも活躍。
垪和康忠
はが やすただ
不明-不明
北条家臣。評定後、越相同盟終結の際に使者を務め、厩橋城代として東上野を治めるなど、内政、外交面で活躍した。
主家滅亡後は伊豆に隠棲した。
萩尾大学
はぎお だいがく
不明-1586
高橋紹運の家臣。名は治種。剣に優れ、家中の罪人の討手を務めた。
謀反を企んだ高橋家重臣・北原鎮久を暗殺したのも彼である。
ある時、標的をすれ違いざまに背後から斬り捨てたが家中から卑怯であるとの非難を受けたが、
立花宗茂だけは臨機応変で見事な処置だと褒めたという。
岩屋城の戦いで戦死。その墓が今も岩屋城に残る。
箸尾高春
はしお たかはる
1546-1615
筒井家臣。大和の豪族。はじめ筒井順慶と争ったが、その妹を娶り、和睦した。
筒井家の伊賀転封には従わず、豊臣秀長に属す。関ヶ原の戦いでは西軍に属して所領を失う。
大坂の陣では豊臣方に味方し、大坂城に入城した。
長谷川橋介
はせがわ きょうすけ
不明-1573
織田家臣。秀一の叔父。桶狭間の戦いで織田信長に最初に従った五人のうちの一人。
のち信長の勘気を蒙り、織田家を追放。徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦いで討死した。
長谷川秀一
はせがわ ひでかず
不明-1594
織田家臣。「竹」の名で織田信長に仕え愛された小姓。のち奉行として活躍。
本能寺の変の際は、徳川家康の堺見物の案内役を務めており、神君伊賀越えに同行した。
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉につき、柴田軍に属した滝川一益と伊勢で戦う。
小牧長久手の戦いでは豊臣秀次に属し中入り部隊に加わり、徳川軍の奇襲を受け奮戦するも敗退した。
紀州攻め、小田原攻めにも参陣した。
支倉常長
はせくら つねなが
1571-1622
伊達家臣。1613年スペインと通商条約を結ぶため欧州へ出発。
ローマ教皇に謁見するも条約締結は果たせず、1620年に帰国。
だが、幕府はキリシタン弾圧に転換しており、失意のうちに死去。
蜂須賀家政
はちすか いえまさ
1558-1639
豊臣家臣。小六の子。秀吉の腹心。幼少より父に従い、各地を転戦した。
中国地方攻略で働きを認められ「黄母衣衆」となる。
九州で日向高城を、小田原で伊豆韮山城を攻略するなど活躍した。
蜂須賀小六
はちすか まさかつ
1526-1586
豊臣家臣。秀吉の墨俣築城に、前野長康と共に協力して以来、秀吉に惚れこみ、参謀となる。金ヶ崎撤退戦、毛利攻めに活躍。
本能寺の変の際、毛利家との和睦成立に尽力。中国大返しを成功に導く。
四国討伐後、阿波一国を与えられるが、秀吉の側近くにいることを望み、領国に足を踏み入れることはなかったという。
蜂須賀至鎮
はちすか よししげ
1586-1620
豊臣家臣。小六の孫。家政の子。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、家督相続。
大坂の陣でも戦功を立て、淡路一国を加増された。内政においては、塩田開発などを行った。
蜂屋貞次
はちや さだつぐ
1539-1564
徳川家臣。徳川十六神将の一人。桶狭間の戦いに参戦。
三河一向一揆では徳川家康に背き、徳川軍を破るが、家康本人が出馬すると、戦いを避けて逃走した。
戦後帰参。三河吉田城攻めで流れ弾が当たり、若くして討死した。
抵抗しない敵はいずれ味方になる可能性があるため、生かして従えるべきと言い、家康に智勇兼備であると褒められたという。
蜂屋頼隆
はちや よりたか
1534-1589
織田家臣。黒母衣衆の一人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。
本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。九州征伐にも従軍したが、その2年後に死去。
子がなかったため、蜂屋氏は断絶となった。
服部小平太
はっとり こへいた
不明-1595
織田家臣。名は一忠。桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけた。のちに秀吉に仕え、黄母衣衆となる。
小田原討伐の功により、伊勢一志郡に3万5千石を与えられ、松坂城主となった。
その頃、尾張伊勢を領していた秀次につけられるが、のちの秀次事件に連座して改易。上杉景勝に預けられたのちに、自害した。
花房職秀
はなぶさ もとひで
1549-1616
宇喜多家臣。傾奇者で単刀直入な物言いを好み、その剛直さを豊臣秀吉にも愛されていたという。
小田原攻めで長引く包囲の中、秀吉の前を下馬せずに通りすぎて、
「臆病者の大将の前で下馬する必要はない」と言い放ち、処刑されかけたが、秀吉は笑って逆に加増した。
のち主君・宇喜多秀家にも直言し、出奔。徳川家康に仕えた。
その家康にも関ヶ原の戦いで放言。活躍したものの大名になり損ねた。
羽仁有繁
はに ありしげ
不明-1555
陶家臣。厳島の対岸に位置する草津城を守っていたが、毛利元就に攻められ、開城。
陶晴賢の本拠・山口へ退去する。その後、厳島の戦いに参戦。自害した。
羽仁藤直
はに ふじなお
不明-1555
陶家臣。有繁の子。厳島の対岸に位置する草津城を父と共に守っていたが、毛利元就に攻められ開城。山口へ退去した。
その後、主君・陶晴賢に従い、厳島の戦いに参戦。敗れて自害した。
子は元就の下で成長し、毛利家に仕えたという。
馬場惣市
ばば そういち
不明-不明
真田家臣。関ヶ原の戦いでは西軍に属した真田昌幸・幸村親子に従い、第二次上田城の戦いに参戦した。
馬場信房
ばば のぶふさ
1514-1575
武田家宿老。武田四名臣の一人。信虎、信玄、勝頼の3代に仕えた。
70あまりの合戦に参加し一度も負傷せず「不死身の鬼美濃」の異名を取った。
長篠の戦いで殿軍を務め、勝頼を無事落ちのびさせた後、討死した。
浜田景隆
はまだ かげたか
1554-1591
伊達家臣。通称伊豆守。人取橋の戦い、大崎合戦、摺上原の戦いなどで伊達政宗の陣代を務める。
葛西大崎一揆鎮圧時で攻城戦中、銃弾を受けて討死。遺言により、その遺体は甲冑を着けたまま、城をにらむ形で埋められた。
林秀貞
はやし ひでさだ
不明-1580
織田家臣。信長の一番家老。信長の弟を当主にすべく、柴田勝家と共に信長に叛旗を翻すが、敗北。
その後許されて外交内政に重臣として活躍する。
しかし、それから20年以上過ぎた1580年、突如、信長に過去の謀反を責められ、追放された。
速水守久
はやみ もりひさ
不明-1615
豊臣家臣。はじめ浅井家に仕え、浅井家滅亡後、秀吉に仕えた。近習組頭として小牧長久手の戦いや小田原討伐に従軍。
秀吉没後は、その子・秀頼に仕え、七手組頭の一人となる。大坂夏の陣では、真田幸村とともに奮戦。
その後、主君・秀頼に殉じて自害した。
原田久左衛門
はらだ きゅうざえもん
不明-1582
三好家臣。阿波原田城主。息子・小内膳は主君・三好長治の小姓を務め、長治が長宗我部元親の謀略で討死した際、共に戦死したという。
中富川の戦いで十河存保に属し、長宗我部の侵攻軍を迎え撃ち戦死。
原胤長
はら たねなが
不明-1589
千葉家宿老。北条氏政の七男・直重を当主に迎えるべく活動。北条支配を嫌う千葉家臣・原親幹と対立した。
下総へ軍事介入した北条氏政と協力、親幹を恭順させ、直重を千葉家に迎え入れた。
原田宗時
はらだ むねとき
1565-1593
伊達家臣。叔父の戦死後、伊達家老家である原田家を継ぐ。摺上原の戦いで活躍した。
伊達者として知られ、刎頸の友・後藤信康と共に3m近い大太刀を金鎖で繋いで駿馬にまたがって現れ、京童の評判となった。
若くして病死。伊達政宗はその死を悼み「南無阿弥陀仏」の6文から始まる和歌6首を捧げている。
原田宗時
はらだ むねとき
不明-1582
伊達家臣。桑折宗長の次男。伊達家重臣・原田家を継ぐ。
相馬家との戦いで討死し、後を甥の宗時が継いだ。
原長頼
はら ながより
1544-1600
織田家臣。柴田勝家の与力。信長死後、勝家の配下として羽柴秀吉と戦った。勝家が滅ぶと前田利家に属し、のちに秀吉の直臣となる。
関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、清州城攻めを献策したが、三成には容れられなかった。
関ヶ原本戦に参加しようとしている時に西軍敗北の報に接し、自刃して果てた。
原昌胤
はら まさたね
1531-1575
武田家臣。地理に明るく、合戦時の陣の構築や、部隊の配置などの判断が非常に的確であったため、
陣場奉行として、武田信玄に重く用いられた。1575年、長篠の戦いで討死。
針生盛信
はりゅう もりのぶ
1553-1625
蘆名家臣。蘆名一門として家中に重きをなしたが、執政・金上盛備と対立し、家中の分裂を招いた。
摺上原の戦いで蘆名家が滅亡すると、伊達家に仕えた。
壇団右衛門
ばん だんえもん
1567-1615
豊臣家臣。大坂の陣で活躍した。剛勇だが、酒ぐせが悪く、また戦場で配下を忘れて単騎突入するなど広い視野に欠ける面があった。
夜襲成功時に「夜討ちの大将、壇団右衛門」と書いた木札をばらまき、評判になった。

比江山親興
ひえやま ちかおき
不明-1588
土佐の大名・長宗我部元親の従兄弟。戸波親武の弟。豊臣秀吉の四国征伐のおりには阿波岩倉城を守った。
九州征伐で元親が嫡子・信親を失い、四男・盛親を跡継ぎに立てようとしたのに猛反対し、元親の不興を買って切腹させられた。
妻子も殺され、彼らが悪霊・「七人みさき」となったという伝説が残る。
久武親直
ひさたけ ちかなお
不明-不明
長宗我部家臣。親信の弟。家中で最も悪名高い人物。
政略に優れ、長宗我部元親に重用されたが、自身の栄達のためには手段を選ばず、策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込む。
結果的に主家滅亡の一因を作った。
久武親信
ひさたけ ちかのぶ
不明-1579
長宗我部家臣。親直の兄。誠実で分別があり、元親から厚い信頼を受けた。
有馬温泉で湯治中に羽柴秀吉と知り合い、その人柄に傾倒したという。南伊予の攻略を任される。
伊予岡本城で敵将・土居清良の策にかかり銃弾に倒れた。死の間際元親に、弟・親直は重用しないようにと言い残した。
だが元親は親直を重用。長宗我部はお家騒動で傾いていく。
久野次左衛門
ひさの じざえもん
1582-1600
黒田家臣。名は重義。黒田二十四騎に数えられる重勝の子。
敵を追撃中落馬した際、その敵を野村市右衛門に奪われ、以後、市右衛門と武勇を競い張り合う関係となる。
石垣島の戦い前夜、母が凶夢を見たため、出陣をやめるよう請うたが、無視して出陣。
先遣隊の先陣を務め、黒田官兵衛の到着を待たず突出。大友軍先鋒・吉弘統幸や宗像鎮続らと戦い、討死した。
日根野弘就
ひねの ひろなり
1518-1602

豊臣家臣。はじめ斎藤家に仕える。斎藤道三にその子・義龍が反逆した際、義龍に味方して、義龍の弟たちを殺した。
その後、斎藤家を攻める織田信長と戦う。主家滅亡後は浅井長政に仕え、浅井家が滅亡すると、羽柴秀吉配下となる。
「日根野鉢」など、実用的な武具を自作して評判を取った。関ヶ原の戦いで西軍に通じたとされ、壮絶な自害を遂げた。
日根野吉明
ひねの よしあき
1587-1656
弘就の孫。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属して、第二次上田城の戦いに従軍。
戦後、祖父が西軍についたとの疑いがかかり自害。吉明も減封された。大坂の陣では徳川方で参戦。
府内2万石に加増された。法に厳格で刑が厳しく、領民に恐れられた。
百武賢兼
ひゃくたけ ともかね
不明-1584
龍造寺家臣。龍造寺四天王の一人。武勇百人に勝るとして、主君・隆信から「百武」の姓を賜った猛将。
今山合戦など諸戦で活躍した。沖田畷の戦いでは、隆信の見辺を守って戦い、共に討死した。
彼の妻は男勝りで有名で、主君・隆信の非道を嘆く賢兼を叱咤したり、薙刀片手に城兵を指揮したりしている。
平井定武
ひらい さだたけ
不明-不明
六角家臣。六角六宿老の一人。浅井長政の烏帽子親を務め、娘婿とするが、長政が独立すると娘は離縁された。
主君・六角義治が重臣を暗殺した「観音寺騒動」が起こると、義治に不信を抱き、長政の支援を得て反乱し、居城に籠城する。
翌1567年、義治が六角氏式目を制定し六角家の権力を制限すると誓うと帰参した。
織田信長が上洛軍を興すと、信長に降伏した。
平井高明
ひらい こうめい
不明-不明
六角家臣。六角六宿老である定武の子。観音寺騒動後、父と共に主君・六角義治から離反。
その後、帰参して「六角氏式目」に父と共に署名している。
平岩親吉
ひらいわ ちかよし
1542-1612
徳川家臣。家康の人質時代からの家臣。三河統一などで功を立てた。
家康の子・松平信康を補佐したが、信康切腹にともない謹慎。やがて許され、徳川十六神将の一人に数えられる見事な働きをした。
平賀元相
ひらが もとすけ
1547-1645
毛利家臣。広相の子。豊臣姓を受けた。
関ヶ原の戦いののち、主家の減封により知行が4分の1に減らされたため、隠居した。のちに孫の住む萩に移った。
平塚為広
ひらつか ためひろ
不明-1600
豊臣家臣。怪力で薙刀の名手。中国攻め小牧長久手の戦い、小田原攻めで活躍。
1600年、石田三成の挙兵を止めようとする大谷吉継の使者を務めた。関ヶ原の戦いでは西軍につく。
吉継と共に小早川秀秋の裏切りを警戒し、暗殺しようとしたが果たせなかった。
秀秋が東軍に寝返ったのち、善戦するも孤立、討死。娘も怪力で、戦後捕らわれようとしたが、捕り手4人を撲殺して逃走した。
平手汎秀
ひらて ひろひで
1553-1573
織田家臣。織田信長の傅役・平手政秀の三男とも孫とも。
武田信玄の侵攻を受けた徳川家康への援軍として三方ヶ原の戦いに参陣。
武田の猛攻で味方が総崩れとなる中、一人踏み止まって討死。喘息持ちだったという。
平野長泰
ひらの ながやす
1559-1628
豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の一人。小牧長久手の戦いでは、敗走する羽柴秀次を助けた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属す。大坂の陣直前、徳川家康に大坂方に味方したいよしを告げたが、江戸城に留め置かれた。
七本槍でただひとり大名になれなかったが、明治まで家名を保った。
弘中方明
ひろなか かたあき
不明-不明
大内家臣。隆包の弟。水軍を率い、冷泉隆豊、小早川隆景と共に大内水軍を担い、神辺城の戦いで活躍した。
厳島の戦いには参戦せず、毛利元就の防長経略軍に戦わずして降伏した。
以後、毛利水軍の一翼を担い、吉川元春を支えて九州の戦いに活躍した。
弘中隆包
ひろなか たかかね
1521-1555
陶家臣。はじめ大内義隆に仕え、毛利元就、隆元とも親しい友人だった。
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反した際にも、厳島の戦いに臨もうとした際にも反対したが、聞きいれられなかった。
厳島の戦いで晴賢を逃がすべく身を挺して奮戦し、討死。
弘中隆助
ひろなか たかすけ
不明-1555
陶家臣。隆包の子。厳島の戦いに父と共に参戦。
主君・陶晴賢を逃がすべく、父と共に圧倒的な敗勢の中、奮戦。討死した。

福富秀勝
ふくずみ ひでかつ
不明-1582
織田家臣。信長に小姓として仕え、赤母衣衆となる。信長入洛の際には援軍・足利義昭を警護。
長篠の戦いでは、前田利家、佐々成政らと鉄砲大将を務めた。本能寺の変が起こると、二条御所で織田信忠と共に奮戦し、討死した。
福田民部少輔
ふくだ みんぶのしょう
不明-1586
高橋紹運の家臣。岩屋城の戦いでは岩屋城大手口・虚空蔵砦を守備。
島津軍の大軍を半月にわたり撃退するもついに敗れ砦は陥落。民部少輔は討死を遂げた。
福留儀重
ふくとめ よししげ
1549-1586
長宗我部家臣。童謡にも歌われた家中屈指の猛将で、主家の四国統一事業に大きく貢献した。
主君・元親が禁酒令を発した際、酒樽を砕いてこれを諌めたという逸話が残る。戸次川の戦いで島津軍と戦い、討死した。
藤内重勝
ふじない しげかつ
不明-不明
高橋紹運の家臣。岩屋城の戦いの前夜、紹運に説得され、城を脱出。
僧侶となり、全滅した岩屋城兵の菩提を弔うべく西正寺を建立した。
現在も毎年7月27日に岩屋城兵のための法要が営まれる。
藤田信吉
ふじた のぶよし
1559-1616
武蔵の豪族・藤田家の出。河越の戦い後北条氏邦が藤田家に養子に入り、藤田家を北条家の傘下にすると、兄は毒殺され自身は上野沼田城の城将とされた。
これに不満を持ち、真田昌幸の調略で武田家に内応。
武田家滅亡後は織田家の滝川一益に属すも本能寺の変の際、反乱。上杉家に属す。
関ヶ原前には開戦回避のため動くが、直江兼続の讒言を受け出奔。徳川家に属すが大坂の陣後、改易された。
藤田行政
ふじた ゆきまさ
不明-1582
明智光秀の家臣。五宿老の一人。浅井朝倉との戦いの頃から、光秀に仕える。
本能寺の変に先立ち、謀反の計画を光秀に告げられていた。
山崎の戦いを前に、筒井順慶の元に参戦を要請する使者に立つが順慶は動かなかった。山崎の戦いでは本陣右備を受け持った。
奮戦し、6ヵ所に傷を負い、戦場を脱出後、自害。
布施公雄
ふせ きみお
不明-不明
六角家臣。主君・六角義治が重臣を暗殺した「観音寺騒動」が起こると、義治に不信を抱き、浅井長政の支援を得て反乱し、居城に籠城する。
翌1567年、義治が六角氏式目を制定し、大名の権力を制限すると誓うと帰参した。
織田信長が上洛軍を興すと、信長に降伏した。
船尾昭直
ふなお あきなお
不明-不明
佐竹家臣。岩屋氏の一族で佐竹氏の南陸奥方面の最前線を担い、その外交や交渉を担当した。
伊達政宗が摺上原の戦いで勝利し、奥州の覇者となると、周辺城主は伊達家に従属し、孤立。
主君・佐竹義重の命で所領を捨て撤退。その後、旧領に復帰することはなかった。
古川九兵衛
ふるかわ きゅうべえ
1527-1602
明智家臣。本能寺の変の際、安田国継、箕浦大内蔵と共に先陣を切った「明智三羽鳥」の一人。
光秀が山崎の戦いで敗死したあとは、牢人し、のちに浅井幸長に仕えた。
古川友則
ふるかわ とものり
不明-1582
三好家臣。阿波古川城主。通称は亀右衛門。
中富川の戦いで十河存保に属して、長宗我部軍を迎え撃ち、討死。
古田織部
ふるた しげなり
1544-1615
豊臣家臣。名は重然。利休七哲の一人。武将として戦歴を重ねる一方で茶、陶芸の世界で名声を博す。
織部焼の創始者で諸大名の茶の師匠を務めた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、大坂の陣にも徳川方として参陣したが、豊臣方への内通疑惑によって自害させられた。
不破直光
ふわ なおみつ
不明-1598
織田家臣。勝光とも。光治の嫡男。父に従い、小谷城攻略、長島攻めなど各地を転戦した。
本能寺の辺後、柴田勝家の使者として羽柴秀吉と折衝。しかし講和はならず、賤ヶ岳で佐久間盛政軍に属し秀吉と戦った。
敗戦後、前田利家に仕え末盛城の戦いで先陣を務め、佐々成政と戦った。肥満していたという。
不破光治
ふわ みつはる
不明-1580
織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、稲葉一鉄、安藤守就、氏家ト前らと並び、「西美濃四人衆」と呼ばれた重心だった。
信長の美濃攻略のとき配下となる。越前攻略の戦功から、柴田勝家の与力となり、
前田利家、佐々成政と並んで府中三人衆の一人に数えられた。

戸波親武
へわ ちかたけ
不明-不明
長宗我部家臣。長宗我部元親の従兄弟。比江山親興の兄。
土佐一条家攻めに巧があり、戸波城を落とし、その城主となって戸波姓を名乗る。
その後、四国平定に活躍。豊臣秀吉の四国征伐時は、讃岐植田城に籠もった。

北条氏勝
ほうじょう うじかつ
1559-1611
北条家一門。氏繁の次男。兄・氏舜の死後、家督を継いで玉縄城主となる。
豊臣秀吉の小田原討伐の際、伊豆山中城を守るが落城。
脱出して玉縄城に籠もるが、徳川家康に降伏した。戦後、助命されて所領も与えられた。
北条氏邦
ほうじょう うじくに
1541-1597
北条家臣。氏康の四男。上野方面軍司令官として活躍。
配下の猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を奪取し、豊臣秀吉の小田原討伐を招く。
籠城に反対し、出撃を唱えるが退けられる。鉢形城を守るが前田利家の大軍による侵攻の前に降伏。
北条氏繁
ほうじょう やすしげ
1522-15662
北条家臣。氏康の弟。上杉謙信の関東出兵の際には、武蔵河越城を守った。
北条氏尭
ほうじょう うじたか
不明-1593
氏康の六男。本能寺の変直後の徳川家との武田領争奪戦で活躍。
下野の領主・佐野宗綱(昌綱の子)の養子となり、佐野氏忠を名乗る。
豊臣秀吉の小田原討伐では相模と駿河の国境にある足柄城を守ったが落城。
小田原城に入り、籠城した。
北条氏忠
ほうじょう うじただ
不明-1593
氏康の六男。本能寺の変直後の徳川家との武田領争奪戦で活躍。
下野の領主・佐野宗綱(昌綱の子)の養子となり、佐野氏忠を名乗る。
豊臣秀吉の小田原討伐では相模と駿河の国境にある足柄城を守ったが落城。小田原城に入り、籠城した。
北条氏照
ほうじょう うじてる
1540-1590
氏康の三男。武蔵滝山城(のちの八王子城)城主。下野下総方面の軍事、外交を担当する。
豊臣秀吉の小田原討伐に対して、徹底抗戦を主張した。小田原落城後に、秀吉から切腹を命じられた。
北条氏直
ほうじょう うじなお
1562-1591
北条家の第5代当主。氏政の子。本能寺の変で織田信長が殺されると関東にある織田領を攻め、北条領とした。
その後、天正壬午の乱で徳川家康とにらみ合いになるが、戦後、家康の娘をめとり同盟を結ぶ。
豊臣秀吉に小田原城を落とされると高野山に追放された。
北条氏規
ほうじょう うじのり
1545-1600
氏康の五男。人質として今川家にいた頃に同じ境遇の徳川家康と知り合う。
北条氏直に代わり上洛するなど、豊臣秀吉と北条家の和睦に尽力した。
秀吉の小田原討伐では、韮山城に籠城するが、家康の説得で開城。小田原城開城後は氏直に従って高野山に赴く。
のちに秀吉に許され、河内国河内郡6980石を宛がわれた。
北条氏房
ほうじょう うじふさ
1565-1592
氏政の三男。武蔵岩槻城主。反北条の急先鋒太田資正の岩槻太田家を乗っ取る。
秀吉の小田原討伐の際、小田原城に籠城したが、家臣の守る岩槻城が落ちたと知り、兄・氏直に降伏を勧めた。
北条氏政
ほうじょう うじまさ
1538-1590
北条家第4代当主。氏康の次男。
武田信玄や上杉謙信と戦い、あるいは同盟を結びながら、一方で着々と関東諸侯を屈属させ、
相模から上野にまたがる大領国を築く。1590年、豊臣秀吉の小田原討伐軍に降伏。自刃する。
北条氏光
ほうじょう うじみつ
不明-1590
氏康の九男。相模と駿河の国境である要衝・足柄城主をつとめ、武田信玄の駿河侵略に対抗した。
秀吉の小田原討伐で北条家が滅亡した後は、氏直と共に高野山に入り、その地で没した。
北条綱房
ほうじょう つなふさ
1529-不明
北条家臣。はじめ福島弁千代と名乗る。北条綱成の弟。容色優れた美男。氏康に小姓として仕えた。
河越夜戦では、兄の籠もる河越城への使者に名乗り出て、ただ一騎で敵中突破。
彼の美しさに敵包囲軍8万が動けずにいる中、ゆうゆうと任務を果たした。
のち家老五色備えの下に位置する北条二十衆に数えられた。
北条綱高
ほうじょう つなたか
1506-1585
北条家臣。高橋家の出。北条氏綱の甥。氏綱の養子となる。
武勇に優れ、北条五色備えの赤備えを率いた。黒備え・多目元忠に師事する。
扇谷上杉家との戦い、第2次国府台合戦に活躍した。
北条綱房
ほうじょう つなふさ
1529-不明
北条家臣。はじめ福島弁千代と名乗る。北条綱成の弟。容色優れた美男。氏康に小姓として仕えた。
河越夜戦では、兄の籠もる河越城への使者に名乗り出て、ただ一騎で敵中突破。
彼の美しさに敵包囲軍8万が動けずにいる中、ゆうゆうと任務を果たした。
のち家老五色備えの下に位置する北条二十将衆に数えられた。
星野吉兼
ほしの よしかね
不明-1586
筑後の豪族。筑後十五城の一。筑後鷹取城主。名は鎮胤とも。吉実の兄。
はじめ大友家に属すが、耳川の戦い後、秋月家そして島津家に属す。
豊臣家の九州征伐軍から撤退する島津家の殿軍を務め、筑前高鳥居城を守るが、1586年、立花宗茂に攻められ討死。
星野吉実
ほしの よしざね
不明-1586
筑後の豪族。筑後十五城の一。名は鎮元とも。吉兼の弟。
島津家に属し、九州征伐時「豊臣の大軍を前に一戦もせず退くのは武門の恥」と
兄と共に筑前高鳥居城に踏みとどまって戦い、立花宗茂の攻撃の前に玉砕した。
細川興秋
ほそかわ おきあき
1584-1615
忠興の次男。母はガラシャ。関ヶ原の戦いでは父や兄と共に東軍に属し、功を立てた。
戦後、弟・忠利の代わりに徳川家への人質に出されることに不満を抱き、細川家を出奔。
大坂の陣で豊臣方に味方して活躍したが敗北。戦後、父・忠興により切腹させられた。
細川忠興
ほそかわ ただおき
1563-1646
細川藤考の子。妻は明智光秀の娘・ガラシャ。
本能寺の変の際、織田信長を滅ぼした光秀から味方するよう求められるが拒否。
ガラシャを丹羽山中に幽閉した。関ヶ原の戦いでは東軍に味方している。
細川信良
ほそかわ のぶよし
1548-1592
室町幕府管領・細川晴元の子。幼少より権力闘争に巻き込まれ人質生活を送る。
三好三人衆と共に14代将軍義栄を奉じ15代義昭を奉じる織田信長と野田福島の戦いで対立。
後、信長に帰順し義昭より一字拝領して昭元と名乗る。
義昭追放後は信長政権の権威づけに利用され、信長の妹・お市をめとり、一字拝領して信良と名乗る。
信長死後は長宗我部元親と共に豊臣秀吉に抵抗するが、のち帰順。
細川藤賢
ほそかわ ふじかた
1517-1590
室町幕府最後の管領・氏綱の弟。
13代将軍足利義輝が義藤と名乗っていた頃に仕え、一字拝領している。
義輝が松永久秀に暗殺されると久秀に従い、織田信長が15代将軍足利義昭を奉じて上洛すると義昭に仕える。
六条合戦に参戦。義昭が反信長の兵を挙げようとしたとき、諫めたが聞き入れられず共に挙兵。
敗れて降伏。義昭追放後は信長に従った。
細川藤考
ほそかわ ふじたか
1534-1610
足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の将軍就任に貢献した。
その後は義昭を見限り、明智光秀と共に織田信長に仕える。本能寺の変で光秀を見限り、入道して幽斎と名乗る。
その後も的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。万能に達した文化人で、古今伝授を受けていることでも有名。
細川頼範
ほそかわ よりのり
1561-1628f
豊臣家臣。元勝とも。信良の子。母は織田信長の妹であるお犬の方。秀頼に近侍し、小姓頭を務めた。
大坂の陣では豊臣方に属す。大坂落城後、命を許され、秋田家の客将として余生をまっとうした。
堀田興重
ほった おきしげ
不明-1615
真田家臣。真田幸村の最初の妻の兄。幸村の娘・菊を養育した。
大坂の陣では信濃から馳せ参じ、幸村の下、参戦。討死した。
堀田盛高
ほった もりたか
不明-1615
豊臣家臣。秀頼の親衛隊「七手組」の一人。関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を徳川家康に告げる功を立てた。
大坂の陣では豊臣の将として参戦。大坂落城時、二の丸の石垣の上で自害。
堀内晴胤 不明-1633
相馬家臣。相馬盛胤のいとこの子。伊達政宗の曾祖父のひ孫。
相馬家「御一家」である堀内家の先代当主であった泉胤秋が妻と不和になり堀内家を出てしまったので、堀内家を継ぐ。
兄が伊達家に寝返ったため、相馬家を追放され、伊達家を頼った。
堀江国正 不明-1582
三好家臣。阿波南新居城主。赤座宗伝率いる板西十二人衆の一人。
通称藤大夫。中富川の戦いで長宗我部軍と戦い討死。
堀江宗親 不明-不明
上杉家臣。鮫ヶ尾城主。御館の乱では、上杉景虎に味方する。
御館陥落後、景虎を関東へ逃がすため、自らの城へ招くが実は、上杉景勝側の安田顕元の工作で寝返っており、景虎が入った城に火をつけて退去。
景虎は景勝軍の総攻撃を受け、自刃した。乱の後、領地を没収された。
堀尾忠晴
ほりお ただはる
1599-1633
徳川家臣。祖父は豊臣三中老の一人・吉晴。父・忠氏が、若くして死んだため、幼くして家督を相続。
祖父の後見を受ける。大坂の陣で戦功を上げたが、若くして嗣子なく死去。堀尾家は断絶した。
堀尾吉晴
ほりお よしはる
1544-1611
豊臣家臣。三中老の一人。情に厚く「仏の茂助」と称された。山崎の戦いで天王山に一番乗りするなど、多くの戦功をあげる。
秀吉没後は豊臣家重臣として徳川家康と前田利家の対立回避に尽力した。
堀喜吽
ほり きうん
不明-1600
最上家臣。筑前出身の兵法家。最上義光に御伽衆として仕えた。連歌に達し、江口光清と並んで義光と連歌を行った。
長谷堂の戦いで、逃げる直江兼続らを追おうとする義光を、援軍が来るのを待てと諫めたが、臆病者と言われて、怒り、突撃。
上杉軍の銃弾に貫かれ、討死した。
堀秀政
ほり ひでまさ
1553-1590
織田家臣。信長の寵愛を受けた側近。文武両面に才を発揮し「名人久太郎」と呼ばれた。
本能寺の変後は、山崎の戦いから羽柴秀吉に従い、小牧長久手の戦い、九州征伐などで活躍。
小田原討伐の後は関東を任せられると噂されるほどの信頼を得ていたがその陣中で病没した。
北郷久盛
ほんごう ひさもり
不明-1578
島津家臣。耳川の戦いで、釣り野伏戦術の囮役を務める。
敵・大友軍を島津本陣に引きつけて、釣り野伏を成功させ、勝利に貢献したが、自身は討死した。
本庄顕長
ほんじょう あきなが
1564-不明
上杉家臣。繁長の長子。御館の乱では、父が上杉景勝側に、顕長が上杉景虎側に別れて戦った。
戦後、父が顕長を廃嫡することを条件に助命された。
のちに伏見城舟入普請において、直江兼続に不満を訴えたため、上杉家を追放された。
本庄実乃
ほんじょう さねより
1511-1575
上杉家臣。幼い上杉謙信の才を見抜き、謙信を自らの居城・栃尾城に招いて補佐した。
越後が乱れると、当時当主だった謙信の兄を隠居に追い込み、謙信を当主に据え、直江景綱と並んで上杉家の政権の中枢を担った。
第四次川中島の戦いにも参戦している。一説に謙信が死去した時に殉死したとも伝わる。
本庄繁長
ほんじょう しげなが
1540-1614
上杉家臣。独立旺盛な北越後の国人・揚北衆の一人。謙信に従って川中島の戦いや関東遠征で功をあげる。
1568年には武田信玄に通じて反乱。戦いは1年におよぶが結局、帰参した。
謙信没後、御館の乱で上杉景勝について活躍した。
本庄秀綱
ほんじょう ひでつな
不明-不明
上杉家臣。実乃の子。父同様、上杉謙信の信望が厚かった。上野沼田城に入り、関東での戦いでも活躍。
御館の乱では、上杉景虎側に属し、景虎死後も神余親綱らと共に上杉景勝に抵抗を続けた。
居城である栃尾城が落とされると、逃亡。のち、佐々成政に仕えた。
本多重次
ほんだ しげつぐ
1529-1596
徳川家臣。天野康景、高力清長と並ぶ三河三奉行の一人。
長篠の戦いのおりの日本一短い手紙「一筆啓上火の用心」で有名。
「鬼作左」の異名をとる。三河武士の典型。忠義で偏屈な逸話を数多く残している。
豊臣秀吉の老母・大政所が徳川家の人質となった際、
その周りに大量の薪を積んで家康の身に何かあれば焼き殺すと脅すなどしたため、秀吉の怒りを買い、閉居処分となった。
本多忠真
ほんだ ただざね
1531-1573
徳川家臣。忠勝の叔父。桶狭間の戦いの前哨戦で、忠勝の初陣を補佐。窮地の忠勝を槍を投げて助けた。
また自分が取った敵の首を忠勝に与えて功にさせようとしたが、
忠勝は「他人の力で武功を立てようと思わない」と敵に斬りこみ、見事独力で功を立てた。
三方ヶ原の戦いでは左右に旗印を突き刺して「ここより後には一歩も退かぬ」と宣言。その言葉通り武田軍に突っ込み、討死した。
本多忠朝
ほんだ ただとも
1582-1615
徳川家臣。本多忠勝の次男。父同様の猛将で、関ヶ原の戦いで活躍。だが大坂冬の陣では泥酔して敗退。
「父に似ぬ者」と家康に叱責される。続く夏の陣で汚名を返上せんと奮戦。毛利勝永隊に突入、激闘の果てに討死する。
本多忠政
ほんだ ただまさ
1575-1631
徳川家臣。本多忠勝の子。小田原討伐が初陣。関ヶ原の戦いでは家康の後継者・秀忠に従った。
途中、真田親子に足止めされ、主戦場に遅参した。大坂の陣でも秀忠に従った。のちに姫路城主となる。
本多正重
ほんだ まさしげ
1545-1617
徳川家臣。正信の弟。槍の名手で海道一の勇士と讃えられたが、大口を叩き、主君・徳川家康に疎まれていた。
三河一向一揆では兄と共に家康に敵対するも、戦後帰参。掛川城の戦い、姉川の戦いに参戦。
三方ヶ原の戦いでは殿軍を務め、長篠の戦いにも活躍した。
その後出奔。滝川一益、前田利家、蒲生氏郷に仕え、活躍した。氏郷死後、徳川家に帰参。大坂の陣の功で大名となった。
本多正信
ほんだ まさのぶ
1538-1616
徳川家康の謀臣・はじめ家康の鷹匠を務める。三河一揆で家康と敵対して出奔。
一時期、松永久秀に属し、のちに加賀一揆に加わり織田信長と戦った。諸国放浪の末帰参。
関ヶ原前夜には謀略を巡らし家康の天下取りを決定づけた。徳川秀忠に従い、第二次上田城の戦いに参陣。
その後も行政と謀略に力を発揮し草創期の幕府を支えた。家康には友と呼ばれ信頼されたが、武功派の同僚には憎まれた。




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