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戦国辞典 一般武将【あ〜】

戦国無双chronicle3(クロニクル3)攻略 戦国辞典 一般武将【あ〜】を掲載しています。

目次

青木一重
あおき かずしげ
1551-1628
豊臣家臣。はじめ徳川家康に仕え、姉川の戦いで朝倉家の勇将・真柄直隆を討ち取った。
小牧長久手の戦いののち、秀吉が請うて貰い受け、秀頼の親衛隊「七手組」の一人となる。
大坂冬の陣ののち、和議の使者として徳川方を訪れたところを捕らえられ家康に仕える。
一説にずっと徳川方に通じていたとも言われる。
青木貞治
あおき さだはる
不明-1573
徳川家臣。中根正照、松平康安と共に遠江二俣城を守るも、武田信玄の上洛軍の攻撃を受け、あえなく落城。
その恥を雪がんと発憤。三方ヶ原の戦いで主君・家康を逃がすべく奮戦し、討死した。
青山忠成
あおやま ただなり
1551-1613
徳川家臣。徳川秀忠の傅役。関ヶ原の戦いののち、本多正信、内藤清成と共に、江戸奉行・関東総奉行を務めた。
のちに、主君・家康の勘気を受け、蟄居した。
赤尾清綱
あかお きよつな
1514-1573
浅井家臣。重臣「浅井三将」の一人。浅井家三代に仕えた老臣。浅井本拠の小谷城城内に赤尾曲輪という出城を築いた。
小谷落城時、長政を赤尾曲輪に迎え、主君の自刃を邪魔させまいと防戦。浅井家滅亡と共に果てた。
赤座直保
あかざ なおやす
不明-1606
豊臣家臣。吉家とも。はじめ朝倉家に仕え、のち織田家に降り、前田利家ら府中三人衆の下に属す。
信長死後は羽柴秀吉に仕え、小田原討伐に従軍して戦功を立てる。
関ヶ原では当初、西軍の大谷吉継に属すが、小早川秀秋の寝返りに応じ、大谷軍を壊滅させた。
だが、この働きは徳川家康に認められず、戦後改易。前田家に仕えた。河川氾濫を視察中、溺死。
明石全登
あかし たけのり
不明-不明
宇喜多家臣。熱心なキリスト教徒。執政として宇喜多秀家に仕え、関ヶ原で先鋒を務めるも敗れる。
その後、没落した主家再興と信仰の自由のため、大坂の陣に豊臣方として参戦。
大いに活躍し、真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永と並び、大坂城五人衆と呼ばれた。
戦後、行方不明となる。彼を恐れた徳川家康は「明石狩り」を命じた。
秋月種実
あきづき たねざね
1548-1596
筑前の大名。古処山城主。文種の次男。
大友家に攻められた父が自害、城を追われたが、毛利家の援助で居城を奪回した。
その後大友家に敗れて一時その傘下に入るも耳川の戦い後、再び反抗。立花道雪と戦う。
島津家が台頭するとこれに従い岩屋城の戦いに参戦。のち豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ
「楢柴茶入」を献上して改易を免れた。
秋月種長
あきづき たねなが
1567-1614
筑前の戦国大名・秋月種実の嫡男。秀吉に敗れたのち家督を継ぐが、日向高鍋に転封となる。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し大垣城に籠るが、本戦の敗北が決まると、味方を殺害し、東軍に降伏する。
秋山信友
あきやま のぶとも
1527-1575
武田家臣。「武田の猛牛」と恐れられる猛将。知略に優れ、美濃岩村城を無血開城させ、
城主未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方を妻とし、城代となる。
長篠敗戦後、岩村城は孤立するが、半年もの間、織田家の猛攻を防いだ。
だが、偽りの和議に応じ、城を出たところを捕らえられ、おつやの方共々処刑された。
明智茂朝
あけち しげとも
1538-1582
明智家臣。明智五宿老の一人。光秀が信長に仕える前から仕えていた。
元は溝尾庄兵衛と言ったが、功により明智姓を賜る。本能寺の変、山崎の戦いで活躍。
戦後、光秀の介錯を務め、主君に殉じて自害した。
明智秀満
あけち ひでみつ
1536-1582
明智家臣。通称、左馬助。明智五宿老の一人。明智光秀の娘婿で配下きっての俊英。
本能寺攻撃の先鋒となる。光秀の敗死後、退却時に大津から坂本まで馬で琵琶湖水上を渡ったという。
坂本城に火をつけ、一族とともに自害。その際、家宝を引き渡し、焼失から守った。
明智光忠
あけち みつただ
1540-1582
明智家臣。光秀の叔父・光久の子。本能寺の変では織田信忠の籠もる二条御所を襲撃時に負傷。
京の知恩院で療養する。その後、山崎の戦いで光秀が敗死したとの報を聞き、自刃した。
明智光近
あけち みつちか
不明-1582
明智家臣。光秀の一族。一説に従兄弟。山崎の戦いで片桐且元に討ち取られた。
明智光安
あけち みつやす
1500-1556
斎藤家臣。美濃明智城主である明智光綱の弟。光綱が亡くなると、その子・光秀の後見を務めた。
妹が斎藤道三の継室であったため、道三と義龍が対立すると道三側につく。
道三の戦死後、明智城に籠城するが包囲され、光秀を脱出させたのち、自害する。
浅井井頼
あざい いより
不明-不明
豊臣家臣。通称は喜八郎、周防守。浅井長政の三男または浅井氏庶流と伝わる。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉の家臣となる。関ヶ原の戦いでは、生駒親正に従い、西軍として参加した。
大坂の陣では大坂城に入り、討死したとも、落ちのび京極忠高の家臣になったとも伝わる。
浅井政澄
あざい まさずみ
不明-不明
浅井家臣。浅井長政の一族。姉川の戦いでは磯野員昌に続いて第二陣を受け持った。
浅井軍は破竹の勢いで攻めこみ、信長本陣まで迫ると思われたが、側面をつかれて総崩れとなった。
この戦で討死したとも、織田軍に降ったといわれる。
浅井政敏
あざい まさとし
不明-不明
今川家臣。近江浅井家の出という。通称小四郎。
今川義元の妹婿。赤塚の戦いでは岡部元信、三浦義就、飯尾乗連らと共に織田信長と戦っている。
桶狭間の戦いでは尾張沓掛城に入るが、義元が戦死すると城を捨てて退却した。
朝倉在重
あさくら ありしげ
1545-1615
今川家臣。駿河の豪族。一説に朝倉家の朝倉景鏡の弟。
父が政争に敗れ追放された際に流浪し、今川家に仕えたという。安部七騎筆頭。
今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、武田信玄の駿河侵攻軍に降り、その後、徳川家康に仕えた。
その過程で従わない七騎の一人を暗器で暗殺している。
徳川家が関東入りすると、駿河を支配していた中村家に仕えた。徳川家の世になると茶壺の管理をした。
朝倉景鏡
あさくら かげあきら
不明-1574
朝倉義景の従兄弟で一門衆筆頭格。金ヶ崎の戦いでは織田信長追撃軍の総大将を務めた。
義景が刀根坂の戦いに敗北すると、逃れたところを襲って義景を自害させ、信長に降った。
のち、一揆勢の大軍に囲まれ、3騎で突撃、戦死。
朝倉景健
あさくら かげたけ
1536-1575
朝倉家臣。義景の一族。戦場に出ることの少ない義景のかわり戦の指揮を執る。
姉川の戦いの総大将を務め、志賀の陣では織田信長の弟・信治や森可成らを討ち取っている。
刀根坂の戦いでは奮戦し、義景の撤退を助けたが、朝倉家は滅亡。信長の傘下に降る。
越前で一揆が起こると抗し切れず降伏。信長の怒りを買い、織田軍の越前再侵攻時に殺された。
朝倉景紀
あさくら かげとし
1505-1572
朝倉家臣。朝倉随一の名将・朝倉宗滴の養子。父と共に湊川の一向一揆を討伐。
1527年、三好氏の四国勢を討ち破った。
朝倉景鏡と一門衆筆頭の座を争い、それが原因で織田信長の越前侵攻時、
息子・景恒の守る金ヶ崎城に一乗谷から援軍を出してもらえなかった。
朝倉義景
あさくら よしかげ
1533-1573
越前の戦国大名。決断力に乏しかった。金ヶ崎の戦いで浅井長政と共に信長を挟撃するが追撃に失敗。
姉川の戦いでは自ら参戦せずに敗戦。志賀の陣では信長を追いつめながらも講和。
刀根坂の戦いで信長の急襲を受け、総崩れとなり、自らの居城・一乗谷へと敗走。
最後は一門の朝倉景鏡に裏切られ自害した。
浅野長晟
あさの ながあきら
1586-1632
豊臣家臣。長政の次男。兄・幸長が嫡子のないまま早世すると、紀伊和歌山37万石を継ぐ。
大坂夏の陣では、徳川幕府の命を受け出陣、壇団右衛門を討ち取るなど活躍した。
のち、安芸広島に転封され42万石を領した。
浅野長重
あさの ながしげ
1588-1632
浅野長政の三男。徳川秀忠に小姓として仕える。大坂の陣に従軍、奮戦した。
徳川家康、秀忠父子の信任が厚く、加増の話が出たとき、
父の菩提寺のある現在の領地を離れたくないと願って聞き届けられた。
ひ孫が『忠臣蔵』で有名な浅野内匠頭長矩である。
浅野長政
あさの ながまさ
1547-1611
豊臣家臣。秀吉の妻・ねねの親戚で、秀吉に重用された。浅井長政との戦いで初陣を飾り、のち賤ヶ岳の戦いにも参加した。
秀吉が天下を掌握すると、五奉行の筆頭に任じられる。長吉と名乗っていたが豊臣秀吉没後、長政と改名する。
石田三成と対立し、関ヶ原の戦いで、浅野家は東軍に属した。
関ヶ原後、城内の風紀が緩んでいるのを見て「三成のいたころはこんなことはなかった」と嘆いた。
浅野幸長
あさの よしなが
1576-1613
豊臣家臣。長政の長男。小田原討伐で初陣。父に従い武蔵岩槻城を攻めた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、紀伊和歌山を得る。大坂の陣直前に死去。
親豊臣派であったため毒殺されたとの説もある。
朝比奈信置
あさひな のぶおき
1528-1582
今川家臣。名は元長、政貞とも。小豆坂の戦いなどで戦功を立てる。
桶狭間の戦いで主家没落した後は武田家に仕え、駿河先方衆となった。
信玄より「信」字を一字拝領して信置と名乗る。長篠の戦いに参陣。
武田勝頼が徳川家から駿河持船城を奪還するとその城代に任じられた。
のち織田家の武田討伐軍に持船城を落とされ、自害。
朝比奈泰朝
あさひな やすとも
1538-不明
今川家臣。泰能の子。遠江掛川城主。桶狭間の戦い以後、今川から離反する家臣が相次いだが、泰朝は忠義を貫いた。
主君・氏真が武田信玄により城を失うと、まず自城に迎え、徳川家康が攻め来ると、まず氏真の命の安全を約させて開城した。
浅見道西
あさみ どうせい
不明-不明
浅井家臣。通称対馬守。浅井長政に属し小谷城に籠城するが、1537年に織田信長に通じ、浅井家敗北を決定づけた。
所領を没収された。のちに柴田勝家の家臣となり、賤ヶ岳の戦いにも参加した。
阿閉貞大
あつじ さだひろ
不明-1582
近江の豪族。貞征の子。力持ちで有名で織田信長に相撲を所望されたほど。
はじめ浅井長政に仕え、のち父と共に織田家に寝返る。
羽柴秀吉の与力となるが、領地を巡って対立、信長直属に配属換えとなる。
本能寺の変では明智光秀に味方し山崎の戦いに参加。敗戦後、捕らえられ秀吉により一族はりつけにされた。
阿閉貞征
あつじ さだゆき
1528-1582
近江の豪族。貞大の父。浅井長政に仕えたが羽柴秀吉の調略で織田信長に内応。
結果、長政は孤立し、やがて浅井氏は滅亡した。以後、秀吉に属すが対立。
山崎の戦いでは明智光秀に味方して戦い、敗北。秀吉に一族皆処刑された。
跡部勝資
あとべ かつすけ
不明-1582
武田家臣。原昌胤と共に主君・信玄、勝頼の側近を務め、政治の実権を握っていた。武田滅亡時に勝頼と共に戦死した。
『甲陽軍艦』では長坂光堅と並び、佞臣と評されており、長篠の戦いでは主戦論を展開して大敗に導き、
御館の乱では黄金を受け取って勝頼を上杉景勝方に寝返らせ、武田家滅亡の原因を作った上、
武田滅亡時には主君を捨てて逃亡したとされている。
穴山小助
あなやまこすけ
1568-1615
真田家臣。真田十勇士の一人。真田幸村と同い年で容貌も大変似ていたという。
名を安治といい、穴山信君の甥だとも孫だともいう説がある。大坂の陣で幸村の影武者を務め、討死。
穴山信君
あなやま のぶただ
1541-1582
武田家臣。入道して梅雪と号す。信玄の甥で、一門衆の筆頭格。合戦では主に本陣を守備した。
信玄没後、徳川家康の降伏勧告に応じ、勝頼を見限った。のち安土城に赴いて信長に謁見。
本能寺の変の際は、家康と共に堺にあり、帰国の途中に一揆に襲われて落命した。
甘粕景継
あまかす かげつぐ
1550-1611
上杉家臣。謙信の命により、甘粕家を継ぐ。槍と長刀の名手。出羽庄内の攻略に活躍。
1598年、景勝が会津に入ると直江兼続の指揮下、神指城普請の小奉行を務めた。
のち景勝、兼続に疎まれる。自害したとも伝わる。
甘粕景持
あまかす かげもち
不明-1604
上杉家臣。柿崎景家と並ぶ猛勇の士。
第四次川中島の戦いでは殿軍を務め、その見事な戦いぶりに、武田信玄は「謙信自身が殿軍にいるのか」と言ったという。
のち御館の乱では上杉景勝に属し、その後も景勝を支え続けた。
甘利信忠
あまり のぶただ
不明-不明
武田家臣。虎泰の子。昌忠とも。村上義清との戦いで父が死ぬと後を継ぎ、
同じく筆頭宿老である父・板垣信方を失った板垣信憲と共に家臣団の最高位「両職」となった。
武蔵松山城攻めの際、ケガをした家臣のために馬糞汁を飲んだ逸話で有名。
甘利信康
あまり のぶやす
不明-1575
武田家臣。虎泰の子。信忠の弟。兄の死後、家督を継ぐ。武田信玄の下で鉄砲大将となる。
長篠の戦いでは、山県昌景を支援するが敗れ、討死した。
雨森清貞
あめのもり きよさだ
不明-不明
浅井家臣。弥兵衛の名で知られる。
海北綱親・赤尾清綱と共に「浅井三将」と称される重臣であり、浅井家の旗頭であったという。
浅井久政に重用されていたらしく、奏者として名が残っている。
鮎川盛長
あゆかわ もりなが
不明-不明
上杉家臣。北越後の豪族「揚北衆」。
鮎川家は同族である本庄家と争っており、本庄繁長が上杉謙信に背くと、常にこれと戦っている。
御館の乱では、繁長が上杉景勝側についたため、上杉景虎側に属すが、敗北後、許されて帰参した。
かつて、盛長の父が繁長の命を助けていたため、繁長が、盛長の助命を願い出たためである。
荒木村重
あらき むらしげ
1535-1586
摂津の武将。毛利七哲の一人。織田信長に従う主君・池田勝正を追放して知性を立て、三好家に寝返り、池田家を掌握。
1573年には信長に属し、翌年、有岡城主となり摂津一国を任せられた。
1578年、信長に背き有岡城に籠城。落城時、自身はひとり城を脱出。家臣家族は皆、信長により残酷に処刑された。
本能寺の変後は堺に居を構えて、茶人として復活した。
有馬伊賀
ありま いが
不明-不明
高橋紹運の家臣。剛力で知られる。立花宗茂の初陣の後見を務めた。
その折、単独行動を取ろうとする宗茂を諌めたが、
宗茂は「父・紹運と一緒にいたら、自分の手の者まで父の命にしか従わないではないか」と笑ったという。
岩屋城の戦いでは、立花直次の宝満山城内で島津の大軍に城兵が動揺。
反乱が起きそうになっていたが、伊東源右衛門の下、宝満山城に突入。反乱発生を未然に抑えた。
有馬晴信
ありま はるのぶ
1537-1612
越前の大名。龍造寺隆信からの圧迫を受けていたが、島津家と結んで対抗。沖田畷の戦いで隆信を破る。
のち九州征伐に来た豊臣秀吉に臣従する。
キリシタン大名として知られ、大村純忠、大友宗麟らと共に、ローマ法王の元へと少年使節団を派遣した。
関ヶ原の戦いでは西軍につくが、東軍勝利を聞くと寝返り、小西行長領を攻め、家名を保った。
しかし岡本大八事件で改易、自身は死罪となった。
栗村三郎大夫
くりむら さぶろうだゆう
不明-不明
雑賀衆の有力者。1577年、織田信長の紀州征伐に抵抗。
戦況は膠着、後背に毛利家などの敵を抱える信長は、雑賀孫市、土橋守重、三郎大夫らに、
形だけの降伏を許す朱印状を出して撤退した
三郎大夫らは織田軍撤退後、半年たらずで再び反乱を起こした。
安国寺恵瓊
あんこくじ えけい
1539-1600
毛利家臣。外交僧として活躍。戦略眼に優れ、早くから織田信長失脚と羽柴秀吉台頭を予言。
本能寺の変の際、秀吉と毛利家の講和を素早くまとめ、秀吉の天下取りを助けた。
豊臣政権下で重用されたが、関ヶ原の戦いで西軍について刑死。
安東家忠
あんどう いえただ
1515-1599
立花家臣。立花四天王の一人に数えられる。立花道雪が立花姓を継いだ宴にいた七家老の一人。
耳川の戦いで大友家が敗れると筑前で大友家に対する反乱が相次いだが、
その鎮圧戦に功があり、武勇絶倫の名将と讃えられた。
道雪死後隠居。息子・連実は岩屋城の戦いの際、宝満山城で戦死している。彼の引退後、四天王には小野鎮幸が入った。
安藤直次
あんどう なおつぐ
1555-1635
徳川家臣。硬骨漢。小牧長久手の戦いで池田恒興を討ち取ったが、近くにいた若武者に手側を与え、自らは知らぬふりをした。
大坂の陣で息子が突出して戦死しても「犬にでも食わせろ」と一顧だにせず戦い、戦後大泣きに泣いた。
力不足を理由に大役を辞ず同僚に
「他にやれる奴がおらずお前を見込んでのことなのに断るとは臆病者だ。
やってダメなら切腹すればいいだけだろう」と言ってのけた。
安東範久
あんとう のりひさ
不明-不明
立花家臣。家久の次男。通称は五郎右衛門。嫡子がいなかったため幸貞を養子とした。
八院の戦いで、石松政之と共に先鋒を務める。独断で開戦し、鍋島軍と激戦を繰り広げ、孤立して討死。
安藤守就
あんどう もりなり
1503-1582
織田家臣。はじめ斎藤家に仕える。
稲葉一鉄、氏家ト全と並び美濃三人衆と呼ばれた重臣だったが、婿である竹中半兵衛と主家の稲葉山城を乗っ取り、
斎藤家の滅亡直前に信長に寝返ったりしている。姉川の戦いでは、勢いに乗る浅井軍を側面から攻め、織田軍を勝利に導く。
のちに武田家に通じたとして追放されたが、本能寺の変に乗じ挙兵。旧領回復を図るも、稲葉一鉄に討たれた。
安東幸貞
あんとう ゆきさだ
不明-1660
立花家臣。家久の次男。範久の養子。通称は摂津介、津之助。
立花宗茂に従い、武功を上げた。八院の戦いで討死する。
安部元真
あんべ もとざね
1513-1587
今川家臣。義元死後、岡部正綱と共に駿府城を守ったが、武田信玄の侵攻を受けて自領に撤退。
今川滅亡後は徳川家康に仕え、遠江伯耆国塚城を任された。
のち武田軍が駿河に侵攻してくると武田の三浦右馬助を破るなど戦功を立てた。
安養寺氏種
あんようじ うじたね
不明-1606
浅井家臣。近江の豪族。三郎左衛門。お市の方と浅井長政の婚儀の仲介役を務めた安養寺経世と同一人物とも言われる。
姉川の戦いで織田軍の捕虜となり、織田信長にこのまま小谷城を落とせるかを聞かれたとき、無理だと答え、
信長は浅井長政の追撃を思いとどまったという。浅井家滅亡後は京極高次に仕えた。
飯尾定宗
いいのお さだむね
不明-1560
織田家臣。織田信秀の従兄弟。尾張統一戦の守山城の戦いに参陣。
桶狭間の戦いでは鷲津砦を守るが、今川軍の朝比奈泰朝の攻撃を受け、討死。砦は陥落した。
飯尾田鶴
いいのお たづる
不明-1568
今川家臣。遠江曳馬城主・連龍の妻で今川義元の姪。
桶狭間の敗戦後、遠江が混乱すると、遠江の主導権を握るため、同じ遠江の豪族である井伊家の長老・直平を毒殺。
今川家から独立する。今川、井伊の討伐軍を退けるも、夫が今川氏真の罠にかかり暗殺され、後を継いだ。
のち徳川家康の援助を得た井伊直虎から攻められ、討死。その墓には艶やかな椿が植えられた。家康の初恋の人とも伝わる。
飯尾乗連
いのお のりつら
不明-不明
今川家臣。遠江曳馬城主。譜代の重臣。今川義元の上洛に従うが、桶狭間で織田信長の急襲を受ける。
総大将の義元が討ち取られると、退却。義元死後は、義元の子・氏真に仕えた。
飯尾尚清
いいのお ひさきよ
1528-1591
織田家臣。定宗の子。桶狭間の戦いでは鷲津砦を守るが、今川軍の朝比奈泰朝の攻撃を受け、敗走。
砦は陥落した。その後、織田信長の側近として、三木城の戦いなどの検視役を務めている。
本能寺の変後は織田信雄に仕え、その後羽柴秀吉に仕えた。
飯田直景
いいだ なおかげ
1562-1632
加藤清正の家臣。覚兵衛の名で有名。清正とは幼い頃からの親友。
豪傑として知られ、特に槍術に優れ、日本七槍の一人に数えられる。
その活躍は豊臣秀吉にも認められ「覚」の字を与えられたが使っていない。
築城術にも優れ、清正の城・熊本城には「飯田丸」という曲輪が今も残る。
清正死後、清正が褒めるから侍をしていたのだ、と侍をやめてしまった。
飯田義武
いいだ よしたけ
不明-1592
毛利家臣。川内警固衆に任じられ、毛利水軍の成立に携わった。厳島の戦いに活躍。
防長経略、九州大友氏との戦いに転戦した。第一次木津川口の戦いにも参戦し、兵糧入れを行った。
井伊直考
いい なおたか
1590-1659
徳川家臣。井伊直政の次男。大坂の陣では長宗我部盛親、木村重成の軍を撃破。
父ゆずりの「赤備え」を率いる勇猛な直考は「夜叉掃部(やしゃかもん)」と恐れられた。
病弱な兄にかわり家を継ぐ。徳川秀忠の死に際して、その子家光の後見を託され、大老となる。
以後、元老として幕府に重きをなした。猫の手招きにより雷を免れたという逸話で有名。
井伊直政
いい なおまさ
1561-1602
徳川四天王の一人。直虎の許嫁の子で、直虎の養子となって井伊家を継ぐ。家康に見出され、側近くに仕えた。
武田家滅亡後その配下を組み入れ、装備を赤で統一した「赤備え」を組織し、「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
小牧長久手の戦いで池田恒興を、関ヶ原で島津豊久を討った。
井伊直盛
いい なおもり
1506-1560
遠江井伊谷城主。直虎の父。はじめ今川家と敵対するが、敗れて今川義元に仕える。
桶狭間の戦いでは先鋒を務め、鷲津砦の攻撃などで活躍したが、義元と共に桶狭間で織田軍の奇襲を受け、討死。
伊賀崎道順
いがのさき どうじゅん
不明-不明
伊賀忍者。中忍で伊賀十二人衆の一人。通称は孫兵太兵衛。別名、楯岡ノ道順とも。
伊勢北畠家、近江六角家、徳川家に仕えたという。敵城に忍び込み落城させ「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と歌を詠まれた。
鉄砲の名手といわれ、織田信長を狙撃したこともあるという。
池田重安
いけだ しげやす
不明-不明
真田家臣。はじめ上杉憲政家臣、上野岩櫃城主・斎藤憲広に仕えていた。
真田幸隆の侵攻に際し寝返り、上州斎藤家は滅亡。真田家に仕える。関ヶ原の戦いでは真田信之に従い東軍に属した。
池田恒興
いけだ つねおき
1536-1584
織田家臣。織田信長の乳兄弟。信長に従い、各地を転戦した。信長死後、羽柴秀吉と共に明智光秀を討つ。
その後は秀吉に協力。小牧長久手の戦いの際、中入り作戦を提案、三河を強襲しようとして失敗。徳川軍に敗れて戦死した。
池田輝政
いけだ てるまさ
1565-1613
池田恒興の次男。関ヶ原緒戦で岐阜城攻略に参加。本戦では東軍先鋒として大奮戦。
その功績に加え、妻が家康の娘だった事から播磨姫路52万石の大領を得、「姫路宰相」「西国将軍」と称された。
生駒一正
いこま かずまさ
1555-1610
豊臣家臣。親正の子。はじめ織田信長に仕え、のちに秀吉に属す。紀州征伐に参加。
関ヶ原の戦いでは家名存続のため、父に西軍に自分は東軍に別れて戦った。戦後、父を助命し、家督を継いだ。
石井茂清
いしい しげきよ
不明-1622
鍋島家臣。龍造寺鍋島重臣・肥前石井家の出。直茂の下、国政を預かる。
主君・鍋島勝茂の命で上意討ちを行う最中に乱戦となり、事故で味方に斬られ、死去した。
石井茂成
いしい しげなり
不明-1634
鍋島家臣。龍造寺鍋島重臣・肥前石井家の出。鍋島直茂の甥。国政に当たり、財政再建に当たったが、失敗した。
石井生札
いしい よしもと
不明-1602
鍋島家臣。「鍋島三生」と称された三人の名臣の一人。
鍋島直茂の妻とははとこの関係で、直茂の子・勝茂は生札の屋敷で生まれた。
直茂の信頼厚く、外戚として、側近として鍋島家で重きをなした。
関ヶ原の戦い後の柳川城攻防戦では、鍋島水軍を率いて参戦している。
石川家成
いしかわ いえなり
1534-1609
徳川家臣。数正の叔父。徳川家康無二の忠臣。
西三河の旗頭として、桶狭間の戦い、三河一向一揆、姉川の戦いなど初期の家康の戦いを支えた。
掛川城の戦いで今川氏真と追放すると、遠江掛川城主となり、旗頭の座は数正に譲る。
本来無視断絶となるはずの石川家は養子を迎えて存続を許された。
石川数正
いしかわ かずまさ
1533-1593
徳川家臣。幼少時から家康に仕え、政戦両方で活躍した。しかし、小牧長久手の戦いののち、突如謎の出奔。
豊臣秀吉に仕える。このため徳川軍は、三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
石川康勝
いしかわ やすかつ
不明-1615
豊臣家臣。数正の次男。関ヶ原の戦いでは東軍に属す。のちに本多正信と大久保忠隣の権力争いに巻き込まれ、改易。
その翌年に大坂城に入る。冬の陣では火薬を誤爆させ、これを内応の合図と勘違いして攻め寄せた徳川軍を討ち破った。
夏の陣で真田幸村と共に突撃、討死した。
石松政之
いしまつ まさゆき
1561-1600
立花家臣。父が岩屋城で討死した功で取り立てられる、関ヶ原の戦いでは、大津城の戦いに参陣。
そのあとの柳川城攻防戦・八院の戦いでは、安東久照と共に先鋒を務めた。松隅小源に煽られて突撃。
敵先鋒・鍋島茂忠を追い崩すも、十倍する加藤清正、鍋島直茂ら東軍の大軍にはかなわず、乱戦の中、討死。
伊集院忠棟
いじゅういん ただむね
不明-1599
島津家臣。義久の筆頭家老。文武両道に通じ、歌道の縁で細川藤考と知り合い、彼を通じて豊臣秀吉と親交を結んだ。
そのため豊臣軍の九州征伐に敗れた後も島津家が存続できたといわれる。九州征伐の敗戦の際、義久に従い出家した。
のち主・忠恒と対立。奸臣として暗殺され、庄内の乱で一族も静粛された。
伊集院久宣
いじゅういん ひさのぶ
不明-1586
島津家臣。通称美作守。肥後、大隅、日向を転戦し、各地で戦果を上げる。筑前岩屋城攻略にも参加した。
島津家久の豊後侵攻に従い、鶴崎城を攻めるが、秀吉が九州入りすると撤退し、その途中、豊後高田で戦死する。
伊勢貞興
いせ さだおき
1562-1582
明智家臣。光秀の娘婿。伊勢家は幕府の政所執事を務める名門だった。
最後の将軍・足利義昭追放後は、光秀に従い織田信長に仕えた。山崎の戦いでは、明智方として戦い、散った。
武家故実に詳しく「伊勢貞興返答書」を記す。
磯野員昌
いその かずまさ
不明-不明
浅井家臣。佐和山城主。姉川の戦いで先鋒を務める。織田陣深く攻め込み、13段の陣のうち11を破り、織田信長に肉迫する。
戦後、彼を警戒した信長は、員昌内通の噂を流し、これを信じた浅井長政が員昌への補給をすべて打ち切ったため孤立。
信長に降伏した。1578年、信長の怒りを買い、高野山で出家した。
板倉勝重
いたくら かつしげ
1545-1624
徳川家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の死により還俗、家督を継ぐ。
駿府や江戸の町奉行を務めると、京都所司代となり、西国諸大名の監視を行った。
伊丹康直
いたみ やすなお
1523-1596
今川家臣。駿河を放浪中、今川義元に取り立てられる。水軍の将の才があり、氏真の代に海賊奉行となった。
主家滅亡後は、船大将として武田家に従う。のち徳川家に仕えて駿河の船奉行となった。
一宮宗是
いちのみや むねこれ
不明-1560
今川家臣。武田信玄の信濃出兵に際し、甲相駿三国同盟に従って、授兵として派遣された。桶狭間の戦いで討死。
一萬田鑑実
いちまた あきざね
不明-1588
大友家臣。豊後小牟礼城主。生涯のほとんどを軍略で過ごした一方で「黒染めの桜」を館に植え、花を愛した風流人。
主君・宗麟を招いて観桜会を開いた。耳川の戦い後、島津家の侵攻に一族が続々と島津に降る中、
大友家への忠義を貫くも一族離反の罪を主・義統に問われ自害。
伊東長実
いとう ながざね
1560-1629
豊臣家臣。長久の子。秀頼の親衛隊「七手組」の1人。
関ヶ原の戦いでは大坂城にあって、石田三成の挙兵を徳川家康に伝える功を上げる。大坂の陣では豊臣側につき、敗北。
落城する大坂城から脱出後、秀頼の死を知り自害しようとしたが説得され、
同じく七手組の青木一重と共に大名として存続することを許された。
伊東政世
いとう まさよ
1557-1628
北条家臣。氏政から「政」の字を与えられ「政世」と名乗る。御馬廻衆の一人。
豊臣秀吉の小田原攻めの際は小田原城に籠城していた。
主家滅亡後徳川家康の配下となり、槍奉行として関ヶ原の戦い、大坂の陣にも従軍した。
伊藤盛正
いとう もりまさ
豊臣家臣。美濃大垣城主。
関ヶ原の戦いでは、西軍に味方したが、大垣城を本陣にしようとした石田三成によって居城を追い出された。
関ヶ原本戦では松尾山に陣取るが、小早川秀秋に追い出された。敗戦後、改易。領地を追い出され、前田家に仕えた。
伊奈忠次
いな ただつぐ
1550-1610
徳川家臣。通称備前守。主君・家康の近習として民政に参画。
関東全土で検地や治水を行い、江戸幕府の経済基盤確率に貢献した。その施設は「伊奈流」、「備前検地」と呼ばれた。
稲葉一鉄
いなば いってつ
1515-1589
織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、安藤守就、氏家ト全と並び美濃三人衆と呼ばれる重臣だった。
斎藤滅亡直前に織田軍に内通。その後、姉川、朝倉攻め、長島、長篠など主要な合戦で功を上げた。
頑固な性格でのちに「一徹者」の語源となった。本能寺の変後、秀吉に仕えた。
井上道勝
いのうえ みちかつ
不明-不明
斎藤家臣。長井道利の子。斎藤道三の甥にあたる。
斎藤氏滅亡後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の親衛隊・黄母衣衆に加わったとされる。
井上之房
いのうえ ゆきふさ
1554-1634
黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の一人に数えられる。黒田識隆、官兵衛、長政、忠之の4代に仕えた猛将。
長政が筑前に移封されると、黒崎城1万6千石を与えられた。
黒田騒動(忠之の代に起きたお家騒動)の際は栗山利章と結び、寵臣・倉八正俊を排斥した。
猪俣邦憲
いのまた くにのり
不明-1590
北条家臣。北条譜代家臣・富永家の出で猪俣家に養子に入る。北条氏邦に属し、のち沼田城代となる。
折から北条家は豊臣家に臣従するか否かで紛糾していたが
このとき真田・北条間で係争中だった名胡桃城を真田昌幸家臣・鈴木重則を策にはめて接収してしまう。
これが豊臣秀吉に小田原討伐の口実を与えてしまった。
主家滅亡後、捕らえられて磔にされたとも、前田利家に仕えたともいう。
庵原忠春
いはら ただはる
不明-1560
今川家臣。太原雪斎の甥。忠緑の弟。元政の義理の叔父。桶狭間の戦いで討死。
庵原忠縁
いはら ただより
不明-不明
今川家臣。通称将監。駿河の豪族。太原雪斎の甥。忠春の兄。元政の義理の叔父にあたる。
桶狭間の戦いに参加。その後今川氏真に仕え、武田信玄の駿河侵攻に抗戦。最後まで今川家に忠を尽くした。
庵原元政
いはら もとまさ
不明-不明
今川家臣。父・忠胤は由比家の出で、太原雪斎の兄の養子となった。由比正信の従兄弟。之政とも。
桶狭間の戦いでは旗奉行を務めた。その後、武田信玄の駿河侵攻軍を迎え撃ったが敗れた。
かつて山本勘助は父・忠胤に9年仕えたが、今川家に仕官できないことを嘆き、武田家に行ったという。
揖斐光親
いび みつちか
不明-不明
斎藤家臣。兄は美濃国主・土岐頼芸。美濃揖斐城主。後奈良天皇に献金を行っている。
斎藤道三が頼芸を攻めた際、揖斐城も落城。流浪するが、のち斎藤義龍に仕えた。
今川氏真
いまがわ うじざね
1538-1615
今川家10代当主。義元の嫡子。
家督継承時は駿河遠江三河3カ国の太守であったが、
徳川家の独立や武田家の侵入を受けて居城を追われ、戦国大名としての今川家は滅亡する。
その後、北条家や徳川家の庇護を受けつつ流浪した。芸能に造詣が深く、蹴鞠や和歌を披露して過ごしたという。
今村氏直
いまむら うじなお
不明-1570
浅井家臣。通称掃部助。1560年、野良田の戦いで後陣に名を連ねる。
姉川の戦いにて、遠藤直経らと共に討死した。
色部長実
いろべ ながざね
1553-1592
上杉家臣。長真とも書く。勝長の子。越後揚北衆で平林城主。兄・顕長から譲られて家督を継ぐ。
御館の乱では景勝方に属す。豊臣秀吉に出羽仙北の一揆平定を命じられ、大谷吉継に従って戦った。
岩井信能
いわい のぶよし
1553-1620
上杉家臣。御館の乱では上杉景勝に属し飯山城主となる。城下町を整備して近世飯山町の基礎を築いた。
主家の会津転封後は、安田能元、大石綱元と共に会津三奉行の一人に数えられた。
岩成友通
いわなり ともみち
不明-1573
三好家臣。三好三人衆の一人。三好康慶と義継の二代に仕え、三好一族と同等に遇された。
義継に従って足利義輝暗殺などに加わるが、義継が織田信長の上洛軍に降ると背き、他の三人衆と共に信長と戦う。
のち信長に降伏したが、将軍・足利義昭の挙兵に応じて背き、細川藤考に攻められて敗死した。
岩室重休
いわむろ しげやす
不明-1561
織田家臣。桶狭間の戦いで、突如奇襲を始めた織田信長に真っ先に従った5人のうちの一人。
のち尾張統一戦の小口城攻めでこめかみを突かれ、戦死。「隠れなき器用の仁」だったと記され、その死を信長も悼んだという。
上杉景虎
うえすぎ かげとら
1554-1579
北条氏康の七男。はじめは北条三郎と名乗ったとされる。越相同盟成立の際に越後に赴き、のちに上杉謙信の養子となった。
謙信の死後、御館の乱において義弟の上杉景勝と家督を争うが、敗死した。
上杉景信
うえすぎ かげのぶ
不明-1578
上杉家臣。古志長尾家の出身で、上杉謙信の親族に当たる。謙信が関東管領に就任した際、共に上杉姓へと改めた。
一門衆の筆頭格として各地を転戦する。謙信没後、御館の乱で上杉景虎方に属し、景勝勢と戦って敗死した。
上田憲定
うえだ のりさだ
1546-1597
北条家臣。朝直の子。武蔵松山城主。城下町の経営、市場の創設など、主に行政面で手腕を発揮した。
豊臣秀吉の小田原討伐時には小田原城に籠城。その後の消息は不明。
宇喜多秀家
うきた ひでいえ
1572-1655
備前の大名。直家の子。羽柴秀吉の備中高松城攻めに協力。寵愛され五大老に列せられる。
関ヶ原の戦いで、西軍の副大将として檄文を発し、自らも福島正則軍と戦った。戦後、死罪はまぬがれたが、八丈島へ配流された。
氏家ト全
(うじいえ とぜん
1512-1571
織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、安藤守就、稲葉一鉄と並び、美濃三人衆と呼ばれる重臣だった。
斎藤家滅亡直前に織田軍に内通した。1571年、柴田勝家に従って、伊勢長島一揆平定に出陣するも敗退。
殿軍を務めて討死した。
氏家行広
うじいえ ゆきひろ
1546-1615
豊臣家臣。ト全の次男。豊臣家に尽くした忠義の士。
関ヶ原の戦いでは幼い豊臣秀頼を思い、中立を宣言するが、攻められて西軍に属し、伊勢桑名城を守る。戦後改易。
その後、大坂の陣では豊臣方として参戦。徳川家康に招かれたが応じなかった。落城時に自刃。
内田鎮家
うちだ しげいえ
不明-1619
立花家臣。道雪、宗茂の2代に仕えた。
北上した島津軍に立花城が包囲されたときは、偽りの使者として島津の陣に乗り込み、時を稼ぐ。
豊臣の援軍が到着すると、堂々と策であったことを明かすが、島津忠長は鎮家を家臣と称え、立花城に送り返した。
関ヶ原の戦いでは柳川城の留守を守る。宗茂改易後、牢人。宗茂の旧領復帰前に死去。
鵜殿氏長
うどの うじなが
1549-1624
今川家臣。長照の子。父が戦死した際に徳川家康に捕らえられ、家康の妻子と人質交換で今川館に赴く。
主家滅亡後は徳川家に属し、姉川、長篠の戦いなどに従軍した。家康が関東に移封されると、1千7百石を領した。
鵜殿長照
うどの ながてる
今川家臣。三河上ノ郷城主。父・長持の代から今川家に仕える。母は今川義元の妹。桶狭間の戦いでは大高城を守る。
義元敗死後、三河の諸将が徳川家康に属する中、今川にとどまる。その後家康の猛攻を受け、洛城。討死。
上井覚兼
うわい さとかね
1545-1589
島津家臣。日向攻めに功があり、肥後、肥前にも転戦。豊臣秀吉の九州征伐の際豊臣秀長に降ったのち隠棲した。
優れた教養を持ち、『上井覚兼日記』「伊勢守心得書」などの著書を残している。
頴娃久虎
えい ひさとら
1558-1587
島津家臣。大友軍との耳川での戦い、龍造寺軍との沖田畷での戦いなどで数々の戦功をあげる。
その働きは「豊肥戦(の勝利)は、すべて久虎によるもの」と島津義弘に賞賛された。
江村親俊
えむら ちかとし
不明-不明
長宗我部家臣。親家の子。元親の下、使臣として活躍した。豊臣秀吉の四国征伐の際には、阿波一宮城で谷忠澄とともに抵抗。
戦後、元親が三男・津野親忠を秀吉の人質に送った際には、親忠に従って伏見へ赴いた。
遠藤直経
えんどう なおつね
1531-1570
浅井家臣。豪勇で知られる。織田信長を警戒し、長政と信長の妹・お市との婚姻時には信長暗殺を献言。
逆に金ヶ崎の戦いの際には、織田軍につくことを主張した。姉川の激戦の最中、直経は織田の武将を装い、織田陣に潜入。
信長に接近して討ち果たそうとはかるが、竹中重矩に正体を見破られ討死する。
遠藤慶隆
えんどう よしたか
1550-1632
織田家臣。美濃の豪族。郡上八幡城主。信長死後、織田信考に属していたが、その死後、豊臣秀吉に降る。
小牧長久手の戦いの際、織田信雄ほの内通疑惑により郡上八幡を追われた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍の稲葉貞通が治めていた郡上八幡城を攻めた。
戦後、その功が家康に認められ、旧領に復帰した。
大久保忠佐
おおくぼ ただすけ
1537-1613
徳川家臣。忠世の弟。徳川十六神将の一人。武芸に優れ、長篠の戦いで兄とともに「膏薬侍」と織田信長に賞賛される。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属し真田昌幸、幸村親子に足止めされた。戦後、駿河沼津2万石を領した。
大久保忠隣
おおくぼ ただちか
1553-1628
徳川家臣。忠世の三男。三河一揆鎮圧の頃から家康に従い、各地を転戦。
家康の三男・秀忠の家老となり、秀忠の将軍就任に尽力した。
大坂の陣直前、豊臣家に融和的であった忠隣は本多正信らとの権力闘争に敗れて失脚。出家した。
大久保忠世
おおくぼ ただよ
1532-1594
徳川家臣。徳川十六神将の一人。
猛将として知られ、三方ヶ原の戦いで大敗した時、迫り来る武田軍に猛反撃を加え、家康を無事帰還させた。
長篠の戦いでも、鉄砲隊を率いて大奮戦。織田信長から、その働きを絶賛された。
大崎義隆
おおさき よしたか
1548-1603
大崎家13代当主。奥州探題。伊達政宗と争った。
大崎合戦で一度は政宗の軍を退けるが、摺上原の戦いで奥州の覇者となった政宗に抗しきれず、ついにはその傘下に入った。
豊臣秀吉の小田原討伐に参陣しなかったため改易。
その後お家再興の約定を取り付けたが、葛西大崎一揆が起き、お家再興も流れた。上杉景勝を頼り、家臣となる。
大須賀康高
おおすが やすたか
1527-1589
徳川家臣。猛勇な将で、合戦では先鋒や殿軍を多く務めた。小牧長久手の戦いの際には先鋒となり、豊臣秀次軍を撃破している。
軍事だけでなく政治の面でも、三河奉行を務めるなど家康を助けた。
太田成方
おおた なりたか
1541-1598
立花家臣。通称久作。元は高橋紹運に仕えていたが、紹運の子・立花宗茂が
立花家に養子に入るときに世戸口十兵衛と共に後見として宗茂に従い、立花家臣となる。
立花家が豊臣家に属した後、遠征先で戦死。
大谷吉治
おおたに よしはる
1581-1615
豊臣家臣。吉継の長男。父と共に関ヶ原の戦いで奮戦。小早川秀秋の寝返りにより父が自害後、戦場を離脱。
大坂の陣では、豊臣秀頼の招きに応じ、大坂城に入る。夏の陣・天王寺口の戦いで討死。
大友義統
おおとも よしむね
1558-1610
豊後の大名。宗麟の長男。島津軍の侵攻を受けるが、豊臣秀吉の庇護を受け、滅亡をまぬがれる。
だが、のちに秀吉の勘気を受け、改易。関ヶ原の戦いでは毛利輝元に煽動され、
西軍に属して、旧領奪回を狙うが、黒田官兵衛に石垣原の戦いで敗れた。
大西頼包
おおにし よりかね
不明-不明
三好家臣。阿波白地城主。覚養の弟。白地城は四国の交通の中心地にあり、
長宗我部元親はここを四国統一の足がかりにすべく攻め込んできた。
覚養は頼包を人質に和睦するが、すぐに三好軍に寝返る。しかし元親は頼包を厚遇。
この心意気に感じ入った頼包は長宗我部家臣となり、兄を説得して、降伏させた。
引田の戦いでは香川之景と共に仙石秀久を破った。
大野木秀俊
おおのぎ ひでとし
不明-1573
浅井家臣。通称、土佐守、兵内とも。
姉川の戦いで、浅井家の本拠・小谷城防衛の要・横山城を守り、織田信長に包囲されるが死守する。
戦後開城して、羽柴秀吉に引き渡した。小谷城落城時、秀吉に通じて投降するが許されず、中村一氏に殺された。
大野治胤
おおの はるたね
不明-1615
豊臣家臣。治長の弟。道犬斎と称した。大坂冬の陣では、「橙武者」と罵られた。
大坂夏の陣の際は堺を焼き討ちした。大坂城が落城すると、逃走するが捕らえられ、堺で逆に火あぶりにされた。
大野治長
おおの はるなが
1569-1615
豊臣家臣。忠誠残るところなしと徳川家康に称賛された。
母は茶々の乳母で縁が深かったことから、豊臣秀頼は茶々との密通の子との噂が立った。
関ヶ原の戦いの直前、家康暗殺を企んだとして流罪となる。関ヶ原の戦いで福島正則の陣に加わり戦功を立て復帰。
大坂城の実権を握る。冬の陣では諸将の反対を押し切って徳川家と和議を結び、堀を埋められた。
翌年夏の陣で大坂城は落城。自害する。
大野治房
おおの はるふさ
不明-1615
豊臣家臣。治長の弟。大坂冬の陣では、船場の砦を堅く守り、撤退命令にも応じなかった。
夏の陣では大和郡山城を攻めて、筒井定慶を敗走させた。
大坂城落城の際、秀頼の子・国松丸を連れて逃亡するが捕らえられ、斬首される。
大村喜前
おおむら よしあき
1569-1616
肥前の大名。純忠の嫡男。関ヶ原の戦いでは東軍に属して、所領を安堵された。
キリスト教から日蓮宗に転じ、キリシタンを迫害したため、のちに毒殺された。
小笠原長忠
おがさわら ながただ
不明-不明
徳川家臣。信興とも。遠江高天神城主。
はじめ今川家に仕えたが、今川家が衰退すると僚将・小原鎮実の首を土産に徳川家に仕える。
武田信玄の大軍勢を寡兵で撃退し、名を馳せた。
しかし数年後、武田勝頼に城を包囲された際、徳川家康が援軍を出さず、武田方に降伏した。
ほどなく病死したとも、武田滅亡後、家康に降伏の罪を問われ、処刑されたとも、北条三滅亡後、処刑されたとも伝わる。
小笠原秀政
おがさわら ひでまさ
1569-1615
徳川家臣。貞慶の子。父が石川数正の配下だったので、共に一時、豊臣家に仕えた。
のちに徳川家に復帰し、関ヶ原の戦いの後、加増される。
大坂の陣では、徳川軍先鋒の本多忠朝を救援。豊臣方の毛利勝永隊と交戦して天王山口て討死。
小笠原康広
おがさわら やすひろ
1531-1598
北条家臣。氏康、氏政に仕え、武者奉行を務めた。
秀吉の小田原討伐で主家が滅亡すると、氏政の長男・氏直に従って高野山に入る。氏直没後、徳川家康に仕えた。
岡部長盛
おかべ ながもり
1568-1632
徳川家臣。正綱の子。勇猛果敢で「岡部の黒鬼」の異名を取る。小牧長久手の戦い、信濃上田城攻めなどに参陣。
下総に1万2千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは下総黒羽城で上杉家に備える。大坂夏の陣のあと、美濃大垣城主となる。
岡部正綱
おかべ まさつな
1542-1584
今川家臣。元信の兄。今川滅亡後、信玄に「一将は得難い」と請われて武田家に仕え、
駿河先方衆として三方ヶ原の戦いなどに従軍した。
武田家滅亡後、徳川家康に仕え、本能寺の変後、武田旧臣を取りまとめて甲斐平定に貢献した。
その武田旧臣接待のために飲み過ぎて体を壊し、死んだ。
岡部元信
おかべ もとのぶ
不明-1581
今川家の勇将。正綱の弟。桶狭間の戦いで、主君・今川義元が討たれた後も抗戦し、義元の首を奪回してから帰国した。
今川家滅亡後は武田家に仕え、高天神城を守備。
本多忠勝らの猛攻に3年の間耐えるも、武田勝頼からの援軍はなく、飢餓状態に。落城時に敵に突撃し、討死。
岡吉正
おか よしまさ
不明-不明
紀伊の豪族。雑賀衆の一員。雑賀孫市と共に、石山本願寺に籠城し、織田信長に抵抗した。
射撃の腕に優れ、本願寺攻めの陣頭に立った信長を狙撃して、大腿部に重傷を負わせたという。
のち信長に降り、信長没後、羽柴秀吉が紀州征伐に動くと、これに従った。
小川祐忠
おがわ すけただ
不明-1601
近江の豪族。はじめ浅井長政に仕えるが、敗れて織田信長に降伏。本能寺の変では明智光秀に属し、羽柴秀吉に降伏。
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に属すが、柴田勝豊と共に秀吉に寝返り。
関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、小早川秀秋と同時に東軍に寝返った。戦後改易。程なく死去。
奥平貞治
おくだいら さだはる
不明-1600
徳川家臣。貞能の弟。三方ヶ原の戦いでは武田軍として戦い、長篠の戦いでは徳川軍に属して長篠城に籠城した。
関ヶ原の戦いでは内通していた小早川秀秋の陣に軍艦として派遣され、寝返りを督促。
秀秋寝返り後は、戦線離脱した松野重元隊わ率い、大谷吉継と交戦。死兵となった大谷軍に押し返され、戦死。
奥平信昌
おくだいら のぶまさ
1555-1615
奥三河の豪族。貞能の子。はじめ貞昌と名乗る。信玄没後、徳川家康の娘・亀姫をめとり、武田から徳川に寝返る。
これが武田勝頼の怒りを買い、長篠城を囲まれるがその猛攻に屈せず、城を守り抜いた。
この粘りが長篠での織田徳川軍勝利の原因となる。この功により、織田信長から「信」の字を与えられ信昌と名乗った。
小倉松寿
おぐら まつじゅ
1567-1582
織田家臣。馬廻衆。実房の子。母は織田信長の側室となるお鍋の方。織田信吉の異父兄。
父は金ヶ崎の戦いで信長の逃亡を助け、六角家に滅ぼされている。
1582年、宿泊先の宿で本能寺の変を知り湯浅甚介と共に明智光秀の軍勢を突破。本能寺に駆け込んだ。
他の小姓らと共に明智軍に抗戦。16歳で討死した。
織田勝長
おだ かつなが
不明-1582
織田家臣。信長の叔母で美濃岩村城主・おつやの方の願いで、岩村城に養子に入るが、
武田軍・秋山信友の攻撃を受け、岩村城は降伏、武田軍に人質として連行されてしまう。武田勝頼の下で元服し、勝長を名乗る。
劣勢になり和議を模索する武田家から織田家に送還されたが、信長の武田討伐の手は緩むことがなかった。
後、信房と改名。本能寺の変で、兄・信忠と共に討死。
織田長考
おだ ちょうこう
不明-1606
織田家臣。長益の長男。父に従って関ヶ原の戦いに東軍に属して参戦。戸田勝成とその嫡男・内記を討ち取った。
戦後、美濃大野郡に一万石の大名に取り立てられたが、まもなく死去した。
織田長利
おだ ながとし
不明-1582
織田家臣。織田信長の末弟。伊勢長島の戦いに参陣。本能寺の変では、織田信忠と共に二条城で明智軍と戦い、討死。
織田長益
おだ ながます
1547-1622
織田家一門。信長の弟。有楽斎と号す。茶の湯に傾倒し、茶人として知られる。
千利休と交流があり、利休十哲の一人。本能寺の変の際はひとり京を脱出した。
後に豊臣家に仕え、利休亡き後の秀吉の茶の湯を司った。関ヶ原の戦いは東軍に属し活躍。
大坂の陣では、豊臣方に属すが、強硬派と対立。夏の陣を前に大坂城を離れた。

織田信勝
おだ のぶかつ
1536-1557
織田家臣。通称勘十郎。名は信行とも。
織田信長の同母弟で家中の評判もよく、父の死後、林秀貞、柴田勝家らの支持を得て兄と対立した。
いったんは母・土田御前のとりなしで和睦したが、再び謀反を企てたため、信長に殺された。
織田信雄
おだ のぶかつ
1558-1630
織田信長の次男。北畠具房の養子となって伊勢を乗っ取り、北畠一門を抹殺。独断で伊賀に侵攻し、天正伊賀の乱を起こす。
本能寺の変後、小牧長久手の戦いで徳川家康と結び、羽柴秀吉と戦うが、対陣中に秀吉と単独講和してしまう。
のち秀吉の国替えに逆らい、改易。
大坂の陣では総大将格で大坂城に入るが、冬の陣直前に徳川方に寝返って大名となり、暗愚と言われながらも家名を保った。
織田信包
おだ のぶかね
1543-1614
信長の弟。伊勢攻略時に伊勢上野城主となり、北伊勢を治めた。越前平定や石山合戦などに参戦。
一門衆として重きをなす。浅井滅亡後はお市と三人の娘を引き取った。本能寺の変後は、秀吉に仕える。
北条滅亡時に、北条氏政の助命を嘆願して秀吉の怒りを買い、改易。老犬斎と号し隠棲する。
関ヶ原の戦いの後には豊臣秀頼に近侍したが、大坂の陣直前に急死した。
織田信貞
おだ のぶさだ
1574-1624
織田信長の九男。幼名は「人」。兄・信雄、その後豊臣秀吉に仕えた。
関ヶ原の戦いでは、西軍に味方して伏見城の戦いに参戦。
戦後、改易された。大坂の陣では徳川方に味方して従軍した。
織田信考
おだ のぶたか
1558-1583
織田信長の三男。一門衆として活躍。本能寺の変後、柴田勝家と結んで家督相続を狙うも、
羽柴秀吉に敗れ、その命により自刃させられた。思慮の人で誰に対しても礼儀正しかったと評されている。
織田信高
おだ のぶたか
1576-1603
織田信長の七男。幼名は「小洞」。本能寺の変の後は、氏家行広に養育され、豊臣秀吉に仕える。
関ヶ原の戦いでは東軍に属したという説と西軍に属したという説があり、はっきりしない。
死後、嫡男が徳川家に仕え、高家旗本となった。
織田信忠
おだ のぶただ
1557-1582
織田信長の長男。信長が安土城に移ると織田家後継者として岐阜城に入る。松永久秀討伐、武田討伐戦で総大将となる。
本能寺の変の時、二条御所に籠もり、明智光秀軍と果敢に戦うが、兵力差はいかんともしがたく、自刃した。
織田秀敏
おだ ひでとし
不明-1560
織田家臣。信長の祖父・信定の弟。今川義元の上洛軍が桶狭間に向けて進軍を開始すると、鷲津砦に籠城して敵を食い止める。
今川軍に敗れて砦は陥落し、その際に討死した。
鬼小島弥太郎
こじま やたろう
上杉家臣。謙信の少年期よりの近臣。
怪力は並ぶ者なしと言われ、川中島の戦いで武田の猛将・山県昌景に「花も実もある勇士」とその勇猛ぶりを賞賛された。
武田信玄がけしかけた猛犬を一撃で倒したり、将軍・足利義輝がけしかけた
獰猛な猿を懲らしめたりするなど、豪快な武勇談を数多く残す。
鬼庭左月
おににわ さつき
1513-1586
伊達家臣。名は良直。左月斎と号す。稙宗の代に仕えて以来、伊達家4代に仕えた譜代の重臣。
政宗の代には一門衆に列せられた。人取橋合戦では、老齢ながら撤退する伊達軍の殿軍を務める。
甲冑を脱ぎ捨て追撃軍と死闘を展開し、政宗を無事に逃したのち壮絶な討死を遂げた。
鬼庭綱元
おににわ つなもと
伊達家臣。左月の子。片倉小十郎、伊達成実と並び伊達の三傑と称される。
葛西大崎一揆を伊達政宗が煽動したと告発されたとき、時の天下人、豊臣秀吉に政宗の潔白を弁明した。
補給にも優れ、遠征時に伊達家の兵から餓死者を出さなかったという。
小野鎮幸
おの しげゆき
1546-1609
立花家臣。立花四天王の一人。豊臣秀吉が日本七槍に本多忠勝と並んで数え、加藤清正が豪勇無敵の士と絶賛した猛将。
一方で吝薔で、賄賂を貯め、非難を浴びたが、立花家の財政が逼迫したとき、これを差し出した。
備えを怠らぬ知の人でもあった。立花家柳川復帰を見ず死去。
小野道好
おの みちよし
不明-1570
織田家臣。通称、助左衛門尉。羽柴秀吉に与力として従い、朝倉討伐後、越前の代官を任される。
本能寺の変後も秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と戦う。小牧長久手の戦いで中入り部隊に参加し討死する。
小原鎮実
おはら しずざね
不明-1568
今川家臣。大原資良とも。義元、氏真2代に仕える。三河吉田城の城代となり、城下町の整備に努めた。
1565年、徳川家康の攻撃を受け吉田城を追われる。
その後、遠江宇津山城、駿河花沢城の城代となるが、家康や武田信玄の侵攻を受け、徐々に追い詰められる。
最後は逃げた先の高天神城で小笠原長忠に裏切られ妻子ともども殺され家康に届けられた。
小山田信茂
おやまだ のぶしげ
甲斐郡内の領主。武田家の宿老。武田軍主力として数々の戦功をあげた。
1582年3月、織田・徳川軍の甲斐侵攻が始まると、武田勝頼を見限り、織田家に寝返った。
しかし、その行為が逆に織田信長の怒りを買い、処刑された。
小山田昌行
おやまだ まさゆき
不明-1582
武田家臣。二代目備中守。初代備中守・虎満の子。名は昌成とも。武田信玄の旗本の先鋒を務め、父に劣らぬ武功を立てる。
長篠の戦いで、松平伊忠を討ち取った後、隠居するが、織田軍が武田討伐に動いたのを知って復帰。
高遠城の戦いで、仁科盛信の副将として織田信忠軍と戦い討死した。




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