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武将辞典【呉】

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目次

韓当(カントウ)
?−227
字は義公。
呉の将。孫氏三代に仕えた古参の武将。
赤壁の戦い関羽討伐戦、夷陵の戦いと多くの戦いに参陣して、呉水軍の一翼を担った。
赤壁では、矢を受け長江に落ちた黄蓋を助けている。
甘寧(カンネイ)
?−222
字は興覇。
呉の将。水賊出身で、腰に鈴を付け、無頼の徒を引き連れて、のし歩いていた。
劉表黄祖と従うが、重用されず、呉に身を寄せる。
周瑜呂蒙の推挙によって孫権に引き立てられ、のち赤壁や対魏戦で活躍した。
盧翻(グホン)
164−233
字は仲翔。
会稽太守・王朗の郡吏。
孫策に敗れた厳白虎王朗が迎え入れたとき、孫策と敵対しないように進言するが拒否される。
王朗の敗北後、孫策に招聘され華歆を投降させた。赤壁の戦いを前に諸葛亮に舌戦を挑んだが論破される。
呂蒙の荊州攻めの際、公安を守る傅士仁を説得して投降させ、作戦を成功に導いた。
黄蓋(コウガイ)
?−?
字は公覆。
呉の将。孫堅挙兵時以来の宿将。鉄鞭の使い手。
赤壁の戦いでは周瑜と協力して「苦肉の計」を実行する。
自らを周瑜に棒打ちさせた黄蓋は、曹操に投降すると見せかけて魏の船団に火を放ち、呉を勝利に導いた。
顧雍(コヨウ)
168−243
字は元歎。
呉の臣。「呉の四姓」の顧家の出身。張絋の推挙で孫権に仕え太守の職務を代行する。
赤壁の戦いの開戦前は、張昭とともに曹操との交戦に反対した。
夷陵の戦いの前、孫権曹丕に臣従して呉王の位を得た際には、他人の爵位を受けることはないと反対。
孫権が帝位に就くと、丞相に就任した。
周泰(シュウタイ)
?−?
字は幼平。
呉の武将。もとは海賊だが孫策に帰順する。のち孫権に仕え、山賊に攻められた際に多数の傷を負いながら孫権を救った。
合肥の戦いでも身を盾にして乱戦の中から孫権を救い出す。その献身の働きに、孫権は酒宴を開いて厚くねぎらった。
周魴(シュウホウ)
?−?
字は子魚。
呉の臣。魏の曹休に偽って内通を申し入れる。
当初は信じなかった曹休に対して髪を切って信用させ、曹休軍を石亭まで案内して行方をくらます。
待ち伏せていた呉軍は、これを急襲して大勝を収めた。この功により、関内侯に封ぜられた。
周瑜(シュウユ)
175−210
字は公瑾。
呉の将。主君・孫策とは、義兄弟。
赤壁の戦いでは、大都督として水軍を指揮し、曹操の大軍を破る。
粋人で、容姿端麗だったことから「美周郎」の異名をとった。
朱桓(シュカン)
177−238
字は休穆。
呉の将。「呉の四姓」の朱家の出身。対魏の防衛拠点である濡須の守備を担った。
石亭の戦いでは、周魴の策にかかって誘き出された曹休軍を打ち破り、魏の将・張普を討ち取るなどの活躍をした。
朱然(シュゼン)
182−249
字は義封。
呉の将。夷陵の戦いで水軍を率いた。
陸遜の火攻めで敗走する劉備を追ったが、救援にかけつけた趙雲の軍勢に行く手を阻まれ、劉備を取り逃した。
朱治(シュチ)
156−224
字は君理。
呉の将。孫氏三代に仕えた宿将で、孫策袁術から兵を借りて独立するよう進言する。
のち呉郡太守に任ぜられ、赤壁の戦いでは四方巡警使を務めた。
小喬(ショウキョウ)
?−?
橋玄の娘。呉の周瑜に嫁ぐ。姉の大喬とともに「二喬」と称された美女。
曹操が二喬を狙っていると諸葛亮に聞かされた周瑜孫権に交戦論を主張して、赤壁の戦いに至った。
蒋欽(ショウキン)
?−?
字は公奕。
呉の将。孫策の評判を聞きつけ周泰とともに配下となる。
南郡侵攻で、自ら名乗り出て先鋒を務めるが、大敗して処刑されそうになる。
関羽討伐戦では水軍を率いて関羽を包囲した。
諸葛恪(ショカツカク)
203−253
字は元遜。
諸葛瑾の長男。父に劣らず聡明で、孫権に重用される。陸遜の死後、呉の太傅となり、全権を掌握。
攻め寄せた魏軍を迎撃し圧勝したが、のち蜀の姜維と共同で魏を攻めて失敗する。
敗戦後、専横が過ぎたため、一族もろとも誅された。
諸葛瑾(ショカツキン)
174−241
字は子瑜。
呉の臣。諸葛亮の兄で、諸葛恪の父。魯粛の推挙により孫権に仕える。
度量が広く温厚な性格で、孫権とは生死を越えた信頼関係で結ばれた。蜀と呉の関係の円滑化に務める。
孫権が帝位に就くと大将軍に任ぜられた。
徐盛(ジョセイ)
?−?
字は文嚮。
呉の将。赤壁、合肥攻略、荊州攻略などに従軍した。
曹丕が呉を攻めた際には、軍を率いて迎え撃ち、偽の城や城壁で魏軍を退けた。
薛綜(セツソウ)
?−243
字は敬文。
呉の臣。孫策の後を継いだ孫権に招かれた。
赤壁の戦いの直前に諸葛亮劉備孫権の同盟を結ぶために呉を訪れた際、張昭らとともに論戦を挑むが退けられた。
民政の達人であり、呉屈指の文学者でもあった。
自らの詩賊をまとめた「私載」や「五宗図述」などの著作がある。
全j(ゼンソウ)
?−249
呉の将。山越討伐で大功を挙げる。
周魴の偽りの投降で誘き寄せた魏軍を討つため、陸遜とともに出陣。魏の薛喬を破った。
孫桓(ソンカン)
?−?
字は叔武。
呉の将。孫策から孫姓を賜った兪河の三男。
関羽の復讐のために、劉備が荊州に攻め寄せると朱然とともに迎撃に当たった。
緒戦で部下の李異、謝旌、譚雄が蜀の張苞関興に斬られ、夷陵城に退いて蜀軍に包囲されたが固守して耐え抜いた。
陸遜が火計で蜀軍を破ると、追撃して蜀将・張南、馮習らを破った。
孫休(ソンキュウ)
?−?
字は子烈。
孫権の六男。呉の三代皇帝。弟の孫売を廃した孫綝によって皇帝に立てられる。
のちに専横を極めて謀反を企てた孫綝を、丁奉・張布らに討たせた。
魏の攻撃を受けた蜀から救援要請を受けると、丁奉らを派這するが、間に合わなかった。
蜀が滅び、魏も司馬炎に滅ぼされると心痛のあまり病を発し、死亡した。
孫堅(ソンケン)
156−192
字は文台。
孫子の末裔とされる英傑。海賊退治して名を成した。黄巾討伐で活躍し、長沙の太守となる。
董卓連合軍では先鋒を務め、洛陽への一番乗りを果たす。
その後、井戸から伝国の玉璽を発見し、本国に持ち帰った。
孫権(ソンケン)
182−252
字は仲謀。
呉の初代皇帝。孫堅の次男で孫策の弟。兄の急死により、後を継ぐ。
孫策から「自分が攻めに勝るのに対し、守りに勝る」と評される。
赤壁の戦いでは、曹操との交戦を決断し、大軍を相手に勝利を果たした。
孫策(ソンサク)
175−200
字は伯符。
孫堅の長男。父の死後、袁術のもとに身を寄せる。のち、袁術から三千の兵を借りて挙兵。
短期間に江東一帯を平定し、「小覇王」と呼ばれた。幼なじみの周瑜をはじめ、優秀な人材を集めて呉の基盤を築いた。
孫韶(ソンショウ)
188−241
字は公礼。
孫堅が兪家から取った養子で、孫桓の従兄弟。
魏軍を迎撃するにあたって徐盛と対立し、独自に兵を動かして魏軍を混乱させる。
丁奉らの助けもあって、大勝を収めた。
孫尚香(ソンショウコウ)
?−222
孫一族の娘。孫策孫権の妹にあたる。男勝りな性格で、幼少のころから武芸を好んだ。
のちに劉備の妻となるが、彼女の部屋の前には、武装した侍女が常に控えていたという。
孫静(ソンセイ)
?−?
字は幼台。
孫堅の末弟。兄・孫堅劉表攻めを諌めるが、聞き入れられなかった。
孫堅の死後、孫策とともに江東に進出し、王朗を追討して会稽郡を守る。
孫権黄祖を討伐した際は、呉郡を守った。
のちに曾孫の孫峻、孫綝が呉の政権をほしいままにした。
孫登(ソントウ)
209−241
字は子高。
孫権の長男。母は徐氏。孫権が皇帝に即位すると、皇太子に立てられた。
聡明で徳の高い人物として将来を期待されるが、若くして病死した。
正史によると臨終の際、弟の孫和を皇太子にするよう書き遺す。
孫朗(ソンロウ)
?−?
字は早安。
孫堅の五男。孫堅の死後、一族とともに曲河に移住する。
江東を制圧した孫策が死に瀕すると兄弟で助け合って孫権を補佐するように遺訓された。
太史享(タイシキョウ)
?−?
字は元復。
呉の将。太史慈の子。
209年の合肥攻めで太史慈が死ぬと、孫権の館に引き取られ、育てられた。
正史によると、のちに尚書、呉郡太守を歴任した。
なお正史では、太史慈は206年に病死している。
太史慈(タイシジ)
166−206
字は子義。
呉の将。義理厚く、かつて母が世話になった恩を返すために、北海太守・孔融の危機を救った。
のち劉繇に仕え、孫策と一騎打ちして互角に戦う。
劉繇が敗れた後も抵抗するが捕らわれ、孫策の意気に感じ入り、兵を率いて帰順した。
張承(チョウショウ)
?−?
字は仲嗣。
呉の将。張昭の子。
諸葛亮が第五次北伐を敢行すると、それに呼応して魏を攻めるべく孫韶とともに進撃するよう孫権から命じられた。
張昭(チョウショウ)
156−236
字は子布。
呉の将。張承の父。「二張」と称された策士。周瑜の推挙により、孫策が幕僚として招いた。
孫策は死にぎわに「国内のことはすべて張昭に聞け」と孫権に言い残した。
陳武(チンブ)
?−215
字は子烈。
呉の将。孫策の代から仕え、赤壁の戦いにも参加。
孫権の妹が劉備と結婚した際は、呉から脱出を図る劉備を取り逃してしまう。
のち濡須で魏軍と戦い、龐徳と一騎打ちになるが、武運つたなく斬られた。
程普(テイフ)
?−?
字は徳謀。
呉の将。鉄脊蛇矛の使い手で、孫氏三代に仕えた歴戦の士。諸将から「程公」と慕われた。
赤壁の戦いでは副都督を務めて、正都督の周瑜に協力し、曹操の軍を江上で撃破した。
丁奉(テイホウ)
?−271
字は承淵。
呉の将。孫権の代に召し抱えられた。戦場で功を重ね、魏の名将・張遼を破るなどの活躍を見せる。
七十年もの長きにわたって呉に仕え、大将軍の位にまで昇った。
丁封(テイホウ)
?−?
呉の将。丁奉の弟。
263年、魏のケ艾が蜀に攻め込んだ際、綿竹関で魏軍を迎撃した諸葛瞻の要請を受け、丁奉、孫異とともに蜀の救援に赴いた。
蜀の滅亡直前、魏を牽制するため孫異とともに漢水流域へ進駐する。
後将軍まで昇り、兄の丁奉よりも早く死んだ。
董襲(トウシュウ)
?−?
呉の将。孫策虞翻の知人であった名医・華佗を紹介した。
濡須防衛戦では善戦するが、烈風のため乗船が転覆し溺死。そののち孫権は屍を探させて葬った。
潘璋(ハンショウ)
?−?
字は文珪。
呉の将。朱然と協力して関羽を捕らえ、褒美に関羽の偃月刀を賜った。
のち関羽の子・関興に追われ、関羽の亡霊に出くわして驚いたところを斬られた。
馬忠(バチュウ)
?−222
呉の将。潘璋配下の将。荊州で関羽関平を捕縛した。関羽の赤兎馬を孫権から下賜される。
劉備関羽の仇討ちで呉に攻め入ると、潘璋に従い関興張苞らと戦い、辛くも勝利した。
蜀軍の撤退直後、糜芳・傅士仁に寝首をかかれ、絶命。その首は劉備に献上された。
陸遜(リクソン)
183−245
字は伯言。
呉の将。思慮深く孫権の起用に応えて功績を上げる。呂蒙と協力して関羽を撃破し、荊州の奪還に成功。
さらに夷陵の戦いでは大都督として呉軍を指揮し、策をもって劉備率いる蜀の大軍を破った。
凌操(リョウソウ)
?−203
呉の将。凌統の父。孫策軍に追われて落ち延びてきた厳白虎を打ち破り、孫策を迎えて配下となる。
孫策の死後は孫権に従って黄祖と戦うが、先頭切って夏口に攻め込んだところを敵将・甘寧に射殺された。
凌統(リョウトウ)
189−237
字は公績。
呉の将。凌操の子。孫権が夏口を攻めた際、黄祖配下の甘寧に父を射殺される。
若くして跡を継いだ凌統は、甘寧が味方となったのちも父の仇と憎み、対立した。
しかし、戦場においては孫呉のためにと、ともに戦い互いに手柄を競い合った。
呂岱(リョタイ)
161−256
字は定公。
呉の将。孫権の臨終の際、太傅の諸葛恪とともに枕元に呼ばれ後事を託された。
正史によれば孫権孫策の後を継いだ後、出任して地方官を務めた。
陸遜の死後は上大将軍、孫亮の代には大司馬となる。老いてなお盛んだったという。
呂範(リョハン)
?−228
字は子衝。
呉の将。もと袁術の配下。袁術に身を寄せていた孫策に味方し孫策の江東進出を支援した。
赤壁の戦いの後、劉備孫尚香の婚儀を手配し、劉備を討とうとする。しかし、劉備を気に入った呉国太にとがめられた。
関羽討伐では吉凶を占って勝利を予言。222年、曹丕が呉に攻め寄せた際、曹休の軍を破った。
呂蒙(リョモウ)
178−219
字は子明。
呉の将。武勇一辺の武将であったが、孫権に諭されて学問し、知勇を兼ね備えた名将に成長。
先輩の魯粛に「呉下の阿蒙にあらず」と感心される。陸遜とともに荊州を攻略し、奪回に成功して関羽を捕らえた。
魯粛(ロシュク)
172−217
字は子敬。
呉の臣。周瑜の推挙で孫権に仕え、天下二分の計を提示した。
赤壁の戦いでは劉備と連合して決戦するように主張。周瑜亡き後の都督に任ぜられ、魏・蜀に対抗して呉を支えた。




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