真・三國無双6攻略 武将辞典【呉】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将辞典【呉】

真・三國無双6攻略 武将辞典【呉】を掲載しています。

目次

于詮(ウセン)
?−258
呉の将。諸葛誕の乱において、文欽全端らが率いる呉の援軍の後詰を務める。
寿春をあえて三方からしか包囲しないという鍾会の策を見抜けず、諸葛誕の軍と合流。
合流後に完全に包囲されてしまう。魏の将・王基に降伏を呼びかけられるが、奮戦ののち戦死した。
王祚(オウソ)
?−?
呉の将。乱を起こした諸葛誕への援軍として、孫綝の命により文欽全端唐咨らとともに寿春に入った。
文欽諸葛誕に殺害され、全端は一族を率いて魏に降り、味方は総崩れとなる。
諸葛誕が討ち取られて敗北が決すると、孫綝から受ける処分を恐れ、唐咨とともに魏に降った。
韓当(カントウ)
?−227
字は義公。
呉の将。孫氏三代に仕えた古参の武将。
赤壁の戦い関羽討伐戦、夷陵の戦いと多くの戦いに参陣して、呉水軍の一翼を担った。
赤壁では、矢を受け長江に落ちた黄蓋を助けている。
甘寧(カンネイ)
?−222
字は興覇。
呉の将。水賊出身で、腰に鈴を付け、無頼の徒を引き連れて、のし歩いていた。
劉表黄祖と従うが、重用されず、呉に身を寄せる。
周瑜呂蒙の推挙によって孫権に引き立てられ、のち赤壁や対魏戦で活躍した。
盧翻(グホン)
164−233
字は仲翔。
会稽太守・王朗の郡吏。
孫策に敗れた厳白虎王朗が迎え入れたとき、孫策と敵対しないように進言するが拒否される。
王朗の敗北後、孫策に招聘され華歆を投降させた。赤壁の戦いを前に諸葛亮に舌戦を挑んだが論破される。
呂蒙の荊州攻めの際、公安を守る傅士仁を説得して投降させ、作戦を成功に導いた。
黄蓋(コウガイ)
?−?
字は公覆。
呉の将。孫堅挙兵時以来の宿将。鉄鞭の使い手。
赤壁の戦いでは周瑜と協力して「苦肉の計」を実行する。
自らを周瑜に棒打ちさせた黄蓋は、曹操に投降すると見せかけて魏の船団に火を放ち、呉を勝利に導いた。
呉景(ゴケイ)
?−203
孫堅配下の将。孫堅の妻・呉夫人の弟。孫堅の甥・孫賁と行動をともにし、孫堅の死後は袁術を頼る。
袁術の下で丹陽太守の地位を得ると、袁紹配下の将・周マを討って、袁術の支配基盤の確立に協力した。
そののち、劉繇軍に丹陽を追われたため、孫策とともに劉繇を討伐する。袁術が皇帝を名乗ると、これを見限って孫策の配下となった。
顧雍(コヨウ)
168−243
字は元歎。
呉の臣。「呉の四姓」の顧家の出身。張絋の推挙で孫権に仕え太守の職務を代行する。
赤壁の戦いの開戦前は、張昭とともに曹操との交戦に反対した。
夷陵の戦いの前、孫権曹丕に臣従して呉王の位を得た際は、他人の爵位を受けることはないと反対。
孫権が帝位に就くと、丞相に就任した。
施寛(シカン)
?−?
呉の将。孫峻の配下。孫峻らが諸葛恪を殺害した際、朱績らとともに諸葛恪の弟・諸葛融を襲撃し、一族を葬った。
孫峻の後を継いだ孫綝に対して、呂拠が反乱を起こすと、孫憲丁奉らとともに呂拠軍の討伐に向かった。
呂拠は戦う前に自害した。
朱異(シュイ)
?−257
字は李文。
呉の将。朱桓の子。東興の戦いでは、魏軍の用いた浮橋を破壊し、敗走する魏軍に大きな被害を与えた。
諸葛誕が反乱を起こすと、呉軍の先鋒として魏軍と戦ったが、王基には一騎討ちで破れ、鍾会の策で多くの兵を失い、司馬昭にも策を見抜かれ散々に敗北した。
敗北に激怒した孫綝によって処断された。
周泰(シュウタイ)
?−?
字は幼平。
呉の武将。もとは海賊だが孫策に帰順する。のち孫権に仕え、山賊に攻められた際に多数の傷を負いながら孫権を救った。
合肥の戦いでも身を盾にして乱戦の中から孫権を救い出す。その献身の働きに、孫権は酒宴を開いて厚くねぎらった。
周魴(シュウホウ)
?−?
字は子魚。
呉の臣。魏の曹休に偽って内通を申し入れる。
当初は信じなかった曹休に対して髪を切って信用させ、曹休軍を石亭まで案内して行方をくらます。
待ち伏せていた呉軍は、これを急襲して大勝を収めた。この功により、関内侯に封ぜられた。
周瑜(シュウユ)
175−210
字は公瑾。
呉の将。主君・孫策とは、義兄弟。
赤壁の戦いでは、大都督として水軍を指揮し、曹操の大軍を破る。
粋人で、容姿端麗だったことから「美周郎」の異名をとった。
朱桓(シュカン)
177−238
字は休穆。
呉の将。「呉の四姓」の朱家の出身。対魏の防衛拠点である濡須の守備を担った。
石亭の戦いでは、周魴の策にかかって誘き出された曹休軍を打ち破り、魏の将・張普を討ち取るなどの活躍をした。
朱績(シュセキ)
?−270
字は公緒。
呉の将。朱然の子。孫権の世継争いの際、魏軍の侵攻を苦戦しながらも撃退。
敗走する王昶を追撃したが、諸葛融に約束を破られて援軍を得られず、取り逃がした。
東興の戦いでも荊州を守り、再び王昶軍を迎撃する。魏軍は東興で惨敗したため、手を引いた。
のち本来の姓「施」に戻る。
朱然(シュゼン)
182−249
字は義封。
呉の将。夷陵の戦いで水軍を率いた。
陸遜の火攻めで敗走する劉備を追ったが、救援にかけつけた趙雲の軍勢に行く手を阻まれ、劉備を取り逃した。
朱治(シュチ)
156−224
字は君理。
呉の将。孫氏三代に仕えた宿将で、孫策袁術から兵を借りて独立するよう進言する。
のち呉郡太守に任ぜられ、赤壁の戦いでは四方巡警使を務めた。
小喬(ショウキョウ)
?−?
橋玄の娘。呉の周瑜に嫁ぐ。姉の大喬とともに「二喬」と称された美女。
曹操が二喬を狙っていると諸葛亮に聞かされた周瑜孫権に交戦論を主張して、赤壁の戦いに至った。
蒋欽(ショウキン)
?−?
字は公奕。
呉の将。孫策の評判を聞きつけ周泰とともに配下となる。
南郡侵攻で、自ら名乗り出て先鋒を務めるが、大敗して処刑されそうになる。
関羽討伐戦では水軍を率いて関羽を包囲した。
諸葛恪(ショカツカク)
203−253
字は元遜。
諸葛瑾の長男。父に劣らず聡明で、孫権に重用される。陸遜の死後、呉の太傅となり、全権を掌握。
攻め寄せた魏軍を迎撃し圧勝したが、のち蜀の姜維と共同で魏を攻めて失敗する。
敗戦後、専横が過ぎたため、一族もろとも誅された。
諸葛瑾(ショカツキン)
174−241
字は子瑜。
呉の臣。諸葛亮の兄で、諸葛恪の父。魯粛の推挙により孫権に仕える。
度量が広く温厚な性格で、孫権とは生死を越えた信頼関係で結ばれた。蜀と呉の関係の円滑化に務める。
孫権が帝位に就くと大将軍に任ぜられた。
諸葛融(ショカツユウ)
?−253
字は叔長。
呉の将。諸葛瑾の三男。孫権の世継争いに乗じて魏が江陵に攻め寄せると、同僚の朱績と敵を追撃する約束をするが、守らなかった。
そのため魏の将・王昶に逃げられ、朱績の恨みを買った。兄・諸葛恪孫峻に謀殺されると、朱績らに城を攻められて自害した。
徐紹(ジョショウ)
?−?
呉の将。諸葛誕の乱の際、孫綝の命で援軍に加わるが、形勢が不利になると孫曼とともに魏に降る。
呉軍の陣容は全端全懌を総大将に、魏からの降将である文欽を案内役、朱異を先鋒に配して、孫綝自身も本隊として出陣し、兵数は七万を超えた。
しかし敗戦が重なり、次々と将兵が魏に降って崩壊した。
徐盛(ジョセイ)
?−?
字は文嚮。
呉の将。赤壁、合肥攻略、荊州攻略などに従軍した。
曹丕が呉を攻めた際には、軍を率いて迎え撃ち、偽の城や城壁で魏軍を退けた。
任度(ジンド)
?−?
呉の将。諸葛誕の乱の際、呉からの援軍・朱異が敗戦を重ね、補充として指揮下に入る。
張震とともに決死隊を編成し、陣を築いて抵抗したが、州泰石苞の攻撃を受けて敗退。
朱異は敗戦の責を問われて処断されることになる。
薛綜(セツソウ)
?−243
字は敬文。
呉の臣。孫策の後を継いだ孫権に招かれた。
赤壁の戦いの直前に諸葛亮劉備孫権の同盟を結ぶために呉を訪れた際、張昭らとともに論戦を挑むが退けられた。
民政の達人であり、呉屈指の文学者でもあった。
自らの詩賊をまとめた「私載」や「五宗図述」などの著作がある。
全禕(ゼンイ)
?−?
呉の将。全jの孫で、全端の子とされる。諸葛誕の乱の際に、司馬昭率いる魏軍と孫綝の命で戦うが、大軍に包囲され降伏する。
同時期、全端ら他の一族は諸葛誕とともに寿春に籠もっていたため、鍾会の求めに応じて全端らに降伏を呼びかける書状を書いた。
全端らはその書状を読んで魏に降った。
全懌(ゼンエキ)
212−?
呉の将。全jの子。諸葛誕が魏に対して反乱を起こすと、孫綝の命で兄・全端とともに諸葛誕への援軍に加わった。
寿春で籠城するが劣勢は覆せず、完全に包囲されて敗北は必至となる。先に魏に投降していた全禕からの説得を受け、全端らと一族を引き連れ、魏軍に降伏した。
全煕(ゼンキ)
?−257
呉の将。全jの父の全柔に連なる一族とされる。諸葛誕が魏に対して乱を起こすと、全端とともに諸葛誕の救援に向かった。
戦況が悪化する中、全端全懌らとともに一族揃って降伏しようとするが、事前に露見し、一族の中で唯一殺害された。
全緝(ゼンシュウ)
?−?
呉の将。全jの甥。諸葛誕の乱の際に、従兄弟の全端に従って諸葛誕への援軍に加わる。
先に魏に降っていた全禕の書状を読み、一族皆で魏に降伏するよう決意した。書状は鍾会の策だったとされる。
この寝返りにより諸葛誕の陣営は一気に弱体化していった。
全静(ゼンセイ)
?−?
呉の将。全jの孫。魏に反旗を翻した諸葛誕が、寿春に籠もって呉に助力を求めたため、孫綝の命で全端全懌らとともに救援に向かう。
司馬昭に降伏していた従兄弟の全禕が「孫綝が自軍の敗戦に怒って一族を皆殺しにしようとしている」と書状を送ってきたため、全端らと相談し、降伏することを決めた。
全j(ゼンソウ)
?−249
呉の将。山越討伐で大功を挙げる。
周魴の偽りの投降で誘き寄せた魏軍を討つため、陸遜とともに出陣。魏の薛喬を破った。
全端(ゼンタン)
204−?
呉の将。全jの子。東興の戦いで、東興東城を守る留略とともに東興西城の守備を任される。
諸葛誕胡遵率いる魏の大軍から城を守り抜き、呉軍の勝利に貢献した。諸葛誕が魏に反旗を翻した際には、孫綝の命を受け諸葛誕への援軍を率いた。
先に魏軍に降っていた子・全禕に書状で説得され、全懌ら一族を率いて魏に降伏した。
全翩(ゼンヘン)
?−?
呉の将。全jの甥。諸葛誕は乱を起こすに際し、配下の呉綱を使者として呉へ助力を求めた。
これを受け、全端全懌ら一族の長に従い、援軍となって寿春に入城。諸葛誕の軍勢と合流する。
降伏を促す全禕の書状に従い、全端全懌らとともに多くの将兵を引き連れ魏に降った。
宋謙(ソウケン)
?−208
呉の将。合肥の戦いの際、魏の将・楽進の攻撃を食い止め、孫権を護衛したが、同じ魏の将・李典に射抜かれ、討死する。
方天画戟の使い手としても知られる。正史においては、孫堅孫策孫権の三代にわたって長く呉に仕え、夷陵の戦いなどでも戦功を立てたという。
孫桓(ソンカン)
?−?
字は叔武。
呉の将。孫策から孫姓を賜った兪河の三男。
関羽の復讐のために、劉備が荊州に攻め寄せると朱然とともに迎撃に当たった。
緒戦で部下の李異、謝旌、譚雄が蜀の張苞関興に斬られ、夷陵城に退いて蜀軍に包囲されたが固守して耐え抜いた。
陸遜が火計で蜀軍を破ると、追撃して蜀将・張南、馮習らを破った。
孫儀(ソンギ)
?−255
呉の将。孫権の従兄弟である孫皎の子。専横のふるまい著しい孫峻を誅しようと、張怡・林恂らとともに計画を立てる。
情報が漏洩して失敗し、追い詰められて自害した。その際、孫権の娘・孫魯育が、姉の孫魯班の讒言を受けて、孫峻に処断されたという。
孫休(ソンキュウ)
235−264
字は子烈。
孫権の六男。呉の三代皇帝。弟の孫亮を廃した孫綝によって皇帝に立てられる。のちに専横を極めて謀反を企てた孫綝を、丁奉・張布らに討たせた。
魏の攻撃を受けた蜀から救援要請を受けると、丁奉らを派遣するが、間に合わなかった。
孫匡(ソンキョウ)
?−?
字は李佐。
呉の臣。孫堅の四男。孫堅の死後、その後を継いだ孫策は江東の支配を強化するため、反袁術を名目に曹操に近づいた。
その縁で曹仁の娘を娶る。孫策の死に際し、兄弟でよく助け合う遺言された。若くして死んだという。
孫堅(ソンケン)
156−192
字は文台。
孫子の末裔とされる英傑。海賊退治して名を成した。黄巾討伐で活躍し、長沙の太守となる。
董卓連合軍では先鋒を務め、洛陽への一番乗りを果たす。
その後、井戸から伝国の玉璽を発見し、本国に持ち帰った。
孫権(ソンケン)
182−252
字は仲謀。
呉の初代皇帝。孫堅の次男で孫策の弟。兄の急死により、後を継ぐ。
孫策から「自分が攻めに勝るのに対し、守りに勝る」と評される。
赤壁の戦いでは、曹操との交戦を決断し、大軍を相手に勝利を果たした。
孫憲(ソンケン)
?−256
呉の将。孫綝の従兄弟で、孫峻の弟といわれる。孫峻が死んで孫綝が実権を握ると、これに不満を抱いた呂拠が反乱を起こした。
孫綝の命で丁奉施寛らと呂拠討伐に向かうが、呂拠は自害する。
孫綝の専横がひどくなると、王惇らとともに孫綝殺害の計画を立てたが、実行する前に露見し、殺害された。
孫策(ソンサク)
175−200
字は伯符。
孫堅の長男。父の死後、袁術のもとに身を寄せる。のち、袁術から三千の兵を借りて挙兵。
短期間に江東一帯を平定し、「小覇王」と呼ばれた。幼なじみの周瑜をはじめ、優秀な人材を集めて呉の基盤を築いた。
孫峻(ソンシュン)
219−256
字は子遠。
呉の将。孫堅の弟・孫静の曾孫で、孫権に溺愛された。
諸葛恪の部下、張約に地位を奪われたことを恨み、諸葛恪の専横な振る舞いに悩む呉主・孫亮と結託して、諸葛恪・張約を酒席で殺害する。
毋丘倹文欽が魏に対して乱を起こすと、寿春を攻略しようと窺うが、機会を得られなかった。
孫韶(ソンショウ)
188−241
字は公礼。
孫堅が兪家から取った養子で、孫桓の従兄弟。
魏軍を迎撃するにあたって徐盛と対立し、独自に兵を動かして魏軍を混乱させる。
丁奉らの助けもあって、大勝を収めた。
孫尚香(ソンショウコウ)
?−222
孫一族の娘。孫策孫権の妹にあたる。男勝りな性格で、幼少のころから武芸を好んだ。
のちに劉備の妻となるが、彼女の部屋の前には、武装した侍女が常に控えていたという。
孫静(ソンセイ)
?−?
字は幼台。
孫堅の末弟。兄・孫堅劉表攻めを諌めるが、聞き入れられなかった。
孫堅の死後、孫策とともに江東に進出し、王朗を追討して会稽郡を守る。
孫権黄祖を討伐した際は、呉郡を守った。のちに曾孫の孫峻孫綝が呉の政権をほしいままにした。
孫綝(ソンチン)
231−258
字は子通。
呉の臣。孫峻の従兄弟。重臣を粛清して実権を握り、専横の限りを尽くした。
諸葛誕の乱では朱異を援軍として派遣するが魏軍に敗北し、怒りに任せて朱異を処断している。
呉主・孫休の命を受けた張布・丁奉に誅殺されるまで、その暴虐は止まらなかった。
孫登(ソントウ)
209−241
字は子高。
孫権の長男。母は徐氏。孫権が皇帝に即位すると、皇太子に立てられた。
聡明で徳の高い人物として将来を期待されるが、若くして病死した。
正史によると臨終の際、弟の孫和を皇太子にするよう書き遺す。
孫賁(ソンフン)
?−219
字は伯陽。
孫堅の甥。孫堅反董卓連合軍に加わると、それに従い、孫堅軍の将として戦う。孫堅が荊州で討死すると、孫堅のものだった豫州刺史の地位を袁術から与えられた。
袁術を助け、曹操袁紹らと対立するが、袁術が皇帝を僣称したので、袁術を見限って江南へ帰還し、以後は孫策に仕えた。
孫曼(ソンマン)
?−?
呉の将。孫権の従兄弟である孫瑜の三男。
諸葛誕の乱において呉の援軍として寿春に入城し魏軍と戦ったが、諸葛誕が討ち取られると戦意を喪失し、配下の兵を引き連れ、徐紹らとともに魏に降伏した。
手勢を率いての降伏だったため、司馬昭を喜ばせ爵位を与えられた。以後は魏に仕えた。
孫朗(ソンロウ)
?−?
字は早安。
孫堅の五男。孫堅の死後、一族とともに曲河に移住する。
江東を制圧した孫策が死に瀕すると兄弟で助け合って孫権を補佐するように遺訓された。
大喬(ダイキョウ)
?−?
橋玄の娘。孫策の妻。周瑜に嫁いだ妹の小喬とともに、天下の美女として知られ、「二喬」と称される。
その美しさは「月も光を消し花も恥じらう」と例えられるほどだった。
太史享(タイシキョウ)
?−?
字は元復。
呉の将。太史慈の子。
209年の合肥攻めで太史慈が死ぬと、孫権の館に引き取られ、育てられた。
正史によると、のちに尚書、呉郡太守を歴任した。なお正史では、太史慈は206年に病死している。
太史慈(タイシジ)
166−206
字は子義。
呉の将。義理厚く、かつて母が世話になった恩を返すために、北海太守・孔融の危機を救った。
のち劉繇に仕え、孫策と一騎打ちして互角に戦う。
劉繇が敗れた後も抵抗するが捕らわれ、孫策の意気に感じ入り、兵を率いて帰順した。
張承(チョウショウ)
178−244
字は仲嗣。
呉の将。張昭の子。
諸葛亮が第五次北伐を敢行すると、それに呼応して魏を攻めるべく孫韶とともに進撃するよう孫権から命じられた。
張昭(チョウショウ)
156−236
字は子布。
呉の将。張承の父。「二張」と称された策士。周瑜の推挙により、孫策が幕僚として招いた。
孫策は死にぎわに「国内のことはすべて張昭に聞け」と孫権に言い残した。
張震(チョウシン)
?−?
呉の将。諸葛誕の乱に、呉からの援軍として参加。先鋒・朱異が魏軍に連敗し、大きく兵力を損なうと、補充として任度とともにその指揮下に編入される。
決死隊を募って将兵の士気を高め、改めて魏軍に挑むが敗退。激怒した孫綝朱異を処断する結果になった。
張達(チョウタツ)
?−222
呉の将。元は蜀の将。達成不能な命令を張飛から受け、果たせないとなるといずれ懲罰を受けると判断し、范疆とともに張飛を殺害。
呉に投降する。怒りが頂点に達した劉備が大軍で呉に侵攻すると、気圧された孫権に捕らえられ、范疆とともに蜀軍に送還された。
張飛の子・張苞の手で斬られる。
陳武(チンブ)
?−215
字は子烈。
呉の将。孫策の代から仕え、赤壁の戦いにも参加。
孫権の妹が劉備と結婚した際は、呉から脱出を図る劉備を取り逃してしまう。
のち濡須で魏軍と戦い、龐徳と一騎打ちになるが、武運つたなく斬られた。
程普(テイフ)
?−?
字は徳謀。
呉の将。鉄脊蛇矛の使い手で、孫氏三代に仕えた歴戦の士。諸将から「程公」と慕われた。
赤壁の戦いでは副都督を務めて、正都督の周瑜に協力し、曹操の軍を江上で撃破した。
丁奉(テイホウ)
?−271
字は承淵。
呉の将。孫権の代に召し抱えられた。戦場で功を重ね、魏の名将・張遼を破るなどの活躍を見せる。
七十年もの長きにわたって呉に仕え、大将軍の位にまで昇った。
丁封(テイホウ)
?−?
呉の将。丁奉の弟。
263年、魏のケ艾が蜀に攻め込んだ際、綿竹関で魏軍を迎撃した諸葛瞻の要請を受け、丁奉、孫異とともに蜀の救援に赴いた。
蜀の滅亡直前、魏を牽制するため孫異とともに漢水流域へ進駐する。
後将軍まで昇り、兄の丁奉よりも早く死んだ。
滕胤(トウイン)
?−256
字は承嗣。呉の臣。政敵である諸葛恪と険悪な関係にあり、孫峻と結託して宴席に招き出し、殺害する。
のち、大司馬まで昇進したが、孫綝によって粛清された。正史によると、諸葛恪とは縁戚であり友好的であったため、暗殺には加担しなかったという。
唐咨(トウシ)
?−?
呉の将。諸葛誕が反乱を起こすと、孫綝の命令を受けて文欽全端王祚らとともに援軍を率い、寿春に籠もる諸葛誕の軍と合流した。
司馬昭の軍に敗れると、横暴な孫綝に敗戦を咎められるのを恐れ、魏に投降した。正史では、呉に仕える以前も魏の将であったとされる。
董襲(トウシュウ)
?−?
呉の将。孫策虞翻の知人であった名医・華佗を紹介した。
濡須防衛戦では善戦するが、烈風のため乗船が転覆し溺死。そののち孫権は屍を探させて葬った。
馬忠(バチュウ)
?−222
呉の将。潘璋配下の将。荊州で関羽関平を捕縛した。関羽の赤兎馬を孫権から下賜される。
劉備関羽の仇討ちで呉に攻め入ると、潘璋に従い関興張苞らと戦い、辛くも勝利した。
蜀軍の撤退直後、糜芳・傅士仁に寝首をかかれ、絶命。その首は劉備に献上された。
范疆(ハンキョウ)
?−222
呉の将。元は蜀の将。関羽の弔い合戦の際、張飛から白装束の調達を申し付けられたが、間に合わないと申し出て酔った張飛に暴行された。
張飛に愛想を尽かし、張達と組んで張飛の寝込みを襲った。首を持って呉に投降したが、のち張飛の首級とともに蜀に送り返され、張飛の子・張苞に斬殺された。
潘璋(ハンショウ)
?−?
字は文珪。
呉の将。朱然と協力して関羽を捕らえ、褒美に関羽の偃月刀を賜った。
のち関羽の子・関興に追われ、関羽の亡霊に出くわして驚いたところを斬られた。
陸凱(リクガイ)
198−269
字は敬風。
呉の臣。陸遜の甥。呉帝・孫皓が武昌に遷都したとき、はるか遠方より供物を運ぶ民の姿を見て哀れみ、豪奢な生活を改めるよう孫皓を諌めた。
孫皓は機嫌を損ね、聞き入れなかったが、陸一族の勢力を恐れ処分は思いとどまった。
陸抗(リクコウ)
226−274
字は幼節。
呉の将。陸遜の次男で、孫策の孫でもある。陸遜と同様に知略に長け、諸葛誕の乱において戦功を立てた。
晋の時代にも、歩闡の反乱に的確に対処し、晋に付け入る隙を与えなかった。
晋の将・羊祜とは敵ながらも互いを認め合う仲だったが、それが災いして内通を疑われ、解任された。
陸遜(リクソン)
183−245
字は伯言。
呉の将。思慮深く孫権の起用に応えて功績を上げる。呂蒙と協力して関羽を撃破し、荊州の奪還に成功。
さらに夷陵の戦いでは大都督として呉軍を指揮し、策をもって劉備率いる蜀の大軍を破った。
劉阿(リュウア)
?−?
呉の将。同僚の李異らとともに荊州の巫・秭帰の地を守備していたが、呉班馮習率いる蜀軍に急襲され、大敗。夷陵まで軍を退いた。
夷陵の戦いでは陸遜の命で、敗走する劉備を追撃。南山に陣を構えて、白帝城に逃げ込んだ劉備を警戒した。
留賛(リュウサン)
172−255
字は正明。
東興の戦いに参加し、丁奉らともに魏軍を急襲して散々に討ち破った。正史では、黄巾賊討伐の際に負傷して足が不自由だったが、自ら足の腱を切って伸ばしたという。
凌統に抜擢されると、孫権に仕え、数々の戦功を上げたという。
劉纂(リュウサン)
?−?
呉の将。車騎将軍などの重職を歴任し、呉を長く支える。
魏からの降将・文欽の勧めに応じて孫峻が魏への遠征を企図すると文欽呂拠らとともに大軍を率いて進軍した。
遠征仲に孫峻が病死。孫綝がその後を継ぐと、呂拠が反乱する。呂拠は遠征軍の矛先を孫綝に向けたため、将兵を引き連れて遠征軍から離脱した。
留平(リュウヘイ)
?−272
呉の将。留賛の子。留略の弟。呉主・孫皓の暴虐を諌めて怒りを買い、重臣の万ケ・楼玄とともに処断された。
正史によると蜀滅亡に乗じ、陸抗の指揮で永安を攻撃するが、蜀の将・羅憲の頑強な抵抗に遭い、落城させるに至らなかったという。
留略(リュウリャク)
?−?
呉の将。留賛の子。孫権の死に乗じて魏軍が江陵・武昌・東興の三方から呉に攻め寄せると、諸葛恪に従って東興で魏軍を防ぐ。
東興西城を守る全端と協力して東興東城を固め丁奉留賛率いる援軍の到着まで諸葛誕胡遵ら魏軍の猛攻をしのいだ。
のち呉が広陵に進出すると、東海太守に任ぜられたという。
凌操(リョウソウ)
?−203
呉の将。凌統の父。孫策軍に追われて落ち延びてきた厳白虎を打ち破り、孫策を迎えて配下となる。
孫策の死後は孫権に従って黄祖と戦うが、先頭切って夏口に攻め込んだところを敵将・甘寧に射殺された。
凌統(リョウトウ)
189−237
字は公績。
呉の将。凌操の子。孫権が夏口を攻めた際、黄祖配下の甘寧に父を射殺される。
若くして跡を継いだ凌統は、甘寧が味方となったのちも父の仇と憎み、対立した。
しかし、戦場においては孫呉のためにと、ともに戦い互いに手柄を競い合った。
呂拠(リョキョ)
?−256
字は世議。
呉の将。呂範の次男。東興の戦いでは、胡遵諸葛誕ら率いる魏の大軍を丁奉留賛とともに急襲し、勝利した。
正史によると、孫峻の死後、孫綝の専横に強く反発したが、孫綝から軍を差し向けられると、逆賊となることを恥じ、自害したという。
呂岱(リョダイ)
161−256
字は定公。
呉の将。孫権の臨終の際、太傅の諸葛恪とともに枕元に呼ばれ後事を託された。
正史によれば孫権孫策の後を継いだ後、出任して地方官を務めた。
陸遜の死後は上大将軍、孫亮の代には大司馬となる。老いてなお盛んだったという。
呂範(リョハン)
?−228
字は子衝。
呉の将。もと袁術の配下。袁術に身を寄せていた孫策に味方し孫策の江東進出を支援した。
赤壁の戦いの後、劉備孫尚香の婚儀を手配し、劉備を討とうとする。しかし、劉備を気に入った呉国太にとがめられた。
関羽討伐では吉凶を占って勝利を予言。222年、曹丕が呉に攻め寄せた際、曹休の軍を破った。
呂蒙(リョモウ)
178−219
字は子明。
呉の将。武勇一辺の武将であったが、孫権に諭されて学問し、知勇を兼ね備えた名将に成長。
先輩の魯粛に「呉下の阿蒙にあらず」と感心される。陸遜とともに荊州を攻略し、奪回に成功して関羽を捕らえた。
黎斐(レイヒ)
?−?
呉の将。諸葛誕が乱を起こした際、呉の援軍として魏軍と戦った。
先鋒・朱異が魏の将・王基に大敗すると、朱異の下に加わったが、牛馬や兵糧を囮に使った鍾会の策にかかり、敗れる。
朱異が処断された後、丁奉とともに寿春の包囲を破ろうと魏軍を攻撃したが、大きな戦果は得られなかった。
練師(レンシ)
?−238
孫権の妻。徐州の生まれで、呉の将・歩騭と同族。つつましく思慮深い性格のため、孫権の寵愛を受け、群臣たちの間でも評判が高かった。
孫魯班・孫魯育という二人の娘を産む。孫権が最も愛した女性といわれ、孫権と同じ墓に埋葬された。歩夫人とも呼ばれる。
魯粛(ロシュク)
172−217
字は子敬。
呉の臣。周瑜の推挙で孫権に仕え、天下二分の計を提示した。
赤壁の戦いでは劉備と連合して決戦するように主張。周瑜亡き後の都督に任ぜられ、魏・蜀に対抗して呉を支えた。




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