真・三國無双6攻略 武将辞典【他】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将辞典【他】

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目次

阿会喃(アカイナン)
?−225
孟獲の配下。第三洞の主。南中に侵攻した蜀軍を迎撃しようとするが、夜襲を受けて捕縛される。諸葛亮に解放されると、再び孟獲の要請を受けて出陣。
第二洞の主・董茶那を支援した。だが、蜀に恩義を感じていたため、董茶那と共謀し、孟獲を蜀軍に引き渡す。
のちに釈放された孟獲に誘き出されて、斬られた。正史には登場しない。
尹礼(インレイ)
?−?
泰山の山賊。呂布曹操と戦う際、陳宮に命じて呼び寄せた。
曹操呂布討伐軍を途上で遮ろうとするが、許褚の奮闘の前に敗れる。
その後、呂布が死ぬと臧覇に説得されて曹操に帰順した。
于吉(ウキツ)
?−200
道士。呉郡で民衆の病を癒し、信仰を集める。孫策が刺客によって負傷したのち、その元へ現れた。
孫策に捕らえられ「雨を降らせることができたら命は助けてやる」と言われる。見事雨を降らせたが、結局孫策に殺害された。
死後、傷に苦しむ孫策の前に幻影として何度も現れ、孫策を悶死させる。
于糜(ウビ)
?−219
揚州刺史・劉繇配下の将。攻め寄せた孫策と戦うが、三合もせずに生け捕らえられてしまう。
帰陣する孫策の脇に抱えられたまま怪力によって絞め殺された。正史によれば「于麋」が正しい。
衛演(エイエン)
?−?
遼東太守・公孫淵の侍中。反乱後、司馬懿率いる魏軍に襄平を包囲されると、公孫淵柳甫王建を降伏の使者に出したが、怒った司馬懿に二人を処断される。
志願して再び使者となって司馬懿の元を訪れたが、司馬懿の怒りを静めることはできず、追い返された。
袁胤(エンイン)
?−199
袁術の甥。袁術が死ぬと、その柩と妻子を守り、劉勲を頼ろうと盧江へ逃れたが、途中で曹操配下の将に捕まって皆殺しにされる。
その際は奪われた玉璽は、曹操の手へと渡った。正史では袁術の従弟となっている。
袁煕(エンキ)
?−207
字は顕奕。
袁紹の次男。幽州の刺史。曹操に敗れ、逃れてきた弟・袁尚を保護する。
曹操が幽州に侵攻すると部下に背かれ、袁尚とともに遼西の烏丸を頼って逃亡。
曹操烏丸を攻めると遼東の公孫康を頼るが、公孫康のだまし討ちに遭い、袁尚ともども斬られて首を曹操に送られた。
閻行(エンコウ)
?−?
字は彦明。
韓遂配下の将。韓遂馬超と組んで曹操に敵対したとき、これを止めるよう諌めたが聞き入れられなかった。
のちに韓遂の娘を妻とするが、反乱を起こし曹操へ降る。韓遂に勝利したあとは、列侯に封じられた。
袁術(エンジュツ)
?−199
字は公路。
後漢の後将軍。袁紹の従弟。異母弟とも。四世三公の名門で、何進が暗殺されると袁紹とともに宦官を虐殺した。
董卓が台頭すると南陽に逃れ、反董卓連合に参加。その後、淮南に移り、孫策から預かった玉璽をもって皇帝を自称。
悪性で民心を失い袁紹を頼り北上する途上、配下にも見限られ吐血して死んだ。
袁尚(エンショウ)
?−207
字は顕甫。
袁紹の三男。容姿に優れていたことから袁紹に寵愛を受けた。父が死ぬと審配逢紀らに擁立されて後継者を称する。
長兄の袁譚と対立し、袁譚曹操と結ぶと、次兄の袁煕を頼って幽州に逃走。
曹操が北上すると遼西の烏丸、遼東の公孫康を頼るが公孫康に討たれ、首を曹操に送られた。
袁紹(エンショウ)
?−202
字は本初。
袁術の従兄。兄とも。四世三公の名門・袁家の出身。曹操の呼びかけに応じて反董卓連合軍の盟主となる。
連合軍解散後は、韓馥から冀州を奪い、公孫瓚を倒して河北を支配。最大勢力となるが、官渡の戦いで、曹操に大敗を喫した。
閻象(エンショウ)
?−?
袁術の主簿。玉璽を手に入れた袁術が帝位に就こうとしたとき周の文王が天下の三分の二を有しながら殷に臣従した故事を出して諌めた。
しかし袁術は「漢に代わる者は当塗高ならん(当塗は袁術の字である公路に通じる)」という予言を信じ、取り合わなかった。
袁譚(エンタン)
?−205
字は顕思。
袁紹の長男。青州刺史。袁紹が死ぬと弟たちとともに曹操と戦うが、後継の座を巡って袁尚と対立。
曹操の援助を得て袁尚に勝ったものの、袁尚の旧領を勝手に奪ったため曹操の怒りを買い、南皮を攻められる。
降伏を願い出るが拒まれ、出撃したところを曹洪に討たれた。
閻圃(エンホ)
?−?
張魯配下の臣。軍師として張魯を補佐した。
漢中に曹操軍が攻め寄せた際には、客分扱いであった龐徳を出陣させることを進言し、楊松の讒言によって龐徳の内通が疑われると、これを庇う。
戦の趨勢が決まると、張魯とともに降伏し、曹操に取り立てられた。
袁燿(エンヨウ)
?−199
袁術の子。袁術が皇帝を僭称すると皇太子に立てられた。袁術死後は盧江太守の劉勲を頼る。
孫策が盧江を攻め取るとその庇護を受けた。その後、袁術の娘が孫権の後宮に入ると、郎中に任ぜられた。
後漢書袁術伝では「袁曜」とする。
王威(オウイ)
?−?
劉表配下の将。蔡瑁らと共謀して劉備の暗殺計画に加担し、護衛の趙雲を引き離すことには成功したが、劉備に逃亡され失敗した。
曹操の荊州侵攻に際して機を見て反撃するよう主張するが、劉表の後継者・劉jには聞き入れられなかった。
のち曹操に命じられた于禁に急襲され、劉jとともに殺害された。
王ケ(オウイク)
?−?
魏の将。王淩の属官。反乱を起こした王淩へと迫る司馬懿のもとに、使者として赴いた。
王淩の持っていた兵馬の権と印授を返し、司馬懿に許しを請うも叶わず、王淩は洛陽へと護送される途中、強要されて自害した。
王允(オウイン)
137−192
字は子師。
後漢の司徒。一日千里、王佐の才とうたわれた名士。董卓が実権を握った後、董卓暗殺を志願した曹操に七星宝刀を与える。
董卓の悪政が極まると貂蝉を用いた美女連環の計を画策。呂布董卓と仲違いさせ、董卓の誅殺に成功する。
しかし、董卓残党の李傕らに長安を攻め落とされ、族滅された。
王楷(オウカイ)
?−?
呂布の参謀。呂布が下邳で曹操に包囲されたとき、とともに救援依頼の使者として袁術のもとへ派遣された。
正史では、兗州牧・曹操の配下の従事中郎だったが、陳宮とともに曹操に背いて呂布に仕えている。
王金虎(オウキンコ)
?−251
金虎は字か。
魏の将。王淩の三男。武勇・才覚はともに人並みを外れ、兄弟揃って王淩を凌ぐと評された。
王淩の反乱は、味方の裏切りもあって司馬懿に察知され、すぐに兵を差し向けられた。進退窮まった王淩は降伏し、自害。連座して処断された。
王建(オウケン)
?−238
反乱を起こした公孫淵の配下。公孫淵軍は司馬懿率いる魏軍に敗戦を続け、本拠地の襄平に籠城したものの、兵糧も底を尽き戦意を失う。
公孫淵の命で、柳甫とともに魏軍に降伏を申し入れたが、「公孫淵自ら出て来ない限り降伏など認めない」と司馬懿は激怒。二人をその場で処断した。
王賛(オウサン)
?−?
玄菟太守。公孫淵の配下。
張弥・許晏ら呉の使者が、孫権の命で遼東の公孫淵の元へ向かう際通り道の玄菟で使者に会ったとされる。
このとき玄菟は家の数が二百あまり。成人男子は四百人を超えず、かなり小規模な郡であったという記録が残っている。
王脩(オウシュウ)
?−?
字は叔治。
袁紹配下の臣。袁紹死後、袁尚の暗殺を謀る袁譚を諌めて職を解かれる。
袁譚曹操に討たれると、禁令を破って袁譚に弔意を示し、曹操から司金中郎将に任ぜられた。
区星(オウセイ)
?−187
賊軍の首領。長沙で反乱を起こし、呉の孫堅に討たれる。
一時的に大きな勢力を誇ったものの瞬く間に孫堅に鎮圧された。
王飛梟(オウヒキョウ)
?−251
飛梟は字か。
魏の将。王淩の次男。文武両道に優れ、弟の王金虎と並んで、人々に称された。
魏の将・蒋済王淩の子らについて「王淩は文武ともに優れ、並び立つ者はいないだろうが、その子・王広ら兄弟の力はいずれも父を超えるだろう」と司馬懿に語った。
王方(オウホウ)
?−?
董卓配下の将。董卓死後、長安に押し寄せてきた賊に内応して、城門を開いた。
のち、賊を討つべく攻め上ってきた馬超を迎え撃ち、一騎打ちして敗れる。
王摩(オウマ)
?−?
袁紹配下の将。白馬・延津の地を手にして勢いに乗る曹操軍が于禁楽進を別働隊に黄河を迂回して進軍してくると、何茂らとともにこれを迎え撃った。
力及ばず防衛線を突破され、次々と陣地が焼き払われる中、多くの将兵とともに降伏した。
王明山(オウメイザン)
?−?
明山は字で、名は不詳。
魏の将。王淩の四男。多芸多才で、特に書道の腕で評判になった。王淩の乱の際は、一人逃亡し、魏軍に追手を差し向けられる。
追手が近づいてくると、遠くの鳥を即座に射落としてみせた。その技を見た追手は恐れて軍を退いたという。
王淩(オウリョウ)
字は彦雲。
魏の将。王允の甥。統治に優れ民から大いに愛された。曹操にも才を認められ、兗州・青州・豫州・揚州の刺史を兼任した。
曹一族の凋落を憂い、幼い曹芳を廃し、年長の曹彪を魏帝にしようと画策したが、司馬懿に察知される。反乱を起こし、自害に追い込まれた。
於夫羅(オフラ)
?−?
匈奴単于。左賢王・劉豹の父。
匈奴で内乱が起こり父・羌渠が殺されると、漢に居残り黄巾の乱に乗じて白波賊と合流し、各地を荒らし回る。
のちに長安から脱出した献帝の護衛に付き、反董卓連合結成時は袁紹に属す。
のち袁術曹操の戦いでは、黒山賊とともに袁術を助けたが、曹操軍に大敗した。
蒯越(カイエツ)
?−214
字は異度。
劉表配下の臣。荊州で反乱する賊を討つため策を授けるなど荊州平定に尽力した。
のち蔡瑁らと共謀しての劉備殺害には失敗している。劉表の死後は跡を継いだ劉jに仕え、南下してきた曹操に降伏。
曹操に「荊州を得たことよりも蒯越を得たことの方が嬉しい」とまで評された。
蒯良(カイリョウ)
?−?
字は子柔。
劉表配下の臣。蒯越の兄。孫堅が攻め寄せた際には采配を補佐する。呂公に命じて孫堅を待ち伏せし、討ち取ることに成功した。
劉表はすでに敵の捕虜となっていた黄祖の身を案じ、その身柄と孫堅の遺骸の交換を許可したため、一気に孫堅軍を殲滅せよとの進言は却下された。
餓何(ガカ)
?−253
羌族の将。迷当の配下で、姜維の北伐に協力し、焼戈とともに南安を攻撃する。
陳泰の偽の投降を信じ、魏軍へ夜襲を行うが落とし穴に誘導されて、羌軍は全滅。自害した。
何儀(カギ)
?−194
黄巾賊。黄巾の乱後、残党を率いて汝南を占拠していた。
当時義勇軍を組織していた許褚に捕まり、曹操の手によって処刑された。
正史では、軍勢とともに曹操に降伏したとあり、処刑されたという記述はない。
鄂煥(ガクカン)
?−?
越嶲太守・高定配下の将。身の丈九尺に達し、方天戟を使う猛将。
高定孟獲にそそのかされ近隣の太守の雍闓・朱褒と結んで反乱すると、これに従って蜀軍と戦う。
諸葛亮の離間の計にかかって、雍闓・朱褒を殺害。高定とともに蜀に降り、諸葛亮に取り立てられた。
郭マ(カクキン)
?−?
公孫淵の配下。公孫淵が燕を建国すると、魏は毋丘倹を通じて詔勅を奉じるなど、燕王就任を不当と主張して貶め、反乱軍将兵の動揺を狙った。
これに対抗するため、柳甫ら多くの同僚とともに上奏文の作成に携わり陣営の崩壊を防ごうと尽力した。
郭(カクシ)
?−197
董卓配下の将。董卓死後、賈詡の進言で長安を急襲。
王允らを殺し、李傕とともに朝廷を牛耳った。のち、山賊となり、部下の伍習に殺された。
楽就(ガクシュウ)
?−197
袁術配下の将。袁術が徐州攻めのために七軍を興した際、督戦官として連絡役を務めた。
しかし、袁術軍は敗れ、寿春で曹操軍に捕らえられて殺された。
郭石(カクセキ)
?−?
荊州南部の賊。区星が長沙で反乱を起こすと、周朝とともに呼応して零陵、桂陽で挙兵する。
区星を倒して勢いに乗る孫堅軍の攻撃を受け、討伐された。この功で孫堅は、烏程侯に封じられている。
郭図(カクト)
?−205
字は公則。
袁紹配下の臣。官渡の戦いで烏巣を襲撃された際に、曹操本陣を攻めるよう進言して敗北を招いた。
その罪を張郃らに着せたために、彼らは曹操軍に降る。
袁紹の死後は、その長子・袁譚の参謀役となるが、袁譚ともども曹操軍に討たれた。
郝萌(カクホウ)
?−198
呂布配下の将。濮陽の戦いで、曹操を濮陽城内に誘い込むが取り逃す。
下邳の戦い呂布が包囲されたとき、袁術に援軍を求める使者に立った王楷の護衛となる。
往路は曹操軍の突破に成功するが、復路で張飛に捕らえられ、曹操に斬られた。
正史では、袁術に通じ、呂布に反旗を翻すが、曹性に片腕を斬られ、高順に討たれた。
柯吾(カゴ)
?−?
羌族の将。姜維の北伐に協力した。姜維の挙兵に呼応して、同じく羌族の将であった蛾遮塞らとともに魏に対して反乱を起こす。
涼州刺史の徐邈や陳泰の率いる魏軍が襲来すると、敗北して逃亡した。
蛾遮塞(ガシャサイ)
?−?
羌族の将。姜維の北伐に際し、それに呼応して魏に対して反乱を起こしたが、郭淮の軍勢に敗れ、かろうじて逃げ延びる。
のち白土城に籠城して再び蜂起したが、同じく郭淮によって鎮圧された。
何進(カシン)
?−189
字は遂高。
妹が帝の皇后となったため外戚として出世。大将軍の位に就く。
宦官・十常侍の一掃を謀るが露見し、逆に謀殺された。
賈範(カハン)
?−237
遼東太守。公孫淵の副将。「諸葛亮でさえ勝てなかったのだから、我々に勝てるはずがない」と公孫淵の反乱を止めようと諌める。
参軍の倫直も重ねて諌言したが、怒りを買い、処断された。反乱鎮圧後、子孫は司馬懿に保護され爵位を授けられた。
何茂(カボウ)
?−?
袁紹配下の将。官渡の戦いの直前、汲・獲嘉などの領地を守ったが、于禁楽進から成る曹操の別働隊の襲撃を受ける。
奮戦むなしく陣を焼き払われ、王摩とともに降伏した。これにより袁紹は黄河の南岸を曹操に押さえられる。
何曼(カマン)
?−194
黄巾賊の将。黄邵の配下として汝南や潁川に勢力を張る。「截天夜叉」の二つ名を自称した。
曹操が兵糧を求めて攻め寄せると、曹洪に一騎討ちを挑む。互角だったが、曹洪の逃げるふりに騙され、斬られた。
華雄(カユウ)
?−191
董卓配下の猛将・董卓軍の先鋒を務めた。水関では孫堅を破り、勢いに乗って攻め寄せるが、関羽に討ち取られた。
正史では、孫堅に敗れ、斬られている。
韓胤(カンイン)
?−197
袁術の幕僚。袁術の子と呂布の娘の縁談をまとめる使者として呂布を訪ねた。
袁術との同盟を推進する陳宮と意気投合するが劉備曹操と結ぶ陳珪陳登父子に妨害され、呂布に捕らえられる。
再び派遣された袁術の使者が呂布に斬られると、首かせをつけたまま許昌に護送され、曹操によって処刑された。
管亥(カンガイ)
?−194
黄巾賊の将。黄巾の乱後、残党数万で北海郡を襲う。
救援に駆けつけた劉備軍と合戦し、関羽と一騎打ちとなった。数十合に及ぶ力闘を演じるが戦死した。
韓起(カンキ)
?−?
遼東太守・公孫淵に仕える。呉の孫権から王位を授ける旨の使者である張弥・許晏が訪れたが公孫淵は魏の歓心を買うために態度を急変。
公孫淵の命で、護衛役や従者の者らを誘い出して殺害し、贈り物の財宝を奪う。使者二人も公孫淵に斬られ、首を洛陽に送られた。
韓玄(カンゲン)
?−208
長沙の太守。魏の韓浩の兄。短気な性格で、みだりに人を殺すため、人々の恨みを買った。
劉備軍の関羽が長沙に攻め寄せると、楊齢と黄忠に迎撃させる。黄忠が戦で受けた恩を関羽に返すと、それを見て激怒。
黄忠を処刑しようとするが、魏延に阻まれ、殺された。正史では韓浩の兄という記述はなく、劉備には降伏したとある。
観鵠(カンコク)
?−?
零陵の賊。自らを平天将軍と称して反乱を起こし、桂陽を攻めるなど荊州南部で勢力を築く。
長沙太守の孫堅が率いる討伐軍の前には歯が立たず、捕らえられて処断された。
韓遂(カンスイ)
172−215
字は文約。
涼州軍閥の首領の1人。義兄弟の馬騰が曹操に討たれたため、その子・馬超とともに復讐の兵を挙げる。
しかし、離間の策にかかり、馬超と決裂。曹操に降伏しようとして、怒った馬超に左腕を斬られた。
韓嵩(カンスウ)
?−?
劉表の配下。曹操袁紹の対立が深まると、両者が争って疲弊するのを待つか、曹操につくよう劉表に進言した。
劉表はこの言を信用せず、証拠を求めたため、曹操陣営の視察に都へ赴くことになる。
献帝の歓待を受け主の劉表を差し置いて官爵を授かったため、帰国後、堪気に触れて投獄された。のち曹操により解放される。
韓暹(カンセン)
?−197
もと白波賊の首領。後漢の献帝を董卓の残党から守り、征東将軍に任ぜられた。
曹操と争って献帝の身柄を奪われ、袁術を頼り落ち延びる。
その後、袁術の命を受けて呂布軍との戦闘中、呂布側に寝返って配下となる。最後は関羽張飛に討たれた。
韓忠(カンチュウ)
?−184
黄巾賊の将。孫仲趙弘とともに宛城を占拠する。朱儁劉備ら黄巾討伐軍と戦うが流れ矢に当たり戦死した。
後漢書によると、趙弘朱儁に斬られたのち韓忠が宛城黄巾軍の首領になった。
降伏を拒否され、出撃したところを朱儁に大破され投降。南陽太守・秦頡に殺された。
韓猛(カンモウ)
?−?
袁紹配下の将。官渡の戦いの折陣地に兵糧を輸送するが、徐晃らに襲われて兵糧を焼き払われた。
帰陣後、怒った袁紹により雑兵に格下げされてしまう。
顔良(ガンリョウ)
?−200
袁紹配下の猛将。白馬の戦いで先鋒となり、宋憲魏続を討ち取った。
続いて勇将・徐晃をも敗走させたが、当時曹操の幕下にいた関羽に一合で斬られた。
魏続(ギショク)
?−200
呂布配下の将。候成宋憲とともに呂布を裏切って曹操に降った。
白馬の戦いでは顔良相手に一騎打ちを挑むが、ただ一合で斬られた。
牛輔(ギュウホ)
?−192
董卓配下の将。董卓の娘婿で、董卓が殺害されると、その仇を討つため長安に向かった。
しかし、呂布には敵わないと見て逃げだし、途中で側近に殺された。
橋蕤(キョウズイ)
?−197
袁術配下の将。袁術呂布討伐戦では第2軍の上将となるが、楊奉韓暹呂布軍に寝返り、敗れる。
その直後に寿春へ攻め寄せた曹操軍を県境で迎撃するが、夏侯惇に討たれた。
正史では、袁術から大将軍に任ぜられており、于禁に斬られた。同僚の張勲らとともに孫策を心から尊敬していたという。
龔都(キョウト)
?−201
黄巾賊の将。黄巾の乱後、劉辟とともに汝南を拠点とする。曹操と敵対して袁紹と組み、袁紹のもとにいた劉備を迎え入れ、その配下となった。
劉備が許昌を奇襲しようとする際、輸送の任に就き、曹操軍に包囲される。張飛が救援に向かうが間に合わず、夏侯淵に討たれた。
許貢(キョコウ)
?−?
後漢の呉郡太守。曹操に「孫策に注意せよ」との密書を送ろうとするが、孫策に露見して殺された。
のちに許貢の食客3人が丹徒の西山で狩猟中の孫策を襲撃して重傷を負わせた。
許(キョシ)
?−?
呂布の参謀。198年、呂布下邳曹操に包囲されたとき、許とともに救援依頼の使者として袁術のもとへ派遣された。
正史では、兗州牧・曹操の配下の従事中郎だったが、陳宮らとともに曹操に背き、呂布に仕えている。
許劭(キョショウ)
?−?
字は子将。
汝南郡の人物批評家。貴賤を問わず忌憚のない評価を下すことで高名で、若き日の曹操を見て「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した。
正史では、許靖の従弟とされる。毎月初めに恒例の人物批評をし、「月旦評」の言葉の由来になったという。
許攸(キョユウ)
?−204
字は子遠。
袁紹配下の謀臣。曹操とも親交があった。官渡の戦い曹操軍の兵糧欠乏を知り、袁紹に速攻を促す。
しかし、政敵の審配から一族の不正を中傷され、袁紹の怒りを買い曹操に投降。
袁紹軍の兵糧基地がある烏巣の情報を教えて急襲させ、曹操の勝利に貢献した。
鄴攻略後、功を誇り、怒った許褚に斬られた。
紀霊(キレイ)
?−199
袁術配下の将。三尖刀の使い手で、劉備軍に攻め込まれた際、関羽と三十合打ち合い引き分けた。
袁術の命令で劉備を攻めた折は、呂布の仲裁で兵を退く。
のち袁術は衰退して袁紹を頼るが、劉備に待ち伏せされ、張飛と戦って敗れた。
金環三結(キンカンサンケツ)
?−225
孟獲の配下。第一洞の主。南中に攻め寄せる蜀軍を迎撃しようとするが、趙雲魏延の夜襲を受ける。
趙雲に挑んだが、ひと突きで馬から落とされ、討たれた。正史には登場しない。
奚泥(ケイデイ)
?−225
南中の烏戈国の王・兀突骨配下の将。孟獲の依頼を受け、土安とともに藤甲軍三万を率いて蜀軍と戦う。
敗走する魏延を追撃して盤蛇谷に誘い込まれ、退路を断たれた上で、諸葛亮の仕掛けた地雷による火計を受ける。
藤甲兵は全滅し、兀突骨土安とともに戦死した。
邢道栄(ケイドウエイ)
?−208
零陵の太守・劉度配下の将。大斧の使い手。劉度の子・劉賢とともに、零陵に侵攻してきた劉備軍を迎え撃つが、張飛趙雲の武勇に怖気づき降伏する。
諸葛亮劉賢の陣への夜襲を提案したため釈放され、劉賢と謀って、夜襲に来る劉備軍を待ち構える。
だが、策は見抜かれ、不意に現れた趙雲に討たれた。正史には登場しない。
闕宣(ケツセン)
?−?
下邳で数千の軍を擁し、「天子」を自称した。陶謙と手を組んで泰山、任城を侵略する。
しかし曹操の軍勢の前に敗れた。のち陶謙とも対立し、殺害されたという。
厳政(ゲンセイ)
?−?
黄巾賊。張宝配下の武将。朱儁ら官軍と劉備軍の攻勢を受け、陽城県の城に立て籠る。
落城必至と見切りをつけると、張宝を刺し殺し官軍に投降した。
厳白虎(ゲンハクコ)
?−?
呉郡の賊。「東呉の徳王」を自称する。孫策に討たれて会稽の王朝を頼るが、再び孫策の前に敗走。
落ち延びた先で董襲に殺され、首級を孫策に献上された。
厳輿(ゲンヨ)
?−?
厳白虎の弟。厳白虎孫策の討伐を受けたとき、和睦の使者となる。
交渉の席で江東の折半を提案するが、孫策に斬られた。
高幹(コウカン)
?−206
字は元才。袁紹の甥。并州の刺史。官渡で敗北した袁紹を救うために出撃するが、敗れて并州に戻る。
のち壺関にて曹操軍を食い止め、李典楽進ら名将相手に善戦するが敗れた。
匈奴を頼ったが断られ、劉表を頼って荊州へ行く途上で殺される。
高順(コウジュン)
?−198
呂布配下の将。呂布に従って各地を転戦した猛将で、「陥陣営」の異名を持つ。
呂布の敗北後、曹操の前に引き立てられるが、言い訳もせず潔く斬られた。
黄邵(コウショウ)
?−194
黄巾軍の残党。汝南や潁川で略奪をしていたが、兵糧を調達するために攻め寄せた曹操の軍勢と戦い、李典に捕らえられて殺された。
高昇(コウショウ)
?−184
黄巾賊。張宝の副将。曲陽の戦いに出陣する。
官軍の先鋒をしていた劉備張飛を出陣させ、高昇は数合で突き落とされた。
候成(コウセイ)
?−?
呂布配下の将。下邳で籠城していたとき、呂布に酒を贈るが、禁酒令を破ったとして棒罰を食らわされる。
この仕打ちを恨んだ候成は魏続宋憲とともに寝返りを決意し、赤兎馬を盗んで曹操軍に投降した。
侯選(コウセン)
?−?
韓遂の配下。韓遂の指揮の下、馬超と協力して曹操と戦う。
曹操の軍師・賈詡による離間の計で、韓遂馬超は互いの信頼を失って衝突、敵前で仲間割れを起こした。
混戦ののち、馬超が撤退すると曹操に降伏し、列侯に封じられる。
黄祖(コウソ)
?−208
劉表配下の将。江夏を守備するが孫堅軍に大敗した。
配下の甘寧を賊出身だからと冷遇し、呉に去られてしまう。のち呉の将となった甘寧に斬られた。
公孫越(コウソンエツ)
?−191
公孫瓚の弟。袁紹に併呑された冀州の領地割譲を申し入れるため、兄の使者となって袁紹のもとを訪れる。
帰途、袁紹配下の待ち伏せに遭い、討たれた。
公孫淵(コウソウエン)
?−238
字は文懿。
公孫康の子。叔父の公孫恭から遼東太守の座を奪う。魏に臣従しながら呉とも通じた。
魏から授けられた地位に不満を募らせ重臣の諌めを無視して反乱を起こす。
帯方郡・楽浪郡を併合して燕を建国。燕王を自称した。司馬懿の率いる魏軍に襄平で大敗し、子・公孫脩とともに処断された。
公孫珩(コウソンコウ)
?−?
遼東太守・公孫淵の配下。公孫淵孫権との連合を断念し態度を翻して呉からの使者を斬る。
公孫淵から魏への使者を命じられ、魏への恭順を誓う上奏文と呉の使者二人の首級を携えて洛陽に赴き、魏帝・曹叡に謁見した。
公孫瓚(コウソンサン)
?−199
字は伯珪。
後漢の北平太守。劉備とともに盧植に学んだ。
白馬義従と呼ばれる精鋭部隊を率いて羌族を討伐し、「白馬将軍」の異名を取る。
黄巾賊討伐に活躍するが、のち袁紹に敗れた。
公孫脩(コウソンシュウ)
?−238
公孫淵の子。遼東太守・公孫淵は、配下の諌めも聞かずに燕王を称して自立する。
しかし、魏帝・曹叡の派遣した司馬懿の軍に大敗し、襄平に籠城。
世子の公孫脩を人質に和議を結ぼうとするが許されず、密かに城外に逃亡したところを父子ともども捕らえられ、処断された。
高沛(コウハイ)
?−212
劉璋配下の将。楊懐とともに涪水関を守備する。
劉備の暗殺を計画するが、軍師の龐統に察知され、劉封関平らに取り押さえられて処刑された。
皇甫嵩(コウホスウ)
?−195
字は義真。
後漢の臣。黄巾の乱では、張梁張宝の軍を火攻めで破り、張角の墓を暴いて遺骸から首を挙げた。
のち宦官への賄賂を拒んだために罷免され、隠棲していたが、董卓死後朝廷に復帰する。
孔融(コウユウ)
153−208
字は文拳。
後漢の北海太守。孔子二十代目の子孫で「建安七子」の1人。反董卓連合に参加した。
その後黄巾残党の管亥らに北海で包囲されるが、太史慈の活躍で難を逃れる。
曹操に攻められた陶謙の救援要請を受け、劉備とともに駆けつけた。
曹操の献帝擁立後、許都に戻るが曹操劉備討伐に不満を漏らし処刑された。
高覧(コウラン)
?−201
袁紹配下の将。官渡の戦いでは曹操軍の猛将・許褚を相手に戦う。
のちに同僚の張郃とともに曹操に帰順。汝南の劉備軍を攻め、劉辟を斬った。
呉桓(ゴカン)
?−?
黄巾賊の将。黄巾の乱後も残党を率いて治安を乱す。会稽郡で呉の将・留賛の攻撃を受けて死亡した。
胡才(コサイ)
?−?
もと白波賊の首領。董承楊奉の求めに応じ、長安から洛陽に移る献帝を李楽韓暹とともに護衛する。
李傕と交戦に及んだが乱戦の中で討死した。
胡車児(コシャジ)
?−?
張繍配下の勇士。異民族の出身で張繍軍随一の豪傑。
宛城で曹操を奇襲する際、護衛の典韋の戟を盗むよう進言し、自ら実行して襲撃を成功に導いた。
胡軫(コシン)
?−?
董卓配下の将。水関にて袁紹の率いる反董卓連合軍を迎え撃った。
華雄の副将を務め、五千の兵を率いて戦うが、孫堅配下の程普によって討ち取られた。
兀突骨(ゴツトツコツ)
?−225
烏戈国の国王。身の丈は一丈二、全身が鱗で覆われていたという。蜀軍に苦戦していた孟獲に請われ、一軍を率いて加勢。
配下の兵は、油を塗り重ねた藤の鎧を着ており、弓や剣を通さないため、蜀軍を圧倒した。
だが、魏延に盤蛇谷へと誘い込まれ、進退窮まったところで火計の罠にはまり、配下ともども討たれた。正史には登場しない。
呉敦(ゴトン)
?−?
泰山の賊。曹操に対抗するために呂布と協力する。臧覇孫観らとともに曹操軍を防ぐが大敗した。
呂布の敗戦後、臧覇の説得を受け、曹操の軍門に降る。
胡封(コホウ)
?−?
董卓配下の将。李傕に仕える。
李傕の命を受け、味方の樊稠を評定の席に呼び出して、斬殺した。
董卓の死後、李傕は献帝を手中に収めたが、馬騰韓遂と対立し戦いとなっていた。
樊稠韓遂を追い詰めながらも同郷のよしみで見逃したため、李傕から内通の疑いをかけられていたのである。
蔡瑁(サイボウ)
?−208
字は徳珪。
劉表配下の将。荊州の豪族の出。劉表の後妻・蔡夫人の弟。
劉jを後継者にするため、邪魔な劉備の暗殺を企てるが失敗に終わる。水軍の指揮に秀でた。
蔡邕(サイヨウ)
132−192
字は伯喈。
後漢の臣。蔡文姫の父。
議朗の位を得て代々の皇帝を補佐したが、権勢を振るう宦官たちと対立し、免職させられた。
書道や音楽に優れ、人望を集めていたため、董卓に召し出されて利用される。
董卓の死を悼んだために、董卓に協力した罪を王允から問われ、獄死した。
笮融(サクユウ)
?−?
劉繇の配下で幕僚。孫策が揚州に侵攻すると、牛渚で戦うが大敗する。
劉繇とともに荊州の劉表のもとへ落ち延びた。正史では元陶謙の配下。
荊州に逃れたのち劉繇を裏切ったが、民衆の反乱に倒れたという。
左霊(サレイ)
?−?
張繍の配下。もと董卓、続いて李傕と幕僚。
董卓の死後、李傕の抗争が始まると、李傕の命を受けて、献帝と皇后を護衛し、李傕の陣営に連れ戻る。
正史によると、後漢の臣であったという。
司馬倶(シバク)
?−?
黄巾賊の将。黄巾の乱後、徐和と組んで済南や楽安を縄張りとし、狼藉を働いた。
その後。曹操の命を受けた夏侯淵によって討伐される。
周マ(シュウキン)
?−196
字は大明。
会稽太守・王朗配下の将。孫策軍の太史慈と戦う王朗に加勢するが、背後を突かれ城内に逃げ込む。
客将・厳白虎と追撃に出るが、罠にかかって斬られた。
周朝(シュウチョウ)
?−?
荊州南部の賊。
長沙の区星が反乱を起こすと、それと示し合わせて零陵、桂陽の地で挙兵し、治安を乱す。
孫堅が討伐の任に当たり、攻め寄せて来ると、太刀打ちできず平定された。
宿舒(シュクジョ)
?−?
遼東太守・公孫淵の配下。公孫淵の意向を受け、孫綜とともに呉への使者となる。歓待され、孫権公孫淵を燕王に封じる約束をする。
使者として訪れただけではなく偵察も兼ねており、呉の兵数や領地の様子を見て回り、頼りにならないと遼東に戻って公孫淵に報告したといわれている。
祝融(シュクユウ)
?−?
孟獲の妻。伝説の火の神・祝融の子孫を名乗る。飛刀の使い手で、武勇を誇る。
蜀軍の南中平定の際、蜀の将・張嶷や馬忠を破って生け捕りにしたが、魏延馬岱には二人がかりで捕らえられ、捕虜同士の交換で自陣に帰る。
その後も何度も蜀軍に捕らえられ、最後は孟獲とともに帰順を誓った。
朱儁(シュシュン)
?−195
字は公偉。
後漢の将。黄巾の乱に際して、劉備孫堅とともに黄巾賊を討伐する。この功績で車騎将軍に任ぜられた。
董卓の死後、李傕とともに朝政にあたる。
淳于瓊(ジュンウケイ)
?−200
袁紹配下の将。袁紹曹操と同じくもと西園八校尉の1人。
官渡の戦いで兵糧庫の烏巣を守るが酒に溺れて曹操の焼き討ちを受け、怒った袁紹に殺された。
荀ェ(ジュンシン)
?−?
冀州牧・韓馥配下の謀臣。辛評とともに袁紹を頼るようにに献策した。のちに袁紹配下となる。
官渡の戦いでは、田豊許攸らと参謀として従軍した。正史では苟ケの弟とある。
焼戈(ショウカ)
?−253
羌族の将。迷当の配下。
迷当から命を受け、餓何とともに南安を攻撃する。
陳泰の投降が嘘だと見抜けず、魏の陣地に夜襲を仕掛けたが、郭淮の伏兵に襲われて落とし穴に誘い込まれる。
羌族の軍は壊滅し、自害した。
徐栄(ジョエイ)
?−191
董卓配下の将。長安へ遷都の途中、伏兵となって曹操軍を襲撃し、敗走する曹操の肩を射当てた。
しかし、救援に現れた夏侯惇の手にかかって倒される。
徐和(ジョカ)
?−?
黄巾賊の将。黄巾の乱後、司馬倶とともに済南や楽安で跋扈し民衆を脅かした。
曹操が派遣した夏侯淵らの軍勢と衝突を繰り返し、大敗して処断される。
審配(シンパイ)
?−204
字は正南。
袁紹配下の臣。参謀として袁紹を支えるが、苟ケからは「我意が強く策がない」と評された。
袁紹の死後は袁尚を擁立する。のち徐晃に捕らわれるが、降伏せず袁家に忠を尽くし、主君のいる北を向き処刑された。
辛評(シンピョウ)
?−205
字は仲治。
韓馥配下の臣。韓馥が逃亡してからは袁紹に仕え、のち袁譚を補佐して活躍した。
使者として曹操に会った際に配下となるように誘われるが、固辞して帰る。
しかし袁譚に二心を疑われ、心痛のあまり亡くなった。
成宜(セイギ)
?−?
韓遂の配下。韓遂馬超の連合で曹操を攻め、長安・潼関を陥落させる。
渭水において夜襲を仕掛ける予定で曹操の陣を偵察していたところ、待ち伏せしていた曹操軍に囲まれ、夏侯淵に斬られた。
成公英(セイコウエイ)
?−?
韓遂の配下。韓遂曹操軍と戦って敗れたとき、韓遂に従って夏侯淵の追撃を振り切り、羌族の元に身を寄せた。
韓遂が死亡すると、曹操に降伏し、涼州の平定に力を尽くした。
成廉(セイレン)
?−195
呂布の配下。兗州を巡る戦いで曹操の夜襲を撃退し、追撃するが、曹操の捕捉に失敗する。
のち濮陽で曹操軍の伏兵に遭い敗走中、楽進の矢を受けて戦死した。
薛礼(セツレイ)
?−195
揚州刺史・劉繇の配下。孫策が父の旧領を取り戻そうと劉繇を攻めたとき、張英陳横とともに秣陵を守っていた。
しかし、孫策の計にかかって誘き出され、伏兵に遭って戦死した。
単固(ゼンコ)
?−251
字は恭夏。
魏の将。父の友人であった令狐愚に、腹心として取り立てられる。
令狐愚とともに王淩に協力し、曹彪を帝位につけようとするが失敗。
反乱が鎮圧されて死罪が決まると、令狐愚を裏切って密告した楊康が保身のために嘘をついていると暴き、楊康を同じ死罪に巻き込んだ。
宋果(ソウカ)
?−?
李傕の配下。李傕が大司馬に任じられた際、占トの力のみを頼りにし、配下に恩賞を与えなかったため不満を募らせる。
楊奉と組んで兵を挙げ、李傕を討とうとしたが事前に計画が漏れ、殺害された。
宋憲(ソウケン)
?−200
呂布配下の将。同僚の候成がささいな事から棒罰を受けたのを見て、候成魏続とともに曹操に投降した。
のちに袁紹軍との戦いで、猛将・顔良に斬られた。
曹性(ソウセイ)
?−198
呂布配下の将。濮陽で曹操を追い詰めるが、典韋に阻まれて取り逃がす。
のちに夏侯惇に追われる高順を逃がすため、陣中より矢を放ち、夏侯惇の左目を射抜く。
しかし、逆上した夏侯惇に額を一突きにされた。
臧覇(ゾウハ)
?−?
字は宣高。
呂布の配下。呂布軍の大将として、各地を転戦する。
曹操との戦いでは、山賊と結んで兗州攻略に臨んだ。呂布滅亡後、曹操に降伏し山賊たちも帰順させた。
曹豹(ソウヒョウ)
?−196
陶謙配下の将。曹操陶謙を攻めた際、曹操軍の先鋒・夏侯惇を迎撃する。陶謙の死後は劉備に仕えた。また、娘は呂布の妻となった。
劉備袁術を攻める際、張飛とともに下邳の守備を命じられるが、張飛に酒を強要され、断ったため鞭打ちの刑を受ける。
その夜のうちに呂布を下邳に招き入れて張飛を討とうとするが、返り討ちに遭った。
沮授(ソジュ)
?−200
袁紹配下の臣。曹操討伐をたびたび諌めるが聞き入れられず、投獄される。
袁紹が敗れたのち、曹操に投降を勧められるが拒み、脱走しようとして殺された。
蘇飛(ソヒ)
?−?
黄祖配下の将。江夏の都督で、黄祖甘寧を取り立てるように勧めた。
だが、甘寧は海賊の出身だからと用いなかったので、他国へ移れるよう取り計らう。
その後、甘寧孫権に降り、孫権軍に捕らえられた蘇飛は甘寧に命を救われた。
孫観(ソンカン)
?−?
字は仲台。
泰山の賊。呂布に協力して曹操と戦う。臧覇呉敦らとともに蕭関に立て籠もるが、曹操に敗れ、逃走した。
呂布が倒されると、臧覇の説得を受け、曹操に降った。
孫ン(ソンソウ)
?−?
遼東太守・公孫淵に仕える。
孫権
が配下の周賀・裴潜を公孫淵の元へと送り込んで連携しようとすると、それに応じるため、宿舒とともに呉へ赴く使者となる。
呉への道中、魏の将・田豫の妨害に遭うが、逃げ延びて呉に辿り着き孫権に謁見した。のち宿舒とともに遼東に帰った。
孫仲(ソンチュウ)
?−184
黄巾賊の将。韓忠趙弘とともに宛城を占拠する。張角が病死した後も、趙弘韓忠らと宛城に籠もって抵抗を続ける。
朱儁劉備が率いる討伐軍が来襲すると、突破して逃げようとするが劉備が放った矢に当たり戦死した。
正史に登場する宛城黄巾軍の最後の首領・孫夏がモデルになっていると思われる。
帯来洞主(タイライドウシュ)
?−?
孟獲の妻の弟。蜀との戦で敗戦続きであった孟獲に対し、木鹿大王に援軍を頼むよう進言。
木鹿大王が討たれると、烏戈国の兀突骨に加勢を求めるよう助言した。正史には登場しない。
朶思大王(ダシダイオウ)
?−225
南中の禿竜洞の主。蜀軍に連敗していた孟獲らをかくまう。
蜀軍を四つの毒泉のある道に誘い込むが、神託を受けた諸葛亮に見抜かれる。
毒泉を抜けた蜀軍の迎撃準備をしていたときに、楊鋒の裏切りに遭い、蜀に引き渡された。
孟獲とともに解放されたのち、三江城の籠もり蜀軍を迎え撃つが、乱戦の中、戦死した。
正史には登場しない。
張英(チョウエイ)
?−196
揚州刺史・劉繇配下の将。孫策に攻められた際、一隊で牛渚の地を守ってみせると豪語するが敗れる。
のち秣陵で孫策配下の将・陳武に突き殺された。
正史では、当利口に駐屯し、袁術の勢力拡大を防ぐため、樊能とともに呉景、孫賁らと戦う。
孫策軍に敗れた後の消息は不明。
張衛(チョウエイ)
?−215
張魯配下の将。張魯の弟。漢中に向かう曹操軍を楊任楊昴とともに陽平関で迎え撃った。
緒戦は優勢であったが楊任楊昴が討たれて陽平関を失い、頼みの猛将・龐徳も寝返る。
張魯が降伏の決意をしてもなお曹操軍と戦い続け、巴中にて許褚に討ち取られた。
張燕(チョウエン)
?−?
もと黒山賊の将。元の名は褚燕で、張牛角の後を継いで黒山賊の首領となり、張燕と改名。
強くて敏捷だったことから「張飛燕」と呼ばれた。
曹操が冀州を平定すると十万の兵を率いて帰順し、平北将軍に任じられた。
張横(チョウオウ)
?−211
韓遂配下の八部将の1人。曹操に復讐しようとする馬超に加勢し、長安を陥落させた。
馬超が魏の賈詡の離間の計にかかって韓遂と同士討ちを始めると曹操に攻め込まれ、乱闘の中で戦死する。
張温(チョウオン)
?−191
字は伯慎。
後漢の臣。多くの功績を残し、位は三公まで上りつめた。袁術と結んで董卓暗殺を図り、宴席で衆人環視の下、呂布に斬られる。
正史では 、韓遂辺章の起こした涼州大反乱を董卓とともに討伐するが、董卓孫堅の発言に振り回されるばかりだったという。
張角(チョウカク)
?−184
鉅鹿郡の在野の士。太平道の教祖として民衆に教えを広める。世の乱れに乗じて広く民衆の支持を集めた。
黄巾党を結成して漢王室に敵対、「天公将軍」を自称し、黄巾の乱を起こした。
張勲(チョウクン)
?−?
袁術配下の将。都督。袁術が皇帝を自称すると大将軍に任ぜられた。
総勢二十万の兵士を率いて徐州に呂布軍と戦うが、呂布配下の陳珪の策略で韓暹楊奉が寝返ったため、大敗を喫し逃げ戻った。
正史によると、孫策を心から尊敬しており、袁術の死後、孫策を頼ろうとしたが、盧江太守の劉勲に捕らえられたという。
趙月(チョウゲツ)
?−213
趙昴の子。
馬超羌族の兵を率いて隴西を平定したときに配下となる。
父・趙昴が馬超を裏切って楊阜に味方し、挙兵したため、馬超に斬られた。
張虎(チョウコ)
?−191
劉表配下の将。黄祖に従い、荊州に攻め寄せた孫堅軍と樊城で戦った。韓当と一騎討ちで三十余合戦った末、討ち取られた。
正史では、陳生とともに賊となり江夏・襄陽を荒らしたが、劉表配下の蒯越に説得されて帰順したという。
趙弘(チョウコウ)
?−184
黄巾賊の将。韓忠孫仲とともに兵を率いて宛城を支配する。
朱儁率いる官軍相手に戦うが、官軍の加勢に来た孫堅に馬から突き落とされ、戦死した。
正史によると、宛城黄巾軍の首領は張曼成、趙弘、韓忠、孫夏の順に移り変わっている。
張済(チョウセイ)
?−196
董卓配下の将。車騎将軍。張繍の叔父。傾国の美女・鄒氏を妻とした。
兵糧不足のために劉表を攻めるが、流れ矢に当たり戦死した。
張繍(チョウシュウ)
?−207
董卓配下の将。張済の甥。董卓の死後、張済に従って独立。さらに張済の戦死後、後を継いで南陽郡を治める。
やがて曹操が南陽郡に攻め寄せると、一旦は降伏して曹操を油断させ、強襲する。曹操の長男・曹昴典韋などを戦死させた。
その後も参謀の賈詡の助言に従って曹操を退けたが、官渡の戦い前に曹操に帰順した。
張敞(チョウショウ)
?−?
遼東太守・公孫康に仕えた。
公孫康が帯方郡を設置したのち帯方郡周辺の韓・濊といった異民族を公孫模とともに討伐する。
これにより公孫一族の勢力圏は広まり、遠く東方の倭国にまでその影響は及んだという。
張式(チョウショク)
?−251
魏の将。令狐愚の腹心。
王淩の帝位転覆の計画に令狐愚が協力したため、それに加わる。
令狐愚の命令で、何度も曹彪への使者を務めたが、志半ばで令狐愚は病死した。
王淩の乱後に捕らえられ、司馬懿によって死罪に処される。
張任(チョウジン)
?−214
劉璋配下の将。落鳳坡で、劉備の軍師・龐統を射殺した。
敗北して捕らわれたが「忠臣に二君に仕えず」として、劉備の説得に応じず潔く斬首された。
張盛(チョウセイ)
?−?
五斗米道の教祖・張魯の子。
漢中に曹操が侵攻すると、張魯の弟・張衛楊任楊昴らを率い陽平関で迎撃した。
張魯軍の将は張郃夏侯淵の前に次々と討ち取られ、重臣・楊松の裏切りも加わって戦意を完全に喪失。
張魯とともに曹操に降伏した。
貂蝉(チョウセン)
176−?
舞姫。絶世の美女で、歌舞に優れていた。司徒・王允のもとで実の娘同然に育てられる。
董卓の専横を憂う王允のため、董卓呂布に近づいて、「連環の計」を仕掛け、見事に二人の仲を裂くことに成功する。
張泉(チョウセン)
?−219
張繍の子。父とともに曹操に対抗するが、降伏して曹操に仕える。
のち曹操が漢中に出陣すると、留守に乗じて魏諷らと共謀し政権奪取を計画。
陳禕の密告により計画が露見し、曹丕に捕縛され処断された。
張先(チョウセン)
?−?
張繍配下の将。曹操と対立する張繍劉表と組んで侵攻に備える。雷叙とともに先鋒に配されて、曹操軍と戦った。
曹操軍の猛将・許褚が現れると、一騎討ちを挑んだが。瞬く間に斬り倒された。
張邈(チョウバク)
?−195
字は孟卓。
後漢の陳留太守。反董卓連合軍に参戦した諸侯の一人。
都落ちした呂布を庇護し、陳宮の勧めを受けて、守りが手薄になった兗州を曹操から奪う。
曹操の反撃を受けて領地をすべて失い。袁術のもとへ落ち延びた。
趙範(チョウハン)
?−?
桂陽の太守。荊州平定を目論む劉備軍に降ろうとするが、配下の陳応らに反対され、迎撃させる。
陳応が敗れると降伏し、寄せ手の将である趙雲と義兄弟の契りを結んだ。
さらに趙雲に嫂を娶らせようとするが、人外の行為と罵られる。
この屈辱を晴らすため夜襲を試みたが、見抜かれて捕らわれた。
戦後、劉備に許され、現職に戻った。
張富(チョウフ)
?−?
五斗米道の教祖・張魯の子。
漢中攻略を狙う曹操を迎え撃ったが、陽平関などで次々と敗戦を喫し、巴中まで撤退する。
曹操に降伏後、張魯張盛ら一族とともに取り立てられ、魏に仕えた。張魯の死後はその後を継いだという。
張宝(チョウホウ)
?−184
張角の弟。張角とともに漢王室に対し挙兵、黄巾の乱を起こす。
「地公将軍」を自称し、兄より授かった妖術で反乱を指揮するが部下の厳政に刺し殺された。
張曼成(チョウマンセイ)
?−184
黄巾賊の将。黄巾の乱では「神上使」を自称し、数万の兵を率いて南陽で挙兵。
太守の褚貢を殺して宛を占拠するが、最後は後任の太守・秦頡に討たれた。
張梁(チョウリョウ)
?−184
張角張宝の弟。兄とともに漢王室に対して挙兵し、黄巾の乱を起こす。
「人公将軍」を自称し、張角死後も反乱を指導するが、官軍に敗れて戦死した。
張魯(チョウロ)
?−?
字は公祺。
五斗米道の教祖。漢中一帯に大勢力を築く。
曹操軍に攻め込まれたとき、倉は国家のものだからと焼かずに封印させて去った。
これを評価した曹操は、降伏した張魯を鎮南将軍に任じた。
陳応(チンオウ)
?−208
桂陽太守・趙範配下の将。飛叉の使い手。侵攻してきた趙雲に降伏しようとする主を諫め、迎撃に出る。
趙雲に敗れて許されると、趙範とともに降伏。
のちに趙範趙雲が仲違いすると、偽りの投降をし、趙雲を捕らえようとする。
だが、策を見抜いた趙雲に酔いつぶされ、処断された。正史には登場しない。
陳横(チンオウ)
?−195
揚州刺史・劉繇配下の将。薛礼張英とともに秣陵を守備する。
討って出たのを伏兵に攻められ、孫策配下の将・蒋欽に射殺された。
陳紀(チンキ)
?−197
袁術配下の将。呂布の討伐に参加するが、失敗する。
その後、曹操に攻め込まれ寿春城内に籠って戦うが、敗れて捕らえられ殺された。
陳宮(チンキュウ)
?−198
字は公台。
後漢の中牟県令。董卓暗殺に失敗した曹操と同行するも、その非情な一面を見て決別する。
のち呂布の謀臣として曹操と戦うが、敗北して呂布ともども捕まり、自ら望んで処刑された。
陳珪(チンケイ)
?−?
字は漢瑜。
後漢の済北の相。徐州の名士。陳登の父。陶謙に仕え、曹操が来襲した際に救援に来た劉備に心服。
以後、徐州牧となる劉備を支援した。徐州が呂布に奪われた後は、曹操に内通して呂布打倒を画策する。
陳登とともに呂布を翻弄し、劉備曹操の勝利に貢献した。
陳就(チンシュウ)
?−?
黄祖の配下。孫権が攻め寄せてきたとき、ケ龍とともに先鋒を命じられ戦艦に乗り込んで応戦した。
ケ龍甘寧に倒され、総崩れとなったため逃亡しようとしたが、呂蒙に追いつかれて討ち取られた。
陳生(チンセイ)
?−191
劉表配下の将。黄祖に従って、荊州の戦いに参加し、樊城で孫堅軍と戦う。
同僚の張虎韓当との一騎討ちで劣勢になり、助勢しようと前に出た途端、孫策に矢で射抜かれた。
正史では、張虎とともに賊となって襄陽を攻撃したが、劉表配下の蒯越の説得で降伏したという。
陳登(チントウ)
?−?
字は元龍。
徐州の名士。陳珪の子。陶謙とその後を継いだ劉備に仕える。
呂布が下邳を奪った後は陳珪とともに呂布に仕えながら、呂布を陥れて劉備を復権させるための策謀を巡らせる。
のちに劉備に協力して徐州を攻め、徐州刺史・車冑を討つが、劉備曹操に敗れて袁紹を頼ると、徐州を曹操に献じた。
陳蘭(チンラン)
?−?
袁術配下の将。徐州攻めに副将として参加し、劉備呂布の軍と戦った。
しかし皇帝を僭称した袁術の贅沢ぶりに見切りをつけ、雷薄とともに山賊になる。
のち劉備に敗れて逃走する袁術軍を襲い金品を強奪した。
陳琳(チンリン)
?−217
字は孔璋。
後漢の官僚。建安七子の1人。宦官討伐のため、何進が群雄に上洛を命じるのをいさめるが、聞き入れられなかった。
董卓が政権を握ると冀州に逃れ、袁紹に従う。官渡の戦いの前、曹操打倒の檄文を起草し、敵である曹操からも名文と称された。
のち曹操の捕虜となるが、才を惜しまれ取り立てられた。
程遠志(テイエンシ)
?−184
黄巾賊の将。反乱軍の兵を率い、幽州を襲う。
大興山麓で劉備率いる義勇軍と合戦になり、初陣の関羽にただ一合で斬られた。
程銀(テイギン)
?−?
韓遂の配下。馬騰の刑死後、曹操を倒して復讐を遂げんとする馬超に助力し、韓遂に従って、長安、潼関を攻略する。
渭南で曹操軍と戦闘中、落とし穴にかかって戦死した。
丁原(テイゲン)
?−189
字は建陽。
荊州の刺史。呂布の義父。
董卓が少帝を廃して弟の陳留王を立てようとすると、これを敢然と非難して対立する。のちに董卓と戦をとして、大勝した。
だが、頼みの呂布董卓と通じてしまい、最期は呂布に裏切られて殺された。
ちなみに正史での役職は幷州刺史。
鄭度(テイド)
?−?
劉璋の配下。劉備軍が成都を目指して進軍を始めると、戦域の住民を西方に避難させた上で、
田畑や穀倉を焼き尽くし、劉備軍から築陣の利を奪う戦術を立てる。
劉備軍はこの策を恐れたが、参謀の法正は「民を愛する劉璋には実行しえない」と一蹴し、不採用を見抜いたという。
劉璋は予想通り却下した。
田豊(デンポウ)
?−200
字は元皓。
袁紹配下の謀臣。有能ゆえにしばしば直言し、苟ケに「剛直で主君に逆らう」と評された。
曹操との戦いでも進言いるが容れられず、果てに投獄される。案の定、袁紹は敗北し、田豊は逢紀の讒言を受けて自殺した。
土安(トアン)
?−225
南中の烏戈国の王・兀突骨配下の将。諸葛亮に敗れた孟獲を迎え入れ、兀突骨に従って蜀軍と戦う。
藤甲兵の活躍で緒戦には善戦するが、諸葛亮の計略にかかって盤蛇谷に閉じ込められ、火攻めに遭って戦死。
兀突骨奚泥らも運命を共にした。
董越(トウエツ)
?−192
董卓配下の将。東中郎将に任ぜられる。
気勢を上げつつ洛陽に迫る孫堅軍を討つため、段煨・牛輔らとともに防衛を董卓に命じられ、黽池の地を守る。
董卓が暗殺されると、牛輔を頼って落ち延び、一旦は迎え入れられたがその場で殺害された。
牛輔はあらかじめ占い師に董越のことを諮り、不吉な予言を得ていたのだという。
陶謙(トウケン)
132−194
字は恭祖。
徐州刺史。反董卓連合に参加。
のちに曹操の父・曹嵩が曹操のもとへ向かう際、護衛につけた配下の張闓が曹嵩を殺して財宝を奪った。
激怒した曹操に猛攻撃を受けたが、劉備らの援軍によって徐州を守りきる。その後、劉備に徐州を委ねて病没した。
ケ賢(トウケン)
?−?
劉璋配下の将。劉璋の側近として劉備に注意するよう諌める。
龐統の命令を受けた魏延が剣舞に見せかて劉璋を斬ろうとすると、張任らと踊り出て防いだ。
董璜(トウコウ)
?−192
董卓配下の将。董卓の甥。
董卓に付き従って洛陽に入り、董卓が専横を振るうようになると、侍中の位を得た。
その際、他の董卓の一族に領地を与える使者の役目も果たす。
董卓が暗殺され、洛陽からの脱出を図るも、呂布らの兵に殺害された。
董承(トウショウ)
?−200
後漢の車騎将軍。霊帝の母・董太后の甥で国舅(皇帝の舅)。
献帝が長安を脱して洛陽を目指した際、軍を破って献帝を守り、列侯に封ぜられる。
その後、献帝から曹操打倒の密勅が仕込まれた玉帯を受け、
馬騰、劉備、王子服、呉子蘭らと計画を練るが、下僕に密告され、娘の董貴妃ともども処刑された。
ケ済(トウセイ)
?−?
劉表の配下。劉表張繍と同盟を結んで曹操軍と対立すると、南陽郡湖陽の城に籠もって軍備を固める。
曹操が来襲すると、猛攻に耐えきれず、敗れて捕虜となった。
董卓(トウタク)
?−192
字は仲穎。
西涼で太守をしていたが、何進の召集に応じて上洛。混乱に乗じ幼い帝を擁し政権を握った。
猛将・呂布を養子にし、武力を背景に少帝廃立、長安遷都などの横暴を極め、人々を恐怖で支配した。
董茶那(トウトナ)
?−225
孟獲の配下。第二洞の主。
南中に侵攻した蜀軍を迎え撃つが、夜襲を受けて捕縛される。
諸葛亮に解放されると、再び孟獲の要請を受けて出陣。蜀の馬岱に恩知らずと罵られ、恥じ入って退く。
このことで孟獲から罰を受けたため、洞主らと謀り、孟獲を蜀に引き渡す。
のちに釈放された孟獲に誘き出されて、斬られた。正史には登場しない。
董旻(トウビン)
?−192
字は叔穎。
董卓の弟。董卓が献帝を擁して権力を握ったのち、左将軍の地位に任ぜられる。
呂布の裏切りで董卓が殺されると、同罪であると処刑され首をさらされた。
ケ茂(トウボウ)
?−184
黄巾賊の将。程遠志の副将として、ともに幽州を襲うが、義勇軍に加わっていた張飛に、ただ一合で倒された。
張飛の得物である蛇矛の最初の犠牲者。
ケ龍(トウリュウ)
?−?
黄祖の配下。孫権が水軍を率いて荊州に攻め寄せると、陳就とともに先鋒を命じられて艦隊を指揮し、孫権軍を迎撃する。
両軍互いに敵と接舷する乱戦となる中、敵将・甘寧の乗船への侵入を許し、斬り倒された。
裴元紹(ハイゲンショウ)
?−200
黄巾賊の将。黄巾の乱後、山賊の頭をしていた。
関羽の赤兎馬を奪い取ろうとするが、相手が関羽と知って帰順。仲間の周倉関羽に紹介した。
馬漢(バカン)
?−214
劉璋の配下。劉備の益州侵攻に際し、費観の投降で綿竹は陥落し、劉備軍に占拠される。
劉ラとともに軍勢を率いて綿竹奪回に乗り出したが、趙雲と戦って敗死した。
馬玩(バガン)
?−?
韓遂の配下。馬超韓遂が共同で曹操と戦った際、これに従って長安を攻め落とした。
敵の離間の計によって、馬超韓遂の関係が悪化すると、曹操に降伏するよう韓遂に勧めたが、乱入してきた馬超に斬り倒された。
馬元義(バゲンキ)
?−184
黄巾賊の将。黄巾決起に際し、宦官の封諝や徐奉に賄賂を贈り内応の手筈を整えるが、唐周の密告によって捕らえられ、車裂の刑に処された。
後漢書によると、馬元義は太平道教団の大方で、荊州・揚州の信徒数万人を糾合する大幹部の一人である。
波才(ハサイ)
?−184
黄巾賊の将。張角が挙兵すると南陽の張曼成、博陵の張牛角らと同時に挙兵し、潁川の反乱軍を統率する。
長社で官軍を包囲するが、曹操孫堅朱儁軍の奇襲に敗れた。
馬日磾(バジツテイ)
?−194
字は翁叔。
後漢の太傅。学者として著名な馬融の族子。才能を認められて出任し、三公に昇った。董卓の命で袁紹公孫瓚の争いを調停する。
正史によると、李傕により袁術を左将軍に任ずる使者として遣わされたが、袁術に抑留され憂憤のうちに死んだ。
馬騰(バトウ)
?−211
字は寿成。
馬超の父。董卓を誅すべく反董卓連合に参加し、長安で横暴を働いていた李傕らを攻撃した。
曹操が権勢を極めると、董承発案の曹操暗殺計画に参加するが、露見したため西涼に戻る。
のちに孫権討伐のために許昌に呼び出されると、この機に曹操を討とうするが失敗。捕らえられ、処断された。
樊稠(ハンチュウ)
?−195
董卓配下の将。董卓死後、攻めてきた馬騰、韓遂の軍を破って、追撃した。
同郷のよしみで韓遂を見逃したため、謀反の罪で李傕に斬られた。
樊能(ハンノウ)
?−195
揚州刺史・劉繇配下の将。仲間の于糜を捕らえた孫策の後を追う。
後ろから槍で突こうとしたところ、振り向いた孫策の大喝を浴び、落馬して死んだ。
卑衎(ヒエン)
?−238
遼東で反乱を起こした公孫淵の配下。司馬懿の率いる魏軍を足止めしようと、楊祚とともに遼隧に陣取った。
司馬懿が遼隧を迂回して襄平に向かうと、追撃したが伏兵に遭って大敗。公孫淵と合流して軍を立て直した。
魏の将・夏侯覇を挑発して一騎討ちに持ち込むが、逆に討ち取られる。
伏完(フクカン)
?−214
後漢の臣。献帝の正室・伏皇后の父。
後漢の力を取り戻すため曹操を滅ぼす密詔を董承に与えるよう献帝に進言した。計画は事前に露見し、董承曹操に殺害される。
のち伏皇后らと曹操暗殺を再び企てたが、伏皇后からの密書への返信が曹操の手に渡り、伏皇后らとともに殺害された。
傅巽(フソン)
?−?
劉表の配下。劉表の死後、劉jに仕える。劉表の幕僚であった蒯越らと結託し、新野の劉備と対立した。
曹操が荊州平定の軍を起こすと、劉備の勢力を駆逐して曹操に降伏し、滅亡を避けるよう進言。
この功で曹操より関内侯に封じられたが、旧主である劉jはのち暗殺された。
文醜(ブンシュウ)
?−200
袁紹配下の猛将。同僚・顔良の仇を討たんとして延津に出陣、曹操軍の襲撃に対し奮戦する。
張遼徐晃の二将を退ける活躍を見せたが、関羽に倒された。
辺章(ヘンショウ)
?−?
涼州軍閥の首領の一人。涼州で羌族と手を結び、韓遂馬騰らとともに後漢に対して大反乱を起こす。
董卓が反乱の鎮圧に乗り出すと、これを迎え撃って戦を有利に進めた。
ある夜、流星の明かりを受けて、伏せていた軍の位置が照らされ、すぐさま撤退に転じたが、董卓軍の追撃を受けて大敗する。
忙牙長(ボウガチョウ)
?−225
孟獲の副将。截頭の薙刀の使い手。
孟獲軍の先手として蜀軍の王平と一騎討ちするが、逃げる王平を深追いし、伏兵に遭い大敗する。
その後、要地である夾谷峪を占拠した馬岱を攻撃するも、一刀のもとに斬り捨てられた。正史には登場しない。
逢紀(ホウキ)
?−202
字は元図。
袁紹配下の謀臣。曹操配下である苟ケから「勇あれど人の言を用いぬ」と評された。
官渡の敗戦後、讒言により田豊を処刑させる。袁紹の死後、袁尚を擁立して袁譚の陣に赴くが、援軍要請に失敗して袁譚に斬られた。
鮑信(ホウシン)
152−192
後漢の将。董卓の勢力拡大を危ぶみ、早々に排除するよう袁紹らに進言したが、この時は受け入れられなかった。
反董卓連合軍が結成されるとこれに参加し損害を受けながらも虎牢関まで攻め上る。
のち黄巾討伐を命じられ、曹操とともに青州へ軍を進めるが、敵中に包囲され、戦死した。
鮑忠(ホウチュウ)
?−191
後漢の将。鮑信の弟。鮑信とともに反董卓連合軍に参加した。
評定で連合軍の先鋒は孫堅と決したが、兄・鮑信孫堅が戦功を独占するのを嫌い、孫堅軍の先回りを狙う。
三千の兵で董卓軍の守る水関に抜け駆けするよう命じられたが、董卓配下の華雄に一撃で討ち取られた。
鮑隆(ホウリュウ)
?−208
桂陽太守・趙範配下の将。かつて虎をも射殺した剛の者。
侵攻してきた趙雲に降伏しようとする主を、陳応とともに諫める。迎撃に出た陳応が敗れると、趙範に従って降伏。
のちに趙範趙雲が仲違いすると、偽りの投降をして趙雲を捕らえようとする。
だが、策を見抜いた趙雲に酔いつぶされ、処断された。正史には登場しない。
木鹿大王(ボクロクダイオウ)
?−225
南中の八納洞の主。法術を使って雨風を起こし、毒蛇や猛獣を操る。
孟獲の要請に従い救援に駆けつけ、猛獣を駆使して蜀の趙雲魏延を撃退した。
後日、自信満々に打って出るが、諸葛亮が用意した人工の獣を見て、配下の猛獣が混乱。
猛獣が逃げ帰って自陣が乱れたところを蜀軍に突かれ、討ち取られた。正史には登場しない。
迷当(メイトウ)
?−253
羌族の王。蜀の郤正の説得に応じ、姜維の北伐に協力。南安を攻撃したが陳泰の策にかかって配下を失い捕虜となった。
郭淮の誘いに乗って今度は魏に寝返り、姜維の本陣への先導役を務める。
姜維らが姿を現すと、用無しとばかりに問答無用で魏の将に斬られた。
孟獲(モウカク)
?−?
南中の大王。劉備の死後、魏の曹丕から爵位を贈られ、蜀を攻撃しようとするが疑兵を見て退く。
のちに建寧の太守・雍闓とともに反乱を起こすが、鎮圧された。この反乱を機に蜀軍が南征を開始すると迎撃するが、連戦連敗。
負けるたびに諸葛亮に許され、解放された。七度捕まったのち、蜀に対して心からの帰順を誓った。
孟優(モウユウ)
?−?
孟獲の弟。蜀軍に偽りの投降をするが、薬入りの酒を飲み、酔いつぶれる。この失態により孟獲ともども捕まるが、釈放された。
次の戦も敗れ、兄とともに禿竜洞の朶思大王のもとに身を寄せる。禿竜洞の毒泉を頼みに籠もるが、諸葛亮には通じず大敗。
その後も抵抗を続けたが、孟獲が蜀に帰順を誓うとそれに従った。正史には登場しない。
兪渉(ユショウ)
?−191
袁術配下の将。反董卓連合軍の一員として、董卓軍の華雄が守る水関を攻める。
華雄が騎兵を率いて攻め寄せると、反董卓連合の盟主・袁紹に呼びかけに応じて出陣。
しかし、三合もせずに華雄に討ち取られた。
楊懐(ヨウカイ)
?−212
劉璋配下の将。高沛とともに涪水関を守備する。劉備から支援要請の使者が来たとき、劉璋に断るよう進言した。
のち高沛劉備暗殺を計画するが、軍師の龐統に察知され、取り押さえられて処刑された。
楊弘(ヨウコウ)
?−?
袁術の幕僚。演義では楊大将。袁術が独立を宣言した孫策を討とうとしたとき、先に劉備を討つよう進言。
その際、呂布を味方に引き入れるため、食糧を送ることを献策する。しかし、袁術呂布を手なずけようとせず、劉備に敗れた。
その後、曹操が領内に侵攻すると、淮水を渡って逃げるよう袁術に勧め、自らも同行した。
楊康(ヨウコウ)
?−251
魏の臣。令狐愚の腹心の一人。王淩の計画に協力し、曹芳を廃して曹彪を擁立しようとする。
令狐愚が病死すると変心し、味方を裏切って司馬懿に密告。保身に走った。
自分に都合のよい事実のみを伝えたが、王淩の乱鎮圧後に見抜かれ、他の将兵らとともに処断された。
楊昴(ヨウコウ)
?−215
張魯配下の将。漢中に攻め寄せる曹操を、楊任とともに陽平関で迎え撃つ。
緒戦で曹操軍の背後を突いて快勝し、撤退する構えを見せた曹操軍を追撃する。
曹操の巧みな誘導であることに気付かず、手薄なった陽平関を張郃夏侯淵に落とされた。
挟撃されて退路を断たれ、奮戦及ばず張郃に討ち取られる。
楊秋(ヨウシュウ)
?−?
韓遂の配下。馬超韓遂とともに曹操を攻める。
離間の計により馬超との決裂が不可避になると、馬超を見限って曹操に降るよう進言した。
馬超の敗退後、曹操の配下となり、列侯に封じられる。
楊松(ヨウシュウ)
?−215
張魯配下の臣。楊柏の兄。
劉備馬超と戦った際、利に釣られて張魯馬超の仲を裂き、馬超劉備の下へ降らせた。
曹操の漢中進軍の際には、やはり賈詡の策で用意された金銭に目がくらみ、龐徳を曹操に寝返らせ、張魯を降伏に追い込んだ。
のち主君を売った者として曹操に処断された。
楊任(ヨウジン)
?−215
張魯配下の将。陽平関を守り、漢中を目指す曹操を迎撃した。
同僚の楊昴曹操の策にかかって出撃すると、その間に奇襲を受け総崩れとなる。
陽平関を捨てて逃げ帰り、怒った張魯に敗戦の責任を追及される。
再出撃の際には必ず劣勢を巻き返すことを約して許されたが、夏侯淵と一騎討ちの末、討たれた。
楊祚(ヨウソ)
?−?
魏の将。魏に対し反旗を翻した公孫淵の配下。公孫淵軍の先鋒となって司馬懿による討伐軍の行く手を阻もうとする。
司馬懿はこれを無視して本拠の襄平に直接向かったため、卑衍らと軍を返して背後を突こうとしたが伏兵の夏侯覇夏侯威に敗れ、襄平に逃げ込んで籠城した。
楊定(ヨウテイ)
?−?
字は整脩。
もと董卓の配下。董卓の死後、王允に降ったが、李傕が長安に迫ると、王允を裏切り、李傕と争ったが、敗れて荊州へ逃走した。
楊伯(ヨウハク)
?−214
張魯配下の将。楊松の弟。
曹操に敗れた馬超張魯を頼ったとき、張魯が娘を馬超に嫁入りさせようとするのを阻止し、馬超と反目する。
劉璋への援軍として馬超劉備との戦いに臨むと目付として同行。魏延と打ち合い敗れた。
その後、劉備軍への帰属を決めた馬超に呼び出され斬り殺された。正史では楊白の名で登場する。
楊彪(ヨウヒョウ)
142−225
字は文先。
後漢の臣。楊脩の父。妻は袁術の血縁とされる。小帝・献帝に側近として仕えた。董卓にも重用されるが、長安への遷都に反対して免職・
董卓の死後、朝臣に復帰し、李傕を滅ぼすために力を借りようと、曹操の元から追放され、野に下る。
楊奉(ヨウホウ)
?−197
もと李傕の配下。反乱するが失敗して逃亡し、献帝の護衛に加わる。曹操と敵対して敗れると袁術を頼った。
その後、呂布に寝返り、袁術軍を破った。略奪を働いたため、劉備の命により関羽張飛に討ち取られる。
楊鋒(ヨウホウ)
?−?
南中の銀治洞の洞主。
孟獲が蜀の諸葛亮に敗れ、朶思大王を頼って禿竜洞に逃げ込むと、五人の息子を率いて孟獲への援軍として現れる。
孟獲に歓迎されたが、すでに諸葛亮と内通しており、孟獲朶思大王らを捕らえて諸葛亮の元へと送り届けた。
諸葛亮から褒美を受け取ると、領地に帰った。 
雷叙(ライジョ)
?−?
張繍の配下。張繍は荊州の劉表と協力して曹操に対抗。自ら軍勢を率いて攻め寄せてきた曹操と衝突する。
張先とともに先鋒を命じられて迎撃に出るが、同僚の張先が討死すると、総崩れとなり、敗れた。
雷薄(ライハク)
?−?
袁術配下の将。劉備討伐のため出陣するが、裏切った呂布と戦うことになり大敗した。
帝位に就いて贅沢を極める袁術を見切り、陳蘭とともに山賊となる。
のち敗走する袁術軍を襲撃して金品を強奪した。
李傕(リカク)
?−198
字は稚然。
董卓配下の将。董卓死後、らと王允を殺し献帝を擁して政権を握る。
のちとも争う羽目になり、献帝が曹操のもとへ逃れると自滅の道をたどった。
李楽(リガク)
?−?
黄巾賊の残党。
董卓死後の混乱の中、献帝は長安から逃走したが李傕に追われる。
献帝を救うため、董承楊奉の要請に応じて出陣し、李傕と戦った。
征北将軍に任ぜられるが私利に走り、李傕に寝返ったため、楊奉配下の徐晃に討ち取られる。
李堪(リカン)
?−211
韓遂配下の八部将の1人。馬超と連合して長安を落としたが、賈詡の離間の計にかかった馬超韓遂と対立した隙を曹操軍に突かれて大敗。
逃走中、馬超を狙った于禁の矢が当たり、落馬して死亡した。
李儒(リジュ)
?−?
董卓配下の謀臣。董卓の娘婿。数多くの策を進言し、悪政をもたらした。
貂蝉らの「連環の計」を見抜くが諌めきれず、董卓の暗殺後に同罪として処刑された。
李粛(リシュク)
?−192
董卓配下の臣。赤兎馬を手土産に呂布を説得し、董卓に寝返らせて義父・丁原を殺させた。
のち王允董卓暗殺計画に参加し董卓を宮中に誘い出す。
その後、呂布の配下として戦うが、敵の夜襲に敗走し、呂布の怒りに触れて殺された。
李篠(リジョウ)
?−?
東莱を本拠にする賊の将。
青州兵を吸収して急激に勢力を増強した曹操軍に討たれた。
李豊(リホウ)
?−197
袁術配下の将。袁術呂布討伐に付き従うが、呂布を前に袁術が逃亡したため代わって一騎討ちをするも、呂布の方天画戟で利き腕を傷つけられ敗走した。
のちに曹操が寿春に攻め寄せた際にも袁術は先に逃亡したが、梁剛楽就陳紀と寿春の落城まで戦い続ける。
敗戦後、四人まとめて曹操に捕縛され、死罪となった。
李蒙(リモウ)
?−192
董卓配下の将。董卓死後、王方とともに長安の城門を開き、賊の入城を助けた。
のち、賊を討つべく攻め上がってきた馬超に捕らえられ殺された。
劉焉(リュウエン)
?−194
幽州の太守・漢の魯の恭王の末孫。劉璋の父。
黄巾賊の侵攻を受けた際、配下の鄒靖の意見に従い、義兵募集の高札を出す。
これに応じて参じた劉備の家系を見て喜び、彼を義理の甥とした。
その後、劉備と鄒靖に程遠志を討たせ、賊に囲まれた青州を救いに向かわせた。
正史によると字は君郎。劉備と会った記述はない。
柳遠(リュウエン)
?−?
遼東太守・公孫淵の配下。公孫淵は当初、呉と組むつもりでいたが、手の裏を返して呉からの使者・張弥らを殺害した。
その際、使者の護衛をしていた呉の将・賀達と虞咨を謀殺する。
同僚の韓起と協力し、船中にいる従者や商人らもことごとく殺害し金品を奪った。
劉璝(リュウカイ)
?−214
劉璋配下の将。成都に侵攻しようとする劉備軍に立ち向かうが、攻め込まれる。
城を固め抵抗しようとするも、味方の張翼に斬られ、開城されてしまった。
劉g(リュウキ)
?−209
劉表の長男。弟・劉jを後継者にしようとする義母・蔡夫人に命を狙われるが、諸葛亮の助言に従って江夏の守備に就き、難を逃れた。
赤壁の戦い後、荊州の刺史となる。
劉勲(リュウクン)
?−?
字は子台。
盧江の太守。劉繇を破って呉郡を切り従えた孫策は、盧江に矛先を向けた。
孫策に勧められて出陣した劉勲は、その隙に盧江郡を奪われてしまい、やむなく北へと逃れる。
のち江東は孫策によって平定された。
劉ラ(リュウシュン)
?−214
劉璋の配下。劉備が成都へ迫りつつある中、李厳らの寝返りで綿竹城が劉備の手中に落ちると馬漢とともに綿竹を攻めて奪還しようとした。
趙雲に歯が立たず、斬られた。
劉循(リュウジュン)
?−?
劉璋の長男。劉備軍が成都に攻め寄せたとき父・劉璋に願い出て迎撃に向かい、敗れた。
正史では、一年にわたり劉備軍本隊の攻撃を防いだという。
劉璋(リュウショウ)
?−219
字は季王。
後漢の益州牧。劉焉の子。張魯の侵攻に備えるべく、荊州の劉備を迎え入れる。
しかし有能な君主を求める家臣の手引きにより劉備軍の成都侵攻を許し、戦力を残しながらも降伏した。
劉度(リュウド)
?−?
零陵の太守。劉備の軍勢が迫ると、子の劉賢邢道栄に歓迎させた。
だが、邢道栄趙雲に討たれ、劉賢張飛に生け捕られる。戦後、解放された劉賢の言に従い、降伏。
諸葛亮の計らいにより、そのまま太守としてとどまった。
劉表(リュウヒョウ)
142−208
字は景升。
荊州の刺史。名士の代名詞「江夏の八俊」の1人。中原の混乱をよそに、荊州を安定に導いた。
優柔不断な性格から大陸統一の好機をたびたび見過ごす。
劉豹(リュウヒョウ)
?−?
匈奴単于於夫羅の子。西晋を滅ぼした劉淵の父。演義では匈奴の「左賢王」として登場する。
これは単于に次ぐ地位で、於夫羅の弟・呼廚泉単于を補佐した。袁紹の甥・高幹が頼って来た際、曹操を恐れて追い返した。
李傕の乱時にさらってきた蔡文姫を側室とし、2子をもうけたが、曹操から身柄返還を要求されると素直に従った。
柳甫(リュウホ)
?−238
遼東の公孫淵の配下。公孫淵の独立を非難する詔勅を魏が奉じると郭マら他の幕僚とともに詔勅に抗議する上奏文を書いた。
やがて魏軍が襄平を包囲すると王建とともに降伏申し入れの軍使となったが、公孫淵自身が出てこないことに怒った司馬懿に斬られた。
劉繇(リュウヨウ)
154−195
字は正礼。
揚州の刺史。同郷の勇将・太史慈を配下にするものの使いこなせなかった。
孫策に攻められて敗北し、豫章へと落ち延びた。
呂威曠(リョイコウ)
?−200
袁紹配下の将。官渡の戦いで兵糧基地の烏巣を守備する。しかし、許攸が裏切って曹操に兵糧庫の在処を教え、
守将の淳于瓊も酒に酔って守りを手薄にしていたことから、曹操に兵糧庫を焼き討ちされた。
梁剛(リョウコウ)
?−197
袁術配下の将。袁術呂布と戦った際、督戦官として連絡役を務めるが敗れた。
さらに袁術曹操に敗れて逃げ出し、寿春を守備していた梁剛は生け捕りにされ処刑された。
正史では梁網の名で登場する。
梁興(リョウコウ)
?−?
韓遂の配下。馬騰の死後、馬超の軍勢に協力して、長安の攻略に加わる。
曹操軍の賈詡の計略で馬超韓遂を疑い始めると、曹操への降伏を進言したが、激怒して乱入してきた馬超に斬り伏せられた。
呂曠(リョコウ)
?−207
袁尚配下の将。呂翔の兄。曹操に攻められると袁尚の兄・袁譚を通じて曹操に降る。
その後、呂翔とともに新野の劉備を攻撃するが、趙雲に突き殺された。
呂公(リョコウ)
?−192
劉表配下の将。孫堅蒯良の計略にかかり追撃してきたため、伏兵を仕掛け孫堅を討ち取る。
戦意喪失して撤退する孫策らを独断で背後から追い立てたが、孫策を護衛していた呉の将・程普に阻まれ、矛で一突きにされた。
呂翔(リョショウ)
?−207
袁尚配下の将。呂曠の弟。曹操に攻められたとき、袁尚の兄・袁譚を通じて曹操に降る。
のち兄とともに新野の劉備を攻撃するが、張飛に一合で倒された。
呂布(リョフ)
?−198
字は奉先。
武芸を極め弓馬に優れた猛将。「人中の呂布、馬中の赤兎」と称される。
一日に千里を走るという赤兎馬を駆って、得物の方天画戟を振るった。
義父の丁原を斬って董卓配下となるが、その董卓をも裏切った。
呂由(リョユウ)
?−?
陶謙配下の将。曹操が徐州に侵攻した際、これを迎撃すべく一軍を率いる。
曹仁軍と交戦するも、大敗を喫した。
倫直(リンチョク)
?−237
遼東太守・公孫淵の参軍。公孫淵を諫め、反乱を止めようとする。
「領内で不吉な兆しばかりが見えるから、今反乱を起こしてはいけない」と説いたが、怒りを買って斬られた。
反乱の鎮圧後、司馬懿はその一族を取り立て、爵位を与えた。
冷苞(レイホウ)
?−213
劉璋配下の将。ケ賢と共同して劉備軍の黄忠魏延と戦う。
一度は捕らえられるが、投降するふりをして逃げたため、再び捕らえられたときに処刑された。




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