真・三國無双6攻略 合戦辞典 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

HOME真・三國無双6攻略TOP > 合戦辞典

合戦辞典

真・三國無双6攻略 合戦辞典を掲載しています。

目次

黄巾の乱(コウキンノラン)
太平道教祖・張角は治病により信徒を増やし、184年、各地で一斉蜂起させた。
目印に黄巾を身につけたため「黄巾賊」と呼ばれた。
盧植・皇甫嵩朱儁ら宦官の活躍により反乱の勢いは次第に衰え、張角が病死するに至ってほぼ鎮圧された。
しかし、その後も黄巾残党は各地で略奪など繰り返し、後漢滅亡の大きな要因となった。
涼州討伐(リョウシュウトウバツ)
黄巾の乱の後、涼州で辺章韓遂が反乱を起こす。董卓が鎮圧に向かうが、戦果は上がらなかった。
185年、朝廷は司空の張温辺章討伐を命じる。 長安に進んだ張温は、董卓の不手際を咎めたが、改まらなかった。
従軍していた孫堅董卓の処断を進言するが張温は却下する。一方、辺章軍は張温軍の到来を聞くと、戦わずに降伏した。
凶星の乱(オウセイノラン)
宦官・十常侍が朝廷の実権を握ると、統治は形骸化し、各地で乱が多発した。
荊州南部の長沙では区星が挙兵。朝廷に対して大規模な反乱を起こす。
十常侍は帝の詔と偽って、孫堅を長沙太守に任命し、区星の討伐に向かわせた。
孫堅は50日も経たないうちに、勝報を朝廷に届ける。朝廷はその功を称え、孫堅を烏程候に封じた。
董卓の罠(トウタクノワナ)
董卓の暴政は、少帝を廃した後も続いた。曹操は、司徒・王允から七宝刀を借り、董卓暗殺を企てる。
曹操は日頃の寵愛を利用し、董卓に接近。董卓が背中を見せた隙に斬ろうとするが、董卓に気づかれたため、断念。
宝刀を献上し都から脱出した。逃げ切った曹操は、董卓打倒の檄を飛ばす。これが反董卓連合の結成へとつながった。
反董卓連合(ハントウタクレンゴウ)
水関で華雄を討ち取り、勢いに乗る反董卓連合軍は虎牢関へと進軍するが、関前には呂布が待ち構える。
張飛が挑みかかり奮戦するも勝負はつかず、関羽が加勢して挟撃、さらに劉備も加わって攻め立てた。
呂布は3人を相手に戦うが、分が悪いと見て虎牢関へと戻った。
この戦いで連合軍の勢いを見た董卓は長安に遷都する決意を固めた。
荊州の戦い(ケイシュウノタタカイ)
孫堅董卓討伐の際に帰路を遮った劉表に報復すべく、荊州へ出陣。樊城で黄祖を撃破し、襄陽城を包囲した。
包囲の最中、孫堅は、城外へ出てきた呂公を追うが、山地で伏兵に囲まれ、矢を受けて戦死する。
この機に劉表軍は攻勢に転じ、大乱戦となった。戦後、孫策は捕縛した黄祖と引き換えに孫堅の棺を奪還し、江東に戻った。
兗州の戦い(エンシュウノタタカイ)
董卓死後、各地で黄巾党が息を吹き返す。
朝廷は青州で暴れる黄巾党に手を焼き、東郡の太守となっていた曹操に討伐の勅命を下した。
曹操鮑信とともに青州へ出陣。鮑信は討死するが曹髦は黄巾党を撃破し、三十万余りの兵を降参させる。
降将らの中から「青州兵」と呼ばれる精鋭を選抜、他の兵はことごとく帰農させた。
徐州の戦い(ジョシュウノタタカイ)
兗州一帯を制した曹操は、徐州の牧・陶謙の配下に父を殺害される。
激怒した曹操は「報讐雪恨」の旗を掲げ、徐州に侵攻。陶謙は北海の孔融に救援を頼んだ。
ちょうどその頃、孔融のもとにいた劉備は、徐州の惨状を聞き、陶謙への援軍を志願。
曹操を撃退すべく徐州に向かうが曹操は留守中の兗州を呂布に襲撃され、退却した。
呉郡の戦い(ゴグンノタタカイ)
孫堅の戦死後、袁術のもとにいた孫策は江東で旗揚げを決意。玉璽を質に兵を借り出陣する。
孫策のもとには程普黄蓋ら宿将、親友の周瑜、江東の二張らが集い怒涛の勢いで長江を渡った。
曲阿に劉繇を破り、太史慈を説得して昧方に加えると、呉郡の厳白虎、会稽の王朗と連戦連勝する。
江東の肥沃な大地を手中にし、呉の礎を築いた。
宛城の戦い(エンジョウノタタカイ)
曹操に降伏した張繍は、曹操を宛城に招き、宴でもてなした。慢心した曹操は、張繍の叔父の妻・鄒氏との遊蕩に及ぶ。
曹操の油断に乗じて張繍賈詡と謀り、護衛役・典韋の戟を盗んだ上で曹操を急襲した。
典韋は奮戦するも討死。曹操は辛くも逃げ延びて夏侯惇らと合流、追撃してきた張繍を聲破する。
張繍劉表のもとへ落ち延びた。
寿春の戦い(ジュシュンノタタカイ)
帝を自称した袁術は、食糧に困窮し、陳留一帯で略奪を働いて民衆を苦しめた。これを聞いた曹操は、南征を敢行。
陸からは劉備呂布、川からは孫策の船団が駆けつけ、包囲された袁術は寿春城に十万の兵を残して逃走する。
曹操ら連合軍も兵糧難に陥り苦戦するが、曹操自ら陣頭に立ち、寿春城を攻略。袁術が造った宮殿を焼き払った。
下邳の戦い(カヒノタタカイ)
呂布は徐州を本拠とし、曹操劉備と争っていたが、曹操に内通する陳珪陳登父子の工作により小沛を失う。
下邳に籠もった呂布は、陳宮の忠告も聞かず酒色におぼれたかと思うと、
一転城内に禁酒令を出すなど配下の信用を失い、侯成魏続宋憲の裏切りにより捕らえられた。
呂布曹操に命乞いをするが、劉備の忠告により処刑された。
許昌急襲(キョトキュウシュウ)
河北を制した袁紹は、曹操打倒のため南下を開始した。兵力に劣る曹操は官渡城に龍り、袁紹軍とにらみ合いとなる。
江東を収めた孫策は、曹操軍の主力が不在の隙をついて許都への侵攻を計画する。
しかし、その矢先孫策が殺害した呉郡太守・許貢の残党に襲撃され重傷を負う。
死に際し、弟の孫権を後継とし張昭周瑜に補佐を頼んだ。
官渡の戦い(カントノタタカイ)
白馬・延津での勝利後、曹操袁紹軍と官渡で対峙した。
曹操軍の兵糧不足を知った許攸は、許都急襲を袁紹に献策したが容れられず、曹操のもとに奔る。
曹操許攸の策に従い烏巣を奇襲し、袁紹軍の兵糧を焼き払った。
袁紹張郃高覧曹操本陣を襲わせるが敗北、張郃らは袁紹を見限り投降する。曹操軍は袁紹本陣を破り、大勝した。
新野の戦い(シンヤノタタカイ)
樊城を守る曹仁は、新野の劉備に配下を討たれて激怒。大軍を率いて、新野に押し寄せた。
劉備軍は徐庶扮する単福の助言を受けて曹仁を迎撃。単福は曹仁が敷いた八門金鎖の陣を破り、夜襲も見抜いた。
完敗した曹仁は樊城に逃げ戻るが、樊城も単福の指示を受けた関羽の軍勢にすでに占拠されている。
曹仁は仕方なく許昌に落ち延びた。
夏口の戦い(カコウノタタカイ)
孫権呂蒙の仲介により、黄祖に疎まれ、江東に身を寄せていた甘寧を得た。
孫権は、この機に乗じて、父の仇・黄祖を討つベく、十万の兵を率いて出陣。
甘寧呂蒙の活躍により、夏口で黄祖軍を撃破する。敗れた黄祖は荊州に逃げようとするが、
甘寧の矢を背中に受け、討死。孫権は、黄祖の首を孫堅の霊前に供えた。
長坂の戦い(チョウハンノタタカイ)
曹操の荊州侵攻に、劉備は江陵へ逃れるが、領民を従える劉備の行軍は遅く、長坂で追いつかれる。
乱戦の中、行方知れずとなった幼主・阿斗を保護した趙雲は、単騎で曹操軍の重囲を突破。
一方、橋の上には張飛が一人、曹軍百万を睨みつける。諸葛亮の計略を用心し近づかぬ曹操軍に張飛が大喝。
雷の如き大音声に、曹操軍は敗走した。
赤壁の戦い(セキヘキノタタカイ)
曹操との決戦に備え、周瑜は火計の準備を整えたが、風向きに悩まされていた。
周瑜の心中を察した諸葛亮は、七星壇を築き東南風を起こす。
風を得た周瑜は出陣を下知、黄蓋が火船を突入させると曹操の船団は瞬く間に炎に包まれた。
敗走する曹操は、伏兵に蹴散らされ、もはやこれまでというところを関羽に見逃されようやく落ち延びた。
南郡の戦い(ナングンノタタカイ)
周瑜は、赤壁勝利後に反撃に転じ、北進して曹仁の守る南郡に侵攻。戦を優位に進めるが、曹仁の策にはまり負傷する。
そこで周瑜は、傷を逆手に取り、自身の死を装った。曹仁周瑜の死を確信して南郡から打って出るも逆襲され、襄陽に逃走。
周瑜はすくに南郡に押し寄せたが南郡はすでに諸葛亮の命を受けた趙雲に占領された後だった。
潼関の戦い(ドウカンノタタカイ)
西涼の馬超は父・馬騰曹操に殺され、韓遂と挙兵して長安と潼関を落とす。
曹操は自ら遠征するが、馬超の進撃は止められなかった。曹操許褚らの尽力により潼関の後方に渡河。
西涼軍を挟撃し、徐々に追い詰める。やがて、曹操賈詡の策を入れ、離間の計を実行。
馬超韓遂を決裂させ、西涼軍を破った。馬超は隴西に逃げ延びる。
雒城の戦い(ラクジョウノタタカイ)
成都攻略を決意した劉備は雒城へ進軍する。
劉備は軍師・龐統と二手に分かれて城へ迫るが、龐統張任に討たれ、劉備も涪水関に孤立。
荊州にいた諸葛亮は急報に接するや趙雲を連れて劉備救援に出陣、別働隊の張飛に続いて、雒城付近で劉備との合流を果たす。
その後、張任諸葛亮により捕縛され、処断。雒城は開城した。
成都の戦い(セイトノタタカイ)
劉璋は、劉備の進軍を阻むため張魯に救援を要請。漢中に身を寄せていた馬超が派遣された。
馬超は葭萌関に進み、張飛と死闘を演じる。その武勇を惜しんだ諸葛亮は、根回しして馬超を孤立させ、李恢を派這。
馬超李恢の説得に応じて投降する。援軍どころか成都を圧する勢いの馬超を見て、劉璋は降伏を決意。成都を明け渡した。
陽平関の戦い(ヨウヘイカンノタタカイ)
劉備の益州平定後、曹操は南西に進軍する。五斗米道の教祖・張魯の治める漢中を攻めた。
張魯軍は陽平関で善戦を見せるも敗北。追い詰められて巴中に撤退する。
その際に、張魯は漢中の兵糧庫は国家のもの、として焼き払わずに施錠した。
のちに張魯曹操に降伏。兵糧庫を施錠した志を称され、鎮南将軍に封じられた。
合肥の戦い(ガッピノタタカイ)
孫権は大軍を率い合肥へ出陣。張遼らは策を定め、楽進が呉の先鋒・甘寧らを誘き寄せ、張遼李典孫権本隊を奇襲した。
孫権は、張遼の猛攻を凌統が防いでいる間に退却しようとするが橋が落とされている。
そこで馬に鞭打って川を飛び越え、窮地を脱した。この戦いで張遼の勇名は江南に轟き、張遼の名を聞くと泣く子も黙ると言われた。
定軍山の戦い(テイグンザンノタタカイ)
天蕩山で張郃を破った蜀の将・黄忠は、魏の名将・夏侯淵と対峙した。
黄忠法正の献策により定軍山より高い山上に布陣。夏侯淵は山を奪わんと攻めかけるが、黄忠は動かない。
やがて魏軍に疲れが見えると法正の合図で黄忠の軍勢が一気に山を駆け下る。
猛烈な勢いで突撃した黄忠は、浮き足立つ魏軍を破りついには夏侯淵を討ち取った。
樊城の戦い(ハンジョウノタタカイ)
劉備の漢中平定後、関羽は北上を開始。樊城に曹仁を包囲し、許都に攻め上る勢いを見せた。
曹操と結んだ孫権は、呂蒙を出陣させる。呂蒙傅士仁糜芳を寝返らせ荊州を征圧。
一転して南北から挟撃される形となった関羽は、樊城をあきらめ麦城に籠もった。
呉の大軍に囲まれた関羽は、益州へと逃亡を図るが捕らえられ、孫権に斬られた。
夷陵の戦い(イリョウノタタカイ)
関羽を討たれ復讐に燃える劉備に、呉軍は敗戦を重ねていた。
孫権に抜擢されて大都督となった陸遜は、守備に徹した。
敵が怖気づいたと見た劉備は、炎天を避け長江沿いに七百里に渡り陣を張る。
これを見た陸遜は、夜を待って蜀の陣地に火を放つと猛烈に攻め立てた。
大混乱に陥り、兵の大半を失った劉備は白帝城へと敗走した。
洞口の戦い(ドウコウノタタカイ)
天下統一を目論む曹丕は、曹休を洞口、曹真を南郡、曹仁を濡須へ派這し、三方面から呉を攻略しようとする。
だが、呉の軍勢は夷陵の戦いに勝利し、意気衝天にして万全の備え。
洞口を守る呂範も、徐盛孫詔らを指揮し、水軍を動員して曹休軍を食い止める。
曹真曹仁も敗れるに至って、曹丕は挙兵の過ちを悟り、洛陽に帰還した。
天水の戦い(テンスイノタタカイ)
南中を制した諸葛亮は、満を持して魏討伐を敢行。
勢いに乗る蜀軍は魏の大都督・夏侯楙を捕縛し、南安、安定を落とすが、天水を守る麒巖児・姜維に手を焼く。
諸葛亮姜維を天水から引き離すと、夏侯楙を天水に逃がし、偽の姜維に天水を攻めさせた。
謀反を疑われた姜維は蜀に投降。その後、姜維の献策により、天水は陥落する。
五丈原の戦い(ゴジョウゲンノタタカイ)
諸葛亮は魏と雌雄を決すべく、五丈原に司馬懿と対峙した。
死期が近いことを悟った諸葛亮は兵法をすべて姜維に託し、楊儀に退却の策を授けて世を去る。
諸葛亮の死を知った司馬懿は蜀軍を追撃。退却中の蜀軍が突如向き直ると、そこには諸葛亮の姿があった。
実は木像だったが、仰天して司馬懿が退いたため、蜀軍は無事に退却できた。
公孫淵の乱(コウソンエンノラン)
司馬懿は、魏に背き燕王を自称した公孫淵を討伐すべく、遼東に向かった。
公孫淵が本拠・襄平から出てきたのを見計らい、司馬懿は襄平に別働隊を派遣。
公孫淵は慌てて引き返すが、伏兵に遭い大打撃を受ける。
のち襄平城に籠もった公孫淵は、降伏を拒否されたため、夜間に城を脱出。
待ち受けていた司馬懿に捕縛され、処断された。
蜀討伐戦(ショクトウバツセン)
魏帝・曹叡死後、専横を極めた大将軍・曹爽はさらなる権勢を得るため、蜀討伐を断行。
十万の兵で漢中に侵攻するが、蜀の王平の守勢を崩せなかった。
曹爽は撤退を決意するが、蜀の費禕に退路を塞がれ、命からがら逃げ帰る。
この戦で魏軍に物資を輸送するための牛馬が多く失われ、牛馬を提供した羌族は魏に恨みを抱くことになる。
正始の変(セイシノヘン)
大権を握った曹爽何晏ケ颺ら腹心たちと遊興にふける日々を過ごしていた。
そんな中、曹爽は、隠居した政敵・司馬懿の動向を李勝に探らせる。司馬懿は老いたふりをして曹爽を油断させた。
曹爽が帝や腹心を連れて巻狩りに出ると、司馬懿は大軍を率いて宮中を占拠。
驚いた曹爽は兵権を放棄し、降伏するが、腹心とともに処断された。
蜀撃退戦(ショクゲキタイセン)
夏侯覇を得た姜維は、魏領へ侵攻。雍州刺史・郭淮がこれを迎え撃った。
姜維は前線に城塞を築き、敵が城塞を攻める間に、牛頭山から雍州城を奪おうとする。
だが、郭淮の将・陳泰に読まれ、牛頭山で急襲を受けた。姜維は陽平関に撤退。
道中、洛陽から駆けつけた司馬師の追撃を受けるが、諸葛亮考案の連弩の法を用い、撃退した。
王淩の乱(オウリョウノラン)
准南の軍権を握る王淩は幼い曹芳より、年長の曹彪の方が帝にふさわしいと考えていた。
兗州刺史・黄華は、王淩から曹芳廃位の相談を受けたが、司馬懿に密告する。
司馬懿王淩討伐に向かうと、王淩は戦わすに降伏した後、自害。曹彪も死罪となった。
郭淮の妻は王淩の妹だったが、郭淮は文書で司馬懿に助命を嘆願し、許された。
東興の戦い(トウコウノタタカイ)
孫権の死後、司馬師は呉討伐を決意。司馬昭を大都督とし、三方面から侵攻させた。
うち一隊を率いる胡遵は、浮橋を作って渡河し、要衝・東興の二城を囲む。対する呉の丁奉胡遵陣営を寡兵で急襲した。
虚を突かれた魏軍は逃げ惑うが、浮橋が壊されて退路を失い、多くの兵が溺死。
この報を聞いた司馬昭は全方面の作戦を中止した。
合肥新城の戦い(ゴウヒシンジョウノタタカイ)
呉軍は、東興で魏軍を破って勢いに乗り、合肥新城へと迫る。諸葛恪の攻撃は数カ月に及んだが、城は落ちなかった。
城将・張特は降伏すると見せかけて、城壁を補修し、諸葛恪を挑発。
怒った諸葛恪は陣頭に立って攻め込むが、城兵の矢に当たり負傷する。
諸葛恪の傷はじきに癒えたが、疫病が蔓延して味方は戦意を喪失。呉軍は退却した。
第二次蜀撃退戦(ダイニジショクゲキタイセン)
蜀の姜維は、呉の諸葛恪の要請を受け、羌族と連携して魏の南安に侵攻。
司馬昭徐質がこれを迎撃した。姜維は策を用いて徐質を討ち、司馬昭を鉄籠山に追い詰める。
司馬昭の危機を聞いた郭准羌族を降伏させ、蜀軍への急先鋒に転じさせた。蜀軍は混乱に陥り退却。
すかさず郭准姜維を追撃するが、姜維に矢で射抜かれ、絶命した。
司馬師襲撃(シバシシュウゲキ)
魏帝・曹芳は、日増しに権力を強める司馬師司馬昭を恐れていた。
曹芳は、側近の夏侯玄李豊張緝に司馬兄弟討伐の詔を授ける。
司馬師は間諜から情報を得て三人を厳しく尋問、三人同様に泣き腫らす様子を追求して自白に追い込んだ。
夏侯玄らと張緝の娘、張皇后は処断。曹芳は廃され、曹丕の孫・曹髦が帝に立てられた。
毋丘倹・文欽の乱(カンキュウケン・ブンキンノラン)
曹芳を廃した司馬師に対し、准南の毋丘倹文欽が反乱を起こす。
司馬師は目の上の瘤を治療した直後だったが、自ら出陣。
文欽の子・文鴦の奇襲を受け、傷の悪化に苦しみつつも、文欽軍を撃退する。
その後、諸葛誕が寿春を奪ったため、残すは毋丘倹が守る項城のみとなる。
窮地に陥った毋丘倹は城を捨てたが、逃亡先で殺された。
第三次蜀撃退戦(ダイサンジショクゲキタイセン)
司馬師の死後、蜀の姜維は五万の兵を率いて洮水に進軍。これに対し、雍州刺史の王経は七万の兵で迎え撃った。
姜維は洮水を渡って背水の陣を敷き、王経の大軍を撃破。王経は多くの兵を失って狄道城に逃げ込む。
姜維は、ケ艾陳泰王経の救援に来ると聞き、迎撃しようとするが、ケ艾が配した偽の伏兵に意表を突かれ、撤退した。
第四次蜀撃退戦(ダイヨジショクゲキタイセン)
洮水で大勝を得た姜維は、深く魏領に侵攻した。
姜維は守りの固い山を避け、南安を攻略しようと迂回するが、地形を熟知したケ艾に先回りされて敗北。
その後も、姜維は段谷を経て南安の兵糧陣地を狙うが、再びケ艾に読まれ、大敗を喫した。
姜維は命からがら包囲を突破し、漢中に帰還。張嶷ら多くの将兵を失った。
諸葛誕の乱(ショカツタンノラン)
准南の諸葛誕司馬昭の専横を糾弾し、挙兵。呉に人質を送り援軍を求めた。
司馬昭曹髦を連れ、准南に遠征。呉軍を撃破した後、諸葛誕の龍もる寿春城を包囲する。
城には呉の兵もいたため、兵糧が不足し、投降者が相次いだ。
やがて、城内の士気低下を見た司馬昭は力攻めを敢行。諸葛誕は迎撃に出るが、魏の胡奮に討たれた。
皇帝蜂起(コウテイホウキ)
魏帝・曹髦王経王業王沈に、簒奪の野心あらわな司馬昭の討伐を持ちかけた。
王経は無謀と諌めるが、曹髦は宮中で挙兵。
司馬昭王業王沈の密告に即応、側近・賈充に禁裏を包囲させる。
乱戦の中、曹髦成済に殺害され、王経も処断された。
事件の責任は成済がすベて負わされて族滅され、司馬一族は追及から逃れた。
成都攻略戦(セイトコウリャクセン)
蜀討伐を決意した司馬昭は、ケ艾を沓中に、鍾会を漢中に派遣した。鍾会は陽平関を破り、漢中を制圧。
沓中にあった姜維は漢中陥落の報を聞くと剣閣に退く。
姜維鍾会が剣閣で対峙する中、ケ艾は剣閣の背後・陰平の裏道を抜けて綿竹に侵攻。
諸葛瞻父子を破り、成都に迫る。劉禅は重臣の進言を聞き入れ、戦わずに降伏、蜀は滅亡した。




トップページ | サイトについて/お問い合わせはこちら
当サイトは個人で運営されています。
各企業様、メーカー様とは一切関係がございません。
Copyright 2013-2023 kanzengenkai.com All Rights Reserved