戦国無双4-II攻略 武将列伝 無双武将 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

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武将列伝 無双武将

戦国無双4-II攻略 武将列伝 無双武将を掲載しています。
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目次

真田幸村
さなだ ゆきむら
1567-1615
大坂の陣で活躍した知勇兼備の将。
関ヶ原の戦いの時、上田城で父・昌幸とともに徳川秀忠の大軍を撃破。
しかし徳川軍主力が主戦場・関ヶ原で勝利したことで紀州・九度山に幽閉される。
徳川幕府が豊臣家討伐を決めると、九度山を脱出、大坂城に入る。
夏の陣では、徳川本陣に特攻。家康をあと一歩まで追いつめる。
この奮戦が幸村の名を後世に輝かせた。「真田日本一の兵」と。
前田慶次
まえだ けいじ
1533-1612
戦国一の傾奇者。天下人であった秀吉にそっぽを向いて拝礼するなどの奇行で知られる。
武芸の達人で和歌や茶道にも精通していた。
前田家当主・利久の養子となるが、家督は織田信長の命で、叔父・利家が継いだ。
後に利家をだまして水風呂に入れ出奔。京で出会った上杉の将・直江兼続に惚れ、長谷堂の戦いに参加。
退却時には殿軍を務め、愛馬・松風を駆り敵陣に突入。敵を散々に蹴散らした。
織田信長
おだ のぶなが
1534-1582
乱世を打ち砕かんとした、戦国最大の英傑。
もとは尾張の小大名であったが、隣国今川の大軍を桶狭間に破って頭角をあらわす。
以来、有力大名を次々に撃破し中国地方から関東まで、日本の大半を制した。
鉄砲の大量使用、兵糧分離、自由経済の推進と交通綱の整備など、革新的な策で近世への道を切り開いた。
だが、天下を目前にして、腹心の明智光秀の謀叛により、京・本能寺に攻め滅ぼされた。
明智光秀
あけち みつひで
1528-1582
織田家臣。文武に優れた将。元は牢人で織田信長に才を認められて登用される。
以来多くの戦功を立て昇進を重ね、信長の天下布武に多大な貢献をした。
信長の信頼厚く、丹羽を平定した際「天下に面目をほどこし候」と働きを絶賛された。
しかし1582年、突如謀反。本能寺に信長を討つ。
その11日後、毛利討伐から戻った羽柴秀吉の軍と山崎で決戦。敗れた光秀は逃亡中に落命した。
石川五右衛門
いしかわ ごえもん
不明-1594
伝説の盗賊。百地丹羽の下で伊賀忍術を学んだが、抜け忍びとなって大仏餅屋を拠点に京の都を荒らし回った。
権力者中心に盗んだため、折からの豊臣秀吉の圧政に反感を持つ民衆から義賊として人気を得た。
豊臣秀次家臣の依頼で秀吉暗殺を謀るが、千鳥の香炉が鳴き出し失敗。
捕らえられ三条河原で釜煎りにされて処刑された。
辞世「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」は有名。
上杉謙信
うえすぎ けんしん
1530-1578
越後の戦国大名。自ら毘沙門天の化身と名乗り、その采配は戦国最強と評された。
関東管領になって後は各地武将の要請で、信濃・関東へ出陣。武田信玄、北条氏康ら強敵と戦った。
1577年には能登越中に進出。手取川にて織田軍を撃破する。追撃を試みるが出陣直前に急死した。
義を重んじ酒と漢詩を愛し、生涯妻を持たなかった謙信は乱世にあって領士的野心を持たない稀有な将だった。
お市
おいち
1547-1583
絶世の美女と伝わる織田信長の実妹。近江の大名・浅井長政に嫁ぎ一男三女をもうける。
しかし、浅井家と織田家は敵対関係となり、1573年、本拠・小谷城を兄・信長に攻められて、夫・長政は自刃した。
娘を連れ織田家に戻ったお市は本能寺の変後、元信長家臣・柴田勝家と再婚する。
だが、対立していた羽柴秀吉に本拠・北ノ庄城を包囲され、勝家は自害。お市もこれに従った。
阿国
おくに
1572-不明
歌舞伎の創始者。出雲大社の巫女だったとも。阿国一座は出雲大社の本殿修理費を勧進するため諸国を巡る。
はじめ「ややこ(少女)踊り」を披露していたが、やがて男装して傾奇者を演じる「かぶき踊り」を始める。
この踊りが大評判となり、阿国の名は全国に知れ渡った。
徳川家康の次男・結城秀康が「阿国は天下に知れているが自分は名をあげていない」と嘆いたとの話も残る。
くのいち 不明-不明
女の忍者。漢字の女が「く」「ノ」「一」に分解できることから、くのいちと呼ばれる。
武田信玄がくのいちを使った諜報機関を持っていたことは有名。身寄りのない女性を集め、訓練を施していた。
くのいちは、各地を巡回して、祈祷や歓進を行う「歩き巫女」に扮し、各国の情報を収集していたという。
信玄に甲斐信濃二国巫女頭領を任された甲賀流の望月千代女が有名である。
雑賀孫市
さいが まごいち
不明-不明
紀州雑賀の地侍からなる「雑賀衆」の頭領。雑賀衆は射撃術に優れた鉄砲傭兵集団である。
「雑賀孫市」は鈴木重秀であるといわれるが、鈴木左太夫、重朝らも孫市を名乗ったという。
孫市(重秀)率いる雑賀衆は、石川本願寺と織田軍の戦いの時、石山方に味方し織田軍を苦しめた。
信長は1577年、雑賀の本拠を攻撃。雑賀衆は分裂し降伏したが、孫市はこの後も戦い抜いた。
武田信玄
たけだ しんげん
武田信玄
1521-1573
甲斐の戦国大名。風林火山の軍旗を揚げる精強な武田騎馬隊で近隣諸国を侵略。
川中島で名将・上杉謙信と激闘したのを始め、
駿河の今川氏、相模の北条氏と戦い、甲斐、信濃、駿河、上野にまたがる大領国を築き上げた。
1572年、京に入り政治の実権を握ろうと大軍を発す。遠江に侵入して徳川軍を撃滅する。
信玄の入京を誰もが確信したが、天運味方せず、信玄は病に没した。
伊達政宗
だて まさむね
1567-1636
奥州の戦国大名。18歳で家督を継ぐ。以来、奥州各地を転戦。二本松、佐竹、盧名らと戦う。
24歳の時、磐梯山麓の摺上原の戦いで盧名氏を滅ぼし奥州に覇を唱える。
奥州制覇後、政宗は相模の北条家と結び関東進出、さらに天下を狙うが、台頭著しい豊臣秀吉に屈服。
ついで徳川家康に従う。
しかし一揆の扇動、謀叛への関与疑惑、上杉領侵攻、西欧との独自外交等、野望は衰えなかった。
濃姫
のうひめ
1535-1612
美濃の大名・斎藤道三の娘。名は帰蝶。美濃出身であるため、「濃姫」と呼ばれた。
明智光秀の従姉妹ともいわれる。斎藤道三と織田家が同盟した際、織田信長に嫁いだ。
信長の正室として有名だが、残存する史料はほとんどない。嫁いでから早々に病没したとする説、
信長没後、「安土殿」と呼ばれ、長生きしたとする説、
本能寺の変の際、明智軍と戦い討死したとする説など、諸説がある。
服部半蔵
はっとり はんぞう
1542-1596
徳川家臣。名は正成。
本能寺の変の際、堺にいた家康ら十数名は、明智軍の攻撃を避けるため伊賀を越え、帰国しようとした。
伊賀出身の半蔵はこの時、先導役として活躍した。「鬼半蔵」と恐れられたが情を知る男で、
家康の長男・松平信康の介錯の際には、その場に泣き崩れ、任務を全うできなかった。
これを聞いた家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と半蔵を一層信頼したという。
森蘭丸
もり らんまる
1565-1582
森可成の三男。可成が戦死した後、弟・坊丸、力丸とともに織田信長に小姓として仕える。
容姿美しく利発で、信長にその才を愛された。
奏者や奉行を歴任し、信長政権の政治、経済に深くたずさわったという。
1582年、甲斐平定戦に従軍。その功績で18歳の若さにして美濃岩村5万石の城主となる。
本能寺の変で明智光秀の謀反から、信長を守って奮戦し、討死した。
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
1537-1598
織田家臣。織田信長に「猿」「はげ鼠」とあだ名される。
美濃・墨俣での築城、金ヶ崎の戦いでの殿軍などで信任を得、重用される。
信長の死後、天下を統一。豊臣姓に改姓し、位人臣を極めた。
破格の大出世を遂げた秀吉だったがなかなか子宝に恵まれず、そのため57歳の時できた息子・秀頼を溺愛。
「かえすがえす秀頼の事たのみ申し候」と遺書にも秀頼の事を書き残した。
今川義元
いまがわ よしもと
1519-1560
三河、遠江、駿河三国の大大名。「海道一の弓取り」と呼ばれた。
今川家が足利将軍家、吉良家に次ぐ家柄であるとの自負から、公家風の格好をし、幕府の窮状を救おうと上洛を志した。
法を整備して領内の安定に務める一方、宿敵だった武田家、北条家と三国同盟を結び、国内外を固めた。
1560年、念願の上洛を敢行するも、その途上、桶狭間で織田信長の奇襲に遭って落命した。
本多忠勝
ほんだ ただかつ
1548-1610
徳川家臣。「家康に過ぎたるもの」と評された。元服時に桶狭間に従軍。
姉川、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、関ヶ原と主要な戦いに参陣し、
止まったトンボが真っ二つに斬れたという名槍「蜻蛉切」を手に活躍する。
五十余度の戦いにのぞみ、傷ひとつ負わなかったという。
豪胆であったが沈着冷静でもあり、本能寺の変の際、信長に殉じようとした家康にただ一人反対。思いとどまらせた。
稲姫
いなひめ
1573-1620
小松姫。本多忠勝の娘で家康の養女。婿選びの際、姫は平伏する大名の髷をつかんでは顔を見た。
唯一反発した真田信之に感じ入り、嫁ぐ事になる。
才色兼備の賢夫人と知られ、関ヶ原の戦いの時、出陣中の夫にかわり沼田城を守備。
西軍についた舅・昌幸や弟・幸村が入城を求めたのに対し断固拒否した。
しかし戦後、幽閉された昌幸、幸村に仕送りする等、細やかな心遣いを欠かさなかった。
徳川家康
とくがわ いえやす
1543-1616
徳川幕府初代将軍。初名は松平元信。幼い頃を今川家の人質として過ごした。
桶狭間の戦いの後、自立、徳川家康と名乗る。織田家と同盟を結び、信長の天下統一戦の東部戦線を担う。
信長没後、羽柴秀吉と小牧長久手で戦う。その後、講和し秀吉に臣従する。
秀吉の死後、家康排除を狙う石田三成ら豊臣恩顧の大名を、関ヶ原の戦いで破り天下を掌握。
1603年、江戸に幕府を樹立する。
石田三成
いしだ みつなり
1560-1600
豊臣秀吉に「才器でわれに異ならない者は三成のみ」と言わしめた智謀の士。
幼い頃は、寺の小僧をしていた時、立ち寄った秀吉に才を見出される。
以来、秀吉の懐刀として検地や外交折衝など政務全般にらつ腕を振るった。
秀吉の死後、徳川家康が天下取りに動くと、豊臣体制を守るべく挙兵。
西国大名を糾合して、家康を関ヶ原決戦に引きずり込む。だが小早川秀秋に裏切られ敗北、斬首された。
浅井長政
あさい ながまさ
1545-1573
北近江の戦国大名。父を隠居させて、当主となる。織田信長が美濃を平定すると信長の妹・市を妻に迎え同盟を結ぶ。
だが信長が越前攻めを始めると、朝倉家との同盟を重んじて敵対。朝倉軍と連合し織田・徳川軍と戦う。
姉川の戦いに敗れた後は、三好三人衆や本願寺と結び反撃を試みる。
だが戦局を挽回する事はできず、織田の大軍に居城・小谷を囲まれ、妻・市と娘を信長に託し自害する。
島左近
しま さこん
1540-1600
石田三成の軍師。天下分け目の関ヶ原で壮烈な討死を遂げた武人。元筒井家臣。
知勇に優れ、牢人となるや、多くの大名家から誘いが殺到するが、仕官を断り続けた。
しかし三成の「所領の半分を与える」という破格の条件に感激。その意気に応え、最期の瞬間まで忠義を尽くす。
関ヶ原前哨戦・杭瀬川の戦いで奇襲を成功させ、本戦では、集中攻撃を受け、重傷を負うも、なおも刀を振るい続けた。
島津義弘
しまづ よしひろ
1535-1619
剛勇無比の猛将。惟新斎と号す。名将ぞろいの島津四兄弟の中でも「雄武英略をもって他に傑出する」と評された。
城に乗り込み敵将を一騎打ちで倒す、油断をついて敵大軍を殲滅する、
北九州の雄・大友宗麟軍を粉砕する、など戦功多数。関ヶ原の戦いでは西軍に属す。
敗北が決定的となると大胆にも前進撤退を指示。
敵の激しい攻撃を受けながらも井伊直政らを負傷させ、見事戦場を離脱した。
立花ァ千代
たちばな ぎんちよ
1569-1602
大友家の名将・立花道雪の娘。男勝りの激しい気性と美貌をあわせ持つ。
わずか6歳で筑前立花山城主となり、12歳の時、高橋紹運の子・立花宗茂を婿に迎える。
宗茂が柳川の大名になると、立花山城を離れるのに反対し、別居。
関ヶ原の戦いで西軍につこうとする宗茂に反対するも、宗茂は従わず敗北。加藤清正に領士を侵される。
この時、ァ千代は自ら具足に身を包み、街道を守備した。
直江兼続
なおえ かねつぐ
1560-1619
上杉景勝の執政。上杉家の軍事、政務を総裁した。容姿優れ、弁舌さわやか、文芸にも通じていた。
兜に「愛」の一字を意匠していたが、これは「愛染明王」由来とも「仁愛」を重んじる彼の姿勢の表れともいわれる。
豊臣秀吉没後、徳川家康が天下取りに動くとその不義を非難。挑戦状「直江状」を叩きつけた。
関ヶ原の戦い後は、徳川体制下で四分の一に減封された上杉家の再建に尽力する。
ねね 1547-1624
豊臣秀吉の正妻。夫の大出世を支えた。14歳の時、同じ長屋に住む26歳の藤吉郎(秀吉)と結婚。
当時としては珍しい恋愛結婚であったという。夫婦仲はよかったが、子供はできなかった。
秀吉の女グセの悪さには生涯悩まされ、織田信長から
「あのはげ鼠がそなたほどの女を不足と思うのは言語道断」との手紙をもらったことも。
秀吉没後、大坂城を秀頼に譲り、高台院と号して隠棲。
風魔小太郎
ふうま こたろう
不明-不明
風魔一族は、相模足柄郡を根拠地とする忍者集団。
北条早雲に見出され、情報収集、暗殺、かく乱などに従事、北条家の繁栄を裏側から支えた。
「小太郎」は、その風魔の頭領が代々、使用した名前だといわれる・
武田勝頼との戦の際、夜、敵陣に紛れて、斬ってまわり、風のごとく立ち去って敵を同士討ちさせたとの逸話を残す。
北条家滅亡後、残党を率いて江戸で盗賊になり捕縛され処刑された。
宮本武蔵
みやもと むさし
1584-1645
生涯不敗を謡われた剣豪。二天一流の開祖。姓は新免とも。武蔵は通称で名は玄信という。
石垣原の戦い、大坂の陣、島原の乱に参陣。剣術家としては、吉岡一門数十人と戦った一乗寺下り松の死闘、
佐々木小次郎と戦った巌流島の決闘など伝説的な勝負を繰り広げた。昨年、兵法書『五輪書』を著している。
一方で書画に達し、絵で江戸時代、円山応拳や伊藤若冲の上に位置づけられたほどだった。
前田利家
まえだ としいえ
1538-1599
「槍の又左」の異名をとった織田家の勇将。若年の頃、無礼を働いた信長の茶坊主を斬り、一時信長家を追放される。
織田家帰参後、信長の側近である、「赤母衣衆」筆頭に任じられる。
信長の死後、柴田勝家に属したが、賤ヶ岳の戦いで旧友羽柴秀吉に味方する。
以後、豊臣政権樹立まで秀吉の重臣として働き、五大老の筆頭に任命された。
徳川家康と石田三成の対立を憂慮しながらこの世を去った。
長宗我部元親
ちょうそかべ もとちか
1539-1599
土佐の戦国大名。幼少時は内にこもりがちな性格で、周囲から「姫若子(ひめわこ)」と皮肉られていたという。
長じて家督を継ぐと緒豪族を討伐し、土佐を平定。その後、四国統一を成し遂げる。
信長の死後、柴田勝家に応じて羽柴秀吉と対立する。秀吉の四国征伐を受けて降伏し、土佐の領地を安著された。
その後、秀吉に従って、九州征伐では島津軍と戦う。小田原討伐では水軍を率いて参陣
ガラシャ 1563-1600
明智光秀の娘。名前は玉子。細川忠興の妻となる。光秀が本能寺で謀反したため一時、幽閉の身となる。
のち、忠興と復縁。キリスト教に帰依し、洗礼を受けてガラシャと名乗る。
豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が深まり、忠興は家康に接近する。
関ヶ原の戦い直前、三成に人質にされそうになり、拒否して屋敷に立て籠もる。
その際、家臣の小笠原少斎に胸を突かせ果てた。
佐々木小次郎
ささき こじろう
不明-1612
秘剣「燕返し」を使う剣豪。巌流と号した。中条流富田勢源、あるいは鐘巻自斎に剣を学び、
3尺余り(約1m)の大太刀「備前長船長光」通称「物干し竿」を操る。宮本武蔵と九州小倉の舟島で決闘して敗死。
舟島は彼の号を取って巌流島と呼ばれるようになった。出自は諸説あり、越前の出とも、豊後の豪族とも。
また姓の佐々木は歌舞伎から取ったもので創作だといい、津田とするものもある。
柴田勝家
しばた かついえ
1522-1583
織田家随一の猛将にして筆頭家老。はじめ信長の弟・信行を支持したが、信長に敗れて臣従。
以後、信長軍先鋒として、めざましい働きを示す。
のちに北陸方面を任され、難敵・上杉軍と戦いながら、越中・能登を平定した。
本能寺の変後、羽柴秀吉が台頭すると、これと対立するが、賤ヶ岳の戦いで大敗。
北ノ庄へと逃れるも、秀吉軍の追撃、包囲され、再婚したばかりの妻・お市と共に果てた。
加藤清正
かとう きよまさ
1561-1611
豊臣家臣。秀吉子飼いの勇将。「賤ヶ岳七本槍」の一人。
秀吉没後、石田三成ら文治派と対立し、これが結果的に豊臣政権の寿命を縮める事になった。
関ヶ原の戦いの際は徳川家康に味方し、九州において、黒田官兵衛と共に三成の味方を撃破した。
戦後、功績を認められ、肥後熊本に52万石を安堵される。善政を敷いたことで領民に慕われた。
また、築城の名手としても知られる。
黒田官兵衛
くろだ かんべえ
秀吉の軍師。野心家であったという。本能寺の変の報せを受けた直後から、その卓越した智謀、雄略を発揮。
四国、九州の平定に大きく貢献した。しかし、晩年は、その才を秀吉に警戒されて九州に遠ざけられた。
関ヶ原の戦いでは、嫡男・長政を東軍に送り関ヶ原に出陣させて、自らは九州制圧を目論む。
しかし本戦が早く終結したため失敗。隠棲した。茶人としても有名である。
立花宗茂
たちばな むねしげ
1567-1643
大友家臣。名将・高橋紹運の子。立花道雪に請われてその娘・ァ千代を娶り、婿養子となる。
島津勢の侵攻により、立花山城を囲まれたが死守し、秀吉の九州征伐に貢献。
秀吉に「忠義剛勇鎮西一」と賞され、大友家から独立し、筑後柳川の大名となった。
関ヶ原の戦いでは西軍についたため改易される。その後、大坂の陣に徳川方で参戦。
後に徳川家康に重用され、大名として柳川へ返り咲く。
甲斐姫
かいひめ
北条家臣・成田氏長の娘。東国一の美女という。
豊臣の小田原討伐において、忍城に攻め寄せた石田三成の大軍を相手に奮戦。堤防を決壊させて、大打撃を与えた。
敵の援軍の浅野長政、真田昌幸、真田幸村らが到着すると、自ら打って出て敵将を討ち取ったという。
この武勇伝を聞いた豊臣秀吉は甲斐姫を側室とした。
大坂の陣では、千姫の嘆願もあり、豊臣秀吉の娘・奈阿姫と共に助け出された。
北条氏康
ほうじょう うじやす
1515-1571
戦国北条家3代当主。氏綱の嫡男。
相模の獅子と呼ばれ、武田信玄、上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東に一大王国を築く。
若い頃はうつけと言われていたが父・氏綱の訓戒を守り、知勇兼備の名将へと成長する。
河越夜戦では、山内、扇谷両上杉の大軍を相手に勝利し、その名を関東に轟かせた。
また、戦国随一の民政家としても知られ、また小田原の領民に深く慕われていた。
竹中半兵衛
たけなか はんべえ
1544-1579
秀吉の家臣。元は斎藤家に仕えていた。
主君・龍興が酒色に溺れ、政務を顧みなくなると、半兵衛は策略を用い、十数名で稲葉山を奪取し、龍興を論した。
斎藤家滅亡後、その才を見こんだ秀吉に「三顧の礼」で迎えられ、軍師となる。
卓抜した智謀で秀吉を支えたが、中国攻めの最中、病に倒れる。秀吉は養生するよう勧められるが半兵衛は
「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断り、陣中で死去した。
毛利元就
もうり もとなり
1497-1571
安芸の戦国大名。元就は国人の一人に過ぎなかったが、権謀術数を駆使して勢力を拡大。
一代で中国10カ国の主となった稀代の謀将。厳島合戦では数々の謀略で陶晴賢を翻弄、5倍の兵力の敵を破った。
この戦いはのちに「日本三大夜戦」の一つと評価された。
元就はさらに謀略を発揮し、難攻不落と謳われた月山富田城を攻略、尼子家を滅ぼした。
兄弟の結束を訴えた「三本の矢」の逸話は有名。
綾御前
あやごぜん
1524-1609
上杉謙信の姉。仙桃院。夫・長尾政景は謙信の軍師・宇佐美定満と船遊びの最中に、船が転覆して死亡。
その後、謙信に引き取られ、息子・景勝は謙信の養子となった。
同じく謙信の養子となった北条氏康の子・景虎を婿とする。
謙信死後、御館の乱が起きると景虎の正室である娘と共に御館に立て籠もった。戦後、当主となった景勝の元に戻る。
後、上杉家の会津転封に従い、米沢の地で没した。
福島正則
ふくしま まさのり
1561-1624
秀吉子飼いの猛将。秀吉の従弟で、幼少より秀吉に仕えた。「賤ヶ岳七本槍」の筆頭。
石田三成と仲が悪く、三成憎しの思いから関ヶ原の戦いで徳川家康につき東軍を勝利に導いた。
その後も徳川家に忠誠を尽くしたが、無断で城を修理したと言いがかりをつけられ、広島50万石を没収された。
晩年「俺は弓だ、泰平の世ではお蔵入りだ」と嘆いたという。
藤堂高虎
とうどう たかとら
1556-1630
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」の言葉で有名。
はじめ浅井長政に仕え、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長と次々と主を変える。
一方で情に厚く、没落した旧主の子孫の面倒を見ている。
秀長死後、武士をやめ、高野山に入るが、豊臣秀吉に懇願され直臣に。
秀吉没後は徳川家康に献身的に従い、外様でありながら信頼厚かった。また築城の名手としても知られる。
井伊直虎
いい なおとら
不明-1582
遠江井伊谷城主である井伊家の女当主。
桶狭間の戦いで父・直盛が戦死すると、井伊家に後継となるべき男子がなかったため、
「直虎」という男名を与えられて、当主となった。家老・小野道好により、居城・井伊谷城を奪われ、
追放されるが徳川家康の力を借りて井伊谷城を取り戻し、徳川家に仕える。
生涯独身を通し、従兄弟・直親の子である虎松(のちの井伊直政)を養育して、彼を譲った。
柳生宗矩
やぎゅう むねのり
1571-1646
大和の剣術家。新陰流二世・石舟斎宗厳の五男。「江戸柳生」の開祖。
父の推挙により、徳川家に仕え、江戸幕府が開かれると将軍の兵法指南役となり、秀忠や家光に柳生新陰流を伝授した。
大坂の陣で功をあげて旧領を安堵され、家光の代には1万石の大名に昇格。
政治手腕も優れ、幕府総目付に抜擢されている。「剣禅一致」「活人剣」などの思想を、著作『兵法家伝書』に残した。
真田信之
さなだ のぶゆき
1566-1658
昌幸の長男。幸村の兄。稲姫の夫。黒地に金の六文銭を旗印に戦場を駆け、信濃の獅子と称された。
前田慶次と仲がよく本能寺の変での織田信長の死を明かした慶次に感じ入り、神流川の戦いでは慶次らに力を貸す。
石田三成とも仲がよかったが、関ヶ原の戦いでは、西軍についた父・昌幸、幸村と袂をわかち、東軍につく。
その後も、お家存続に心を砕き、真田家を明治まで存続させた礎を築いた。
大谷吉継
おおたに よしつね
1558-1600
豊臣家臣。豊臣秀吉が百万の軍勢を指揮させてみたいと評した稀代の智将。
重い病に冒され、顔を白い布で覆っていた。茶席で吉継が口をつけた茶腕を回し飲むのを諸将が嫌う中、
石田三成が茶腕を奪い、飲み干したことから無二の親友となる。
関ヶ原の戦いでは、三成の家康討伐計画に反対するも友誼から西軍につく。
寝返った小早川秀秋隊を何度も退けたが与力衆が寝返るにおよび、玉砕した。
松永久秀
まつなが ひさひで
1510-1577
悪名高き稀代の梟雄。通称弾正。三好長慶に重用されて次第に勢力を増し、三好家の実権を握る。
さらに十三代将軍・足利義輝を暗殺するなど、謀略の限りを尽くして畿内の支配者となった。
織田信長が上洛すると臣従。信長に、主君を殺し将軍を殺し、大仏を焼いた稀代の悪人だと褒められている。
一度、武田信玄上洛にあわせ謀反して許されるが再度謀反。大名物茶釜「平蜘蛛」と共に爆死した。
片倉小十郎
かたくら こじゅうろう
1557-1615
伊達政宗の側近。名は景綱。笛の名手。伊達三の一。智の小十郎と呼ばれた。
疱瘡で右の視力を失い、暗く沈む政宗を叱咤し、右目を切り取ったという。
人取橋の戦いでは、突出した政宗を救うべく政宗を名乗り敵の目を引きつけた。
大局観に優れ、豊臣秀吉の小田原攻めで去就に悩む政宗に、秀吉をハエに例え、追い払ってもきりがないと説得。
小田原に参陣するよう勧め、伊達家を存続させた。
上杉景勝
うえすぎ かげかつ
1556-1623
上杉謙信の甥で養子。綾御前の子。謙信没後、後継者争い・御館の乱を制し当主となる。
厳格で女性を近づけず、生涯一度しか笑わなかったという。
また謙信ゆずりの剛直で律儀な性格で、関ヶ原の戦いでは、徳川家康の挑発に怯むことなく応じ、
会津討伐を招くが、石田三成の挙兵に呼応して家康を挟撃すれば豊臣秀吉の望んだ平和を乱すと追撃せず、
長谷堂の地で侵攻を目論む最上軍と戦った。
小早川隆景
こばやかわ たかかげ
1533-1597
毛利元就の三男にしてその知才を最も濃く受け継いだ賢人。兄・吉川元春と並んで毛利両川と呼ばれた。
小早川家に養子に入り、粛清など謀略の限りを尽くして小早川家を統一した一方、
その時めとった小早川家の問田の大方のみを妻とし終生愛す一面もあった。
豊臣秀吉は、直江兼続と並ん天下の仕置を任せられると激賞し、
黒田官兵衛は彼の死に「日本から賢人がいなくなった」と嘆いた。
小少将
こしょうしょう
不明-不明
四国の乱世を翻弄した魔性の女性。阿波西条城主・岡本清宗の娘。一説に明智光秀の姪ともいう。
大変な美貌と、強烈な意思の持ち主で、はじめ阿波守護・細川持隆の妻となり、
次に持隆を討ち阿波国主となった三好義賢、義賢戦死後はその重臣で
義賢生前から不倫関係にあった篠原実長、実長が長宗我部軍に敗れると長宗我部元親と、
四国の覇者となった男たちを次々と乗りかえ、魅了したという。
島津豊久
しまづ とよひさ
1570-1600
島津家臣。家久の子。義弘の甥。
初陣の沖田畷の戦いで、死んでも兜が脱げて見苦しくならぬようにと兜の緒を切り、死を覚悟して出陣した。
豊臣秀吉の小田原討伐などに参陣。敗勢の関ヶ原の戦いで島津軍が東軍を中央突破し退却した時、
捨てかまり戦法で井伊直政隊と戦い、義弘を逃がし、壮烈な討死を遂げた。
大変な美少年だったといい、戦を前に大いに島津兵の士気を上げたという。
早川殿
はやかわどの
不明-1613
北条氏康の長女。甲相駿三国同盟を結ぶ際、今川氏真に嫁いだ。
今川家が武田家に滅ぼされると氏真と共に北条家を頼りこの時小田原早川に住んだことから、早川殿と呼ばれた。
氏康が死に、その遺言て再び武田家と同盟することになると激怒。夫を連れ出奔して徳川家を頼る。
その後も夫と共に生き長寿を全うした。
甲相駿三国同盟で三組の夫婦が生まれたが離婚せずに済んだのは彼女らのみである。
井伊直政
いいなおまさ
1561-1602
徳川家の新星。本多忠勝と並んで徳川四天王に数えられた。
直虎のはとこで、その養子となっ井伊家当主となる。
新参者でありながら徳川家康の抜擢を受け、その才能、名声は「誉、日本に覆る」と絶賛された。
その美貌は豊臣秀吉の母が惚れ込んだほど。
武田家滅亡後、その旧臣を組み入れ、装備を赤で統一した精鋭「赤備え」を組織し「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
小牧長久手の戦いで池田恒興を破り、関ヶ原の戦いで島津豊久を討ち取った。




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