戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【さ〜】 - ゲーム完全限界攻略メモ置場

HOME戦国無双4-II攻略TOP > 武将列伝 一般武将【さ〜】

武将列伝 一般武将【さ〜】

戦国無双4-II攻略 武将列伝 一般武将【さ〜】を掲載しています。
武将列伝は流浪演舞に出現する一般武将・無双武将と出会うことで追加されて閲覧可能になる
無双武将は友好度を最大にすることで閲覧可能になる

目次

西園寺公広
さいおんじ きんひろ
1537-1588
伊予の大名。黒瀬城主。出家していたが一門の討死を受けて還俗し、家督を継いだ。
毛利、大友、長宗我部といった有力大名の侵略に翻弄される。
豊臣秀吉の四国征伐に帰順したが、秀吉の配下により後顧の憂いを除くべく暗殺された。
雑賀孫六
さいが まごろく
不明-不明
雑賀衆。孫市の弟とされる。兄と共に各地を転戦した。
信長包囲綱を敷いた石山本願寺に協力して、織田軍を苦しめた。
1585年、羽柴秀吉の紀州征伐時、顕如の勧めで降伏した。
西条壱岐守
さいじょう いきのかみ
不明-1582
三好家臣。阿波西条城主。名は盛行。
中富川の戦いでは、子の益大夫と共に十河存保に属し長宗我部元親の侵攻軍と戦い討死。西条城も落城した。
西条城は、四国を混乱に陥れた美女・小少将が生まれた城とも伝わる。
小少将の父・岡本清宗(牧西)は元の西条城主であり、軍学や連歌に通じ、先見性を持った将だったといい、
細川真之と三好長治の対立、三好家滅亡を予見していたという。
斎藤鎮実
さいとう しげざね
不明-1578
大友家臣。立花宗茂の祖父。武勇に優れる。龍造寺隆信との今山の戦いで奮戦。
大友宗麟から感状を2枚もらっている。耳川の戦いでは、出陣に反対していたが戦場では田北鎮周と共に積極攻勢を主張した。
開戦後、吉弘鎮信と共に耳川強行渡河を試みたが、討死した。
斎藤龍興
さいとう たつおき
1548-1573
美濃の大名。義龍の子。14歳で父を亡くし、家督を継ぐが、失脚多く人望を失う。
重臣・美濃三人衆の裏切りで織田信長に居城・稲葉山を奪われて没落。その後は伊勢を経て三好家、朝倉家へ。
信長に徹底して抗戦し、刀根坂の戦いで討死。
斎藤為吉
さいとう ためきち
不明-1569
今川家臣。遠江の豪族。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、徳川家康が独立すると、その侵攻に備え、遠江細川城を築き抵抗するが、敗北。
付近住民もろとも家康によって皆殺しにされた。
斎藤道三
さいとう どうさん
1494-1556
美濃斎藤家初代当主。長井規秀、斎藤利政とも。仏門に入っていたが還俗して油売りとなる。
美濃を訪れて美濃守護・土岐家に仕え、守護代・斎藤家を継いだのち守護を追放。
ついには美濃一国を制したという戦国の梟雄。「マムシ」の異名を取ったが、嫡子・義龍と不仲になり討たれた。
斎藤利治
さいとう としはる
1541-1582
織田家臣。通称新五郎。美濃の大名・斎藤道三の末子。義龍、利堯、濃姫の弟。
道三死後、織田信長の家臣となり、信長の美濃攻略の権威づけに利用され、また自身も美濃攻めで武功を立てている。
その後、観音寺の戦い、浅井家との戦い、手取川の戦いに参戦。
羽柴秀吉の中国攻めの援軍に向かう途中、本能寺の変に遭い、織田信忠と共に二条城で明智軍と戦い、討死した。
斎藤利三
さいとう としみつ
1534-1582
明智家臣。明智五宿老で筆頭家老。はじめ稲葉一鉄に仕えていたが出奔。光秀に仕えた。
これに織田信長は怒り、死を命じたが光秀にかばわれた。妹は長宗我部元親の妻。
この縁で光秀は元親と協力方針で交渉していたが、信長の方針転換で四国攻撃が始まり面目を失う。
本能寺、山崎で明智軍主力として奮戦する。敗戦後、秀吉により斬首された。
斎藤利光
さいとう としみつ
1564-1647
明智家臣。利宗とも。利三の子。妹に春日局。父に従い本能寺の変に参加。
山崎の戦いでは織田信考の将を討つも、高山右近に敗れた。山崎の戦い後は剃髪して立本と名乗る。
のち還俗して加藤清正に仕える。清正死後、加藤家を出奔。春日局の縁で三代将軍・徳川家光に仕えた。
斎藤朝信
さいとう とものぶ
1527-1592
上杉家臣。関東遠征や越中侵攻などで勇名を馳せ「越後の鐘馗」と恐れられた猛将。
行政手腕にも優れ、民を慈しみ、上杉謙信の信頼も厚かった。謙信没後の御館の乱では景勝に味方する。
越中魚津城で織田軍の柴田勝家を迎撃した。
斎村政広
さいむら まさひろ
1562-1600
大友家臣。二階崩れの変で大友宗麟を奉じ、大友家当主に据える。
その後、強大な権力が宗麟に疎まれ、討伐を受けるが抵抗せず伊予へ逃亡。
その後、大友家と毛利家の戦いが激しくなると、その水軍指揮能力を必要とした宗麟に帰参を許された。
耳川の戦いでは、慎重論を唱え、肥後方面軍との合流を待とうとしたが、
その消極的姿勢に怒った田北鎮周の突出で準備不足のまま開戦。討死した。
佐伯惟教
さえき これのり
不明-1578
大友家臣。二階崩れの変で大友宗麟を奉じ、大友家当主に据える。
その後、強大な権力が宗麟に疎まれ、討伐を受けるが抵抗せず伊予へ逃亡。
その後、大友家と毛利家の戦いが激しくなると、その水軍指揮能力を必要とした宗麟に帰参を許された。
耳川の戦いでは、慎重論を唱え、肥後方面軍との合流を待とうとしたが、
その消極的姿勢に怒った田北鎮司の突出で準備不足のまま開戦。討死した。
三枝昌貞
さいぐさ まささだ
1537-1575
武田家臣。武田二十四将の一人。西上野攻略、駿河侵攻などで活躍する。
その勇猛さに感じ入った山県昌景から名刀・吉光を与えられる。長篠の戦いの前夜、酒井忠次の夜襲を受け、討死した。
酒井家次
さかい いえつぐ
1564-1618
徳川家臣。忠次の長男。家康の従兄弟にあたる。幼少時より家康に仕え、小田原討伐、関ヶ原の戦いなど歴戦。
勇猛果敢な将で、大坂夏の陣で力戦、数多くの敵を倒したといわれる。
酒井重忠
さかい しげただ
1549-1617
徳川家臣。雅楽頭系酒井家の出。
本能寺の変の際、三河で留守を任されており、伊賀越えしてきた徳川家康を伊勢まで迎えた。
その時の船印を馬印として使用したという。
関ヶ原の戦い後、上野厩橋城主となるが、そこで村娘を毒虫を詰めた箱に入れて利根川に沈めて惨殺し、
その呪いで洪水を招いたという伝説を残す。
酒井忠次
さかい ただつぐ
1527-1596
徳川四天王の一人。今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られた時、
主君・徳川家康に、今川家を離れ織田家に従うよう進言した。姉川、三方ヶ原など多くの戦いで活躍。
長篠の戦いでは、鳶ヶ巣砦への奇襲を提案。味方を勝利に導いた。
天正壬午の乱後、北条家と同盟終結の場で得意の「海老すくい」踊りを披露した。
酒井忠利
さかい ただとし
1559-1627
徳川家臣。雅楽頭系酒井家の正規の三男。小牧長久手の戦いで活躍。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い、第二次上田城の戦いで奮戦するも大敗。
大坂の陣では江戸城留守居役を務めた。老中となる。
酒井忠世
さかい ただよ
1572-1636
徳川家臣。雅楽頭酒井家。忠利の甥。土井利勝と並び2代将軍・秀忠の腹心として従い、第二次上田城の戦いにも参戦。
大坂冬、夏の陣では全軍の参謀役を務めた。
のちに土井利勝・青山忠俊とともに3代将軍家光の教育係に就任、幕府の中核を似ない、老中を務めた。
坂井政尚
さかい まさひさ
不明-1570
織田家臣。一説に佐々成政の兄。信長の入京後、柴田勝家、森可成らと共に京の政務に携わった。
姉川の戦いでは、織田軍の先鋒を努めて勝利に大きく貢献している。
志賀の陣では、浅井方の近江堅田城を攻め、これを落としたが、浅井軍に攻められて激戦の末に討死した。
榊原康勝
さかきばら やすかつ
1590-1615
徳川家臣。康政の子。父の後を継ぎ、大坂の陣で奮戦。
この戦いで以前から患っていた腫れ物が悪化し、夏の陣の後まもなく死去した。
榊原康政
さかきばら やすまさ
1548-1606
徳川四天王の一人、三河一揆の鎮圧戦で初陣。
以後、本多忠勝と徳川軍の先鋒を務め、「無」の旗を揚げて、戦場を疾駆した。
晩年、老中に推されると「老臣、権を争うは亡国の兆し」と辞退した。
坂崎直盛
さかざき なおもり
1563-1616
徳川家臣。宇喜多詮家とも。宇賀島忠家の子。
はじめ従兄弟の宇賀島秀家に仕えたが、不和となりお家騒動の際に出奔。関ヶ原の戦いでは東軍に属す。
戦後、徳川家康が宇喜多の名を嫌ったため改名。
大坂の陣で、家康の孫で豊臣秀頼の妻・千姫を救出した者に与えるとの命で、
千姫を救い出したが、容貌を嫌われて結婚を拒まれ逆上。千姫を拉致しようとしてかなわず自害した、という逸話が残る。
酒巻靭負
さかまき ゆきえ
不明-不明
武蔵忍城主・成田家臣。名は銓稠ともいうが未詳。軍学に優れていたという。
1552年、上杉謙信の忍城攻めに対し、大手門を守ったのが初出。以後、成田家の先陣を務める。
1590年、忍城の戦いでは、遊軍を率い、城代・成田長親、甲斐姫の指揮の下、石田三成率いる二万三千の豊臣軍を退けた。
佐久間信辰
さくま のぶとき
1538-1600
織田家臣。信盛の弟。桶狭間の戦いでは善照寺砦を守る。
本能寺の変後は織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いで尾張蟹江城を守るが、共に守っていた前田定利が裏切り、
羽柴方の滝川一益を引き入れたため、敗北。城を焼き払って抵抗しようとしたが一益の説得で穏便に退去した。
このことが信雄の同盟者・徳川家康の目にとまり、のち家康に仕えた。
佐久間信盛
さくま のぶもり
1528-1582
織田家重臣。「退き佐久間」の異名を持つ撤退戦の名手。織田信長が弟と家督を争った際には信長を支持。
近江六角氏との戦いや比叡山焼き討ち、長篠の戦い、長島一揆平定で活躍する。
だが、石山本願寺との戦いでの不手際を責められ、高野山に追放された。
佐久間盛重
さくま もりしげ
不明-1560
織田家臣。通称は大学。織田信長が弟と家督を争ったとき、信長を支持し、名塚の砦を守って名を上げた。
のち、今川義元の上洛軍が桶狭間に向け進軍を開始すると丸根砦で前線を守る。義元配下の徳川家康に攻められ、討死した。
佐久間盛政
さくま もりまさ
1554-1583
柴田家臣。柴田勝家の甥。剛勇をもって知られ「鬼玄蕃」の異名を取る。上杉家臣・河田長親の侵攻を防ぎ、名を馳せた。
賤ヶ岳の戦いでは、豊臣軍の中川清秀を討ち取るが、その突出を、秀吉主力軍につけこまれ、大敗を喫する。
佐久間安政
さくま やすまさ
1555-1627
柴田家臣。柴田勝家の甥。佐久間盛政の弟。柴田勝政の兄。
賤ヶ岳の戦いで勝家を失った後も、徳川家康、北条氏政に属して、小牧長久手、小田原で秀吉に抗った。
のち秀吉に許され、蒲生氏郷に仕えた。氏郷没後、徳川家康に仕えて信濃飯山に3万石を与えられた。
鮭延秀綱
さけのべ ひでつな
1563-1646
最上家臣。もとは義光と敵対していたがのちに軍門に下った。以降、その有力武将として活躍。
1600年、長谷堂の戦いで上杉軍と戦い、敵将・直江兼続に、信玄謙信を越える武勇と賞された。
下に優しく、太閣検知に逆らった池田盛周をかくまい、
最上騒動で最上家が滅亡したあとは、与えられた領地を家臣にすべて分け与えている。
佐瀬種常
させ たねつね
不明-1589
蘆名家臣。佐瀬家は、蘆名四天の宿老の一。
耶麻郡中田付で六斎市を開いていたが、中田付では不便だとして小田付村に六斎市を移した。摺上原の戦いで戦死。
佐竹親直
さたけ ちかなお
1566-1615
長宗我部家臣。長宗我部元親の娘を妻とする。1581年、深田の戦いで父が討死したため家督を相続。
のち盛親に従って大坂城に入り、徳川軍と戦う。夏の陣で藤堂高虎と善戦するも討死した。
佐竹義昭
さたけ よしあき
1531-1565
常陸の大名。佐竹家17代当主。義篤の嫡子。
北進して南陸奥の白河結城家を降し、さらに常陸の覇権を巡って小田家と争った。
関東管領・上杉憲政が管領職と上杉家の名跡継承を条件に庇護を求めてきたが、佐竹家に誇りを持つ義昭はこれを拒否している。
佐竹義重
さたけ よししげ
1547-1612
常陸の大名。大田城を中心に関東で勢力拡大をはかり、北条氏、蘆名盛氏、伊達政宗らと争った。
自ら陣頭に立ち、またたく間に七人の敵を斬った勇猛な戦いぶりから、「鬼佐竹」「坂東太郎」と恐れられた。
敷き布団を生涯使わなかった。
佐竹義宣
さたけ よしのぶ
1570-1633
常陸の大名。義重の長男。秀吉の小田原討伐に参陣し、豊臣政権に属することとなる。
石田三成と親交があったため、家康の会津遠征時、その背後を突こうとしたが父・義重などの反対により果たせずに終わった。
のちに秋田に転封となり、佐竹氏の常陸支配は終わる。
佐竹義久
さたけ よしひさ
1554-1601
佐竹家一門。佐竹東家・義堅の次男。義重、義宣の2代に仕えた。
南陸奥方面支配その総指揮を執って、内政、軍事、外交に幅広い活躍を見せた。
石田三成を通じ豊臣秀吉の知遇を得て、主家とは別に知行を与えられる。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の背後を突くべく主張したが容れられず、ならばと家を守るため秀忠に属し、出兵した。
戦後、本領安堵の交渉を行うが、直後に死去。佐竹家秋田転封が決まる。
佐々成政
さっさ なりまさ
1539-1588
織田家臣。黒母衣衆として活躍。柴田勝家に従い、越中半国の主となる。信長死後、羽柴秀吉と対立。
賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いで反秀吉陣営に属した。
秀吉と講和を結ぼうとする徳川家康を翻意させようと厳寒の
日本アルプスを越えたが説得は不調に終わり、結局、成政自身も秀吉に降伏した。
佐々政次
さっさ まさつぐ
1522-1560
織田家臣。成政の兄。通称隼人正。小豆坂の戦いで武功を立て、小豆坂七本槍の一人に数えられた。
桶狭間の戦いを前に千秋四郎と共に今川軍先陣に突撃。討死した。
義元は「義元が矛先には天魔鬼神もたまるべからず、心地はよし」と喜び、
謡を謡ったという説と、織田信長の奇襲を覚らせないための陽動という見方がある。
佐藤理兵衛
さとう りへい
不明-1600
最上家臣。山辺の土豪。佐藤家は西行法師の一族で、かつて西行が先祖に会いにこの地を訪ねたことがあるという。
長谷堂の追撃戦に参加し、討死した。
里見民部
さとみ みんぶ
不明-1614
最上家臣。はじめは最上義光に反抗する天童頼定ら最上八楯側に属する上山満兼に仕えていたが、義光と共謀し、満兼を滅ぼした。
1600年、長谷堂の戦いでは、上杉侵攻軍の上泉泰綱らを、中山口にて奇襲し、撃破した。
1603年、次子・家親を当主にせんとする義光の意を汲み嫡子・義康暗殺に関わる。
1614年、義光死後、その遺言により粛清。
里見義堯
さとみ よしたか
1507-1574
房総の大名。里見家6代当主。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を破り、里見家当主となる。
房総に勢力を拡げ、子の義弘と2代にわたって北条家と戦い続ける。
北条家が武田、今川家と結ぶと、上杉謙信と通じて対抗した。
里見義弘
さとみ よしひろ
1530-1578
房総の大名。里見家7代当主。実堯の嫡子。湾を挟んで武蔵の北条家と敵対、交戦を重ねる。
太田資正らと結んで、国府台合戦で北条氏康軍と戦うが敗北。
のち三船山合戦で勝利し、下総を回復する。父の死後、北条家と和睦を結んだ。
里見義頼
さとみ よしより
1543-1587
房総の大名。里見家8代当主。義堯の次男とも義弘の庶長子とも。義弘嫡子・梅王丸と家督を争う。
北条氏政の妹をめとり、その力を背景に後を継ぎ、対立する正木憲時を滅ぼし領内を平定した。
のち北条家と対立。武田、佐竹、豊臣家との巧みな外交により国を保った。
真田信綱
さなだ のぶつな
1537-1575
武田家臣。幸隆の長男。弟に昌輝、昌幸がいる。信濃・上田城を守り、信州先方衆として上杉謙信に対峙した。
幸隆の死により家督を継ぐ。三尺三寸余りもある太刀を振るった勇士で、長篠の戦いでも敵を散々悩ませたが、銃弾に倒れた。
真田信政
さなだ のぶまさ
1597-1658
真田信之の次男。母は稲姫。兄・信吉と共に大坂の陣に参戦。初陣を飾った。毛利勝永と戦い、敗走。
兄の死後、遺領を引き継ぎ、新田開発を行う。
父とは相続を巡って不仲だったらしく、父に先だって死んだときも、遺言状で父については一切触れていなかった。
真田信吉
さなだ のぶよし
1595-1635
真田信之の長男。母は先妻・真田信綱の娘で、継母の稲姫をはばかって、嫡子となることはできなかった。
大坂の陣に参戦。叔父・幸村が豊臣側に味方した関係で、徳川家康に疑われたが、友・井伊直考の弁護で事なきを得た。
弟・信政ともども無事帰還。それを稲姫にとがめられ
兄弟二人のうちどちらかが討死して、忠節を示せばよかったのに、と言われた。
真田昌輝
さなだ まさてる
1543-1575
武田家臣。幸隆の次男。昌幸の兄。小姓として武田信玄に仕えた。小田原攻めで北条氏照を破り、軍功をあげる。
長篠の戦いでは、兄・信綱と共に佐久間信盛の陣に特攻し、玉砕した。
真田昌幸
さなだ まさゆき
1547-1611
信濃の大名。幸隆の三男。信之、幸村の父。
武田信玄に近習として仕え「わが目のごとき者」と賞され、石田三成に「表裏比興の者」と評された稀代の謀将。
攻め寄せる徳川家康の大軍を二度も撃退。その知略を家康は恐れたという。
真田幸隆
さなだ ゆきたか
1513-1574
武田家臣。信綱、昌輝、昌幸の父。戦国真田家の開祖。
武田信玄に仕え、信濃先方衆の主力となった「攻め弾正」の異名を取り、その智謀は武田家中でも随一を誇る。
信玄が攻略に失敗した村上義清の信濃戸石城も、謀略で落城させた。
佐野昌綱
さの まさつな
1529-1574
下野唐沢山城主。古河公方・足利晴氏の臣。古河公方の力が衰えると北条家に仕える。
その後、関東に攻め寄せた上杉謙信に寝返り、小田原攻めにも参加。
のちに再び、古河公方・足利義氏を擁す北条陣営についた。
謙信はこの裏切りに激怒し、10回以上も唐沢山城を攻めたが、昌綱は最後まで城を死守した。
猿渡信光
さるわたり のぶみつ
1534-1587
島津家臣。肥後攻め、龍造寺家との沖田畷の戦いで活躍。
のち筑後に向かい、掘切城、江浦城を攻めた歴戦の雄。
秀吉の九州征伐に際し、日向根白坂で秀吉方の大軍と戦い、討死した。
佐脇藤八
さわき とうはち
不明-1573
織田家臣。前田利家の弟。名は良之。
桶狭間の戦いで、突如奇襲を始めた織田信長に真っ先に従った5人のうちの一人。
のちそのうち岩室重休をのぞく4人は信長の勘気を受け、徳川家康を頼る。
三方ヶ原の戦いに参戦。討死した。
寒川元隣
さむかわ もとちか
不明-1582
東讃岐の大名。昼寝していても守りきれる堅城・昼寝城主。
一時虎丸城に居を移すが三好長治の脅迫を受け、譲り渡す。その後、三好勢の攻撃を受けたが、昼寝城で撃退している。
中富川の戦いでは十河存保に属し、長宗我部軍と戦い、討死した。
宇佐神社に彼が奉納した刀が残るが、この刀は江戸時代、大蛇退治に用いられ、「蛇切丸」と呼ばれた。
山本寺景長
さんぽんじ かげなが
不明-1582
上杉家臣。別名考長。定長の弟とも子とも。
が、御館の乱で上杉景虎に味方し、敗れて逃亡したため、名家・山本寺上杉家当主となる。
御館の乱などの隙を狙って、織田家の柴田勝家が侵攻してくると魚津城に籠城して抵抗。
主君・上杉景勝は彼に降伏開城を許可したが、織田家に屈することなく戦い、若くして散った。
それは奇しくも本能寺の変の翌日のことであった。
山本寺定長
さんぽんじ さだなが
1519-不明
上杉家臣。越後守護上杉一門。上杉謙信の直太刀の衆(一門衆)として活躍。川中島の戦いでは、信玄の本陣を突いた。
謙信が養子・景虎を迎えると、後見役となる。そのため御館の乱では景虎方につくが、敗れて出奔した。
四王天政孝
しおうてん まさたか
不明-1582
明智家臣。通称但馬守。明智光秀の丹羽入国と共に配下となる。越前や石山攻めにも従軍。
本能寺の変の際には、負傷した明智光忠に代わって二条城攻めを指揮し、織田信忠を討ち取った。
江戸時代の浄瑠璃の演目『絵本太功記』(光秀を主人公に「三日天下」を描いたもの)の主要人物でもある。
執行種兼
しぎょう たねかね
1530-1584
江上家臣。のち主君・武種とともに龍造寺家に属す。勇将として知られ、各地の合戦で活躍した。
沖田畷の戦いでは具足をつけず羽織袴で奮戦し、戦死した。
宍戸元考
ししど もとひで
1563-1631
毛利家臣。隆家の孫。元続とも。豊臣秀吉の四国征伐で伊予に進攻。祖父の死後家督を相続する
関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将に擁立されることに、吉川広家と共に反対した。
案濃津城攻めで活躍するも、西軍は敗北。毛利家の領地削減に伴い、父祖伝来の地を去った。
志駄義時
しだ よしとき
1543-1561
上杉家臣。川中島の戦いに参戦、19歳の若さで討死。
子の義秀が後を継ぐが、まだ2才と幼かった。
義時が直江景綱の娘を妻としていたため、義秀は直江家で養育を受けた。
志駄義秀
しだ よしひで
1560-1632
上杉家臣。義時の子。わずか2歳で家督を継ぐ。母が直江景綱の娘だったため、幼い時は直江家で養育を受けた。
直江兼続に与板衆筆頭として仕え、上杉景勝の会津移封に従い、東禅寺城主となる。
1600年、長谷堂の戦いで最上軍に城を落とされ、一時高野山に追放された。のち帰参し、米沢奉行を務めた。
七条兼仲
しちじょう かねなか
1554-1582
三好家臣。阿波七条城主。怪力無双の勇者で知られる。
十河存保に属し、中富川の戦いで長宗我部元親の侵攻軍と戦い討死した。
合戦を前に、剛力を授かろうと大山寺に祈願し、力試しに寺の大石を町まで運び、力を授かったお礼に鏡餅を奉納した。
これが起源となって今でも169kgもの大鏡餅を抱えてどこまで歩けるか競う「力餅」という祭事が残る。
篠井泰信
しのい やすのぶ
不明-不明
上杉家臣。直江景綱の甥。直江兼続の妹婿。
長谷堂の戦いでは第二陣として上山城攻略に向かうが、里見民部に敗退。
篠原実長
しのはら さねなが
不明-不明
三好家臣。長房の弟。久米田の戦いで敗れ、主君・三好義賢が討死したのち、入道して自遁と号す。
義賢の妻・小少将と不倫関係にあったのを兄にとがめられ、兄を義賢の子・長治に讒言し、攻め滅ぼした。
長治死後、長治の弟・十河存保と争うが敗れて傘下に入る。
中富川の敗戦を生きのび、長宗我部元親に抵抗を続けたが、
後ろ盾の織田信長が本能寺の変で倒れていたため押され淡路へ逃亡した。
篠原長房
しのはら ながふさ
不明-1573
三好家臣。実長こと自遁の兄。三好長慶義賢兄弟亡き後、主君・三好長治を補佐し、
阿波讃岐をまとめあげ衰退しつつある三好家を支えた政戦両略の将。四国兵を率いて各地に転戦。
野田福島の戦いの後は、織田信長に有利に立ち、近畿三好家旧領を回復せんばかりであった。
このため、信長は三好家に工作。またその有能さ、清兼さを弟や主君・長治に疎まれた結果、長治に攻められ、討死した。
四宮光武
しのみや こうぶ
不明-1582
寒川家臣。讃岐引田城主。通称外記。
四宮氏は海運貿易で利を得る海賊衆で半独立勢力であり、三好家、長宗我部家とも通じていた。
1570年、三好長治に攻められ、その傘下に屈し、引田城を明け渡す。
中富川の戦いで、長治の弟で跡継ぎの十河存保に属し、長宗我部元親の侵攻軍を迎え撃ち、討死。
弟・光利は仙石秀久に仕えた。
柴崎和泉守
しばさき いずみのかみ
不明-不明
成田家臣。甲斐姫の父・成田氏長に仕えた。
石田三成による忍城攻めの際は、城代の成田長親や甲斐姫と共に奮戦し、小田原落城後まで忍城を守り続けた。
柴田勝定
しばた かつさだ
不明-不明
明智家臣。勝全とも。柴田勝家に仕えたのち、明智光秀に属した。
本能寺の変では、織田信長の長男・信忠が守る二条御所攻めに参加。
続く山崎の戦いでは、光秀を逃すため殿軍となって奮闘。羽柴秀吉に降伏し、堀秀政に仕える。
賤ヶ岳の戦いでは前田利家家臣・村井長頼を助け小田原攻めにも参陣した。
関ヶ原の戦いの後、福島正則に仕える。寒いのが苦手で勝家の元を去り光秀に仕えたという。
柴田勝政
しばた かつまさ
1557-1583
柴田家臣。佐久間盛政、安正の弟。
武勇の誉め高く、加賀での一揆平定で戦功をあげ、勝家から柴田姓を与えられてその養子となる。
同じ養子の柴田勝豊と仲が悪く、これが寝返りを招く。
賤ヶ岳の戦いで敗北後、討死したとも、秀吉に許されて、その配下となったとも伝わる。
新発田重家
しばた しげいえ
1547-1587
上杉家臣。長敦の弟。謙信の下、川中島の戦い、関東出兵に参陣。御館の乱では景勝側につき兄と共に活躍。
しかし景勝に冷遇され、1581年、織田信長に通じ謀反する。
だが本能寺の変後、信長の死によって勢いを失い、羽柴秀吉の救護を受けた景勝軍に城を囲まれ自害した。
新発田長敦
しばた ながあつ
1538-1580
上杉家臣。重家の兄。外交術に優れ、越後国人の帰参に尽力。重臣として政治の中枢に参画した。
謙信没後、御館の乱では景勝を支持。武田勝頼との講和を成功させ、景勝の勝利に貢献する。
だが、景勝から厚遇されることなく、不遇なまままもなく病没した。
柴田康忠
しばた やすただ
1538-1593
徳川家臣。弓の名手で、63本の矢で63人の敵を射抜いたことから、7×9=63の七九郎と名乗る。
三河の一揆衆との戦いで功があり、家康の「康」の字をもらう。その後、対武田戦で活躍。
三方ヶ原の戦い、長篠の戦いの先鋒を務め、本能寺の変の後、甲斐信濃経略に抜擢。第一次上田城の戦いに参戦している。
柴田礼能
しばた れいのう
不明-1586
大友家臣。槍の名手。宣教師から豊後のヘラクレスと呼ばれた。
キリシタンだったため主君・大友宗麟から重用された。これに兄・紹安が嫉妬。侵攻してきた島津軍に寝返った。
宗麟は礼能も疑い、礼能は潔白を示すため、兄のいる島津陣に親子で無謀な突撃を敢行、討死した。
宗麟は忠臣を失ったことを悔やんだ。
島津家久
しまづ いえひさ
1547-1587
島津家臣。義久、義弘、歳久の弟。豊久の父。
軍略に優れ、沖田畷の戦いでは、龍造寺の大軍相手に指揮を執り、龍造寺隆信を戦死させ、
豊臣秀吉の九州征伐の緒戦・戸次川の戦いでは、仙石秀久ら先鋒軍を粉砕した。
しかし、衆寡敵せず、最終的に島津家は豊臣家に降伏。その直後に死亡したため、秀吉の命で毒殺されたとの噂もある。
島津忠恒
しまづ ただつね
1576-1638
島津家18代当主。義弘の三男。のちに徳川家康の偏諱を受け、家久と名乗る。
幼い頃より武を好み、父と共に出陣し、各地で功をあげた。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康に所領を安堵されると、鹿児島城の修築や、
城下や港湾の整備を積極的に行い、薩摩藩の基礎を作り上げた。
島津忠辰
しまづ ただとき
1565-1593
島津家臣。義虎の子。薩州島津氏第7代当主。
豊臣秀吉の九州征伐では、肥後口の高田を守っていたが、有馬晴信の裏切りに遭い、本領・出水に撤退。
1587年に島津義弘に先がけて秀吉に降服、本領を安堵された。その後、島津義弘らからの分立を訴えるも却下される。
のち秀吉の怒りを買い改易。小西行長に幽閉され、まもなく死去。自害とも伝わる。薩州島津氏は断絶した。
島津忠長
しまづ ただなが
1551-1610
島津家臣。義久ら四兄弟の従兄弟にあたる。
多くの戦いで戦功をあげ、九州統一戦では、勇将・高橋紹運の岩屋城を攻め落とした。
関ヶ原の戦いで敗北した後、徳川家康に謁見。当主・義久が西軍に味方した事について弁明した。
島津彰久
しまづ てるひさ
1567-1595
島津家臣。以久の子。北郷時久の孫。沖田畷の戦いで活躍した。
島津家が豊臣秀吉に属した後、人質として京に留まる。遠征先で病没。
島津歳久
しまづ としひさ
1537-1592
島津家臣。義久、義弘の弟。家久の兄。
豊臣秀吉の九州征伐時、戦前は秀吉侮るべからずと開戦に否定的だったが、戦後は義久の降伏後も最後まで抵抗した。
秀吉の朝鮮出兵時には病で出陣できなかったが、これが秀吉の怒りを買い、歳久誅伐命令が義久に下される。
竜ヶ水で自刃しようとしたが病で刀すら持つことができなかったという。
島津久保
しまづ ひさやす
1573-1593
島津家臣。義弘の子。男子のなかった伯父・義久の娘を妻とし、島津家の次期当主と目されていた。
小田原攻めに参陣し折からの雨で増水した富士川を馬で駆け渡り、称賛された。
島津軍では時刻を知るため、戦場に猫を連れていたが、久保は「やす」という名の白と黄の猫を可愛がっていた。
若くして病死。義久はその死を悼み、南無阿弥陀仏を頭文字に入れた挽歌六首を詠んだ。
島津以久
しまづ もちひさ
1550-1610
島津家臣。島津家一門。耳川の戦いで活躍し、軍功第一とされた。
関ヶ原の戦いで島津豊久が討死すると、その旧領を与えられ、日向土佐原藩初代藩主となる。
島津義久
しまづ よしひさ
1533-1611
薩摩の大名。義弘、歳久、家久ら弟と共に大友氏、龍造寺氏らを破り九州全域をほぼ支配下に置いた。
しかし、秀吉の九州征伐の大軍の前に剃髪して帰順。許されて、薩摩、大隅の領国を認められた。
清水政勝
しみず まさかつ
不明-不明
北条家臣。康英の子。母が怪力で有名で彼も母譲りの怪力で有名。
第二次国府台合戦では六角棒で佐竹の兵を十人まとめて叩き潰し、
怪力で知られた太田康資を相手に一騎打ちし、その刀をたたき折った。
三方ヶ原の戦いに武田家の援軍として参戦したとき、敵の首を馬の鞍でねじ切り「ねじ首太郎左衛門」の異名を取った。
北条滅亡後は徳川家康の次男・結城秀康に仕えた。
清水宗知
しみず むねとも
不明-1582
毛利家臣。宗治の兄。元は三村家に属していたが、当主となった弟に従い毛利家に属す。
毛利元就の調略で九州の高橋鑑種、立花鑑載が大友家から離反すると、その援兵に向かうなど、各地を転戦している。
備中高松城の戦いでは豊臣秀吉の水攻めに遭い、降伏。城兵の命と引き換えに、弟と共に切腹して果てた。
清水宗治
しみず むねはる
1537-1582
毛利家臣。備中高松城主。小早川隆景に属して戦い、功をあげる。
織田信長の中国征伐軍に対しても頑強に抵抗するが、羽柴秀吉の水攻めに遭って、苦戦する。
落城を前に、城兵の助命を講和の条件として、自害。時に信長は、すでに本能寺の変でこの世になかった。
清水康英
しみず やすひで
1532-1591
北条家臣。伊豆衆の筆頭。武勇に優れ、名声高く、「五色備」の白備えを受け継ぐ。北条氏康の側近として各地で功を立てた。
豊臣秀吉の小田原討伐では下田城に籠城し、豊臣水軍の大軍を相手に善戦したが敗れ、降伏した。
清水義親
しみず よしちか
1582-1614
最上義光の三男。清水義氏の養子となり2万石を領す。大坂城に送られ、人質として豊臣秀頼に仕えた。
長谷堂の戦いでは叔父・楯岡光直と共に援軍として活躍。
1614年、兄・家親が義光の後を継ぐと、大坂方に通じたとの嫌疑により家親に居城・清水城を攻められ、自害。
志村光安
しむら あきやす
不明-1609
最上家臣。連歌などをたしなみ、教養が深かった。
1600年、大挙して押し寄せる上杉軍に対して長谷堂城にとどまり防戦。
直江兼続の攻囲に耐えて、城を守りきり、最上家の危機を救った。のち、亀ヶ崎城主として3万石を領す。
志村藤右衛門
しむら とうえもん
不明-1600
最上家臣。最上義光の側近。長谷堂の追撃戦で義光が突出。そこを狙っていた上杉軍の銃弾に倒れた。
志村光家
しむら あきやす
不明-不明
武田家臣。山県昌景に仕えた。
長篠の戦いで戦死した昌景の首を甲斐まで持ち帰って供養した。
『長篠合戦屏風』には昌景の首を守る光家の姿がある。
下間頼廉
しもつま らいれん
1537-1626
石山本願寺の坊官。織田信長に石山本願寺を攻められた時は
7年に渡り織田軍の猛攻を防ぎ、雑賀孫市と並んで「大坂の左右大将」と呼ばれた。
信長と和解した顕如が天満に移ると、それに従った。その後、豊臣秀吉に本願寺町奉行を命ぜられた。
下吉忠
しも よしただ
不明-1614
上杉家臣。庄内尾浦城主。上野沼田の将ではじめ北条家に仕えたが、後、直江兼続に属した。
1600年の長谷堂の戦いの際、出羽最上領に進攻。白岩城、谷地城を落とす。
だが、主力撤退時に取り残され孤立。降伏し最上軍の先鋒として元の自城・尾浦城を攻め取った。
一栗の乱で最上義光の次男・家親を擁立する吉忠は、三男・清水義親を立てようとする一栗放牛の孫・高春に暗殺された。
上条政繁
じょうじょう まさしげ
1545-不明
上杉家臣。上条城主。上条上杉家当主。一門衆第四位に位置する重臣。上野や越中に出陣し、活躍。
その縁で能登畠山家一族・畠山義春を養子とする。
謙信没後御館の乱では景勝側に味方するが、直江兼続の讒言を受け、義春と共に出奔、豊臣秀吉に仕えた。
庄林一心
しょうばやし かずただ
不明-1631
加藤家臣。隼人の名で有名。はじめ荒木村重、仙石秀久に仕えた。飯田直景、森本一久と並び、加藤家三傑と呼ばれる。
飯田、森本に比べ、加藤清正に仕えた時期は遅かったものの、
信頼は劣るものではなく、退き戦のとき清正は、勇猛な森本ではなく、庄林を用いた。
白井賢胤
しらい かたたね
不明-不明
大内家臣。房胤の子。もとは安芸守護・武田家に仕えた水軍であったが、
大内義興の代に大内家を鞍替えし、以後は大内水軍の一翼を担って活躍した。
陶晴賢の謀反に与し、厳島の戦いにも陶方として参戦。晴賢滅亡後も大内義長に仕えたが、のちに小早川隆景に降伏した。
白川義親
しらかわ よしちか
1541-1626
白河結城氏13代当主。小峰義親、結城義親とも。蘆名盛氏の娘をめとり、その力を背景に宗家から当主の座を奪う。
しかしその直後に、佐竹家から追放されて自らの保護下にいた和田昭為が佐竹家に寝返り、捕らわれて、佐竹家の傘下に入る。
摺上原の戦いで蘆名、佐竹家が敗れると伊達家に属す。小田原城討伐に参陣せず、改易されると伊達家臣となった。
白石宗実
しろいし むねざね
1553-1599
伊達家臣。輝宗、政宗の2代に仕える。
相馬氏との領地争いから摺上原の戦いまで伊達家の主要な合戦に加わり、戦功を立てた。
豊臣秀吉の命により政宗が移封されると、これに従った。
神西元通
じんざい もとみち
不明-1578
尼子家臣。「尼子十旗」と呼ばれる月山富田城を守る10の支城の一つ・出雲神西城主。
毛利元就の出雲遠征に抵抗するも、あえなく尼子家は滅亡。山中鹿介が尼子再興軍を興すと、合流。
共に上月城に籠城して毛利家と戦うが、落城。主・尼子勝久と共に切腹した。
新庄直頼
しんじょう なおより
1538-1613
浅井家臣。主家滅亡後、織田信長、羽柴秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いでは近江坂本城を守備。
近江大津城主を経て摂津高槻城主となる。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、東軍の筒井定次の伊賀上野城を奪う。
戦後改易。のちに大名に復帰した。
新城信常
しんじょう のぶつね
不明-1586
二本松畠山家臣。二本松義継の従兄弟にあたる。別名、盛継。
義継が伊達政宗に殺されると、その遺児・国王丸を支えて二本松城に籠城。攻め寄せる伊達軍を退けた。
進藤賢盛
しんどう かたもり
不明-不明
六角家臣。父の貞治は六角六宿老であり後藤賢豊と並んで「六角の両藤」と言われた権臣だった。
賢豊が主君・六角義治と対立し討たれる観音寺騒動が起きると浅井長政の後援を得て離反した。
のち帰参して六角氏の権限を縮小する分国法・六角氏式目に署名した。
織田信長が上洛するとその傘下に入る。佐久間信盛の配下となり転戦。
信長死後は織田信雄に仕えた。その後、豊臣秀吉に属した。
水原隆家
すいばち たかいえ
不明-不明
上杉家臣。北越後の豪族「揚北衆」。上杉家軍役帳にその名が見える。
上杉謙信に従い、関東出兵、川中島の戦いに参戦した。
水原親憲
すいばら ちかのり
1546-1616
上杉家臣。家中きっての剛の者であり、風流人としても知られていた。
1600年、会津征伐に来た徳川家康が、関ヶ原に転じたのを見て、家康軍の勝利と上杉家の孤立を予見したといわれる。
大坂冬の陣で活躍、徳川家から感状を送られ、「子供の石合戦のようなもので感状をもらうとは不思議なものだ」と語った。
陶興昌
すえ よしおき
不明-1529
大内義隆の重臣・陶晴賢の兄。
主君・義隆と折り合いが悪く、若くして、父により成敗され、陶家の家督は晴賢が継ぐことになった。
そののち、晴賢の父は、晴賢の短慮な性格が陶家に災いするのではと案じながら死んだ。
陶隆信
すえ たかのぶ
不明-不明
大内義隆の重臣・陶晴賢の弟。主君・義隆の偏諱を受け「隆」の字を名乗っている。
陶晴賢
すえ はるかた
1521-1555
大内家臣。西国無双の侍大将と呼ばれ、尼子晴久を破り、
毛利元就を救うなど軍功多かったが、大内義隆の寵臣・相良武任と対立し、大寧寺の変を起こす。
義隆を自害に追い込み、大友家から義長を主に迎え、権力を握る。厳島の戦いで元就に敗れ、自刃。
菅沼定氏
すがぬま さだうじ
1521-1604
徳川家臣。甥で菅沼家惣領の菅沼定忠に属す。定忠代理として、掛川城の戦いに参陣。
武田軍の侵攻を受け、定忠が武田軍に降伏したのちも、徳川家に留まり続けた。
三方ヶ原の戦いに参戦。大敗直後武田軍に夜襲を決行、武功を立てた。
菅沼貞景
すがぬま さだかげ
不明-1569
徳川家臣。菅沼家支族・長篠菅沼家の当主で三河長篠城主。
はじめ今川家に仕えたが、桶狭間の戦いの後、徳川家康に仕えた。掛川城の戦いに参陣、討死した。
菅沼定盈
すがぬま さだみつ
1542-1604
今川家臣。三河野田城主。桶狭間の戦い後、徳川家に仕える。
武田信玄の三河侵攻では一族の多くが信玄に寝返る中、一貫して徳川家に属し、居城を攻め落とされた。
この際、武田方に捕まるが、奥平貞勝ら人質と交換で釈放される。
その後も長篠の戦いや小牧長久手の戦いなど数多くの戦に参戦。関ヶ原の戦いの際は、江戸城の留守居役となった。
菅屋長頼
すがや ながより
不明-1582
織田家臣。菅谷とも。信長の側近。伊勢北畠氏討伐や有岡城攻めに参加した。
堀秀政らと共に安土の造営奉行を務めた。
また北陸方面の政務を専断し、実戦部隊の柴田勝家と前田利家が彼の出世をやっかむ逸話も残る。
越前を任せられることになっていたが、本能寺の変で、織田信忠と共に二条御所で討死した。
杉善右衛門
すぎぜん えもん
不明-1615
豊臣家臣。七手組出役(兼任出向)。大坂夏の陣で奮戦。討死した。
杉隆泰
すぎ たかやす
1525-1555
大内家臣。杉家は大内家の重臣の家柄。大内義隆が倒れると、陶晴賢が担ぎ出した大内義長に仕えた。
厳島の戦いで晴賢が倒れると、毛利元就の侵攻にさらされる。
元就に降伏したが、普段から仲が悪かった椙杜隆康、隆泰の投降は偽りだと元就に讒言。攻められて自害した。
椙杜隆康
すぎのもり たかやす
不明-不明
大内家臣。房康の子。大内義隆が陶晴賢の謀反に倒れると、晴賢が擁立した大内義長に仕えた。
厳島の戦いで晴賢が毛利元就に敗れると義長を見限って元就に味方する。
かねてから仲が悪く、同じ頃に元就に降った杉隆泰の降伏は偽りであると元就に讒言し、隆泰を滅ぼす。
実子がなかったため元就の子を養子に迎えた。
椙杜房康
すぎのもり ふさやす
不明-不明
大内家臣。応仁の乱のころ、大内政弘に従って上洛した椙杜弘康には子がなく、桑原家から養子を迎えた。
これが房康である。大寧寺の変後、陶晴賢に属すが、厳島の戦いで晴賢が戦死し、
毛利元就が防長経略で攻めてくると、息子・隆泰とともに毛利家に寝返った。
鈴木久三郎
すずき きゅうざぶろう
不明-不明
徳川家臣。家康の狩場で鳥を捕った者を処断しようとした家康に怒り、
池の鯉を捕って食い「魚鳥と人の命どちらが大事か」と諌言した。
三方ヶ原の戦いで総崩れとなった時、家康から采配を奪って武田軍に突撃。身代わりとなって主を逃がした。
鈴木重時
すずき しげとき
1528-1569
徳川家臣。遠江の豪族。
はじめ今川家に仕えていたが、娘婿・菅沼忠久の説得を受け、
徳川家康の遠江侵攻時に徳川家についた井伊三人衆の一人。遠江攻略戦中に討死した。
鈴木重則
すずき しげのり
1547-1589
真田家臣。上野名胡桃城代。部下の裏切りに遭い、北条軍の猪俣邦憲に城を奪われ自刃した。
この事件が豊臣秀吉の小田原討伐の口実となった。
鈴木重好
すずき しげよし
不明-1635
徳川家臣。井伊谷三人衆の一人・重時の子。武田信玄の侵攻を受けて、旧領を放棄、浜松城へ逃げる。
後、井伊直政に属し、旧領を回復した。小牧長久手の戦いで功を上げる。隠居後、江戸幕府の命で水戸藩家老となる。
薄田兼相
すすきだ かねすけ
不明-1615
大坂の陣で活躍した豊臣方の将。ヒヒ退治等をした伝説の剣豪・石見重太郎と同一人物とされる。
敵来襲時、遊郭に行っており、留守で敗北。見てくればかりの「橙武者」と馬鹿にされ発憤。
名誉挽回すべく敵に突入し、討死。
鈴木忠重
すずき ただしげ
1574-1658
真田家臣。名胡桃城を北条家に奪われて無念の最期を遂げ、小田原攻めのきっかけとなった重則の子。
19歳の年に出奔し柳生宗矩の兄・宗章に弟子入りしていた。帰参後、関ヶ原の戦い前後から大坂の陣近くまで再度出奔。
帰参後は真田信之に重臣として仕えた。信之が93歳で天寿を全うすると、後を追い切腹した。
生前から信之に約束していた殉死だったという。
須田長義
すだ ながよし
1579-1615
上杉家臣。梁川城代。満親の子。
東北の関ヶ原の戦い・長谷堂の戦いでは、本庄繁長と協力し、伊達政宗軍を福島口に撃退。
車斯忠に追撃させて、散々に討ち破った。大坂の陣でも戦功を立て、徳川秀忠から感状をもらう。
しかしその時の戦傷が元で死亡した。
須田満親
すだ みつちか
1526-1598
上杉家臣。信濃の豪族。武田信玄に追われ、上杉謙信に仕える。信濃の一向一揆対策の責任者となる。
第一次上田城の戦いでは、真田昌幸の子・幸村を預かって、景勝の援助を斡旋。
昌幸と共に徳川家康に抵抗した。のち直江兼続により追放され上杉家の会津転封時に自害した。
諏訪盛直
すわし もりなお
不明-1582
明智家臣。通称、飛騨守。室町幕府奉公衆。
主君・足利義昭の命で岩成友通と共に山城淀城に籠もるも羽柴秀吉に調略され、織田家に寝返る。
山崎の戦いでは中軍右翼を務めるが、伊勢貞興と共に戦死した。
諏訪頼忠
すわ よりただ
1536-1606
武田家臣。諏訪惣領家で従兄弟の頼重が武田信玄に滅ぼされると、武田家の下で諏訪大社大祝となった。
武田家滅亡後、諏訪を平定して自立。天正壬午の乱後、徳川家に臣従。家康の関東移封にも従った。
諏訪頼水
すわ よりみず
15751-1641
徳川家臣。頼忠の子。諏訪氏は、武田信玄に滅ぼされた後、頼忠が再興し、徳川家に臣従していた。
頼水は主君・家康の関東移封に従い諏訪を離れたが、関ヶ原の戦いの功により、旧領復帰が成った。
関口親永
せきぐち ちかなが
1518-1562
今川家臣。今川家一門、今川義元の妹婿で娘・瀬名姫は徳川家康の正室。瀬名氏俊の弟で関口家に養子に入った。
桶狭間の戦い後、徳川家康が独立すると、主・今川氏真に命じられて切腹。居城・駿河持船城を奪われた。
孫の氏心は長崎で陳元贇に拳法を学び柔術の一流を開いた。
摂津晴門
せっつ はるかど
不明-不明
室町幕府の幕臣。室町幕府政所執事・伊勢貞考が三好長慶と対立すると、
長慶の意向を受けた13代将軍・足利義輝は、貞考を更迭、晴門を政所執事に任じた。
義輝が松永久秀に暗殺されると失脚。
義輝の弟・義昭が、織田信長に擁立され15代将軍となると、再び政所執事に任じられた。
世戸口十兵衛
せとぐち じゅうべえ
不明-1600
立花家臣。名は政真。立花宗茂が立花家に養子に行くとき、宗茂の父・高橋紹運から宗茂の後見としてつけられた。
弓に優れ、関ヶ原の戦いの大津城攻めで、敵城の馬印に降伏勧告の矢文を見事命中させ、降伏させた。
水泳にも優れ、関ヶ原敗戦からの逃亡中、船が嵐に遭い転覆した際も一人生き残った。
しかし、主君・宗茂の兵を嵐で失った責任を取らねばならぬと、自害してしまった。
瀬名氏俊
せな うじとし
不明-不明
今川家臣。瀬名氏は南北朝時代に九州探題を務めた名将・今川了俊を祖とする今川家の一門。
主君・今川義元の姉妹を妻とする。弟・関口親永も義元の妹と結婚している。
桶狭間の戦いでは先手侍大将を務めたが、総大将の今川義元が織田信長に討ち取られたため、交戦せず退却した。
瀬名信輝
せな のぶてる
1544-1572
今川家臣。氏俊の子。今川義元の甥。
武田信玄の駿河侵攻時に、舅・葛山氏元と共に武田家に寝返り、信玄から「信」の字を拝領して信輝と改名した。
仙石勘解由
せんごく かげゆ
不明-1583
仙石家臣。仙石秀久の下、引田の戦いに参戦。
押し寄せる長宗我部先鋒の香川之景、大西頼包を伏兵で迎え撃ち、優勢に戦いを進めたが、
長宗我部元親率いる本隊が戦場に到着すると、戦況を覆され長宗我部軍の前田平兵衛に討たれた。
仙石忠政
せんごく ただまさ
1578-1628
徳川家臣。秀久の三男。関ヶ原の戦いでは真田昌幸らが守る信濃上田城攻めに参加。
その戦功により徳川秀忠から「忠」の字を拝領した。戦後、真田氏にかわって上田城主となった。
仙石秀範
せんごく ひでのり
不明-不明
豊臣家臣。秀久の子。関ヶ原の戦いでは父や弟と袂を分かち、西軍に属す。
戦後牢人となると、京で寺子屋の師匠をして生活していた。その後豊臣方として大坂の陣に参戦。戦後、消息不明となる。
仙石秀久
せんごく ひでひさ
1552-1614
徳川家臣。はじめ豊臣秀吉に仕えた。大盗賊・石川五右衛門を捕らえたといわれる。
九州征伐・戸次川の戦いで島津軍に大敗し秀吉を激怒させたが、小田原討伐で派手な具足に鈴をつけ大奮戦。
戦功を認められ信濃小諸城主となった。
千秋四郎
せんしゅう しろう
1534-1560
織田家臣。名は季忠。熱田神宮大宮司。領地に海賊が出没し、領民を苦しめていた。四郎は海賊に木材調達を依頼。
海賊の主力が拠点の村を離れたすきに、村を焼き払った。
途方にくれた海賊に何食わぬ顔で遠く離れた土地を住居として
あっせんして追い払い、以後四郎の領民は海賊の害に悩むことはなくなったという。
桶狭間の戦いを前に、佐々政次と共に今川軍に突撃。討死した。
相馬郷胤
そうま さとたね
不明-1601
相馬家臣。盛胤の子。義胤、隆胤の弟。陸奥田中城代となり、田中姓を名乗った。
相馬隆胤
そうま たかたね
1551-1590
相馬家臣。盛胤の次男。武勇に優れ、父と兄である16代当主・義胤を補佐した。
摺上原の戦いで蘆名家を降し、その余勢を駆って、相馬家を滅ぼすべく攻め込んできた伊達家と童生淵で戦い、突出して馬の脚をぬかるみに取られ、討死した。
以前から「小利をむさぼり、大利を失うだろう」と心配されていた。
相馬盛胤
そうま もりたね
1529-1601
相馬家15代当主。陸奥小高城主。伊達家と半世紀にわたり戦を繰り返した。
人取橋、摺上原で伊達家と戦うが次第に追い詰められる。
伊達家への降伏を提案するが、あくまで抗戦するという息子・義胤の意見に従い、伊達家最後の攻撃に対して特攻を決意。
領民や兵と共に覚悟を決めるも、豊臣秀吉の小田原征伐により伊達政宗の侵攻は中止となり、助かった。
相馬義胤
そうま よしたね
1548-1635
相馬家16代当主。陸奥小高城主。盛胤の子。十数年にわたり伊達家との死闘を展開した。
賤ヶ岳の戦いでは上杉家についたが、領内を寡兵で通る帰途の政宗を「ここで襲うは武門の恥」と通したという逸話が残る。
戦後改易を命じられたが政宗の取りなしで本領を安堵された。
十河存保
そごう まさやす
1554-1587
三好義賢と美女・小少将の子。叔父・十河一存の養子となる。
実兄・三好長治が異父兄・細川真之に殺された後、三好家を率いる。
中富川の戦いで長宗我部元親に敗退、阿波勝瑞城を放棄する。
讃岐十河城で元親を一度は撃退するも、二度目の攻撃で追われる。
豊臣秀吉に従い、四国征伐軍に加わって長宗我部家に奪われ讃岐を奪回した。
九州征伐では先鋒を務め、戸次川の戦いで戦死した。
十河存之
そごう まさゆき
不明-1587
十河家臣。一存の子。存保の従兄でその家老を務めた。存保の下、長宗我部元親の四国統一軍と戦うが敗れて逃亡。
豊臣秀吉の四国征伐後、主君と共に讃岐に復帰。九州攻めの時、戸次川の戦いで主君と共に戦死した。




トップページ | サイトについて/お問い合わせはこちら
当サイトは個人で運営されています。
各企業様、メーカー様とは一切関係がございません。
Copyright 2013-2023 kanzengenkai.com All Rights Reserved