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武将列伝 一般武将【や〜】

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目次


柳生宗厳
やぎゅう むねよし
1527-1606
大和の剣豪。石舟斎と号す。宗矩の父。剣聖・上泉信綱に師事し、その後を継承して新陰流二世となる。
はじめ松永久秀に仕えたが、久秀が織田信長に謀反すると隠棲。
のち豊臣秀吉の太閣検地で隠し田が発見され、領地を没収される。
1594年、徳川家康に招かれて無刀取りを披露。指南役にと請われるが断り、息子の宗矩を推挙した。
矢沢頼綱
やざわ よりつな
1518-1597
真田家臣。真田幸村の祖父・幸隆の弟。若い頃、出家したが、武芸を好み過ぎて寺を追い出され、還俗した。
神槍・小松明を手に大活躍。武田信玄、のちに甥である真田昌幸に仕えて、沼田城の守備に当たった。
矢沢頼康
やざわ よりやす
1553-1620
真田家臣。頼綱の子。父の死後、従兄弟の昌幸とその子・信之の2代に仕えた。
父に似て武勇に優れ上田城に攻め寄せる徳川の大軍を昌幸の指揮下、撃退した。
関ヶ原の戦いの後は信之の筆頭家老となる。大坂の陣にも参戦した。
屋代景頼
やしろ かげより
1563-1608
伊達家臣。政宗の信任厚く、若くして奉行職に抜擢。
葛西大崎一揆時の一揆衆だまし討ち、出奔した伊達成実の一族皆殺しなど手を汚すも、その責を負わされ、政宗により追放。
流浪の末、死亡した。
矢代勝介
やしろ かつすけ
不明-1582
織田家臣。屋代とも。関東から来た馬乗りで信長の示威のための左義長に出演している。
本能寺の変のとき、たかだか馬乗りだといって明智勢は見逃そうとしたが、これを拒み、厩で討死した。
安井家清
やすい いえきよ
不明-1583
柴田家臣。佐久間盛政に属す。通称は左近。1580年、加賀和田山城に拠る。
3年後、賤ヶ岳の戦いで戦死した。
安田顕元
やすだ あきもと
不明-1580
上杉家臣。信濃飯山城主となり武田信玄に備えた。上杉謙信が上洛を果たすと、これを祝し太刀を献上する。
御館の乱では上杉景勝を支持して活躍。のちに景勝方の将の間で恩賞問題が起きると、調停に入ったが失敗。
面目を失い自害した。
安田国継
やすだ くにつぐ
1556-1597
明智家臣。通称作兵衛。本能寺の変で古川九兵衛、箕浦大内蔵と共に先鋒を務めた「明智三羽鳥」の一人。
森蘭丸を討ち取り、織田信長に一番槍をつける手柄を上げた。
のち羽柴秀長、蒲生氏郷、蘭丸の兄・長可、立花宗茂、豊臣秀次に仕えては退転を繰りかえし、最終的に友・寺沢広高に仕えた。
腫れ物が悪化し自害。それは信長の命日だったという。
安田長秀
やすだ ながひで
1516-1556
上杉家臣。北越後の国人「揚北衆」の一人。謙信が兄と家督を争った際は、謙信を支持するなど古くから側近として仕えている。
簗田新八
やなだ しんぱち
不明-不明
真田家臣。関ヶ原の戦いでは、真田昌幸と幸村の親子に従い、西軍方で戦った。
簗田晴助
やなだ はるすけ
1524-1594
古河足利家臣。北条氏康打倒を企てた主君・晴氏が逆に幽閉されると、晴氏の子で甥の藤氏を擁立。
上杉家や佐竹家と結んで北条家と争った。居城・下総関宿城で北条軍を2度まで退けたが、3度目でついに城を追われる。
小田原討伐後、徳川家に仕えた。
簗田政綱
やなだ まさつな
不明-1579
織田家臣。桶狭間の戦いで、その功を讃えられ、今川義元を討ち取った毛利良勝よりも重く賞せられた。
今川本陣の場所を突き止めたためと言われ、織田信長が情報を重視していた証左ともされるが、実態は不明。
作戦立案に当たったともいう。のち加賀の主となったが、加賀一向一揆に敗れ、撤退。のち織田信忠に属し武田討伐に参陣した。
矢野虎村
やの とらむら
不明-1582
三好家臣。主君の居城・阿波勝瑞城の支城・矢上城主。矢上伯耆守とも。阿波三好三将の一人・国村の子。
久米田の戦いに阿波から参戦。敗戦し主君・三好義賢が討死すると出家して戒厳と号す。
父が長宗我部元親に謀殺されると家督を継ぎ中富川の戦いでは十河存保に属し長宗我部侵攻軍を迎え撃つ。
香宗我部親泰と一騎打ちの末、討ち取られた。息子の備前守も同じ戦で討死している。
山内一豊
やまうち かつとよ
1546-1605
賢妻・千代が持参金で買った馬をきっかけに出世したとの美談「一豊の妻」で有名。
織田、豊臣に仕え、関ヶ原の戦いの時は、いち早く東軍入りを表明。
居城を徳川家康に提供し、歓心を買って、戦後土佐一国を与えられた。
山内忠義
やまうち ただよし
1592-1665
2代土佐藩主。一豊の弟・康豊の子として生まれる。一豊に子がなかったため、一豊の養子となり1605年、土佐藩主となる。
儒者・野中兼山を登用して革新的な政策を実施。藩政の基礎を固めた。
山浦景国
やまうら かげくに
1546-1603
上杉家臣。村上義清の子。父と共に信濃を武田信玄に追われて上杉謙信を頼り、その養女をめとって猶予となった。
天正年間の軍役帳では、上杉景勝に次ぐ第2位に並んでいる。御館の乱では景勝に味方し「景」の字を与えられ景国と名乗った。
豊臣秀吉の小田原討伐の時は上杉軍の先鋒を務めた。
山角定勝
やまかど さだかつ
1529-1603
北条家臣。康定の甥。氏政、氏直2代に仕えた。1582年、徳川と北条の講和の際、徳川家康の娘・督姫が氏直に嫁いだが、そのときの媒酌を務めた。小田原開城後、氏直に従って高野山に上る。氏直死後、家康に旗本として仕えた。
山角康定
やまかく やすさだ
不明-1590
北条家臣。三家老、五色備えの下に位置する北条二十将衆の一人。北条氏政の側近として内政に活躍。
外交では上杉家との同盟交渉を行っている。第二次国府台合戦に参陣。北条家滅亡後間もなく死去した。
山県昌景
やまがた まさかげ
1529-1575
武田随一の猛将。武田四名臣の一人。飯富虎昌の弟とも甥とも。軍装を赤で統一した最強部隊「赤備え」を率いる。
川中島での鬼小島弥太郎との一騎討ちや三方ヶ原での家康本陣への特攻など、武勇を示す逸話を多く残す。
長篠の戦いで、織田軍の銃撃を受け、討死。
山県昌次
やまがた まさつぐ
1544-1575
武田家臣。昌景の子。長篠の戦いに参戦。父の戦死を知り、その元へ向かおうとするが、敵に囲まれ自害した。
山川賢信
やまかわ かねのぶ
不明-不明
伊達家臣。大坂冬の陣では伊達家を出奔し豊臣方に味方。道明寺の戦いで奮戦する。
大坂城落城後、北川宣勝と共に八幡滝本坊に隠れていたが、八幡滝本坊の僧が捕らえられたと聞くと、板倉勝重のもとに出頭。
その後、二人は許され、賢信は徳川家康の死後、平戸の松浦隆信に仕えた。
山口重政
やまぐち しげまさ
1564-1635
徳川家臣。織田信雄に仕え、その後家康の招きを受けた。
関ヶ原の戦では秀忠に従い、第二次上田城の戦いに従軍、その功で大名となる。
のちに本多正信と大久保忠隣の権力争いに巻き込まれ、改易。
大坂の陣では徳川方に属し、奮戦。長男を失うも、その功で大名に復帰した。
山口教継
やまぐち のりつぐ
不明-1560
織田家臣。信秀に仕え鳴海城主となるが信長が後を継ぐと、織田家を離れ、今川義元に寝返る。
のちに織田側に再度寝返るという噂が立ち、義元に成敗された。
鳴海城はその後、今川家直轄地となり、この鳴海城を巡る戦いが、桶狭間の戦いへと繋がっていく。
山口弘定
やまぐち ひろさだ
不明-1615
豊臣家臣。正弘の次男。父と兄は、関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後降伏したが許されず自害。
その遺志を継ぎ、大坂夏の陣で豊臣側に属す。木村重成に従い、若江に出陣、共に討死した。
山崎興盛
やまさき おきもり
不明-1557
陶家臣。厳島の戦いで陶晴賢が敗死した後も、大内義長を守って、毛利軍の熊谷信直、毛利隆元を撃退した。
対して、毛利元就が出馬。歴史上はじめて火縄銃を使用した総攻撃と調略により、落城。
元就は興盛を惜しみ、助命しようとしたが拒絶。自害して果てた。
山崎隆方
やまざき たかかた
不明-1555
陶家臣。陶晴賢の側近。
厳島の戦いでは最後まで晴賢に従い、晴賢自害後、伊香賀隆正、柿並隆正と刺し違えて自害。
山崎長徳
やまざき ながのり
1552-1620
朝倉家臣。吉家の甥。朝倉家が滅亡すると明智光秀の配下となり、本能寺の変、山崎の戦いに参陣。
そののち柴田勝家に仕え、賤ヶ岳を戦う。仕えた勢力はことごとく滅んだが、最後に仕えた前田家で天寿を全うした。
山崎吉家
やまざき よしいえ
不明-1573
朝倉家臣。新左衛門尉、長門守と称す。朝倉考景、義景に仕える。
武勇優れた名将で、志賀の陣で織田の将・森可成らを討ち取った。
1573年の刀根坂の戦いでは、敗勢の朝倉軍の殿軍を務め、子の吉建と共に討死した。
山路将監
やまじ しょうげん
1546-1583
名は正国。賤ヶ岳の戦いでは、主・柴田勝豊に従い、秀吉方につく。しかし柴田勝家に誘われて内応。
味方の一部を割いて、敵の側面をあたらせる「中入れ」策に出るが、失敗。加藤清正に討たれた。
山田有信
やまだ ありのぶ
1544-1609
島津家臣。義久の家老を務めた。大友宗麟の攻撃から薩摩高城を守り、続く耳川の戦いで大友軍を破った。
秀吉の九州征伐に降伏した時、天草領を与えられたが返上し島津家への臣従を願った。
大和興武
やまと おきたけ
不明-1555
陶家臣。厳島の合戦に、主君・陶晴賢に従って参戦。
和歌に優れていたため、毛利元就が殺すのを惜しみ、旧知の家臣に生け捕りにさせ、降伏するように言ったが、それを拒絶した。
山中鹿介
やまなか しかのすけ
1545-1578
尼子家臣。名は幸盛。尼子十勇士の筆頭格。月に「我に七難八苦を与えたまえ」と誓ったことで有名。
毛利元就に尼子家が滅ぼされたのち、尼子勝久を擁して主家再興に奔走。織田信長に従い、松永久秀の信貴山城攻めに活躍。
信長の後援を得て再興軍を興し、播磨上月城で毛利家と戦ったが敗北。志を遂げられぬまま世を去った。
山本勘助
やまもと かんすけ
1493-1561
武田信玄の軍師。天文学から兵法まで文武百般に通じる。
川中島の戦いの際、妻女山に陣取る上杉軍を挟撃する「啄木鳥(きつつき)戦法」を献策。
だが、上杉謙信に策の裏をかかれ、その責任を取るべく上杉軍に突入、討死した。
山本勘蔵
やまもと かんぞう
1556-1575
武田家臣。勘助の子。名は信供。長篠の戦いでは高坂昌澄と供に長篠城を監視していた。
その後、武田勝頼から設楽原へ集結せよとの命を受けるが、すでに勝負は決していた。
単騎で徳川本陣へと突っ込むが、討ち取られる。
山吉豊守
やまよし とよもり
1525-1577
上杉家臣。上杉謙信の奏者を務め、外交にも活躍した。
天正年間の上杉家軍役帳では、軍役数が家中で最多であることから大身であったことがうかがえる。
屋山種速
ややま たねはや
不明-1586
高橋紹運の右腕ともいうべき家臣。岩屋城城代家老。
立花道雪死去の混乱に乗じて敵が攻め寄せたとき、紹運夫人と立花直次を救出した。
岩屋城の戦いでは自らが城を守り討死するからと紹運に脱出を勧めたが、紹運は忠臣を見捨てられぬ、と共に死ぬ道を選んだ。
彼の死の直後、彼の13才の嫡男・太郎次郎が島津軍に斬り込み、無残にも死を遂げている。
湯浅国貞
ゆあさ くにさだ
不明-1582
三好家臣。通称豊後守。阿波中荘城、別名・湯浅城主。先祖は紀伊湯浅氏の出だという。
中富川の戦いで長宗我部元親と戦い、討死。
湯浅甚介
ゆあさ じんすけ
1545-1582
織田家臣。馬廻衆。桶狭間の戦い、長篠の戦いなど信長の主要な合戦に参加して軍功をあげている。
本能寺の変のとき、信長に付き従って、明智光秀の軍勢と戦い、本能寺で果てた。
由比正純
ゆい まさずみ
不明-1569
今川家臣。正信の子。駿河川入城主。父が桶狭間の戦いで討死すると、後を継ぎ今川義元の後を継いだ氏真に仕える。
武田信玄の駿河侵攻が始まると氏真を守るため居城を捨てる。掛川城の戦いで徳川家康に攻められ、討死。
由比正信
ゆい まさのぶ
不明-1560
今川家臣。駿河川入城主。今川家の家督争い・花倉の乱では今川義元を支持。義元の京への上洛軍に参陣。
はじめ今川優勢で織田方の砦を陥落させたが、桶狭間で休息中に織田信長の奇襲を受け、乱戦の中、討死した。
結城秀康
ゆうき ひでやす
1574-1607
家康の次男。剛毅大胆、知勇抜群であったが、家康に疎まれ、不遇をかこつ。
豊臣家に人質として出され、のち下総の名族・結城家の養子となる。
異母弟・秀忠が将軍になったのを不満に思い、密かに豊臣家を支持したと伝わる。
弓削家澄
ゆげ いえずみ
不明-1570
浅井家臣。通称、六郎左衛門。弓削氏はもとは京極家の重臣であった。
浅井長政に従い、1560年、野良田の戦いで後陣に名を連ねる。姉川の戦いで討死。
湯目守重
ゆめ もりしげ
不明-1600
伊達家臣。通称加賀守。長谷堂の戦いの時、最上義光の要請で、伊達政宗が送った援軍。
上杉軍を追撃中、討死。
由布惟信
ゆふ これのぶ
1527-1612
立花家臣。立花四天王筆頭。道雪に仕えるために家督を嫡男に譲り、道雪の下へはせ参じた。雪道にちなみ「雪下」と号す。
参加した合戦は65度以上という猛将。関ヶ原の戦いで主家が改易された後も宗茂を助け、立花家再興に尽力した。
由良成繁
ゆら なりしげ
1506-1578
上野の大名。はじめ新田家の末裔である岩松家に仕えていたが、主君から新田金山城を奪って由良と改姓。
大名として独立した。北条氏と上杉氏の間を渡り歩き家名を残す。
妻・妙印尼は将才に優れ、北条家が攻めてきたとき、城に籠もって撃退し、豊臣秀吉の小田原攻めでは豊臣軍として働き、その功で北条家についた息子たちの命を救っている。娘が成田氏長に嫁ぎ、その娘が甲斐姫である。
由利鎌之助
ゆり かまのすけ
1573-1615
真田家臣。真田十勇士の一人。鎖鎌の名手。剣にも槍にも優れた。名は甚幸。
真田家の仇敵で何度も真田親子を狙うが真田幸村に敗れ、家臣となる。大坂の陣で討死。
横尾勘解由
よこお かげゆ
不明-不明
最上家臣。志村光安の娘婿で家老。
東北の関ヶ原・長谷堂の戦いでは、押し寄せた上杉軍・春日元忠の陣に夜襲をかけ、戦果を上げた。
横田康景
よこた やすかげ
1525-1575
武田家臣。武田信玄が「武辺の者となりたいなら、原虎胤、横田高松のようになれ」と言った原虎胤の子で横田高松の養子。
義父・高松が砥石崩れで戦死すると家督を継いだ。長篠の戦いで討死。
横谷重氏
よこや しげうじ
不明-1615
真田家臣。幸重の弟。関ヶ原の戦いで、真田幸村に従い、西軍に属す。
幸村が九度山に流されるとこれに同行。大坂の陣でも幸村と行動を共にし、夏の陣で討死した。
真田十勇士・猿飛佐助のモデル。
横山監物
よこやま けんもつ
不明-1600
石田家臣。関ヶ原の戦いの前哨戦・杭瀬川の戦いに、蒲生頼郷の下、出撃。
東軍・有馬豊氏隊の稲次右近と一騎打ちし、組み伏せたが右近の家来に鎧を引きはがされて討ち取られた。
横谷幸重
よこや ゆきしげ
不明-不明
真田家臣。真田昌幸、信之の2代に仕えた。真田家の重臣であり、出浦盛清と双璧を成した真田忍者の頭領でもある。
要害・雁ヶ沢城を守り、昌幸が参陣した合戦のほとんどに従軍した。
吉江景資
よしえ かげすけ
1527-1582
上杉家臣。宗信の子。上杉謙信の旗本として活躍。
越後春日山城留守居役軍監や下野佐野城の守将などを務めた。御館の乱では景勝側に属す。
乱後、越中魚津城の守備に就くが織田軍の柴田勝家に攻め落とされ自刃した。
それは織田信長が本能寺で果てた翌日だった。
吉江宗信
よしえ むねのぶ
1505-1582
上杉家臣。景宗の子。晩年、入道し宗ァと号した。上杉謙信、景勝の2代に仕えて活躍。
織田軍が越中に侵攻してくると魚津城に籠もり抗戦するが力尽き、子の景資、山本寺孝長・竹俣慶綱らと共に壮絶な自害を遂げた。
本能寺の変の翌日のことだった。
吉田氏好
よしだ うじよし
不明-1560
今川家臣。桶狭間の戦いで軍奉行を務めた。討死したとも、生き残り、氏真に仕えたとも伝わる。
吉田貞重
よしだ さだしげ
不明-不明
長宗我部家臣。考頼の子。戦場で敵に槍で左目を突かれたが、逆に槍を奪って敵を倒した。
博学で書や囲碁をよくし、特に天文に通じていた。関ヶ原で主家が滅亡した後、保科家に召し抱えられた。
吉田重政
よしだ しげまさ
1485-1569
六角家臣。近代弓術の主流・吉田流の開祖・重賢の子。
主君・六角義賢に弓術を教えるが、秘伝伝承を拒んで、一時期朝倉家に逃げている。
やがて帰参し、義賢に秘伝を伝授した。
そのため六角家の弓兵は精強で、1561年将軍地蔵山の戦いでは、神楽岡にて松永久秀率いる一万の兵をわずか三百の弓兵で撃退している。
吉田長利
よしだ ながとし
1547-1623
黒田家臣。黒田二十四騎の一人。藩州姫路の土豪。合戦では常に二間半の長槍を用いた。
黒田官兵衛に仕え、羽柴秀吉の播磨攻略に活躍。
備中高松城を水攻めにする際、大船に石を詰めて沈め、水をせき止める策を提案したとも伝えられる。
関ヶ原の戦いでは、官兵衛とともに石垣原の戦いで活躍。そこで左頬に銃弾が当たり、歴戦で初めての傷を負った。
吉田政重
よしだ まさしげ
1568-1628
長宗我部家の勇将。吉田考頼の弟・大備後重俊のひ孫。六尺二寸の偉丈夫。中富川の戦いで初陣。その後、各地で活躍。
関ヶ原の戦いで主家が西軍について滅亡したため、牢人となる。
大坂の陣では旧主・盛親に従って戦う。大坂落城後は土佐に戻り、医師にった。
吉弘鎮信
よしひろ しげのぶ
不明-1578
大友家臣。高橋紹運の兄。毛利元就との戦いで活躍。博多、堺商人との交渉を務めた。
主君・大友宗麟が重臣・立花道雪の讒言を疎ましく思い、遠ざけると、代わって宗麟の側近となる。
耳川の戦いでは宗麟の出馬を請うも退けられ、大友軍の統率が取れないまま開戦。
島津軍の釣り野伏戦術に翻弄されて軍は壊乱。鎮信も乱戦の中、討死した。
吉弘統幸
よしひろ むねゆき
不明-1600
大友家臣。鎮信の子。関ヶ原の戦いの際に主君・大友義統の西軍加担案に反対、東軍加担を主張するが却下された。
義統に従って石垣原で黒田官兵衛と戦い、戦死した。
依田大膳
よだ だいぜん
不明-1590
北条家臣。北条氏邦に属し。武蔵石戸城に入る。神流川の戦いに参陣。
豊臣秀吉の小田原攻めに対しては、相模足柄城を北条氏忠の下、守る。
味方、山中城落城の報に接し、氏忠を脱出させた後、徳川軍の井伊直政の攻撃を受け、落城、討死した。
依田信蕃
よだ のぶしげ
1548-1583
武田家臣。信濃の豪族。武田信玄の駿河侵攻で活躍。
遠江二俣城の守将となり、長篠の戦いでの大敗後も徳川家康の攻撃をしのぎきった。
武田家滅亡時も、駿河田中城を守り、主君・勝頼の死まで家康の攻撃を防ぎきった。
本能寺の変後は、信濃を狙う北条家と対立。
家康と結び、真田昌幸を北条側から寝返らせるなどして周辺勢力を糾合し、信濃で一勢力を築いたが、近隣豪族との戦いで戦死した。
米津常春
よねきづ つねはる
1524-1612
徳川家臣。徳川十六神将の一人。三河安祥城攻めでは織田信長の兄・信広を生け捕る。
このことで、今川家軍師・太原雪斎が捕虜交換で、織田家に連れ去られた幼き日の徳川家康を取り戻すことができた。
その後も、桶狭間の戦い、三河一向一揆鎮圧など、徳川家康最初期の戦いに活躍した。
米倉重継
よねくら しげつぐ
不明-1575
武田家臣。通称丹後守。甲州巨摩郡武川節米倉に居を構えたことから米倉氏を名乗った。
甘利昌忠の同心頭として活躍。長篠の戦いで戦死した。矢や鉄砲を防ぐために作られた竹の盾「竹束」の考案者といわれている。
依岡左京
よりおか さきょう
不明-1587
長宗我部家臣。土佐国司・一条家に仕えていたが、主家の内紛を逃れ長宗我部家に鞍替えする。
伊予北之川城攻めで敵将を討ち取って名を上げた。織田信長への使者を務めたとき、本能寺の変に遭遇。
情勢を元親に報告している。のち、豊臣秀吉の九州征伐に主君・元親と共に従い豊後戸次川で島津家久に敗れ、討死。




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