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目次

海北綱親
かいほう つなちか
1510-1535
浅井家臣。「浅井三将」の一人。勇猛かつ軍略にも優れ、羽柴秀吉が「綱親こそが我が兵法の師である」と言ったと伝わる。
息子とされる友松は画家として身を立て、海北派の祖となった。
浅井長政の祖父・亮政の時代に京極氏との戦闘で討死したとも伝わる。
各務元正
かがみ もとまさ
1542-1600
森家臣。野田福島の戦いに出向いた織田軍の後背を突いて、
浅井朝倉連合軍が攻め来たとき、宇佐山城を守って敵の進攻を遅らせ、その間に織田軍本隊が野田福島から戻ることができた。
武田討伐の高遠城攻めでは、斥候に出て、そのまま城内に突入、一人で敵をなぎ倒し、「鬼兵庫」の異名を得た。
その武勇に蒲生頼郷が惚れ込み、引き抜こうとしたが、二君に仕えず、と断った。
香川親和
かがわ ちかかず
1567-1587
長宗我部元親の次男。讃岐の豪族・香川之景の家督を継ぎ讃岐経営に従事するが豊臣秀吉の四国討伐軍に敗れて土佐に戻る。
長宗我部家が豊臣家に降った後、戸次川の戦いで兄・信親が戦死したが、
その後、家督相続の沙汰がないのに絶望し失意の内に病死した。一説に自ら断食し命を絶ったとも、元親に毒殺されたともいう。
香川信景
かがわ ゆきかげ
1527-1600
西讃岐守護代。はじめ之景と名乗る。細川家、三好家からの独立を志向。
織田信長が台頭すると接近し、「信」字を拝領し、信景と改名する。
長宗我部元親が讃岐に進出すると、元親の次男・親和を養子とし、元親に仕える。
引田の戦いでは仙石秀久を大西頼包と共に撃退している。秀吉の四国征伐軍に敗れ、元親を頼って逃亡。
元親降伏後、香川家は取りつぶされた。
柿崎晴家
かきざき はるいえ
不明-1578
上杉家臣。景家の次男。1570年に結ばれた越相同盟の際、上杉謙信が独身で子がなかったため、
上杉方の人質として北条家に差し出された。同盟が破棄されると越後に戻り、景家の死後、家督を継いだ。
御館の乱では上杉景虎についたため、上杉景勝方に謀殺された。
筧十蔵
かけい じゅうぞう
1573-1615
真田家臣。真田十勇士の一人、鉄砲の名手。また針を飛ばす秘技で戦った。名は十兵衛ともいう。
大坂の陣に真田幸村に従い参陣。討死したとも、幸村が薩摩に落ち延びたのに従ったとも伝わる。
笠原政尭
かさはら まさはる
不明-1590
北条家臣。重臣・松田憲秀の子。名は政晴とされる。白備えの笠原康勝の養子となり後を継ぐ。
武田家最前線の堅城・戸倉城主となる。一時武田勝頼に寝返ったが、武田家滅亡後、北条家に帰参する。
豊臣秀吉の小田原討伐の際、父と共に秀吉に内応したが、弟・直秀の密告により露見。捕らえられて殺された。
梶川一秀
かじかわ かずひで
不明-不明
織田家臣。水野家に属していた。高秀の弟。桶狭間の戦いでは兄と共に中島砦を守った。
梶川高秀
かじかわ たかひで
不明-1568
織田家臣。水野家に属していた。一秀の兄。桶狭間の戦いで中島砦を守る。信長上洛戦の摂津池田攻めで討死。
加地春綱
かじ はるつな
不明-不明
上杉家臣。越後北蒲原郡加地庄の領主。独立心旺盛な北越後の豪族「揚北衆」の一人、
安芸守。1531年の上条の乱で、は長尾為景に背くが、のちにその娘をめとり講和。
その後、上杉謙信に仕えて、1564年には信濃飯山城を守った。
春日元忠
かすが もとただ
不明-1608
上杉家臣。武田家の滅亡後、景勝に仕える。直江兼続の厚い信頼を得て側近となり「直江被官の棟梁」と称された。
庄内一揆の残党鎮圧、出羽長谷堂城攻囲などに出陣。米沢奉行を務めた。
糟屋武則
かすや たけのり
1562-不明
豊臣家臣。名は加須屋真雄とも。はじめ別所家に仕えるが、黒田官兵衛の斡旋で秀吉に仕える。
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる。
関ヶ原の戦いでは七本槍中ただ一人最後まで西軍について奮戦する。戦後、改易された。
片桐且元
かたぎり かつもと
1556-1615
豊臣家臣。近江須賀谷の豪族で浅井長政に仕えていた一族の出。浅井滅亡後、羽柴秀吉に仕えた。
賤ヶ岳七本槍の一人。豊臣秀頼の傅役となり、秀吉没後、豊臣家を守るべく、
秀頼と徳川家康の関係調整に動くも果たせず、大坂城を追われ、大坂夏の陣後まもなく世を去った。
過労死とも、主君を売った末、暗殺されたのだとも、自害したのだともいわれる。
片倉重長
かたくら しげなが
1584-1659
伊達家臣。政宗の軍師・片倉小十郎景綱の長男。
父と同じく小十郎を名乗り、大坂夏の陣では豊臣方の将、後藤又兵衛の軍勢を撃破。
「鬼の小十郎」の異名を取る。その勇猛さを認めた真田幸村は、自分の娘を重長の妻とした。
桂元澄
かつら もとずみ
1500-1569
毛利家臣。安芸桜尾城主。厳島神社を含む神領の管理、支配を担当した。
厳島の戦いの際は陶晴賢に偽の書簡を送り、晴賢を厳島へおびき出すことに成功した。
葛山氏元
かつらやま うじもと
1520-1573
今川家臣。葛山城主。半独立勢力で、駿東郡の所領内で家臣屋敷分の年貢減免や領内社寺の保護など独自の政策を施す。
今川義元死後、駿河に進出してきた武田信玄に降り、信玄六男・氏貞に後を譲った。のち謀反を疑われ、刑死。
加藤重次
かとう しげつぐ
1560-1613
加藤家臣。近江甲賀の出で、はじめ六角家、佐々成政に仕えた。のち加藤清正の家老となり、加藤姓を与えられた。
加藤嘉明
かとう よしあきら
1563-1631
豊臣家臣。父は徳川家に仕えていたが、一向一揆に味方したため、主を変えた。
賤ヶ岳の戦いで活躍し、七本槍の一人に数えられる。沈勇の人で、武辺以外のことではほとんど語らなかった。
また、小姓が十枚ぞろえの家宝の皿を一枚割ったとき、
残りの皿を見るという家中の者が彼の失敗を思い出すだろうからと言って残りの九枚の皿を割ってしまったという。
金森長近
かなもり ながちか
1524-1608
織田家臣。信長親衛隊「赤母衣衆」に名を連ねた武人。その一方で、千利休らに学び、茶人としても名を上げる。
本能寺の変の後、羽柴秀吉らと共に明智光秀を破った。関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方して軍功をあげた。
可児才蔵
かに よしなが
1554-1613
美濃出身。幾たびも主君を変えた槍の名手。関ヶ原の戦いでは、福島正則に従い参戦。17もの首を獲る。
自分が倒した証として、敵の口に笹の葉を噛ませたことから、「笹の才蔵」と呼ばれた。
金子元宅
かねこ もといえ
不明-1585
伊予の豪族。長宗我部元親の四国統一に貢献する。人格・識見ともに優れた勇将と評された。
秀吉の四国征伐の際には、元親への義を貫き、秀吉の圧倒的な大軍を前に徹底抗戦。敗れ、自害した。
その死に感じた秀吉方の将・小早川隆景は千人塚を立て、供養した。
樺山久高
かばやま ひさたか
1558-1634
島津家臣。若い頃から島津家に仕え、義弘、忠恒二代の家老を務めた。各地の戦いに従軍し戦功を立てた。
琉球攻略時には大将となり、三千の兵を率い首里城を占拠。王子らを人質として連れ帰った。
亀井茲矩
かめい これのり
1557-1612
豊臣家臣。琉球守を称す。もとは尼子家に仕えていたが、毛利元就により主家が滅ぼされると、山中鹿介と共に毛利家に抵抗。
毛利攻めに来た秀良に仕え、鳥取城攻めなどに活躍。
困幡鹿野城主となって、干拓や水路の整備など領内の産業振興に努めた。また朱印状を得て、シャムに貿易船を派遣した。
蒲生氏郷
がもう うじさと
1556-1595
織田家臣。信長に器量を見込まれ、その娘を妻にした。朝倉攻め、長篠の戦いなどで活躍。
信長の死後は秀吉と結び滝川一益、佐々成政を破った。葛西大崎一揆鎮圧に活躍し、その扇動者として伊達政宗を告発。
文武に優れた氏郷を恐れた石田三成は、秀吉に毒殺を勧めたという・若くして病死した。
蒲生賢秀
がもう かたひで
1534-1584
六角家臣。六角六宿老の一人。近江日野城主。定秀の子。氏郷の父。
観音寺騒動では父と共に六角家を保護、家臣との関係修復に尽力した。
六角家が滅亡後は織田信長に仕え、旧主・六角家が織田包囲綱に入るよう要請していた。
明智光秀が本能寺の変で信長を殺すと、濃姫らを居城に保護する。
この時も光秀からの味方につくようにという要請を頑として拒否。「日野の頑愚殿」の異名を得た。
蒲生頼郷
がもう よりさと
不明-1600
石田家家臣。はじめ横内喜内といったが、蒲生氏郷に仕えて、蒲生の郷の字を賜った。
氏郷の死後、出奔。石田三成に召し抱えられた。関ヶ原の戦いでは石田隊の前衛を務めて奮戦。
織田有楽と遭遇して降伏を勧められたがこれを拒んで討ち取られた。
唐沢玄蕃
からさわ げんば
不明-不明
真田家臣。「飛び六方」で有名な忍者。元は上野岩櫃城主・斎藤家に仕えていたが、
真田家の上野侵攻軍に内応し、武田家、その滅亡後は真田家に仕えた。
長篠の戦いにも参戦し、生還している。関ヶ原の戦いでは東軍側の信之に従った。
河合吉統
かわい よしむね
1521-1573
朝倉家臣。一乗谷四奉行の一人。主に内政に手腕を発揮。
一方で同盟国・浅井家が織田信長に攻められた時には、軍を率いて救援に駆けつけている。
姉川の戦いに参戦。刀根坂の戦いで討死した。
川上忠智
かわかみ ただとも
不明-1607
島津家臣。島津義弘に属して各地を転戦し、肥後、日向攻略に功があった。
木崎原の戦いでは加久藤城を守り、伊東軍を撃退している。
沖田畷の戦いでは嫡男・忠堅が敵総大将・龍造寺隆信を討ち取る功を立てている。
川口宗勝
かわぐち むねかつ
1548-1612
織田家臣。一説に織田信長の従兄弟。徳川家康のはとこに当たる。
美濃攻めの時羽柴秀吉が墨俣一夜城を立てたとき、その一員の中に名が見える。
関ヶ原の戦いでは、東軍に味方しようとしたが、長束正家に阻まれ、西軍として参戦。
安濃津城攻めに参加。戦後、許されて、徳川家の旗本となった。
河窪信実
かわくぼ のぶざね
不明-1575
武田家臣。武田信虎の七男で信玄の弟に当たる。甲州北山河窪に居を構えたことから河窪氏を称した。
長篠の戦いでは鳶ヶ巣砦を守備。酒井忠次率いる別働隊相手に奮戦するが、力尽きて戦死した。
河尻秀隆
かわじり ひでたか
1527-1582
織田家臣。信長の父・信秀の代から仕え信長側近・黒母衣衆の筆頭となる。
信長の長子・信忠の補佐を命じられ、長篠の戦い、武田討伐に活躍。
甲斐を与えられたが、本能寺の変後、徳川家康と対立。反乱が起き、武田家遺臣に殺害された。
河田長親
かわだ ながちか
1545-1581
上杉家臣。近江出身。謙信上洛時、目にとまり側近として仕えるようになった。関東出兵、越中経営に活躍。
謙信の没後は、越中松倉城主として景勝に属し、織田軍と戦い、城中で病死した。
蒲原氏徳
かんばら うじのり
不明-1560
今川家臣。満氏の子。駿河蒲原城主。今川義元に従って、京を目指す上洛軍の一翼を担う。
尾張の桶狭間で休息中、織田信長の奇襲に遭い、乱戦の中、討死。
喜入季久
きいれ すえひさ
1532-1588
島津家臣。島津一門。島津忠俊の嫡子。所領の各地を取り、喜入姓に改めた。
義弘の家老を務め、大隅攻略や菱刈討伐に功を立てる。
和歌、連歌に通じており、近隣豪族だけでなく京都の武家、公家との交渉にも活躍した。
岸田忠氏
きしだ ただうじ
不明-1616
豊臣家臣。大和の豪族。はじめ筒井順慶に仕え、のち羽柴秀長、秀吉に仕える。
関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、小西行長の軍に属して戦い、戦後改易された。
北川宣勝
きたがわ のぶかつ
不明-不明
伊達家臣。信勝とも。浜田景隆の子。大坂の陣では、伊達家を出奔して豊臣方に味方し、道明寺や天王寺の戦いで奮戦する。
長宗我部盛親を下につけられたが、自分が下につくのが道理と固辞し、もめた。
大坂城落城後、山川賢信と共に八幡滝本坊に隠れていたが、八幡滝本坊の僧が捕らえられたと聞くと、板倉勝重のもとに出頭。
その後、二人は許され、宣勝は徳川家康の死後、大村純頼に仕えた。
北条景広
きたじょう かげひろ
1548-1579
上杉家臣。鬼弥五郎の異名を持つ勇将。父・高広とともに上野厩橋城にあって、上杉謙信の関東経略を助けた。
一時、上杉家を離反して北条家に属すが、のち帰参する。
御館の乱の際は、上杉景虎に味方して活躍するが、上杉景勝の手の者に暗殺され、中核を失った景虎方は次第に傾いていく。
独身主義の謙信から、早く身を固めたほうがいいとの手紙をもらっている。
北条高広
きたじょう たかひろ
1517-1587
上杉家臣。上野厩橋城主を務め、関東経略を担当するなど活躍した。
武田信玄や北条氏康らの誘いに乗り、たびたび謀反を起こすが、そのたびに許されて帰参した。
白地に小さな蟻を1匹書いただけという珍しい旗指物を使っていた。
北畠具親
きたばたけ ともちか
不明-1586
北畠晴具の三男。奈良興福寺東門院院王だったが、1576年、兄・北畠具教が織田信長に暗殺されると、伊勢に潜入。
還俗し、北畠旧臣を集めて挙兵する。しかし、織田信雄の猛攻を受けて敗北、毛利氏を頼って逃げ延びた。
本能寺の変ののち、再び伊勢で挙兵するが、またしても信雄に敗れ、伊賀に落ち延びた。
北原種興
きたはら たねおき
不明-1586
高橋紹運の家臣。父・鎮久が秋月種実に寝返ろうとして紹運に討たれると、
弔い合戦に及ぼうとするが、紹運の手紙を受け、改心。
逆に種実に偽りの寝返りを持ちかけておびき寄せ、散々に討ち破る功を立てた。
のち紹運の抜擢を受け、その重臣となる。岩屋城の戦いで討死。
吉川広家
きっかわ ひろいえ
1561-1625
毛利家臣。元春三男。知謀に優れ、関ヶ原の戦いでは、西軍につきながら、その敗北を読み、大軍を一歩も動かさなかった。
戦後、主家である毛利の存続を働きかけて成功させた。
吉川元長
きっかわ もとなが
1548-1587
毛利家臣。元春の嫡子。父に劣らぬ武勇を誇り、常に先頭を切って敵陣に乗り込み、武功をあげた。
豊臣秀吉の九州征伐に従軍した際も、負け知らずだった。父が隠居して家督を継ぐが、父の死後、間もなく病没した。
吉川元春
きっかわ もとはる
1530-1586
毛利元就の次男。山陰地方攻略を担当。弟・小早川隆景と並んで「毛利両川」と呼ばれ、主家を強力に補佐した。
家中随一の猛将として知られる一方、尼子氏攻撃の陣中で『太平記』を書写する教養人としての一面も持っていた。
木村重茲
きむら しげこれ
不明-1595
豊臣家臣。賤ヶ岳、小牧長久手、九州征伐、小田原討伐などの名だたる合戦に参加、戦功を立てる。
豊臣秀次の従い、葛西大崎一揆の鎮圧にも活躍した。のち、秀次事件に連座して、自害させられ、一門は皆殺し。
13歳の娘は磔にまでされ豊臣秀吉の命で、朽ちるまでその死体は三条河原にさらされた。
ただ幼子・重成だけが生き残ったという。
木村重成
きむら しげなり
不明-1615
豊臣家臣。豊臣秀頼の乳兄弟。
凛とした美丈夫で、二条城での徳川家康との会見に女房に扮して秀頼を警護したがバレなかったという。
大坂冬の陣で初陣の時、楯に隠れるように言われ、「矢から逃れられても運命からは逃れられぬ」と楯を捨て突撃した。
夏の陣では髪に香を焚きしめ出陣。潔い最期に家康も感動したと伝わる。
木村吉清
きむら よしきよ
不明-1598
豊臣家臣。もと明智光秀に仕え、丹波亀山城代だったが、山崎の戦いの時に城を明け渡し、秀吉に仕えた。
小牧長久手の戦いや小田原討伐に参加。葛西大崎領30万石を与えられる。
その際、失政により、葛西大崎一揆を引き起こし領地を没収され、以後は蒲生氏郷の与力となる。
蒲生家が宇都宮に移されると、豊後に1万4千石を与えられた。
京極高知
きょうごく たかとも
1572-1622
豊臣家臣。高吉の次男。信濃飯田10万石を領し、城下町の整備に尽力。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、岐阜城攻めで活躍。戦後、高野山に逃れた兄・高次に徳川家への仕官を説いた。
関ヶ原の戦功により丹後12万3千石を与えられると、田辺城に入り、のち宮津城に拠点を移した。
吉良親貞
きら ちかさだ
1541-1576
長宗我部元親の弟。土佐の豪族・吉良家の養子になり、家督を継ぐ。
剛毅かつ知略に富み、元親の片腕として土佐統一に貢献した。
長宗我部家にとって恩義ある土佐一条家攻めを迷う元親に、もし天罰が下るなら自分が引き受けると献言し、決断を促した。
一条滅亡後、間もなく病死。長宗我部家の四国統一が大きく遅れることとなった。
吉良親実
きら ちかざね
1563-1588
長宗我部元親の甥。親貞の子。
長宗我部家の跡継ぎだった信親が戸次川の戦いで戦死すると、元親は、四男・盛親の擁立を望んだが、それに反対。
長幼の序から次男・香川親和を推す。やがて親和は急死。親実も政敵・久武親直に讒言され、元親より自害を命じられた。
その無念が妖怪・七人みさきになったという伝説が残った。
霧隠才蔵
きりがくれ さいぞう
不明-不明
真田家臣。真田十勇士の一人。伊賀流忍術の達人。浅井家臣・弾正左衛門の遺児という。
浅井滅亡後、伊賀に逃れて百地三太夫に忍術の極意を授けられた。
播磨で山賊をしていたときに猿飛佐助と出会い、忍術勝負に敗れたことを機に真田幸村に仕えることになったという。
大坂夏の陣で徳川家康の命を狙う。
九鬼嘉隆
くき よしたか
1542-1600
織田家臣。志摩の海賊。北畠具教の元に寄寓していた武田信虎に敗れ、志摩を追われる。のち織田信長に仕え、水軍を統率。
木津川口の戦いで毛利水軍に敗北するも2年後、信長創案の鉄甲船で毛利水軍を粉砕。汚名を返上する。
関ヶ原の戦いでは西軍につき、徳川家康に従った嫡子・守隆と戦う。戦後、自刃。
楠木正虎
くすのき まさとら
1520-1596
松永家臣。通称、式部卿法印、河内守。世尊寺流の書家。
南北朝時代の名将・楠木正成の子孫を名乗り、楠木氏の朝敵赦免を求め、認められた。
松永久秀が織田に降ると、織田信長の右筆を務める。本能寺の変後は、羽柴秀吉に仕えた。
口羽通良
くちば みちよし
1513-1582
毛利家臣。志道広良の弟。吉川元春を補佐して山陰方面経略を行った。
毛利元就の死後、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊と並び四人衆の一人として若き当主・輝元を補佐。政治の中枢を担った。
朽木元綱
くつき もとつな
1549-1632
近江朽木谷の豪族。松永久の説得に従い、金ヶ崎の戦いに敗れた織田信長を助けて、自領を無事に通過、撤退させた。
関ヶ原の戦いでは、当初、大谷吉継に従い西軍についたが、小早川秀秋の寝返りに呼応して、東軍へ寝返った。
久能宗益
くのう そうえき
不明-1569
今川家臣。久野とも。遠江の豪族・久能家の一門。
久能家当主・宗能は兄が桶狭間の戦いで戦死したため後を継ぎ、徳川家に寝返った。
宗能は引き続き今川氏真に仕え、宗能に今川家に帰参し、家康を謀殺するよう説得に向かったが、宗能によって斬られた。
熊谷信直
くまがい のぶなお
1507-1593
毛利家臣。はじめ毛利家と敵対するが、のち家臣となる。
娘が元就の次男・吉川元春に嫁いでからは元春に属し、一門衆として遇された。
以降は、元春軍の先鋒を務め、猛将ぶりを発揮した。
倉賀野尚行
くらがの なおゆき
不明-不明
上杉家臣。はじめ関東管領・上杉憲政に仕え、憲政が北条氏康に追放されると、上杉謙信に従い、氏康や武田信玄と戦った。
信玄に麾下の金井秀景を調略され、居城を落とされ、越後に逃れる。のち直江兼続に属した。
栗林政頼
くりばやし まさより
不明-1599
上杉家臣。御館の乱では、深沢利重と共に上杉景虎の援軍に来た北条軍を撃退した。
1584年には南魚沼郡の荒戸城守備に就き、荒戸関所の関銭を景勝に納めた。1598年の会津移封にも従う。
栗山利安
くりやま としやす
1550-1631
黒田家臣。黒田二十四騎、黒田八虎の一人に数えられる。黒田官兵衛、長政の2代に仕える。
有岡城の戦いでは、荒木村重に捕らえられていた官兵衛を救出し、
関ヶ原の戦いでは、官兵衛と共に豊後国の石垣島で大友義統と戦った。
のちに長政が筑前に移封されると、1万5千石を与えられた。
黒川清実
くろかわ きよざね
不明-不明
上杉家臣。北越後の豪族「揚北衆」。上杉謙信とその兄が家督を争った際は、兄側につき謙信と対立。
その後、謙信に恭順し、上杉家の軍役を担う。
謙信没後の御館の乱では、上杉景虎側に属したが、伊達輝宗の仲介によって上杉景勝の元に帰参している。
黒田直之
くろだ なおゆき
1564-1609
黒田家臣。職隆の四男。官兵衛の異母弟で、黒田二十四騎、黒田八虎の一人に数えられる。
関ヶ原の戦いでは、官兵衛に従い参戦。戦後、筑後久留米城の受け取りにあたった。
長政が筑前福岡藩主になると、1万2千石を与えられた。
黒田長政
くろだ ながまさ
1568-1623
黒田官兵衛の子。荒木村重が謀反し、官兵衛も信長に謀反を疑われた時、
人質であった少年・長政は殺されかけるが、竹中半兵衛の機知で救われる。
関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、小早川秀秋の裏切りを工作。東軍勝利を決定づけた。
桑名親光
くわな ちかみつ
1551-1587
長宗我部家臣。長宗我部三家老の一人・丹後守重定の子。伊予侵攻、中富川の戦いで活躍。
引田の戦いで、先鋒の香川之景と大西頼包が、仙石秀久の奇襲を受けていたため、
中島重勝と共に援軍に向かい戦況を長宗我部軍有利に覆したが、激戦の中、子・藤十郎が討死した。
九州征伐にも参陣。戸次川の戦いで主君の子・長宗我部信親と共に戦死した。
桑名吉成
くわな よしなり
1551-1615
長宗我部家臣。桑名親光の叔父の養子。剛勇の忠士。
戸次川の戦いで惨敗しており、決死の戦場から、主君・元親のため血路を開いた。
主家滅亡後、藤堂高虎に仕えたが、大坂の陣で元親の子・盛親を攻めるに忍びず、わざと討たれ、死を選んだという。
桑山元晴
くわやま もとはる
1563-1620
重晴の次男。はじめ豊臣秀長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いの際は東軍に属し、加増される。
大坂の陣でも徳川方で参戦、功を立てた。
なし なし
高坂昌澄
こうさか まさずみ
1551-1575
武田家臣。昌信の子。長篠の戦いでは、長篠城の攻囲に参加したのち、警戒軍として長篠城の西岸・有海村近辺に待機。
酒井忠次率いる織田・徳川軍の別働隊に襲われ、討死。
高坂昌信
こうさか まさのぶ
1527-1578
武田家臣。武田四名臣の一人に数えられる。16歳で武田信玄の近習となり、侍大将、海津城代へと出世する。
第四次川中島の戦いでは上杉軍の殿軍を追撃、戦功をあげる。彼が遺した献策の書を元に『甲陽軍艦』が記されたという。
香西佳清
こうざい よしきよ
1553-1588
讃岐の名家・香西家第18代当主。若くして失明していた。
十河氏や織田信長と結び、四国統一を勧める長宗我部元親に対抗したが、ついには従属。
羽柴秀吉の四国征伐の際には、長宗我部側に立って戦い、敗北。所領を失って野に下った。
香宗我部親泰
こうそかべ ちかやす
1543-1593
長宗我部元親の弟。阿波を転戦し、中富川の合戦で十河存保軍を破った。また、外交でも手腕を発揮。
四国征伐をもくろむ豊臣秀吉と対抗すべく、柴田勝家や徳川家康と結ぶなど、兄・元親を支えた。
郡宗保
こおり むねやす
1546-1615
豊臣家臣。はじめ荒木村重に仕え、のちに秀吉の馬廻を努めた。関ヶ原の戦いでは西軍に属し大津城攻撃に参加。
その後も秀頼に仕えて、旗奉行を務め、大坂夏の陣で敗れた際も、
旗が敵の手に渡るのを防ぐため、大坂城内まで旗を持ち帰った上で、自害した。
児玉就方
こだま なりかた
1513-1586
毛利家臣。兄・就忠の推挙により毛利家に仕える。
政治家肌の兄とは違って武辺肌で吉田郡山城の戦いでは血気に逸って元就にたしなめられた。
毛利水軍を率い厳島の戦い以後、北九州や山陰の海上に転戦した。
児玉就英
こだま なりひで
1534-1612
毛利家臣。就方の子。毛利水軍を率いて各地に転戦。山中鹿介、尼子勝久らが出雲で挙兵すると鎮圧。
第一次木津川口の戦いでも活躍、九鬼嘉隆率いる織田水軍を完膚無きまでに叩き潰した。
歴史に名を残したいと思い、この戦いの後、能・高砂の松を引き抜いて薪にして、ひんしゅくを買った。
その後、淡路で瀬戸内海の警護に当たった。
後藤太郎助
ごとう たろうすけ
不明-不明
黒田家臣。又兵衛の嫡男。石垣島の戦いで活躍。敵将・吉弘統幸を討ち取る。
しかしその後、人妻との不倫が発覚。追放処分を受けた。これが又兵衛出奔の一因となったという。
後藤信康
ごとう のぶやす
1556-1614
伊達家臣。常に黄色の母衣を着けて戦っていたため、「黄後藤」と呼ばれる。
剛直の士で伊達家に尽くし、同僚の原田宗時と決闘沙汰になった時も、
どちらが死んでも伊達家のためにならないと和解し、刎頸の友となった。
老境、政宗の勘気を受けて改易。大坂の陣の際、出陣させてくれと請うが、
断られ、愛馬・五島に乗って居城本丸より飛び降り自殺した。
後藤又兵衛
ごとう またべえ
1560-1615
黒田家臣。黒田八虎、二十四騎に数えられる。
黒田官兵衛、長政父子に仕えて、関ヶ原の戦いなどで活躍したが、のちに長政を嫌い出奔。
長政によりどこにも仕官できなくなる「奉公構い」にされた。
浪々の末、大坂の陣で豊臣方につく。長政は「又兵衛なら二千の兵を手足のように操る。豊臣は良将を得た」と評した。
小西行長
こにし ゆきなが
1558-1600
豊臣家臣。堺の商人の子。秀吉の奉行として活躍する。関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、敗れ、処刑される。
熱心なキリスト教徒。清廉な人物で、財産を施療院や孤児院に施したため、死して家に財産はなかったと伝えられる。
小早川秀秋
こばやかわ ひであき
1582-1602
豊臣家臣。秀吉の妻・ねねの兄の子。小早川隆景の養子となる。
関ヶ原では西軍に属していたが、黒田長政を通じ東軍に通じていた。
開戦当初、様子見していたが、家康に督促されて寝返る。この瞬間、東軍勝利が決定づけられた。
小早川秀包
こばやかわ ひでかね
1567-1601
毛利家臣。毛利元就の九男。兄・小早川隆景の養子。小早川秀秋が隆景の養子となると別家を立てる。
大友宗麟の娘婿。武勇に優れる。
人質として送られた先の豊臣秀吉に気を入られて、秀吉の「秀」の字を、名前に使うことを許された。
小牧長久手の戦いに参陣。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、立花宗茂と共に大津城の戦いで活躍。
戦後、裏切り者・秀秋と同じ小早川姓を捨て毛利姓に戻った。
小牧源太
こまき げんた
不明-不明
斎藤家臣。名は道家。美濃屈指の槍の使い手と言われる。
長良川の戦いでは、斎藤義龍側について参戦。
味方の井上道勝が、斎藤道三を生け捕りにしようとするところに割って入り、道三の足を切り、首を取った。
後にさらされた道三の首を盗み出し手厚く葬ったとも伝えられる。
薦野増時
こもの ますとき
1543-1623
立花家臣。道雪、宗茂の2代に仕える。
文武両道の良将で、その才を認めた道雪は、一時、増時を養子にしようと考えたほどだった。
豊臣秀吉の九州征伐後、筑後に移封され宗茂に従い、筑後国城島城に入る。
関ヶ原の戦いののち、宗茂が改易されると黒田官兵衛に仕官した。
近藤景春
こんどう かげはる
不明-1560
今川家臣。尾張沓掛城主。元は松平広忠に仕えた。織田家に属し、その後、調略を受けて今川家に寝返った。
桶狭間の戦いでは、沓掛城には今川義元の妹婿・浅井政敏が守り、景春はその支城担当とされた。
敗戦後、沓掛城に戻ったが、その後、織田家の攻撃を受け、討死した。
近藤康用
こんどう やすもち
1517-1588
徳川家臣。遠江の豪族。はじめ今川家に仕えていたが徳川家康の遠江侵攻時に徳川家についた井伊谷三人衆の一人。
老齢ゆえに、その後、戦に出ることはなかった。




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