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戦国辞典 一般武将【な〜】

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目次

内藤清成
ないとう きよなり
1555-1608
徳川家臣。主君・家康の小姓を務める。家康の信頼を受け、秀忠の傅役や関東総奉行などを歴任した。
しかし、のちに家康の勘気を受け、同じく秀忠の傅役だった青山忠成と共に籠居の身となった。
内藤忠興
ないとう ただおき
1592-1674
徳川家臣。家長の孫。大坂冬の陣では、父と安房国での留守居を命じられたが、血気盛んな忠興は兵を率いて上洛。
参陣を直訴して家康に認められた。夏の陣では酒井家次のもとで活躍。のち家督を継いで、磐城平藩主となった。
内藤綱秀
ないとう つなひで
不明-1590
北条家臣。相模、甲斐国境を守る津久井衆を率いた。
豊臣秀吉の小田原城攻めにも津久井衆と共に野戦を挑み、敗れる。討死したとも伝わる。
内藤昌豊
ないとう まさとよ
1522-1575
武田家臣。武田四名臣の一人。武田信虎に父を殺され、出奔したが、武田信玄に請われて帰参した。
武田信繁亡き後の武田家の副将格として活躍。
個人の功命より軍全体の働きを重視し、一通の感状も受け取らなかった。長篠で戦死。
内藤正成
ないとう まさなり
1528-1602
徳川家臣。家長の従兄弟にあたる。徳川十六神将の一人。
弓の達人で「15歳の時、織田信秀の侵入に際し矢を射て退けた」
「放った矢が楯をつらぬき敵を倒した」「一本の矢で二人を倒した」など数多くの武勇伝を残す。
内藤元盛
ないとう もともり
1566-1615
毛利家臣。宍戸元考の弟。内藤隆春の養子。
大坂の陣に、毛利輝元の密命を受けて佐野道可と名を変え、豊臣家に味方した。
これは、万が一豊臣方が勝った場合に備えた毛利の策だった。大坂城陥落後捕縛され、毛利の重臣だと発覚。
だが大目付・柳生宗矩の取調べに対しあくまで個人的な行動であると主家をかばい、自刃した。
輝元は事件を闇に葬るべく元盛の子を抹殺。宗矩はこれを嘆いた。
直江景綱
なおえ かげつな
1509-1577
上杉家臣。謙信の信頼厚い側近。はじめ実綱と言ったが、謙信の名・景虎より一字拝領して景綱と名乗る。
領地安堵や訴訟などの内政面や朝廷や北条家との交渉など外交面に力を発揮した。
謙信の関東遠征時には、留守を任され、補給や援軍の手配などを行った。
永井直勝
ながい なおかつ
1563-1625
徳川家臣。徳川家康に仕えていたが、信康自刃後隠棲する。徳川家臣復帰後、小牧長久手の戦いで奮戦、
池田恒興を討ち取った。関ヶ原の戦い、大坂の陣でも戦功を上げ、大名にまで出世した。美青年であったという。
長井道利
ながい みちとし
不明-1571
斎藤家臣。斎藤道三の弟。道三の子・義龍の謀反に加担。その後、義龍、龍興の下で織田信長と戦う。
斎藤家滅亡後は龍興と共に伊勢長嶋一揆に属し、織田信長と抵抗。
その後、足利義昭に仕え、摂津白川河原へ和田惟政の救援に出兵した際、敗死した。
長尾顕長
ながお あきなが
1556-1621
北条家臣。下野足利城主。由良成繁の三男。長尾当長の娘を妻に迎え、家督を継ぐ。
小田原討伐の際は、小田原に赴いて戦うも敗れ、領地と居城を没収されて牢人となる。
その後、常陸の佐竹家に仕えたが、再び流浪の身となった。
長尾高親
ながお たかちか
不明-不明
讃岐西長尾城主。長宗我部元親の四国統一に抵抗するが、屈し、以後、元親に従い、十河城の戦いなどで先鋒を務める。
豊臣秀吉の四国征伐に敗れ、失領。
中川清秀
なかがわ きよひで
1542-1583
摂津の豪族。熱心なキリスト教徒。荒木村重に仕え、村重謀反後は、織田信長に仕えた。
山崎の戦いでは羽柴秀吉に属し奮戦。
前後、かつて義兄弟の契りをかわした仲だった秀吉に尊大な態度を取られて悔しがったという。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉の留守の大岩山砦を守って奮戦するも、佐久間盛政に敗れ、討死する。
柴田軍の動きを誘うための半ば人柱だった。
中川重政
なかがわ しげまさ
不明-不明
織田家臣。黒母衣衆の一人。京や安土の守護を任されるが、柴田勝家と領土争いを起こし、
弟の津田盛月が勝家の代官を討った罪に連座して改易され、徳川家康の下に追放された。
後に信長に許され、安土城城代となる。信長死後は織田信雄に仕える。
小牧長久手の戦いでは犬山城を守備し、池田恒興に敗れた。
中島氏種
なかしま うじたね
不明-1615
豊臣家臣。秀頼の親衛隊「七手組」の一人。
大坂夏の陣では長宗我部盛親、毛利勝永ら豊臣の将を助け、奮戦した。大坂落城時に自害。
中島可之助
なかじま べくのすけ
不明-不明
長宗我部家臣。豪気で変わった人物で、「可」の字が漢文では常に頭に来ることから、可之助と名乗った。
主君・元親が長男・信親の烏帽子親になってもらうため、織田信長の使者として派遣する。
その際、信長の「元親は無烏島の蝙蝠」という言葉に対して、とっさに「蓬莱宮の寛典に候」と切り返したという。
中根正照
なかね まさてる
不明-1573
徳川家臣。徳川家康が今川家より二俣城を奪うと、その城主となる。
武田信玄の上洛がはじまると武田家の猛攻を受け、二俣城は落城。
この汚名を雪ぐべく、続く三方ヶ原の戦いで奮戦。討死した。
中村一氏
なかむら かずうじ
不明-1600
豊臣家臣、岸和田城主を務める。主君・豊臣秀吉の死後、三中老の一人となり、駿河府中14万石を領した。
関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、決戦の直前に病死した。
長屋甚右衛門
がやじんうゑもん
不明-不明
斎藤家臣。長良川の戦いで、斎藤義龍側で奮戦。真っ先に長良川を渡河。
斎藤道三側の柴田角内と一騎討ちし、討ち取られた。
長束正家
なつか まさいえ
1562-1600
豊臣家臣。算術に秀でる。妻は本多忠勝の妹。
はじめ丹羽長秀に仕え、長秀没後羽柴秀吉が丹羽家を圧迫すると、敢然と抵抗した。
のち秀吉に仕え、豊臣五奉行に列せられる。検地、補給に活躍。関ヶ原の戦いでは西軍につき南宮山に布陣。
だが吉川広家に阻まれ戦えぬまま帰還。
なんとか居城・近江水口岡山城に籠城するも、寄せ手の池田長吉に欺かれ、開城したが、捕らわれ、近江桜井谷で自刃。
夏目吉信
なつめ よしのぶ
1518-1572
徳川家臣。譜代家臣だったが三河一向一揆の時、家康と敵対。のち家康に許される。
この恩義に報いるためか三方ヶ原の戦いの時、敗走する家康を逃がすべく武田勢へ突入、戦場に散った。
鍋島勝茂
なべしま かつしげ
1580-1657
肥前佐賀藩主。直茂の嫡男。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、巧みな事後処理で所領を安堵される。
その後、主家にあたる龍造寺政家、高房父子が相次いで死去すると、その後を継いで、鍋島藩を確立した。
島原の乱の際は、多大な犠牲を払いながらも乱鎮圧に貢献した。
鍋島茂里
なべしま しげさと
鍋島直茂がその才を見込んで養子とした。直茂に実子・勝茂が生まれると、継嗣の座を譲る。
沖田畷の戦いで初陣を飾る。
総大将・龍造寺隆信が討ち取られる惨敗だったが、茂里は勇猛な戦いぶりで、以後、鍋島家の先鋒を務めることとなる。
関ヶ原合戦後の柳川城工房戦でも作戦立案と先鋒を務めた。
鍋島茂賢
なべしま しげまさ
1571-1645
鍋島家臣。龍造寺鍋島重臣・肥前石井家の出。母が再婚した深堀氏を名乗る。
その後、鍋島姓を与えられた。龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死したあとの建て直しに鍋島直茂の下、活躍した。
関ヶ原の戦いの柳川城の戦いでは先鋒を務めた。
鍋島忠茂
なべしま ただしげ
1584-1624
鍋島家臣。直茂の次男。
関ヶ原の戦いで西軍についた兄・勝茂の失点を回復するために、柳川城の戦いに参戦、立花宗茂を攻めた。
戦後、徳川家の人質となり、徳川秀忠に仕えた。以後、鍋島家と幕府の繋ぎ役として重んじられる。
病弱だったが、病身を押して大坂の陣に出陣し、秀忠に称賛された。
鍋島直茂
なべしま なおしげ
1538-1618
肥前の武将。知勇兼備の名将として名高い。
はじめ龍造寺家に仕え、大友家や島津家と戦って肥前国内の勢力拡大に尽力した。
沖田畷の戦いに敗れ、主君・龍造寺隆信が討死した後は、その子・政家を後見して国政を執る。
豊臣秀吉の覚えめでたく次第に権力を強め、ついには肥田の実質的な領主となった。
並河易家
なみかわ やすいえ
不明-不明
明智家臣。丹羽亀岡の豪族。通称掃部。織田信長に丹羽攻略が命じられた明智光秀に従う。
光秀が丹羽の将・赤井直正の策にかかって大敗した時、並河一族の案内でかろうじて丹羽を脱出できた。
山崎の戦いでは光秀右翼先陣として奮戦。討死したとも、戦後生き延びた明智掃部と同一人物ともいわれる。
成田氏長
なりた うじなが
1542-1596
北条家臣。長泰の長男。甲斐姫の父。武蔵忍城主。父と家督を巡って対立。
上杉謙信の侵攻軍に父が追放されると上杉家に属し家督を継ぐ。のち北条家に帰参。
豊臣秀吉の小田原征伐時には小田原城に籠城する。
戦後改易されたが、黄金九百枚などを贈り、下野烏山で大名に復帰。
成富茂安
なりとみ しげやす
1560-1634
鍋島家臣。17歳の初陣以来、各地の合戦で多くの戦功をあげ、豊臣秀吉の九州征伐でもその武勇を認められた。
関ヶ原の戦いでは主君・勝茂に従い、西軍に属し、伏見城の戦いに従軍。のち東軍に属して柳川城攻めに参戦。
立花宗茂に降伏を勧めるべく労を執った。土木水利事業などの民政に手腕を発揮。
民の要望によく耳を傾け、優れた水利体系を構築。佐賀藩では水争いがほぼ皆無となった。
成瀬正一
なるせ せいいち
1538-1620
徳川家臣。正義の弟。一時期徳川家を離れ、武田信玄に仕え、第四次川中島の戦いに参戦。
その後、北条氏康に仕えたのち、帰参。その後、日下部定好と行動を共にする。
織田信長が武田家を滅ぼすと、武田狩りが行われる中、旧知の者をかくまい、
それがのちに徳川家が甲信に進出する足がかりとなる。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の旗奉行を務め、第二次上田城の戦いに参加。
成瀬正義
なるせ まさよし
1535-1573
徳川家臣。正一の兄。一時期、徳川家を出奔するが、三河一向一揆の際に帰参し功を立てる。
観音寺城の戦い、姉川の戦いに織田信長への援軍として参加している。
三方ヶ原の戦いで、徳川家康の身代わりとなって討死。
この戦の前、篭城策を主張する鳥居忠広を臆病者とののしりケンカになったが、
意地の張り合いの末仲直りし、戦場で共に討死したという。
名和宗安
なわ むねやす
不明-1575
武田家臣。上野の豪族。上杉謙信に追われ、武田信玄に仕える。1566年の箕輪城攻撃戦では先鋒となった。
長篠の戦いでは、鳶ヶ巣砦を守備した。河窪信実と共に力戦するが、戦死した。
縄を編んだ羽織を鎧の上からまとい、無理を押し通し「名和無理之介」と名乗った。
新納大膳
にいろ たいぜん
不明-不明
島津家臣。豊後侵攻では、伊集院久宣と共に豊後鶴賀城を攻めるが大きな被害を出してしまう。
続く戸次川の戦いでは、伊集院久春らと、豊臣軍の仙石秀久を襲い、大きな損害を与え、戸次統常らを討ち取った。
新納忠元
にいろ ただもと
1526-1610
島津家臣。剛勇で知られ、義弘の祖父・忠良が「島津家になくてはならぬ四人」の一人としてその名を挙げた。
豊臣秀吉の九州征伐に降伏した時、堂々たる態度で臨んで秀吉を感服させるなど、数多くの逸話を残している。
仁科盛信
にしな もりのぶ
1557-1582
武田家臣。武田信玄の五男。高遠城主。信濃の豪族・仁科家の名跡を継ぐ。
兄・勝頼を助け、その命により高遠城を守った。
織田信長に対し頑強に抵抗したが、信長の嫡子・信忠が率いる大軍の前に敗北、自害した。
新田鎮実
にった しげざね
不明-1600
立花家臣。関ヶ原の戦いのあとの柳川城攻防戦・八院の戦いで、
加藤清正、鍋島直茂ら東軍の大軍を相手に奮戦、討死した。
二宮俊実
にのみや としざね
1522-1603
毛利家臣。厳島の戦いでは吉川元春に従い、小早川隆景を救援。陶軍の三浦房清を討つ功を上げた。
その後も吉川氏に属し、活躍。晩年、『二宮俊実覚書』を記し、毛利家関係の貴重な資料を残した。
丹羽氏重
にわ うじしげ
1569-1584
徳川家臣。氏次の弟。小牧長久手の戦いで尾張岩崎城を守備。
秀吉方・池田恒興らの中入り奇襲部隊が城の前を通過したとき、「見過ごすは末代までの恥」と兵二百を率いて出撃、玉砕した。
いまだ16歳だった。
丹羽長重
にわ ながしげ
1571-1637
長秀の子。秀吉に従い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに出陣した。
父の死後遺領を継いだが、家臣の佐々成政への内応、九州征伐での軍律違反を理由に次々と減封され、家臣を引き抜かれた。
秀吉死後は徳川家康に味方し、前田利長の監視を命じられた。関ヶ原の戦いで西軍につき、所領を失う。
のち大坂の陣に従軍して活躍、陸奥白河10万石を領した。
丹羽長秀
にわ ながひで
1535-1585
織田家臣。「米五郎左」と異名を持つ信長股肱の臣。織田四天王の一人。安土城の普請を総指揮した。
四国攻めの大将となるが、渡海準備中に本能寺の変が起こる。
以後、羽柴秀吉に味方して行動し、明智光秀、柴田勝家を破った。
しかしのちに織田家をないがしろにする秀吉と協力したことを悔い、病床で割腹して果てその内臓を秀吉に送りつけた。
なし なし
根津甚八
ねづ じんぱち
1569-1615
真田家臣。真田十勇士の一人。水軍指揮を得意としていた。名は定盛。
真田家の同族で信濃の豪族である根津政直の次男とも、浅井長政の三男を名乗った浅井井頼だともいう。
大坂の陣では真田幸村の影武者を務め、討死した。
野々村吉安
ののむら よしやす
不明-1615
豊臣家臣・野々村三十郎の弟。秀頼の親衛隊「七手組」の一人。
大坂の陣では、奮戦するも、大坂城は落城。
炎上する本丸に入り自害しようとしたが、猛火にさえぎられて入れず、石垣の上で自害。
乃美宗勝
のみ むねかつ
1527-1592
毛利家臣。小早川隆景の宿老で毛利水軍の総帥。海上警護の指揮を執りながら、瀬戸内の海賊・村上氏と婚姻関係にあった。
この縁で、毛利氏と陶晴賢との厳島の戦いの際、村上水軍を味方につけることに成功。毛利軍を勝利へと導いた。
野村市右衛門
のむらし ますえもん
不明-不明
黒田家臣。名は祐直。黒田二十四騎の一人・祐勝の子。母里太兵衛の甥。後藤又兵衛の娘婿。
太兵衛が呑み取った槍・日本号は、又兵衛に渡っていたが、又兵衛出奔の日、彼に譲られた。
久野次左衛門とはライバル。遠征先で鎖鎌の名手と戦い膝を割られる。石垣島の戦いには腰に乗って参戦した。
先陣の次左衛門が敵の誘引策にかかり、突出して討死。攻め来る敵を彼の二番備が迎撃し、撃破した。
野村忠敦
のむら ただあつ
不明-不明
島津家臣。数々の戦に参加。九州制覇における北上作戦では、島津忠長に従い、筑前、筑後に討ち入った。
野村直隆
のむら なおたか
不明-1600
豊臣家臣。はじめ浅井長政に仕え、姉川の戦いでは横山城を守り、
その後、鉄砲の産地・国友砦を守って、織田家に寝返り攻めてきた宮部継順を撃退した。
浅井家滅亡後、織田信長、ついで豊臣秀吉に仕え、鉄砲頭として小田原討伐などに参戦した。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城の戦いで軍艦を務めている。




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