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真田丸戦記 地名

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目次

浅間山麓
あさまさんろく
現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山の麓。

浅間山が噴火すると東国に災いが起こるという言い伝えがあり、
天正十年(1582)の二月に噴火した際は、
ちょうど信長が武田征伐軍を起こしたタイミングと重なったため、
武田家中に大きな動揺が走ったという。
安土
あづち
琵琶湖東岸の安土山付近(現在の滋賀県近江八幡市安土町付近)。
織田信長が築城した安土城があったことで有名。

安土城は地下の石倉も併せると七重層で、高さは約32mほど。
四層目までは吹き抜けになっており、
最上階の七層目は内外ともに金が貼られていたという。
城下町には『安土山下町中掟書』が出され、
町民の安全と自由が保障され、市場は楽市とした。
山崎の戦いののち、本丸と天守は焼失。
だが、二の丸などは残っていたという。
伊賀山中
いがさんちゅう
伊賀(現在の三重県西部)の山奥。

伊賀忍の修行場とされる。
伊賀の修行は非常に厳しいことで知られており、
そのため伊賀忍は身体能力に優れる者が多い。
岩屋城
いわやじょう
筑前国御笠郡(現在の福岡県太宰府市浦城)の城。

大友家臣・高橋紹運が城主として守り、九州統一を目指して
攻め来たる島津軍と激闘を繰り広げた。島津軍が二万から五万と
いわれるのに対し、岩屋城の将兵は七百人あまりであったという。
紹運の武名を惜しんで敵味方双方かせ五度にわたり降伏勧告が
出されたが、紹運はすべて丁重に断り、最期は将兵ことごとく
討死した。紹運の死に敵方の島津も涙したという。
この岩屋城の奮戦で島津軍の侵攻速度が鈍り、
豊臣の援軍が間に合って、大友家は救われた。
上田城 信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)の城。

天正十一年(1583)真田昌幸によって築城された。
江戸時代には真田信之が入るが、幕府の命令で城は破却。
信之は松代(現在の長野県長野市松代町松代)に転封される。
その後、この地を治めた仙石政忠が城の再建を申請。
現代に残る名城の姿を復活させた。
越後
えちご
現在の新潟県。

雪深い地であり、その豪雪が謙信の動きにも大きな制約を与えた。

米の名産地で、必然的に酒がうまい。
江戸
えど
武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の地名。現在の東京。

元々は江戸氏の支配地であったが、室町時代に衰亡。
その後、扇谷上杉氏の家老・太田道灌が入り、江戸城を築いた。

北条征伐後、関東移封となった家康が本拠を据え、
以後、目覚ましく発展していく。
奥州
おうしゅう
陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部)の別称。
または陸奥国と出羽国(現在の山形県・秋田県の一部)の通称。
後者の場合は一般に「奥羽」と呼ぶ。「みちのく」とも。

都から遠く離れているため、
古来より中央権力にまつろわぬ勢力がたびたび登場した。
大坂城
おおさかじょう
摂津国東成郡生玉荘大坂
(現在の大阪府大阪市中央区大阪城)の城。

豊臣秀吉が築城したが、大坂夏の陣によって焼失。
遺構も残っていないため、
秀吉が作った城がどのようなものかはわからない。
大坂の陣ののち、徳川秀忠の手によって
新たな大坂城が誕生したが、火災や落雷などで何度も損傷した。

現在の大坂城はその江戸時代に作られた姿を復元したもの。
桶狭間
おけはざま
尾張(現在の愛知県西部)の一地域。
織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで名高い。

現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域と
されるが、具体的な地点は諸説あって特定されていない。
『信長公記』では義元は「桶狭間山に本陣を構えた」と
記されているが、この桶狭間山がどこを指すのかも不明である。
また、同じく『信長公記』では
義元が討たれたのは「田楽狭間」だと記述されている。
小田原城
おだわらじょう
関東の戦国大名である北条氏の本拠地である城。
難攻不落・無敵の城として名高く、
上杉謙信率いる十万を超える大軍の猛攻も凌ぎ切った。
北条軍たちの小田原城への信頼はとても厚い。
海津城
かいつじょう
武田信玄が山本勘助に築城させた武田の城の一つ。
現在では松代城と呼ばれている。
信濃(現在の長野県)の千曲川沿いに築かれ、
三方を山に囲まれているため堅固な造りとなっていた。

初代城主は高坂昌信で、
上杉と争った第四次川中島の戦いにおいて、
重要な拠点として機能している。
築城の名手とされる山本勘助が指揮したされ、名城と名高い。
春日山城
かすがやまじょう
越後(現在の新潟県上越市)にあった山城。別名、鉢ヶ峰城。

上越市の春日山山頂に築かれた難攻不落の城。
長尾家の本拠で、上杉謙信の父・長尾為景が大改修を行った。
御館の乱では上杉景勝が入城し、上杉家が会津に転封されると、
堀氏の居城となる。
慶長十二年(1607)、廃城となった。
関東
かんとう
室町から戦国時代にかけては、
相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東八カ国に
伊豆・甲斐を加えた十カ国を指す。

本来は天武天皇が都を守るために設置した三つの関から
東を指す言葉であり、「東国」とほぼ同義。
京を中心とする関西とは様々な面で異なる気風を持つ。
源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、
京を基盤とする政権に対し独立心が旺盛で、
北条家の精神はこれを引き継いだものといえる。
木津川口
きづがわぐち
織田と毛利の水軍が激突した河口。

木津川は現在の大阪の淀川下流の支流。
明治時代まで多くの船舶が出入りしていた。

第一次木津川口の戦いでは毛利水軍七〜八百艘と、
織田水軍三百艘が激突したとされており、
第二次木津川口の戦いでも大規模な海戦が行われた。
畿内
きない
京に近い国々を指す。
山城・大和・河内・和泉・摂津の五カ国。

政治、経済、文化の中心地であり、
多くの大名がその支配権を巡ってしのぎを削った。
紀見峠
きみとうげ
紀伊国(現在の和歌山県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境。

京・大坂から高野山へ向かう参詣道として用いられた。
高野街道の中継地でもある。
九度山を脱出して大坂へ向かった真田幸村も、
この峠を越えたものと思われる。

きょう
日本の都。
山城(現在の京都府)に位置する。

「四神相応の地」と呼ばれる風水的に優れた地であったことから、
延暦十三年(794)に平安京として遷都され、
以後千年の間、この国の都であり続けた。
中国の都にちなんで「洛陽」とも称され、
京に上ることを「上洛」、京の城内を「洛内」などと呼ぶ。
風水的には優れていても軍事的には攻めやすく守りにくい地形で、
武家政権の中枢が置かれることは少ない。
九度山
くどやま
紀伊国(現在の和歌山県)高野山麓の地名。

関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村父子が配流された地。
この地で幸村は十四年を過ごしている。

高野山の入り口。
高野山は女人禁制であるため、女性はここまでしか入れない。
昌幸・幸村は本来、高野山へ配流であったが、
妻子を伴っていたため九度山に移されたとも。
上野
こうずけ
現在の群馬県。

名前の由来については、
元々「毛野」という地域であったものが上下に分割され
「上毛野(かみつけの)」「下野(しもつけの)」となった。
その後、国名が「上野」「下野」に改められたという。
そのため、読み方は「かみつけ」がなまったものだが、
一般的に「こうづけ」ではなく「こうずけ」と書かれる。
小倉
こくら
豊前国(現在の福岡県)の地名。

毛利勝永の父・毛利勝信が九州征伐で功を立てたことから与えられた。
勝信はこの地に小倉城を建築している。
小諸
こもろ
信濃国(現在の長野県)の地名。

武田信玄が東信濃経営のために小諸城を修築した。
一説には、そのときの縄張りは山本勘助が行ったという。

現在は城跡の懐古園が有名。
西国
さいこく
日本の西部地域。
戦国時代においては中国地方のことを指す。

時代によって区域が変化し、
畿内より西を指すこともあれば、
九州のみ、中国地方のみを西国と呼んだ時代もあったという。
妻女山
さいじょさん
信濃国(現在の長野県)にある川中島周辺の小高い山。

八幡原や海津城を見わたすことのできる山で、
第四次川中島の戦いにおいて上杉軍が陣を敷いたとされる。

名前の由来は、上杉軍の将兵が妻女を偲んで涙したという話が
江戸時代に広まり定着したことにある。
薩摩
さつま
現在の鹿児島県西部。
鎌倉時代に守護に任じられて以来、島津家が本拠とする地。

古代日本において、薩摩や大隅に居住する人々は
「隼人(はやと)」と呼ばれた。
薩摩隼人は上下の礼節に厳しく、質実剛健で勇猛果敢とされる。
まさに島津家のイメージどおりだといえる。
真田の郷
さなだのさと
真田本城の周辺にある里山。
自然が豊かで、野生動物も多数存在する。

時折山賊にでくわすこともあるが、
基本的には城下町に近いこともあり、治安が良い。
真田本城
さなだほんじょう
真田家の根城。別名・松尾城。
真田家は信濃小県郡(現在の長野県東御市)を領地としており、
一時村上義清らに領土を追われたが、武田信玄に従って回復した。

真田本城の城下町には、畑や釣り場があるだけでなく、
地蔵や書物蔵もあり、大都会とは言えないものの生活に
必要なものは揃っていて住み心地の良い場所である。
住民たちも、真田家の人たちを好ましく思っているようだ。
信貴山
しぎさん
河内(現在の大阪府)と大和(現在の奈良県)の国境にある生駒山系の山。

松永久秀が居城とした信貴山城や、
「信貴山縁起絵巻」で知られる朝護孫子寺がある。
信濃
しなの
現在の長野県。

隣国・甲斐(現在の山梨県)の大名である武田信玄は
信濃侵攻を行い、国衆たちを次々と武田家に従わせた。
こうして信濃の領有化に成功した信玄だったが、
追い出された村上義清らが上杉謙信を頼り、
謙信がそれに応えたことにより、川中島の戦いへと発展した。
新府
しんぷ
山梨県韮崎市。新府城があったことで有名。

新府城は長篠の戦いののち、穴山信君の献策を受けた
武田勝頼によって築かれた。
真田昌幸が普請奉行だったという説もある。
織田軍の攻勢を防ぐための本拠であったが、
完成から二カ月後、武田勝頼は自刃してしまう。

勝頼は新府城を築いた際、躑躅ヶ崎館を破壊。
以降、韮崎を新府、躑躅ヶ崎館を古府と言うようになったという。
駿河
するが
現在の静岡県の一部。

鎌倉幕府が開かれると、
朝廷と幕府を結ぶ東海道の要衝とされ、栄えた。
今川家が台頭し治めるようになったが、
桶狭間での義元の死により、
徳川や武田の侵攻を受けることとなる。

緑茶の名産地。
諏訪湖畔
すわこはん
長野県諏訪市にある湖畔。
武田信玄が埋葬されたという伝説がある。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄が臨終の際に
「自分の遺体を諏訪湖に沈めよ」と遺言したとあるが、
実行されなかったという。
ちなみに信玄の菩提寺は山梨県の恵林寺。
高天神城
たかてんじんじょう
遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)の城。
今川家滅亡後、徳川家の家臣となった小笠原氏が城代。

堅固な山城で、武田信玄の猛攻も防いだ。
のちに武田勝頼が内通策などを駆使して城を奪取。
信玄が落とせなかった城を落としたことで、
勝頼の武名は大きく天下にとどろいたという。
中国
ちゅうごく
本州の西部地域。
備中・備後・安芸・周防・長門・出雲・伯耆・因幡の八カ国。
日本海側を山陰、瀬戸内海側を山陽という。

大内家と尼子家が大きな勢力を誇っていたが、
毛利元就の謀略の前に滅び去り、
中国は毛利の席巻するところとなる。
躑躅ヶ崎館
つつじがさきやかた
甲斐国山梨郡古府中(現在の山梨県甲府市古府中)に
あった武田の居館。

信玄の父・武田信虎が築き、信虎、信玄、勝頼三代の本拠となる。
三重構造の堀や馬出しなど防御機能はあったが、
あくまでも政治的拠点であり、
有事の際はこの館を出て
詰城である要害山城に籠もる手はずになっていた。

現在、跡地には武田信虎を祭神とする武田神社が建てられている。
敦賀
つるが
越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)。

畿内と北陸道を結ぶ交通の要衝。大陸への玄関口でもある。
さらには、越前一宮である氣比神宮があることから、
門前町としても栄えた。

天正十七年(1589)に大谷吉継に与えられた。
これは日本海交易の要である敦賀港を秀吉直臣の手に
押さえさせる狙いがあったとされる。
手取川
てどりがわ
加賀国(現在の石川県)に流れる川。

上杉軍と織田軍が戦った手取川の戦いが有名。
天正五年(1577)、能登畠山家の長続連は、
七尾城に攻め寄せた上杉謙信に対抗すべく織田信長に救援を要請。
信長は柴田勝家や羽柴秀吉など四万の軍勢を派遣した。
だが、織田軍が手取川を渡河したときには七尾城はすでに陥落。
危機を悟った勝家は撤退するが、謙信の猛追撃を受け敗れた。
多くの織田の将兵が手取川で溺死し、「上杉に逢うては織田も
手取川、はねる謙信逃げる信長」という落首が残された。
天目山
てんもくざん
甲斐国(現在の山梨県甲州市)の峠。

織田信長の甲州征伐を受け、新府城より落ち延びた武田勝頼が
小山田信茂に裏切られ、最期にたどり着いた地。
この地で勝頼は妻子と共に自害。武田家終焉の地となった。
戸石城
といしじょう
信濃国小県郡(現在の長野県上田市上野)の城。砥石城とも。

元は真田家の城であったらしいが、一時村上義清に奪われており、
義清はここを拠点に武田信玄をさんざん苦しめた。
のちに真田昌幸の父・幸隆が調略により奪還。
この功により、戸石城を含む真田郷が真田家の手に戻された。

第二次上田合戦では東軍に属した昌幸の子・信之が占拠している。
東海道
とうかいどう
五畿七道(古代日本律令制における行政区画)の一つ。

常陸国(現在の茨城県)から伊賀国(現在の三重県西部)を結ぶ、
本州太平洋側中部の行政区分およびその地域を通る幹線を指す。
現在は後者の意味合いが強い。

北条征伐時の豊臣軍本隊や、
関ヶ原の戦い時の徳川軍本隊は東海道を進んだ。
東国
とうごく
あづまのくに。

現在の関東・東海・甲信地方一帯を指す。
特に関東とほぼ同義であるが、
時代によって、該当する範囲の解釈は異なる。
土佐
とさ
現在の高知県。

戦国時代には土佐七雄と呼ばれる国衆が割拠したが、
やがて長宗我部元親が頭角を現し、土佐を統一した。
元親は続いて四国統一を目指したものの、
達成を目前としたところで羽柴秀吉の四国征伐を受け、降伏する。

その後、元親の子・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に与して改易。
土佐は山内家の支配するところとなった。
長篠城
ながしのじょう
三河国設楽郡(現在の愛知県新城市)長篠の城。
奥平信昌が守るこの城を武田勝頼が攻めたことが、
長篠の戦いの発端となった。

戦後、城は大きく損壊していたため、廃城となっている。
中山道
なかせんどう
東海道とは異なり、内陸経由で江戸と京を結ぶ街道。
武蔵から上野・信濃・美濃・近江・山城と結ぶ。

関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠率いる別働隊は中山道を進み、
途上にある上田城の真田昌幸・幸村を攻撃した。

元々は東山道の一部で、
中山道として整備されたのは江戸時代である。
名胡桃城
なぐるみじょう
上野(現在の群馬県)の沼田城の支城として作られた城。

豊臣秀吉の裁定で沼田の支配権が北条に定まったとき、
「真田発祥の地である」という真田昌幸の申し分が認められて、
名胡桃は真田領に残された。
これを不服とした北条方の猪俣邦憲は間もなく名胡桃城を奪取。
この行いが秀吉の命に背くものとして、北条征伐の口実となった。

ちなみに名胡桃が真田発祥の地というのは真っ赤な嘘である。
沼田城
ぬまたじょう
上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)沼田の城。
沼田の地は河岸段丘で知られる。

北関東の要衝であり、
この地を巡って武田・上杉・北条が激しく争った。
武田滅亡後は真田の重要な拠点となり、
北条と幾度も戦火を交えることとなる。
肥後
ひご
現在の熊本県。

名前の由来は肥前(現在の大分県)と合わせて「火(肥)の国」から。
阿蘇山の活動が古代から活発であったことがうかがわれる。

戦国時代には阿蘇家、相良家が活躍するが、
いずれも島津家の侵攻に屈服した。
豊臣による九州征伐後は佐々成政に与えられたが、
不始末があり間もなく改易。
その後は北半国は加藤清正、南半国は小西行長に与えられた。
耳川
みみかわ
宮崎県日向市を流れ、日向灘に注ぐ川。

大友家と島津家が激突した「耳川の戦い」が有名。
天正六年(1578)、大友軍は日向を攻め取るべく、
大軍をもって南下。
島津軍は耳川で迎撃するが敗北し、対象の家久は逃走した。

勢いに乗った大友軍は、島津の高城を包囲。
だが、戦前から大友軍は内部分裂を起こしていて、
高城の攻め方を巡って大将同士がもめる始末だった。
島津軍はその隙を突き反撃、大友軍は大敗して敗走する。
その際、雨で増水した耳川に多数の兵が呑み込まれたという。

この戦いで多くの将兵を失った大友家は衰退。
逆に島津家は勢いに乗り、九州の覇者へと躍り出る。
山崎
やまざき
摂津国と山城国の国境。
現在の大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町。
明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いが有名。
本能寺で織田信長を討った明智光秀は畿内の地盤固めをしていた。
だが、毛利を攻めていた羽柴秀吉が「中国大返し」を敢行、
ものすごい速さで畿内に戻ってくる。
光秀はやむなく準備も整わぬまま秀吉と激突。
両軍は天王山の山すそなどで一進一退の攻防を繰り広げるが、
羽柴軍の奇襲をきっかけに明智軍は押されはじめ、
本陣の側面を突かれて総崩れとなった。




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