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真田丸戦記 出来事

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目次

上杉と武田の因縁
うえすぎとたけだのいんねん
武田に信濃(現在の長野県)を追われた者たちのために上杉は武田領への侵攻を開始する。

越後の龍・上杉謙信率いる上杉軍と、
甲斐の虎・武田信玄率いる武田軍は、
川中島の地において、幾度となく争うこととなる。

ちなみに越後は現在の新潟県で、甲斐は現在の山梨県である。
川中島周辺の地形
かわなかじましゅうへんのちけい
川中島とは信濃国(現在の長野県)の千曲川と犀川に囲まれた三角地帯である。

千曲川の川岸には武田の重要拠点である海津城や、
第四次川中島の戦いで上杉軍が布陣した妻女山がある。
川中島周辺の天候
かわなかじましゅうへんのてんこう
周囲を川に囲まれた川中島周辺の空気は湿度が高いと考えられる。
朝晩に冷え込み、風もない日は霧が発生する恐れがあった。

信玄と謙信の一騎打ちで知られる第四次川中島の戦いも、濃霧に見舞われたという話である。
武田から恩恵を受ける真田
たけだからおんけいをうけるさなだ
かつて武田信玄の父である信虎に信濃を侵攻され所領を奪われた真田家だったが、
信虎を追放した信玄に仕えることにより、旧領を回復することができた。

以降は信玄によって所領を保証されることとなり、真田家は発展していく。
山本勘助の策
やまもとかんすけのさく
第四次川中島の戦いにおいて、武田の軍を二手に分けて、
妻女山に布陣した上杉軍を一方の部隊で夜襲し、
山から下りたところをもう一方の部隊で挟撃し討ち取るという策。

啄木鳥がエサを捕るときに、
木の反対側をつついて虫を驚かせて穴から這い出させ、
出てきたところを捕らえるという習性にならい、
啄木鳥戦法と名付けられた。
義信事件
よしのぶじけん
武田信玄の嫡男・義信の傅役、
飯富虎昌らが信玄の暗殺を企て処刑された。

義信も責任を問われ、甲府の東光寺に幽閉され、
正室であった今川義元の娘とも離縁させられた。
小田原城の戦い
おだわらじょうのたたかい
永禄四年(1561)に上杉謙信が、北条氏康の籠もる小田原城を攻めた戦い。
北条家の圧迫を受けていた関東管領・上杉憲政が謙信に助けを求めたことから、
謙信は永禄三年(1560)に関東遠征軍を進発。
上野・武蔵の諸豪族を従え、小田原城に迫った。
しかし、小田原城の守りは堅く、北条と同盟にあった武田家・今川家も北条を支援したため戦陣は長期化。
味方からの不満も高まり、国元で一揆などが起こったこともあって、
さしもの謙信も攻略を諦めて撤収した。
このことが小田原城の難攻不落ぶりをおおいに知らしめた。
信長包囲綱
のぶながほういもう
畿内を制した織田信長の脅威に対抗するため、諸大名家で結成された連合。反信長連合とも。
音頭を取っていたのは、信長によって将軍につけられた足利義昭。
実権を信長に握られ、傀儡であることを嫌った義昭が
諸大名に檄を飛ばし、信長の台頭を恐れる者たちがこれに応じた。
主な参加勢力は武田家・上杉家・朝倉家・浅井家・三好家・毛利家・雑賀衆など。
一時は信長を窮地に追いやるが、武田信玄の病死による
武田軍上洛の頓挫や浅井・朝倉の滅亡を契機に崩壊した。
徳川の駿河侵攻
とくがわのするがしんこう
桶狭間の戦いを契機に今川家から独立した徳川家康は、
三河の支配を確率すると積極的に今川領に侵攻した。
武田信玄による今川攻めの際はこれに呼応し、
遠江を領国化している。
しかし、武田とは間もなく関係が悪化し、
駿河を巡って争うようになる。
その結果、信玄の西上作戦、とりわけ三方ヶ原の戦いで
手痛い敗北を喫するが、信玄の死後はその混乱に乗じて
再び駿河へ侵攻を行っていた。
浅井・朝倉滅亡
あざい・あさくらめつぼう
元亀元年(1570)、越前の朝倉家を攻めようとしていた
織田信長は義弟・浅井長政の裏切りに遭い、ほうほうの体で退却する(金ヶ崎退き口)。
信長は直ちに逆襲に転じ、姉川の地で浅井・朝倉連合軍を撃破した。
この姉川の戦いで受けた浅井・朝倉の被害は莫大で、
以後も信長包囲綱の一角を担って戦ったものの、次第に追い詰められていく。
そしてついに天正元年(1573)には一乗谷城の戦いで
朝倉家が、小谷城の戦いで浅井家が滅亡に追いやられた。
長篠の戦い
ながしののたたかい
天正三年(1575)、武田軍と織田・徳川連合軍が
三河国(現在の愛知県東部)長篠城を巡って激突し、武田軍が大敗した戦い。
織田信長が三千挺もの鉄砲を用意し、馬防柵と三段撃ちという
戦術で無敵の武田騎馬隊を完膚なきまでに叩きのめしたというのが通説だが、異論も多い。

この戦いで重臣の多くを失ったことが武田家凋落の第一歩であったことは間違いないが、
むしろこれ以降の御館の乱や高天神城防衛時の立ち回りこそが致命的であったとする説もある。
謙信の死
けんしんのし
天正五年(1577)、上杉謙信は手取川の戦いで織田家の柴田勝家率いる軍団を撃破。
なお衰えぬ軍略を見せつけた。

ところがそれから間もなくして謙信は不意に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
謙信は後継者を明確に定めていなかったため、
家中は上杉景勝派と上杉景虎派に分かれて争う「御館の乱」が勃発。
上杉家の勢威は著しく衰えることとなる。

死因については、たいへんな酒豪であったことに起因する脳卒中とするのが有力である。
お酒はほどほどに。
甲相同盟
こうそうどうめい
武田家と北条家の間で結ばれた同盟。
甲は甲斐(現在の山梨県)、相は相模(現在の神奈川県)のこと。

本来、両家は今川家も含めて三国同盟を結んでいたが、
武田信玄が今川家を攻めたことから関係は破綻、
今川と結びつきの深い北条は武田と敵対し、上杉と結んでいた。
しかし今川の衰退は覆しがたく、武田と争う不利を悟った北条は
再び武田と結び、甲相同盟が復活した。
勝頼は氏政の妹を正室に迎えるなど、同盟の強化を図っていたが、
御館の乱への対応で同盟は解消、武田家は苦しい立場となる。
木津川口の戦い
きづがわぐちのたたかい
大坂の木津川河口で織田軍と毛利水軍が激突した戦い。
天正四年(1576)と天正六年(1578)の
二度にわたって行われ、互いに極端な結末となった。

◆第一次木津川口の戦い(天正四年)
毛利水軍が用いた焙烙火矢により、織田軍は壊滅的な被害を被る。

◆第二次木津川口の戦い(天正六年)
焙烙火矢に対抗すべく、信長は鉄甲船を用意。
毛利水軍を撃破し、大坂湾の制海権を確保した。
甲州征伐・壱
こうしゅうせいばつ
織田信長が武田討伐のため徳川・北条と連合して起こした戦い。

長篠の戦いでの大敗後、
人心を失いつつあった武田家からは離反が相次ぎ、
ついには信玄の娘婿であった木曽義昌が織田方に寝返る。
いよいよ武田を滅ぼす好機と判断した織田信長は、
嫡男の信忠を総大将に甲州征伐の軍を起こす。
織田家の同盟者である徳川・北条も侵攻を開始すると、
武田はたちまち追い詰められるところとなった。
甲州征伐・弐
こうしゅうせいばつ
追い詰められた武田勝頼に対し、真田昌幸は甲斐を捨て、
真田本城へ一時身を寄せるよう進言する。
勝頼はその場で了承したものの、なぜか真田本城ではなく
重臣・小山田信茂の岩殿城へ向かった。
しかし信茂は織田方に寝返り、
進退窮まった勝頼一行は天目山で自害する。
このとき、勝頼自害の時間を稼ぐため、土屋昌恒は
敵の大軍に飛び込み奮戦、「片手千人斬り」と称される激闘の末、討死した。
その忠義と勇姿は敵方からも高く評価されている。
こうして甲斐の名門・武田家は滅び去った。
武田の上野侵攻
たけだのこうずけしんこう
御館の乱で上杉景勝に味方し、勝利させた見返りとして、
武田家は東上野の支配権を得た。
とはいえ、当時は以前より武田・北条・上杉が争奪をくり返してきた要地であり、
実際には「上杉は手を引いた」というレベルの話でしかなく、
武田は北条と争って勝ち取る必要があった。
武田勝頼は駿河方面で徳川との争いに備えねばならなかったため、東上野侵攻は真田昌幸に任された。
この成功で、真田はおおいに地盤固めを進められることとなった。
高天神城の戦い
たかてんじんじょうのたたかい
遠江(現在の静岡県西部)の高天神城は徳川の要衝であり、
武田信玄でさえ攻め落とせなかったが、
武田勝頼がこれを攻略し名を高めた。
ところが長篠の戦いのあと、武田の衰退に乗じて
徳川家康が奪回を目指して攻め寄せる。北条への備えや。
織田との和議を模索していた勝頼は動くに動けず、
結果として城主・岡部元信以下、城兵のことごとくが討死する。
理由はどうあれ、「高天神城を見捨てた」という事実は
武田の権威を地に落とし、
その後の木曽義昌ら武田家臣の離反を決定づけた。
中国攻め
ちゅうごくぜめ
天正五年(1577)以降、織田信長が羽柴秀吉に命じて、
毛利家の勢力圏である中国地方を攻略させた戦い。
鳥取城や三木城、高松城などの攻略で秀吉の城攻めの巧みさが
遺憾なく発揮され、信長にも激賞されている。
一方、荒木村重や別所長治の謀反などで
秀吉が苦境に立たされることも多かった。
天正十年(1582)五月、秀吉は高松城を水攻めしている
さなか、信長に出馬を要請。信長は明智光秀に援軍を命じると
共に、自身も出陣すべく京に入ったが…。
本能寺の変
ほんのうじのへん
天正十年(1582)六月、明智光秀が主君・織田信長に
謀反を起こし、京・本能寺で討ち取った事件。
光秀が謀反に至った理由は諸説あって定かではない。
信長と同時に嫡男・信忠も討死したことが、
織田家には大きな痛手となった。

なお、信長の遺骸は見つかっておらず、当然首も取られていない。
そのため当時より生存説は囁かれ、光秀が変後、
思うように味方を集められなかった理由の一つにもなっている。
神流川の戦い
かんながわのたたかい
天正十年(1582)六月、織田家臣・滝川一益と北条氏政・氏直が
武蔵国(現在の東京都・埼玉県の一部)北部で激突した戦い。
北条家は武田家と手切れとなった後、織田家と結んだが、
甲州征伐ではほぼ蚊帳の外に置かれ、戦後の加増もなく不満を持っていた。
そこで本能寺の変が起こり、上野を支配していた滝川一益が
退去しようとすると、北条は関東の覇権を確率すべく軍を興す。
迎え撃った一益の奮戦で戦ははじめ滝川方の優勢に進んだが、
やがて数の上で優位に立つ北条が押し返し、一益は敗走した。
この勝利により北条は上野を支配し、信濃の国衆を従属させながら上杉と対決していく。
小牧長久手の戦い
こまきながくてのたたかい
天正十二年(1584)、尾張(現在の愛知県西部)北部の
小牧・長久手方面で羽柴秀吉と徳川家康が激突した戦い。
この戦いに連動した合戦が各地で発生しており、
広義には全国規模の戦役であったともいえる。
発端は、秀吉の台頭を疎んじた織田信長の次男・信雄が、
家康と同盟して秀吉に対抗しようとしたことによる。
城攻めには長じた秀吉であったが、野戦では家康に及ばず、苦杯をなめさせられる。
結局、秀吉は外交手腕で信雄を丸め込み、大義名分を失った家康は軍を退かざるを得なくなった。
秀吉の台頭
ひでよしのたいとう
本能寺の変後、中国大返しを敢行した羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討伐。
「主君の仇討ち」をいち早く達成した秀吉は、
織田家で最大の発言力を得る。

その後、信長の後継者問題を論じる清州会議で、
秀吉は信長の孫・三法師の擁立に成功。
最大の政敵であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いを経て滅ぼすと、
もはやその権勢は主家をしのぎ、
並ぶもののないものとなっていた。
秀吉、関白就任
ひでよし、かんぱくしゅうにん
天正十三年(1585)七月、羽柴秀吉は朝廷での
関白の地位を巡る争いに介入し、強引に自ら関白に就任した。
関白とは天皇に代わって政治を行うものであり、
実質的に公家の最高位に当たる役職である。

さらに翌年には、秀吉は朝廷から「豊臣」の姓を得た。
関白を豊臣の世襲とすることで、
将軍に代わり、武家と公家双方の頂点に立つ地位を
確率しようとしたのではないかといわれている。
表裏比興
ひょうりひきょう
石田三成が真田昌幸を評した言葉。

老獪な食わせ者、という意味だが、
徳川・上杉・北条といった強国に囲まれた状況で、
智謀と軍略にものを言わせて巧みに生き抜いたしたたかさを
評価する意味合いが強い。褒め言葉である。
豊臣家臣団
とよとみかしんだん
足軽から身を起こした豊臣秀吉には譜代の家臣がいないため、
文字どおり身内である加藤清正や福島正則、
初めて城主となった長浜時代に召し抱えた石田三成など、
子飼いの家臣を重用した。

彼らは秀吉を熱烈に信奉し、忠誠を誓っていたが、
それは同時に、秀吉抜きでは成り立たない集団であるという
危うさも抱えていた。
九州征伐
きゅうしゅうせいばつ
天正十四年(1586)七月から天正十五年(1587)四月にかけて、
羽柴(豊臣)秀吉が九州を平定した戦役。
九州では大友・島津・龍造寺が三つ巴の争い繰り広げていたが、
やがて島津が大きく力を伸ばし、龍造寺を滅ぼして大友にも圧力をかけた。
大友は秀吉に助けを求め、秀吉は停戦を命じたが、
島津が応じなかったため討伐軍を派遣した。
このとき、秀吉は自軍の損耗を抑え、
降伏した中国・四国の軍を主に差し向けている。
島津は戸次川の戦いなどで豊臣軍に大きな痛手を与えるが、
秀吉率いる大軍の前についに降伏。薩摩・大隅のみを安堵された。
東国の情勢
とうごくのじょうせい
沼田を巡る真田と北条の争いにつき、豊臣秀吉は北条に領有を認め、見返りとして上洛を求めた。
しかし北条は上洛に応じず、豊臣との対決姿勢を強める。
北条は以前より豊臣との戦を想定して、軍備を進めていたとされる。

北条が頼みとしていたのが、奥州の伊達である。
当主・政宗は若くして「独眼竜」と名高く、秀吉が私戦を禁じた
「惣無事例」も無視して戦を繰り広げる。
結果、摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼすなど、奥州で大きな勢力を築いていた。
家康、江戸へ入る
いえやす、えどへはいる
北条滅亡後、関東へ移封となった徳川家康は、
北条の本拠地であった小田原城ではなく、江戸城を拠点とした。
江戸城は元々、江戸氏の居館があったところである。
江戸氏没落後、康正三年(1457)に太田道灌が築城した。
道灌が主君・上杉定正に謀殺されると扇谷上杉氏のものとなり、
扇谷上杉氏衰亡後は北条に属した。
家康が入ったときには荒れ果てた寒村であったとされる。
江戸を拠点とするよう勧めたのは秀吉だったとされるが、
実は江戸は当時、水上交通の要となる地であった。
家康はこの点を重視し、江戸の発展に力を注いだのではないかともいわれている。
武断派と文治派の対立
ぶだんはとぶんちはのたいりつ
豊臣政権下の武将の内、主に軍務を担った者を武断派、政務を担った者を文治派という。
武断派の代表は加藤清正や福島正則、文治派の代表は石田三成である。
武断派は合戦で命懸けの武功をあげ、秀吉の天下取りを推進してきたが、
泰平が訪れると活躍の場を失い、
代わりに文治派の台頭する機会が増えた。
ここから生まれた軋轢が秀吉の死後、噴出することとなる。

ちなみに加藤清正は元々治世に長けた能吏として抜擢されており、
バリバリの武断派というわけではない。
上杉征伐
うえすぎせいばつ
慶長五年(1600)、徳川家康が上杉景勝討伐のため起こした戦役。
会津征伐とも。

豊臣秀吉の死後、あからさまに権勢を強める徳川家康を
天下を乱す脅威と据え、上杉は国元の会津で軍備に努める。
これを咎めた家康に対し、上杉家臣・直江兼続は
痛烈な内容の返書をしたため、両者は決裂。
家康は直ちに上杉征伐を決意し、軍を動員した。
この機に謹慎中であった石田三成は挙兵、
関ヶ原の戦いへと繋がっていく。
兼続が家康に宛てた返書は後世「直江状」として名高い。
現在伝わっている内容が事実かどうかは定かではないが、
家康が兼続の返書に怒り狂ったのは確からしい。

どれだけ煽ったのか。
関ヶ原までの徳川の動き
せきがはらまでのとくがわのうごき
上杉征伐の途上にあった徳川家康は、石田三成挙兵を知ると、
下野国(現在の栃木県)小山で評定を開いた(小山評定)。
家康は諸大名の進退を各自の判断に委ねたが、
黒田長政らの根回しもあり、ほぼすべての大名が家康に従った。
数少ない離反者が真田昌幸である。
評定後、諸大名は続々と西へ転じたが、家康は江戸へ戻ってしばらく動かなかった。
豊臣恩顧の諸大名の動向を見定めていたとされる。
諸大名が西軍所属の岐阜城を攻め落としたのを確認すると
家康はようやく江戸を進発、自身は東海道を進み、
嫡男・秀忠には別働隊を率いて中山道を進軍させた。
西軍諸将の奮戦
せいぐんしょしょうのふんせん
◆大谷吉継
関ヶ原の戦いで西軍敗退の大きな原因になったのは
小早川秀秋の裏切りだが、大谷吉継はこれを予見していた。
そのため、温存していた部隊を秀秋に当て、
一時押し返すことに成功している。
ところが秀秋の裏切りに脇坂安治らが同調したことで
一気に形勢不利となり、大谷隊は壊滅、吉継は自刃した。
自刃の際、秀秋に対し「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と罵った。
秀秋は関ヶ原の戦いの二年後に狂乱の末、夭折した。

◆島左近
島左近は黒田長政の隊に突撃したが、鉄砲隊に側面から銃撃を受け、討死した。
このときの左近は鬼神のごとき働きは黒田家の兵に恐怖を刻みつけ、
左近の「かかれかかれ」というかけ声が耳から離れなかったほどだどいう。

◆石田三成
関ヶ原の戦いで敗れた三成は再起を期して落ち延びるも捕縛される。
しかし処断される最期まで義を思い、
生き延びて本望を遂げる意思を捨てなかったという。
徳川の豊臣対策
とくがわのとよとみたいさく
関ヶ原の戦い後、徳川家康は豊臣家の直轄地を処分して論功行賞に当てた。
これにより豊臣家の所領は一大名家レベルに落ち込んだ。

さらに家康は征夷大将軍に就任後、
間もなく嫡男・秀忠に二代将軍を譲り、
政治の頂点は徳川家が引き継いでいくものだと示した。

また、様々な城や寺社の普請に豊臣家も参加させ、
大坂城に蓄えられた金銀を消費させようとしている。
真田紐
さなだひも
幅狭く織った紐。材料は主に絹や木綿。
縦糸と横糸を使って織っているため、
伸びにくく丈夫なのが特徴で、
重いものを吊ったり、ものを固く縛ったりするのに適している。

真田昌幸が刃の柄を巻くのに使ったことから、
この名がついたという俗説がある。
昌幸・幸村は九度山時代、
この真田紐の生産・販売で生計を立てると共に、
情報収集に利用していたとも。
真田丸
さなだまる
真田幸村が大坂城の南方、平野口に設営した出城。

大坂城は三方を川などに囲まれた要害だが、南側だけは手薄てあった。
その弱点を補うため、幸村が設営した。
第二次上田合戦で、幸村の父・昌幸が徳川の大軍を翻弄した戦術を参考に、様々な工夫が施されている。
それは単に大坂城の弱点を補強するためだけのものではなく、
敵を誘き寄せて撃破する「攻撃のための出城」であった。
大坂冬の陣において、
幸村はこの真田丸で文字どおり獅子奮迅の活躍を見せる。
関ヶ原後の西軍諸大名
せきがはらごのせいぐんしょだいみょう
関ヶ原の戦い後、西軍に与した大名家にはいずれも厳しい処分が下された。

上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に、
毛利家は安芸広島二十万石から長門萩三十万石弱に減封、
長宗我部家に至っては改易された。
西軍総大将であった毛利輝元は
本領安堵を条件に大坂城から退去したが、
実際には改易寸前まで追い込まれ、
このときの毛利の徳川への恨みが幕末まで繋がっている。
例外は島津家で、本領安堵が許されている。
これは関ヶ原に参戦したのが大坂にいた義弘直下の兵だけであり、
島津本隊は本国に温存されていたため、いたずらに刺激して
再び戦になることを家康が嫌ったといわれる。

また、立花家も改易されたが、立花宗茂の武勇を惜しんだ
家康により、のちに大名として復帰させられている。
牢人となっていた宗茂が
大坂方に走るのを防ぐためだったともいう。
冬の陣後の情勢
ふゆのじんごのじょうせい
大坂冬の陣における和議の条件は、
大坂城の本丸を残して二の丸、三の丸の破壊、
外堀の埋め立て、豊臣の本領安堵などであった。

従来、こうした城の破壊は儀礼的なものであったが、徳川方は徹底的に敢行する。
豊臣家の作業分担であった二の丸まで取り壊し、
外堀だけでなく内堀まですべて埋め立てて、
大坂城は丸裸となった。
真田丸もこのとき破壊されている。
夏の陣前の情勢
なつのじんまえのじょうせい
慶長二十年(1615)一月、和議をもって徳川方は
軍を退いたが、次の戦に向けての軍備は早々に進めていた。

三月には、大坂方の牢人の不行状を理由に、
家康は豊臣家に牢人衆の解雇か、豊臣家の移封を要求する。
豊臣方がこの要求に拒否すると、
家康は直ちに開戦の準備に取りかかり、諸大名に布令を出す。

豊臣方も決戦は避けられないと覚悟し、
金銀を牢人に配り、武具の手配を進めていた。




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