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無双モード攻略┣ 蜀伝┣ 魏伝 ┗ 呉伝 戦場MAP(武将&アイテム位置)┣ 黄巾の乱┣ 虎牢関の戦い ┣ 官渡の戦い ┣ 赤壁の戦い ┣ 長坂の戦い ┣ 合肥の戦い ┣ 夷陵の戦い ┗ 五丈原の戦い |
データ集★サウンド鑑賞★シナリオ概要 ★アイテム ★武将出現条件 ★取扱説明書 |
シナリオ概況 |
黄巾の乱 |
中平元年(184)春、張角を教祖とする教団・太平道が、権力闘争で腐敗し、 頽廃しきった朝廷に不満を爆発させ、各地で一斉に蜂起した。 信徒が頭に黄色い布を巻いていたことから、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれた。 その勢力は燎原の火のごとく、瞬く間に全土へと広がっていった。 狼狽した朝廷は、軍を派遣して討伐にあてる一方、各地に檄を発して義兵を募り、 数十万にも及ぶ反乱勢力との戦いに挑んだ。 この戦いを機に、三國志の世界を彩る数多の英雄達が歴史の表舞台へと翔け上がっていくことになるのである・・・。 |
虎牢関の戦い |
討伐軍の奮闘により、黄巾の乱は一応の平定を見た。 しかし、その後も各地で反乱が頻発し、霊帝の崩御も重なり、天下大乱の兆しは ますます鮮明になっていた。 こうした混乱期に台頭し、その武威をもって権力を握ったのが董卓であった。 董卓は小帝を擁して都・洛陽に入城すると、軍権を掌握するとともに、猛将・呂布を味方につけ、 その強大な軍事力を背景に非道な恐怖政治を行ったのである。 董卓の暴政に不満を抱く各地の群雄は、曹操の発した「董卓討つべし」の檄文に応え、 一斉に拳兵、袁紹を盟主とする強力な反董卓連合軍を結成した。 初平二年(191)、両軍は洛陽東で対峙。軍事上の要衝であり、 難攻不落をうたわれる水関、虎牢関を巡る激闘が、今まさに繰り広げられようとしていた・・・。 |
官渡の戦い |
激闘の末に董卓を破った連合軍であったが、もはや後漢王朝は完全に権威を失っていた。 群雄達はそれぞれの大望を胸に抱き、各々の本拠地へと散っていった。 かくして中国全土は、各地に割拠する群雄が天下の主導権とそれぞれの生き残りをかけて 熾烈な抗争を繰り広げる、戦国乱世へと突入していったのである。 群雄の中でも抜きん出ていたのが、河北四州を押さえて、 一大勢力を誇った袁紹と、天子を擁して河南を手にしていた曹操であった。 黄河を越えて南下する袁紹と迎え撃つ曹操。 建安五年(200)、両雄は中原の覇権をかけ、官渡の地で激突したのである・・・。 天亡ぼすの時なり。 一戦して天下定まらん・・・。 |
長坂の戦い |
激闘の末に董卓を破った連合軍であったが、もはや後漢王朝は完全に権威を失っていた。 中国全土は、群雄が各地に割拠する戦国乱世への突入する。 建安五年(200)、群雄の中で二大勢力と目された袁紹と曹操が、中原の覇権をかけて官渡の地で激突。 勝利を収めた曹操は飛躍的に勢力を拡大し、天下の主導権を握った。 曹操は天下統一の覇業を達成するため、建安十三年(208)、 自ら大軍を率いて南下、荊州に向けて侵攻を開始した。 数年間の流離の後、荊州に拠点を構えていた劉備は、ここに未曾有の危機を迎え、 殺到する大軍勢からの絶望的な退却戦を余儀なくされたのである・・・。 |
赤壁の戦い |
激闘の末に董卓を破った連合軍であったが、もはや後漢王朝は完全に権威を失っていた。 中国全土は、群雄が各地に割拠する戦国乱世への突入する。 この中で台頭してきたのが曹操である。曹操は天子を擁し、当時最大勢力であった袁紹を破って、 中原から河北のほぼ全域を支配下とするまでになっていた。 建安十三年(208)、曹操は自ら大軍を率いて南征を開始。瞬く間に荊州を蹂躙し、 勢いに少しの衰えも見せぬまま孫権の勢力圏である揚州に侵攻しようとする。 孫権は精強な水軍を駆ってこれに応じるが、数倍の兵力を有する曹操軍との戦力差は、明らかだった。 迎え撃つは、総司令官の周瑜。決死の覚悟で呉の命運をかけた防衛戦へと挑む・・・。 |
合肥の戦い |
孫権軍は、火計をもって曹操の水軍を焼き払い、撃退することに成功した。 曹操はこの敗戦によって、得たばかりの荊州をも失ったのである。 この勝利で最も利を得たのは、曹操を追撃して荊州南部を手に入れた劉備である。 劉備は後に蜀の地をも手に入れ、その版図を拡げていった。 建安二十年(215)年、孫権は劉備より共同作戦の申し入れを受けた。それぞれ北上して曹操を攻め、 孫権は合肥を、劉備は漢中を奪うというものである。 これに応じた孫権は、自ら十万の兵を率いて合肥への侵攻を開始する。 一方、合肥太守の張遼より孫権侵入の報を受けた曹操は、兵を率いて合肥城に入城。 赤壁での雪辱を遂げるべく、総力をもって孫権を迎え撃つのであった・・・。 |
夷陵の戦い |
長坂にて、劉備は辛くも虎口を逃れた。 なおも追いすがる曹操軍に対し、劉備は孫権と結んでこれを撃退する。 同時に荊州南部を奪還することにも成功したのであった。 世に言う「赤壁の戦い」である。 基盤として豊かな荊州を手に入れた劉備は、建安十九年(219)、さらに蜀の地を得て版図を拡大。 諸葛亮の「天下三分の計」の実現に向けて着実に進んでいた。 しかし、拡大する劉備を脅威に感じた呉は、魏と結んで荊州を挟撃し、これを奪取する。 激怒した劉備は、報復と荊州奪還を決意し、大軍をもって東進を開始したのであった。 章武元年(221)、劉備軍が夷陵城に迫り長江沿いに布陣してから1年が経っていた。 長い滞陣による疲労は深かった。呉の軍勢が闇に乗じて忍び寄るのに気付かぬほど・・・。 |
五丈原の戦い |
劉備軍は、夷陵で孫権軍を破り荊州を奪還。 さらに東進を続けて、呉を併呑していった。 ここに天下は二分されたのである。 建興五年(227)、蜀は北伐を開始する。 漢室を侵した賊国・魏を討滅せんと、大儀を掲げてついてに動き始めた。 しかし、両雄互いに譲らず。諸葛亮が数度にわたり遠征を試みるが、魏の知将・司馬懿に阻まれ戦況は一進一退。 なかなか懐深くまでは食い込むことができなかった。 建興十二年(234)、劉備は膠着した状況を打破すべく、諸葛亮の大胆な策を採った。 険阻で知られる秦嶺山脈を越え、長安の背後にある五丈原に拠点を築こうというのだ。 曹操は、蜀の遠征軍をこれまで幾度となく退けている司馬懿を伴い、五丈原に迎え撃つ。 魏蜀の、そして二人の奇才の雌雄が、ここに決しようとしていた・・・。 |
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